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うちの夫がやらかしたので、侯爵邸を売り飛ばします
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「わざわざ来ていただいてありがとう……けれど、先触れがなかったわ。約束していなかったわよね?」
彼女の声は落ち着いていた。けれど、そこにあったのは、まぎれもない他人行儀な距離感だった。
「先触れ?なぜ……」
彼女は平然とした様子で、応接室のソファに優雅に腰を掛けている。
「私とあなたはもう離婚しているの。だから、屋敷を訪問するのなら、事前に知らせてくれなければならないわ」
俺はその言葉に、息を呑んで固まった。
「ルビー話がしたい。どうして、何も言わずに屋敷を出ていった?」
「屋敷を出た?」
彼女は少し眉をひそめて、小さく首を振った。
「ライアン、それは違うわ。出ていったのは、あなたの方よ。私が手放したのは“あなたという存在”そのもの。だから、もうあなたを待つ理由なんて、どこにもないの」
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「離婚の書類を出したのは、あくまで一時的な措置だろう?俺たちは……」
「離婚届にサインして、それが受理された。籍を抜いた時点で、それがすべてなのよ」
表情ひとつ変えずに発せられたルビーの言葉は、氷のように冷ややかだった。
「あなたがどう考えていたかなんて関係ない。法的にも、社会的にも、私たちはもう“他人”なの」
「だが、いずれ復縁して再婚するはずだ。俺はそのつもりで動いていた。子が生まれたら籍を戻すんだろう!」
何のことか分からない、とでも言いたげにルビーは小さく首を傾けていた。
「それって……誰のために?」
彼女の瞳は、まっすぐに俺を見つめている。
俺たち夫婦のために決まっているだろう?一体何を言っているんだ。
駄目だ、俺は冷静にならなければならない。
「ルビー、いったいどういうつもりなんだ?すべては君が言ったことだろう。離婚も、ナタリーとの結婚も」
「ええ、そうね。でも、選んだのはあなたでしょう?」
その一言に、思考が一瞬止まった。
だが、彼女の言動はおかしいだろう。
……まさか。
「君は…………俺と復縁しないつもりなのか?」
一番考えたくないことだった。その言葉を口にした瞬間、自分でも恐ろしいほど動揺していた。
「ええ。その気は、まったくないわ」
なんだと!そんなはずはない。
そんなのは話が違う、まるで俺を騙して罠にはめたようなものじゃないか?
「ま、待ってくれルビー!俺は君を愛している。ただ、君を守るために……そう、君の家の将来を考えて。後継者が必要だろう、だから……っ!」
「そうね、後継者は必要よ。けれど、あなたとナタリーさんの子には、一滴もネイル一族の血が入っていないでしょう?」
「それは……しかし、離婚してもまた復縁すると言ったのは君だ。だから、俺の子だから……」
「そうね。だとしても、あなたのどこにネイル家の血が入っているの?私の血が入っていない子が、どうして跡継ぎになれると思ったの?」
「分かった。分かった、百歩譲って、子どものことはどうでもいい。ルビー、君は俺を愛していただろう? 俺も愛している。今でも変わらず君のことを愛している」
どうか、彼女に伝わってほしい。言い訳のように聞こえるかもしれないが、それでも構わなかった。
とにかく、ルビーの本心が聞きたかった。俺たちは愛し合っていたはずだ。
「いいえ。もう、なんというか……嫌いですわ。顔も見たくないくらい……もう無理だわ」
考えたくもなかった。否定される未来を、想像すらしたくなかった。
今、その恐れていた現実が目の前に静かに立ち現れている。
「……いや、けれど、俺はネイル侯爵家にいたいんだ。君の夫でありたい。籍を戻す前提での離婚だった……」
「前提で話しても、現実は変わらないわ」
ルビーの表情は変わらなかった。
俺たちは愛し合っていたではないか……なのに……
「現実として、あなたはもう、侯爵家の者ではない。私にはあなたを迎える意志もない。もう家族でもなく、夫でもないわ」
「ルビー……」
言葉が続かなかった。
その場から動こうとする意思すら失せていた。まるで世界が急に色褪せ、周囲の音すら遠のいていく。
部屋の隅に控えていた執事のセバスチャンが前へ出てきた。
「ライアン様、僭越ながら申し上げますが、少々現実を直視していただかねばなりません」
セバスチャンは落ち着いた口調で、はっきりとそう言った。
「まず、現在ライアン様がネイル侯爵家に属されていないことは、すでにご承知のはずです。ルビー様との正式な離婚により、婿としての立場は自動的に解消されました。つまり、ネイル侯爵家の一員としての資格は、すでに失われております」
俺は言い返すことができなかった。セバスチャンはさらに続ける。
