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第五章 ふたりの千早
ふたりの千早(5)
しおりを挟む陽が落ち、辺りは暗くなる。よく晴れた夜空は、満天の星空だった。
駅前に迎えに来るからと義人に言われていたのに、千早は市橋愛美の通う高校の屋上にいた。
その気になれば、呪術を使い誰にも気づかれず建物に侵入することもできる。鍵がなくとも、施錠された屋上に上がる事もできる。
いわゆる人智を超えた力を持っているのに、それは自分のためには何の役にも立たなかったのだと、フェンス越しに瞬く夜景を見ながら千早は思っていた。
千早の身長よりあと一メーターは高い、上部が内側に折れ曲がった乗り越え防止フェンスを見上げる。
目の前のフェンスに手の平を当てる。破壊音がして、千早の前のフェンスが根元から前に折れ、両脇も引きちぎられ、見えない力に切り取られたフェンスは校舎の外壁に沿って落下していく。
霊能力を、現実に作用する念動力に変える術だった。さえぎる物のなくなった夜景に視線を投げながら、ずっと自分を見張っていた明へと声をかける。
「明、ごめんなさい。私、もう……無理」
屋上に、不意に明の姿が現れる。姿を消す呪術『隠遁』を施し千早を見守っていた明は、決して千早を追い詰めない様、慎重に声をかける。
「――千早。頼むからやめてくれ。今は気持ちが混乱しているだけだ。しばらくは考え過ぎず、ゆっくり過ごそう」
付いてこられなかった輝も、義人も、見解は同じだった。
『絶対に、今の彼女を一人にしたらいけない』と。
自分も残ると食い下がる義人を説得して、明はひとり、昨夜から密かに千早を見張っていたのだ。
足元から遠く、街の喧騒が聞こえる。校舎は五階建てだった。地上からは、約二〇メートルの高さがある。
千早に悟られない様、全力で気配を消していたつもりだったが、さすが御乙神一族きっての呪術者である千早には隠しきれなかった。元々女性の術者は、男性術者よりも感覚が鋭敏なのだ。
たった二歩前に出れば、千早は屋上から落下する。フェンスを破壊した時点で背後から捕まえるため近寄っていたのだが、明の動きはとっくに悟られていたようだ。
ここまで感覚が鋭敏な術者には、小細工は通用しない。下手を打って気持ちを傷つければ、千早はたった二歩、前に出てしまうかもしれない。
昨日、一人で残ると言い出した時、千早の浮かべた笑顔は造られたものだった。
本音を隠した悲しい笑顔。
その下にある真っ黒な絶望は、いつも本音の笑顔を見てきた明は勘付いていた。
「千早。今から、何もかもやり直せばいい。やりたい事を一つずつやってみればいい。
本当の両親にも、本音は会ってみたいのなら正直に会いに行けばいい。現実的な手はずは義人さんがきちんと整えてくれる。何も心配しなくていい」
何も答えず、屋上の淵に立っている千早の周囲に、夜の闇よりどす黒いもやが飛び交い始める。
黒いもやから、人の手や顔が生えてくる。そして、千早に真っ黒な手を伸ばす。
『こっちにおいでよ』
『もう、楽になりなよ。苦しいでしょう』
『少し前に出れば、もう悩まずにすむよ』
それは千早の絶望を嗅ぎつけてきた、いわゆる低級霊たちだった。
ごく低い次元に溜まる、人の暗い思念を煮詰めたような存在だ。自殺の名所などで、心の弱った人間を誘う、悪霊とも呼ばれている。
普段の千早になら、こんなものは近寄る事すらできない。しかし今の千早は、低級な悪霊を寄せてしまうほど心が闇に落ちているのだ。
もう、頭の中は絶望と死ぬことで一杯なのだ。この街に来たいと言い出した時から、心の中に秘めていたのかもしれない。
千早にまとわりつく悪霊たちを蹴散らしてやりたかったが、千早を刺激する事だけは避けたい。動きたいのをぐっと我慢して、明は平静を意識して説得の言葉を探す。
「千早――」
「見てたでしょう?私の居場所はもう、この世のどこにもないの」
千早が、振り返る。まとわりつくどす黒いもやに顔や体を撫でられながら、明へと語る。
その目は、まるでガラス玉の様だった。どんな辛い時もやわらかな輝きを失わなかった千早の目が、初めて暗い絶望に塗りつぶされていた。
「私は、御乙神一族の人間でもない。飛竜家に生まれた責務だと思って頑張っていた仕事も、真実はただ利用されていただけ。私には、責務を負う資格さえなかった。
本当の家の方も、どこにも居場所が無い。『普通』の過ごし方も、年相応の生き方も、何も分からない。『普通』の人たちからは、変な風に見られるだけ。異端なのよ私は。どこにも、この世の中のどこにも居場所が無い」
「だから今からやり直せばいい。焦らず、ひとつひとつ順番に―――」
「こうなったのは私のせいなのよ」
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