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紹介して貰った宝飾品の店は小さく、店主が一人居るだけだった。
店主はレオナールの洗練された井出達に驚きつつ、結婚指輪を並べて見せてくれた。

「好きな指輪を選んでいいよ」

レオナールに言われ、わたしは揃いの金色の指輪を選んだ。
装飾の無い、細身のリングだ。

「私は良いが、シンプル過ぎではないかな?」

偽装夫婦の小道具としては、確かにシンプル過ぎるかもしれない。

「あなたは奥様に毎日薔薇の花束を贈り、熱烈に愛を告げる方ではない様に思いますし、
わたしも華美な物より、上品な物を好みます。
この指輪は、わたしたちらしく思えます」

静かに、目立たずに、だけど堅固に、あなたを想っている。
わたしの想いの象徴だ。

レオナールは納得した様で、しきりに感心していた。

「成程、互いを理解し合っているなら、これを選ぶという訳だね?
それに、二人の感性が似ているという所も、結婚した理由になる…
君は実に賢いね、頼りになるよ」

レオナールが「ふっ」と笑ったので、わたしは慌てて「いえ」と視線を落とし、
指輪を見る振りをした。
ああ、どうか、赤くなっていませんように…!

レオナールは店主を呼び、わたしが選んだ指輪を買った。
だが、その後は互いに、各々で自分の指に嵌めた。

「これで、必要なものは揃った、書類は帰ってからにしよう___」

レオナールは満足そうだが、それは商談の話に聞こえ、滑稽に思えた。

でも、これでいいの…

わたしはレオナールの妻になれた。
初恋の人、決して手の届かない人の妻に…
これだけでも、奇跡なのだ。

わたしがこのままレオナールの妻でいる為には、決して、恋心を見せてはいけない。
彼が望むのは形だけの妻、恋愛感情の無い関係だもの…

わたしは自分の荒れた指に嵌る、細い金の輪を見つめ、繰り返し言い聞かせた。


◇◇


ラックローレン伯爵の館は、町からは少し離れた所にあり、
田園風景や森が広がる、景観の美しい、湖の辺に建っていた。
古い歴史を感じる大きな館で、土地も広い様だ。
それは、マイヤー男爵家とは比べ物にならないものだった。

馬車は大きな門を潜り、優雅に前庭を行き、その玄関に着いた。

「お帰りなさいませ、旦那様」

老執事が迎えに現れた。

「帰ったよ、留守中、何か変わった事は無かったか」
「昨日、ディアナ様がお見えになりましたが、特に用件は伺っておりません」
「いつもの事だ、大した用事ではあるまい…」

レオナールが疲れた顔で嘆息した。
それから笑みを作り、わたしに執事を紹介してくれた。

「セリア、執事のセバスだ。
セバス、彼女は私の妻だ、メイドに部屋を用意させてくれ、私の隣がいいだろう。
セリア、部屋は直ぐに用意させる、疲れているだろう、パーラーで…
いや、書斎に行こう、お茶を持って来てくれ」

これを聞いても、セバスは驚いた顔は見せず、「御意」と答え、
メイドを呼び指示を出していた。使用人も一流の様だ。

レオナールはわたしを促し、立派な玄関ホールを抜け、書斎へ向かった。
書斎は広く、大きな机、テーブル、ソファ、椅子が置かれ、
壁一面は本棚になっており、ビッシリと本が埋まっていた。

「契約書を作る間、君は寛いでいなさい、直ぐにお茶も来るだろう」

レオナールは大きな机に着き、早速書き物を始めた。
わたしがソファの椅子に座ると、書斎の扉が叩かれた。

「お茶をお持ちしました」

メイド二人がお茶のセットを乗せたワゴンを押して入って来た。
紅茶が淹れられ、テーブルに置かれる。
白い湯気が上がり、食欲をそそられた。
サンドイッチとお菓子を置くと、メイドは直ぐに部屋を出て行き、再び二人きりになった。

わたしは惹かれる様に、紅茶のカップに手を伸ばしていた。
その温かさと甘い香りに、心が落ち着いた。

「ふぅ…」

安堵から息が漏れたが、それは静かな書斎では、思い掛けず大きく聞こえた。
なんて行儀の悪い事を!
内心で焦るも、レオナールは咎める事無く、

「楽にしていいよ、疲れているんだろう」

優しく言ってくれた。
わたしは顔を赤くしつつ、「ありがとうございます」と小さく返した。
幸いは、彼が書き物に目を落としていた事だ。

温かい紅茶を喉に流し込むと、紅茶の良い香りが鼻を抜けた。
なんて美味しい紅茶だろう…
まともな紅茶を口にしたのは、両親が亡くなって以来初めてだった。
いや、紅茶だけではない、両親が亡くなって以来、わたしが口に出来たものは、
粗末なものばかりだった。味付けはほとんど無く、腐りかけた物や、固くなった物…
食べる事に喜びは無く、ただ、生きる為の食事でしかなかった。

