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第三章 愛憎
愛憎(3)
しおりを挟む夜更け。千早は自分の離れで入浴していた。
市橋夫妻は夕方前に帰っていった。とても名残惜しそうに、最後まで千早の手をにぎっていた。
なんならこのまま千早を自宅に連れて帰りたいと、そんな気持ちがうかがえた。
その気持ちがうれしくてたまらなくて。千早は数時間たった今でも体がふわふわとしている気がする。
生涯会わないと決めていた両親に会うことができて、しかも自分を受け入れたことが信じられないほどうれしくて、千早は正に夢見心地だった。
(ちょっと落ち着かなきゃ……)
あたたかい湯に浸かりながら千早は考える。
先祖からの手紙にあったように、たくさんの人に支えられている事実を。輝も明も、この異常事態の中で千早のために行動してくれたのだ。
明の姿を見たのは久しぶりだった。特に話しかけられる訳でもなく、あいかわらず態度に距離は感じたが、それでも輝とともに市橋夫妻を説得してくれたことを聞き、もうそれだけで十分だと千早は思った。
明にとって自分の立ち位置が妹でも友達でも、大切に思ってくれていることには変わらない。それを思うとチクリと胸が痛むが、しかし首を横にふって口元だけ笑みを作る。
(こんなに幸せなのに、これ以上欲をかいたらいけないよ。私、十分幸せじゃない……)
利用されていたとはいえ、飛竜家はやはり千早の実家であり、人生の基盤だったのだ。だから失って、あれほど自分を見失ってしまったのだ。
けれど本当の両親に受け入れられて、おどろくほど心が安定した。支えがなければ立てない弱さを自覚しながら、それでも胸の内にわき立つふわふわとした幸福感に千早はひたっていた。
広いバスタブの中、前触れもなく黒い何かが現れた。水面からそれは一瞬だけ突き出し、わずかな水音と共に千早はバスタブの中に沈んだ。
それを最後に浴室は静まりかえる。広い浴槽には、誰もいなくなった。
周囲は、色の判別ができない暗色が渦巻いていた。大気があるのかもあやしい場所なのに、それでも下に下にと落ちている感覚があった。
あっという間に遠ざかっていく白い点は、千早がいた次元との境目だ。
このおどろおどろしい場所と浴槽の底と、次元の境界があいまいになっているのだ。
そこから引きずり込まれた。まちがいなく魔物の仕業だった。その魔物は今、千早の右足首をちぎらんばかりの力でつかまえている。
暗色の世界に引きずり込まれていく千早は、自分の足をつかむ魔物へと目をやった。そして、絶句した。
『お前は俺の子だ。俺のものなのだ。絶対に返すものか』
どろどろと何かよく分からないものにまみれながら、老人のように老けこんだ飛竜健信は大きな手で千早の足首をがっちりとつかんでいる。
その指に、するどい爪が生えてきて千早の足首に食い込んでいく。痛みに声を上げる千早へ、飛竜健信は血のような赤に染まった眼を向けた。
『育てられた恩を忘れたか。おまえを稀代の術師へと育て上げたのは俺だ。その恩を忘れて呪術を捨て何もできない平凡な連中の元へ行こうなど、そんなおろかなことは許されないぞ』
魔物の声に、千早の眼に涙が浮かぶ。
あまりに自分勝手な、あまりに視野のせまい、あまりに反省のないかつての父親の言い分に、千早は危険な状況も忘れて涙を流した。
恐怖からではない。情けなさでも涙は出るものだ。
涙を流しながら千早は、霊能の道を開きにかかる。状況から考え、魔物となった飛竜健信は千早を多数ある次元の最下層、地獄へと連れて行こうとしていた。
地獄は、この世界の掃き溜めだ。どの次元にも受け入れられないほど穢れ切った者たちが墜ちていく世界。
そんな場所に行けない、自分は本当の両親の元に帰るのだと、その一心で千早は即断で飛竜健信と戦う体勢に入った。
もう、かつての父親への憐憫はみじんもなかった。
けれど神格の力を降ろそうとしたが、うまくいかない。千早の力を持ってしても神格の貴き次元まで道が届かないのだ。
周囲に満ちるのどを焼くような悪臭に息を詰まらせながら、もう現地点が地獄に相当近い場所だと察する。
落ちていきながら千早は再度霊能の道を開こうと集中に入る。しかし今度は一気に身体がしめ上げら集中を乱される。
溶けた飛竜健信の身体が、千早を巻き取っていた。人の形を崩していくかつての父親を、千早は目を見開き凝視する。
『お前のその力、神刀の使い手達を殲滅するために使うのだ。あんな力を振りかざした偽善者の血筋を、いつまでものさばらせておく訳にはいかない。世の正義のためにも奴らを、御乙神一族を殲滅するのだ』
人の形を崩していく飛竜健信は、もうその魂も魔物に浸食されていた。
あまりにかたよった内面を映し出したような、醜悪な姿に変化した飛竜健信に、千早は力のかぎりり怒鳴った。
「あれだけ偉そうなことを言っておいて本音はこれなのね!自分が神刀に選ばれなかったから神刀の使い手たちを妬んで逆恨みしているだけじゃない!
輝明様も輝君も明も、神刀に選ばれた重責を背負って必死でがんばってる!あなたにその苦悩が分かるの?あなたに背負えるの?絶対無理よ!あなたみたいな現実を認められない弱虫に、神刀を振るう責任が負える訳がない、だから選ばれなかったのよ!」
一拍おいて、千早の身体を締め上げる力が一気に上がる。あまりの締め付けに呼吸ができなくなった千早に、牙のならぶ裂けた口から魔物が怒鳴り返す。
『だまれ!父親に口答えするとはなんという娘だ!しつけ直してやる!』
「千早ちゃん――っ!」
身体を締め上げていた力がゆるみ、千早は空気を求めて大きく息を吸い込む。しかし周囲はもう魔物がまとう瘴気が満ちていて、逆にはげしくせき込んでしまう。
息もたえだえの中、視野のはしに白い雷光が見える。足場のない次元の狭間を、輝は縁を結ぶ霊獣、鳳凰の背に立ち天輪を振るっていた。
「いい加減にしろ飛竜っ!この愚か者がぁっ!今度という今度は許さんぞ!」
悪しき気の凝縮、瘴気を燃やしながら鳳凰の翼は羽ばたく。
しかし瑞獣と呼ばれる鳳凰の羽ばたきであっても、濃く立ち込める瘴気は晴れることはない。
とぎれなく、吹き上げるように濃い瘴気が立ち上ってくる。もう、地獄はごく近いのだ。
もう一刻の猶予もないと、輝が千早を取り戻そうと天輪を振るう。しかし魔物は千早を盾にして身を守ってきて輝は手を出しあぐねてしまう。
その時だった。千早が引きずり込まれていく闇の底に、無数の赤い光が見えた。
それを見たとたん、輝の背筋に理由も分からず悪寒が走る。
(な、んだ?)
赤い光は、数え切れないほど。まるで夜空にまたたく星々のように、無数に光っている。
それが一斉に、輝を見た。
赤い光は、眼だった。
その赤い視線にねめつけられ、輝は体が動かなくなった。
十三歳から強力な魔物を狩ってきた輝が、魔物にひるんで動きを止めた。
その無数の赤い目は、熟練の神刀の使い手すらふるえ上がらせるほどの、悪意と憎悪に満ち満ちていたのだ。
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