優雅にざまぁ、ごめんあそばせ

おてんば松尾

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うちの夫がやらかしたので、侯爵邸を売り飛ばします

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俺は頭が真っ白になり、何も考えられなかった。

離婚届に署名したのは、まぎれもない事実。
あのとき俺はナタリーのことをルビーも認めてくれたと安心した。子の戸籍のことまで考えてくれる彼女に感謝していた。
歴史も社会的な立場もある、高位貴族である侯爵家の一員であることは少なからずストレスがあった。
旅に出て、肩書に縛られずのんびりしたいと思った。

「俺は……少しだけ自由になりたかっただけだ……」

セバスチャンは、あくまで丁寧に追い討ちをかける。

「侯爵家を出られることになるなど、まさかお考えではなかったのでしょう。住まいや生活の備えもないままに“自由”を選ばれたこと、その代償がいかほどのものか……今になって、ようやくお気づきになったということでしょうか」

「……俺は……」

「ライアン様、その“自由”は、責任と引き換えに得るものなのです。ご自身の立場をもう一度、よくお考えくださいませ」

セバスチャンの言葉は、従者としての事実の通達だった。
頭の中で何かが崩れる音がした。

ルビーは、侯爵家の現在の状況、俺の立場を淡々と説明し始めた。

「……私物はあなたの実家に送っておいたわ。使用人たちもすべて、私についてきてくれたから。これで、あなたは侯爵家とは一切関わりのない人になったわね」

俺は立ち上がり、ルビーの傍まで歩み寄った。だが彼女は、静かに右手を上げてそれを制した。

「あなたが旅行していた期間の支払い請求書が、私のもとへ届いたの。婚姻中であれば、それでも払ったでしょう。でも今私はあなたとは他人よ。だから自分で何とかしなさいね」

違う……こんなに急に、俺に考える時間も与えず、俺の言い分も聞かずに他人になるなんておかしい。

「……それは、俺が払うべきものなら、払う。けれど、ちゃんと二人で話し合おう」

「払えるのかしら? あなた、どこに住んでいるの? 何の身分で?」

答えに詰まった俺を見て、ルビーはわずかに眉を寄せた。

「平民になるのかしら?」

「俺は、俺は子どもを……家族を……」

「その“家族”が、あなたの何を支えてくれるのかしら? まぁ、男爵家の婿養子になればいいのかもしれないわね。一応貴族ではいられるから」

ルビーは一度だけ深く息を吐いて、まっすぐに俺を見た。

「実家にも戻れず、侯爵家にも属せない今のあなたに、残されたものは愛する妻のナタリーよね」

「……」

まさか……そんなことがあってたまるか……
ナタリーの家は借金まみれだ。今まで通りの生活などできやしない。

子も生まれるというのに、いったいどうすればいいんだ。

「男爵家を継げるように頑張ったらいかがかしら? せめてもの恩情で、今までうちが援助していた額は男爵家に請求しないであげるわね」

俺は言葉が出なかった。
何もかも、自分の軽率さが招いた結果だった。

「私が愛し結婚したのは、あなたの“立場”ではなく“あなた自身”だったのに、あなたが執着したのは最初から“私の家”だったのね」

「そんなことはない! 俺は君を愛しているんだ」

ルビーは深く息を吐いた。彼女の顔はやけに遠く見えた。

「残念だけど、私とナタリーさんの両方を手に入れられるなんて、都合のいい幻想は捨てて。そんな虫のいい話、私にはただの侮辱にしか聞こえないわ」

「そんな……そ、それなら君を選ぶ」

「残念だけど、もう手遅れよ」

「ライアン様、これ以上はもう、見苦しゅうございます」

「……お引き取りを。ここはあなたの帰る場所ではない」

そう言って、ルビーは立ち上がり、執事に目配せをした。
応接室の扉が静かに開けられた。

帰る場所は、どこにもなかった。俺は、もう何者でもない。

「そういうことですので、ライアン様、ごきげんよう」

あの頃と何一つ変わらぬ美しさのまま、彼女はただ冷たく、俺を切り離した。




***



俺は事実を確認すべく、その足で実家の子爵家へやって来た。

「ライアン。お前はどうして今でもネイルの姓を名乗っているのだ? 離婚した今は、もうネイル姓ではないだろう」

開口一番に父は俺にそう言った。
表情は硬く、かなり怒っている。
応接室で俺は、父と兄に全ての事情を細かく話した。

ふたりは黙って俺の話を聞いていた。

「離婚したという知らせが来て、お前が新しく浮気相手と籍を入れたということも聞いた。侯爵家に置いていたお前の私物はすべてここに送られてきた」

「こんなはずではなかったんだ……だから、騙されたようなもので、俺は被害者だ」

「離婚は成立しているぞ」

父の言葉は冷たかった。それはまるで、息子としての俺を完全に切り捨てたように辛辣だった。

「お前が旅行とやらに使った費用の請求が子爵家へ来た」

「……くそっ」

俺は悔し紛れにテーブルを叩いた。支払いが自分に回ってくると知っていれば、あんな贅沢はしなかったのに。

「そうだ……新婚旅行は彼女の提案だ。旅行の代金をなぜ俺が支払わなければならないんだ!」

「当たり前だろう。離婚した夫の旅費を、もとの妻が支払うなどありえないだろう。少し考えればわかることだ」

「お前の持ち物を売りに出して、自分でその費用を作るんだ。ビスコンテ子爵家はこの騒動とは無関係だ。巻き込まれたくはない」

兄は肩をすくめ、皮肉を込めた口調でそう言った。

「子爵家の者は皆、お前に激怒している。お前を家門から除名した。お前は除籍された」

俺は顔面蒼白になり、声を失った。
やはりルビーが言っていたことは事実だったのだ。
俺は実の親からも見放された。

兄が静かな声で続けた。

「ルビー様は今やネイル侯爵家唯一の継承者であり、王家とも血縁のある高位貴族だ。現状、ライアンは、侯爵家の親族ではない。子爵家の次男であっても、もう家を出ていて、父もお前と縁を切ることを決めた。だからお前は無爵だ。お前は、自分が何をしたか理解しているのか?」

自らの過ちが現実として重くのしかかり、ようやくその深刻さを思い知った。
身体は崩れ落ちるように前に倒れ、頭を抱えて嗚咽を噛み殺すしかなかった。
声に出せば、崩れてしまいそうだったからだ。

「お前は今、爵位を持ってはいない。子爵家の姓を名乗ることは許さない。男爵家の婿養子になるか、あるいは平民になれ」

「ま、待ってくれ! あれは違うんだ、俺はただ、ルビーとの間に子ができなかったら困ると思って、侯爵家を守るために……跡継ぎを……っ! あんな落ちぶれた男爵家になど……」

「馬鹿か。お前とその男爵の娘の間の子が、どうやって侯爵家の跡継ぎになるんだ?」

気づけば、俺は床に膝をついていた。踏ん張る意志も、体を支える誇りも、すべて抜け落ちてしまったかのように。

長い沈黙のあと、父が口を開いた。

「……下手に騒ぎ立てれば、ビスコンテ子爵家の名に泥を塗ることになる。ネイル侯爵家から慰謝料を請求されでもしたら、それだけで我が家の屋台骨は崩れかねんのだ」

その声には、怒りよりも疲れが滲んでいた。

父は立ち上がると、首を振り、俺に背を向けると扉の奥へ消えていった。
静かに閉まる音が、現実の重さを告げていた。
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