目の前に置かれた小さなサンドイッチは、様々な具が挟まれている。
わたしは卵フィリングのものを手に取った。

はむっ

小麦の良い香りがし、卵フィリングが口の中で蕩けた。

「美味しい…」

食事を美味しいと感じられる事の喜びで、目が潤んだ。

温かい紅茶と美味しいサンドイッチに満たされ、
わたしはいつしか眠りに落ちていた。


次に目が覚めた時、わたしは見知らぬ部屋のベッドの中だった。
信じられない程、ふかふかとし、温かいベッドに、
わたしは「ああ、夢なら覚めないで…」と、もう一度目を閉じていた。


その次に目が覚めた時には、頭もスッキリとしていて、
わたしは自分に起こった全ての事を思い出していた。

「ここは、レオナールの館だわ!
それに、わたしは、レオナールと結婚し、妻になった!」

思い出してみても信じられない事だったが、荒れた指には、金色の細い指輪が嵌っている。
わたしはそれを握り締めた。

扉がコンコンと叩かれ、「失礼します」と言って、メイドが入って来た。
トラバース卿の館の使用人たちから、酷い仕打ちを受けた記憶も新しく、
使用人を見ると反射的に体が強張った。
ベッドに体を起こしていたわたしに気付いたメイドは、足を止め、挨拶をした。

「奥様、お目覚めでしたか、失礼致します。
奥様の侍女をさせて頂きます、リリーです、お見知りおき下さい」

リリーはわたしと同じ年頃で、声の感じも良かった。

「ありがとう、よろしくね、リリー」

「旦那様から、今日一日はベッドで過ごす様にと言付かりました」

「ベッドで?」

不思議に思い、問う様に見ると、リリーは屈託なく答えてくれた。

「はい、奥様のお身体を気遣っての事です。
昨日、気を失ってしまわれたのを覚えていらっしゃいますか?」

気を失ったかどうかは定かではないが、
レオナールが契約書を作る間に、眠ってしまった事は確かだ。

「旦那様がこちらまで御運びなさったんですよ!」

「ええ!?」

これには思わず声を上げてしまい、リリーに「くすくす」と笑われた。

「安心して下さい、着替えはあたしたちメイドが致しましたから!」

それを聞き、わたしは胸を押さえ、安堵の息を吐いた。

「ありがとう、迷惑を掛けてしまって、ごめんなさいね」

「気になさらないで下さい、旦那様は疲労の所為だと言われておりました。
その通りです、奥様は酷くやつれていらっしゃいますし、顔色も良くありません。
まずは体を回復させる事に専念して欲しいとの事です。
奥様は愛されておいでですね!」

リリーが明るく言い、わたしは赤くなったが、返答に困り俯いた。

愛されているなんて、酷い誤解だ。
あり得ないという事は、わたしが一番良く知っている。
レオナールが優しく親切な方だという事も…
それが、《愛》に見えるなら、わたしたちは偽装夫婦として、
案外、上手くやっていけるかもしれない…そう思えた。

「沢山食べて、眠れば、一週間もしない内に元気になるだろうって、
これは、料理長が言ってた事ですけど☆」

リリーがペロリと舌を出す。
明るく、感じの良い彼女に、わたしの強張りも解けていった。

「朝は何をお持ちしましょうか?」
「紅茶を」
「昨夜は何も召し上がっていませんし、何か召し上がった方が良いですよ。
少しなら食べられますか?嫌いな物はございますか?」
「いえ、ありません」
「それでは、簡単な物をお持ちしますね」

リリーは明るく言うと、部屋を出て行った。

わたしは独りになり、改めて、部屋を見回した。
ここは寝室の様で、大きなベッドとチェスト、クローゼットがあるだけだった。
クローゼットの前には、わたしのトランクが置かれていて、わたしは赤くなった。

「中を見られたかしら…」

今着ている夜着が自分の物なのだから、当然、トランクは開けられたと考えられる。
トランクに入っていたのは、僅かな衣服、下着…以前から使っていた物で、
悪い物ではないが、最低限のものだ。
化粧品一つ入っていない。
これを見て、何と思っただろう?
貴族令嬢と思った者はいないのではないか?
わたしが下女をしていた事を話したとは思えないが、皆にはどう説明したのだろうか?

リリーは知らないから、普通に接してくれるのだろうか…
もし、わたしが下女だったと知られたら、トラバース卿の館の人たちの様に、
冷たくなるのだろうか?蔑まれるのだろうか?

そう考えると怖くなり、わたしは膝を抱えた。


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