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わたしがピアノを弾くのは、昼食が終わってからお茶の時間までの間、三時間程度だ。
レオナールが揃えてくれた楽譜の曲は、わたしが知らない曲もあり、夢中になった。

「皆、奥様のピアノを聴きたがっています!
だから、あたし、セバスさんにお願いしたんです、扉を開けて弾いて欲しいって!
セバスさんは、奥様が許可したら良いと言われました!」

リリーに嘆願され、一度扉を開けて弾いたのだが、それが好評だった為、
そのまま、わたしは扉や窓を開けて弾く様になった。
ラックローレン伯爵の館の周囲は森や湖で、他に館が無いから出来る事だ。
そして、レオナールが居ない時だからだ。
普段、レオナールは書斎で仕事をしているので、耳に入ってはいけないだろう。

伯爵夫人としての仕事が、これといって無い事もあり、
わたしは今の内に…と、存分にピアノを弾いたのだった。


「伯爵夫人とは、どういった事をすれば良いのか、教えて頂けますか?」

わたしはメイド長のジャネットに聞いてみた。
ジャネットは古くから仕えるメイドで、六十歳近く、執事のセバスの妻だ。

「私共使用人たちに指示を出したり、お客様をお迎えする事でしょうか…」

「前の奥様はどういった事をなさっていたのですか?」

わたしが尋ねると、メイド長の表情が固くなった。

「よく、庭の花を摘み、飾っておいででした…
あの方は参考になさらなくて良いと思いますよ。
今は旦那様が全てなさっていますので、旦那様とお話しになり、
お手伝いをされるのがよろしいでしょう、それでは、仕事に戻らせて頂きます」

メイド長は、さっさと話を切り上げ、行ってしまった。
無駄な事を言わない点では、皆、良い使用人たちだ。
だが、その分、情報を得る事が出来ない。
自分の事は噂されたくないというのに、相手の事は知りたいだなんて…

「勝手よね…」

思えば、わたしはレオナールの事を何も知らなかった。

前妻ディアナがどういう女性だったか、どういう経緯で離縁したのか…
父親が亡くなり、三十歳で伯爵を継いだという事は知っているが、
病だったのか、事故なのか…
母親はそれ以前に亡くなったと聞くが、詳しい事は何も知らない。

きっと、レオナールは、わたしに話す必要は無いと思っている。
わたしなんて、ただの契約結婚の妻だもの…
わたしは指に嵌る金色の指輪を弄り、嘆息した。

「奥様!メイド長は意地悪で教えないんじゃありません!」

メイド長が誤解されない様にだろうか、リリーが言った。
わたしは「ええ、分かっているわ」と笑みを返す。

「奥様が不安に思われる事は無いんです!
前の奥様と旦那様は、端から見ても、相性が悪かったから…
旦那様は古風で堅実な方でしょう?ですが、前の奥様は兎に角派手好きで、
パーティがお好きで、あけすけで、感情的で…
前の奥様が感情的になればなる程、旦那様は引かれてしまって…
結局、前の奥様は他に男を作って、出て行ったんです」

リリーが顔を顰め、肩を竦めた。

「旦那様がお気の毒です、でも、奥様なら大丈夫そう!
旦那様を愛しておいでですもの!」

リリーが屈託なく言い、わたしは真っ赤になった。
わたしは熱い頬に手を当てた。

「言わないでね?」

「奥様は恥ずかしがり屋ですね!奥様の為にも、約束します!」

リリーは笑ったが、わたしにとっては深刻な問題だった。
わたしの気持ちをレオナールに知られたら、疎ましく思われるに決まっている。
わたしは契約を切られ、追い出されてしまうかもしれない。
気を付けなくては…


前妻ディアナは、庭の花を摘み、館に飾っていたというので、
わたしもそれに習う事にし、手伝いを申し出てくれたリリーを連れ、庭に向かった。

庭園は広く、花も多く育てられている。
普段は庭師のダントンが仕切っていて、手がいる時には、町から作業人を雇う事にしていた。
ダントンは使われていない花壇の土を耕している所だった。

「ダントン、館内に飾る花を分けて貰えますか?」

「その一帯は好きに取っていいですよ」

ダントンは四十歳の男で、無口らしく、言葉少なく言った。

「ありがとう」

「くれぐれも、薔薇は切らないで下さい」

だが、ダントンが言った《その一帯》に、薔薇は無い。
薔薇園は庭の最奥だ。
不思議に思いつつも、わたしは「はい」と答えておいた。

「薔薇に何かあるのかしら?」

咲き乱れる花を切りながら、漏らすと、リリーが答えてくれた。

「薔薇は、前の奥様が育てていたんです…」
「薔薇を育てていたの?凄いわ!」
「それが唯一の美点でしたけど」

リリーは肩を竦めたが、庭弄りをした事の無いわたしには、凄い事に思えた。
わたしに出来る事は、花を刈り取って活ける事位だ。
わたしたちは両手一杯の花を抱え、館に戻った。


◇◇


朝は庭で花を刈り、館の花瓶に活ける。
昼にはピアノを弾き、合間に刺繍を進める…
レオナールが館を立ってから一週間近くになるが、
わたしはそれなりに、充実した日々を送っていた。

だが、そんな平穏を嘲笑うかの様に、《嵐》は訪れた___

「レオナールが再婚したって、どういう事よ!
私に知らせずに勝手に再婚するなんて、酷いじゃない!
どうせ、変な女に騙されたんでしょう!私がこの目で精査してあげるわ!
その女を連れて来なさいよ!」

レオナールの前妻であるディアナが、大声で喚きながら館に入って来た。

「申し訳ございませんが、旦那様はお留守ですので、今日の所はお引き取り下さい」

執事のセバスが止めようと前に立つも、効果は無かった。
彼女は執事を押し退け、声高に叫んだ。

「聞こえなかったの?私が用があるのは、レオナールじゃなくて、女の方よ!
出て来なさいよ!ラックローレン伯爵夫人!」

わたしは馬車が停まった時から、『何かしら?』と伺っていたので、
螺旋階段の上で聞いていたが、いよいよと思い、出て行こうとした。

「奥様!行く必要はありません!直ぐに諦めて帰りますよ」

リリーは止めたが、わたしは「いいのよ、挨拶をしておきたかったの」と断り、
螺旋階段を降りて行った。

わたしに気付き、セバスも顔を顰め、頭を振ったが、
わたしは構わずに、側に立つディアナに向け、笑みを浮かべた。

「お待たせ致しました、レオナールの妻、セリアです」

「あなたが、新しいラックローレン伯爵夫人?」

ディアナは、舞踏会で見る様な、華やかな紫色のドレスに身を包んでいた。
髪はブルネットで頭の上で大きく膨らませ、結われている。
宝石の付いた煌びやかな髪飾り。
年は三十歳頃、美人だと思うが、濃い化粧でそれも損なわれている様に見える。
瞳は珍しい紫色をしていた。

彼女はわたしを怪訝に見た。

「はい、セリアと申します」
「随分、若いじゃないの、あの人、趣味が変わったのかしら?」
「二十歳です、レオナールとは十三歳差になります」
「レオナールの歳位知ってるわ!私は前妻なのよ!」
「失礼致しました、パーラーの方でお話しするのはいかがですか?」
「若いのに、年寄り臭いわね、
確かに、レオナールとは気が合いそうだけど、地味だし、野暮ったいし…」

ディアナがわたしを頭の先から爪先まで、じっくりと眺める様に見た。

「ディアナ様、お言葉をお控え下さい」

失礼な言動を咎めようとしたセバスを、わたしは止めた。

「セバス、良いのです。
ディアナ様がおっしゃる通り、わたしは地味な田舎娘ですから。
ディアナ様、どうぞ、こちらに」

「パーラーの場所位知ってるわよ!」

ディアナは率先してパーラーへ入って行った。
わたしはセバスにお茶を頼んだ。

「お茶をお願いします、ディアナ様の好物もありましたらお出しして下さい」
「畏まりました、奥様」

セバスがメイドに言い付けに行き、わたしはディアナに続き、パーラーへ入った。
だが、ディアナが棒立ちになっていて、わたしは驚いた。
彼女の視線はピアノに向けられていて、わたしは「ああ」と納得した。

「この館にピアノなんて無かったわよ!」
「先日、届いたんです」
「あなた、ピアノが弾けるの?」
「子供の頃から習っていましたが、好きで弾いている程度です」
「ふん!ピアノは聴くものだわ!そうじゃなきゃ、踊れないでしょう?」
「ディアナ様はダンスがお好きなのですね」

訊くと、ディアナはその紫色の目を輝かした。

「ええ、大好きよ!ドレスのスカートが広がって、足が見える位、飛び跳ねるの!
だけど、レオナールはお上品でしょう?
全く相手をしてくれなかったわ、本当に、つまらない男よね」

ディアナが肩を竦める。
わたしはそれに同意せず、「どうぞ、お掛け下さい」とソファに促した。

ディアナは、長ソファの真ん中に座った。
自分が主人である様に、堂々と胸を張る。
ドレス越しにも分かる、かなり胸は大きい様だ。

とても目立つ人だわ…

貫録があり、オーラもある。

「失礼致します」と、リリーとメイドたちがワゴンを押して入って来た。
ディアナにはカフェオレ、わたしには紅茶。
ケーキスタンドを置き、部屋を出て行った。

「あら、私の好みを覚えてくれていたのね」

ディアナは満足そうに、カフェオレを飲んだ。

「あなた、紅茶なんて止めなさいよ、今はカフェオレが流行っているのよ!」
「カフェオレも美味しいと思いますが、わたしには紅茶が合っている様です」
「あなた、見た目程、弱くも従順でもなさそうね?」

ディアナの目が光る。
わたしは小さく笑った。

「いいえ、ですが、大切な人を護る時だけは、強くありたいと思います」

ディアナは顔を顰め、ケーキスタンドからラズベリーのタルトを取った。

「私が好きなタルトだわ!前は催促しないと出してくれなかったのに…」
「わたしが催促しました、ディアナ様の好物を出して欲しいと」
「私に取り入ろうっていうの?恐ろしい小娘ね!」
「そんなつもりはありません、折角来て下さったのですから、喜んで頂きたかっただけです」

これが、ディアナの逆鱗に触れてしまったらしい。
彼女は急にソファを立ち、喚き散らした。

「主人面しないでよ!本当なら、ここに居たのは、私だったのよ!
私から伯爵夫人の座を奪っておいて、図々しいのよ!!」

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