「元来、侯爵の地位と称号はルビー様ご本人に属するものでございました。ライアン様は“侯爵の夫”として『ネイル侯爵家のライアン様』と称されていたにすぎません。よって、離縁された今、ネイル姓を名乗られる法的根拠は、どこにも残されていません」
血の気が引いていくのがわかった。
セバスチャンの声音に、憐れみはなかった。
「次に、爵位についてでございます。ビスコンテ子爵家はすでにご長兄が家督を継がれ、当主の座にございます。貴族制度において、次男以下は通常、軍や聖職、騎士団への所属、もしくは他家への婿入り等により、別の道を選ぶのが常でございます。ライアン様はかつて、侯爵家への婿入りによってその地位を築かれましたが、離婚によりその基盤も崩れ去ったということになります」
「……つまり、俺は今、爵位を……?」
「ご理解いただけたようで、何よりです。ライアン様は“無爵”でございます」
俺は両手で顔を覆った。
「貴族の血筋には変わりありませんが、爵位を持たぬお立場。加えて、実家である子爵家も、今回の件を受けて、ライアン様の除籍を決定されたと伺っております。もはや、どこからも“保護”を受けられる立場ではない、ということでございます」
彼女の声は落ち着いていた。けれど、そこにあったのは、まぎれもない他人行儀な距離感だった。
「先触れ?なぜ……」
彼女は平然とした様子で、応接室のソファに優雅に腰を掛けている。
「私とあなたはもう離婚しているの。だから、屋敷を訪問するのなら、事前に知らせてくれなければならないわ」
俺はその言葉に、息を呑んで固まった。
「ルビー話がしたい。どうして、何も言わずに屋敷を出ていった?」
「屋敷を出た?」
彼女は少し眉をひそめて、小さく首を振った。
「ライアン、それは違うわ。出ていったのは、あなたの方よ。私が手放したのは“あなたという存在”そのもの。だから、もうあなたを待つ理由なんて、どこにもないの」
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「離婚の書類を出したのは、あくまで一時的な措置だろう?俺たちは……」
「離婚届にサインして、それが受理された。籍を抜いた時点で、それがすべてなのよ」
表情ひとつ変えずに発せられたルビーの言葉は、氷のように冷ややかだった。
「あなたがどう考えていたかなんて関係ない。法的にも、社会的にも、私たちはもう“他人”なの」
「だが、いずれ復縁して再婚するはずだ。俺はそのつもりで動いていた。子が生まれたら籍を戻すんだろう!」
何のことか分からない、とでも言いたげにルビーは小さく首を傾けていた。
「それって……誰のために?」
彼女の瞳は、まっすぐに俺を見つめている。
俺たち夫婦のために決まっているだろう?一体何を言っているんだ。
駄目だ、俺は冷静にならなければならない。
「ルビー、いったいどういうつもりなんだ?すべては君が言ったことだろう。離婚も、ナタリーとの結婚も」
「ええ、そうね。でも、選んだのはあなたでしょう?」
その一言に、思考が一瞬止まった。
だが、彼女の言動はおかしいだろう。
……まさか。
「君は…………俺と復縁しないつもりなのか?」
一番考えたくないことだった。その言葉を口にした瞬間、自分でも恐ろしいほど動揺していた。
「ええ。その気は、まったくないわ」
なんだと!そんなはずはない。
そんなのは話が違う、まるで俺を騙して罠にはめたようなものじゃないか?
「ま、待ってくれルビー!俺は君を愛している。ただ、君を守るために……そう、君の家の将来を考えて。後継者が必要だろう、だから……っ!」
「そうね、後継者は必要よ。けれど、あなたとナタリーさんの子には、一滴もネイル一族の血が入っていないでしょう?」
「それは……しかし、離婚してもまた復縁すると言ったのは君だ。だから、俺の子だから……」
「そうね。だとしても、あなたのどこにネイル家の血が入っているの?私の血が入っていない子が、どうして跡継ぎになれると思ったの?」
「分かった。分かった、百歩譲って、子どものことはどうでもいい。ルビー、君は俺を愛していただろう? 俺も愛している。今でも変わらず君のことを愛している」
どうか、彼女に伝わってほしい。言い訳のように聞こえるかもしれないが、それでも構わなかった。
とにかく、ルビーの本心が聞きたかった。俺たちは愛し合っていたはずだ。
「いいえ。もう、なんというか……嫌いですわ。顔も見たくないくらい……もう無理だわ」
考えたくもなかった。否定される未来を、想像すらしたくなかった。
今、その恐れていた現実が目の前に静かに立ち現れている。
「……いや、けれど、俺はネイル侯爵家にいたいんだ。君の夫でありたい。籍を戻す前提での離婚だった……」
「前提で話しても、現実は変わらないわ」
ルビーの表情は変わらなかった。
俺たちは愛し合っていたではないか……なのに……
「現実として、あなたはもう、侯爵家の者ではない。私にはあなたを迎える意志もない。もう家族でもなく、夫でもないわ」
「ルビー……」
言葉が続かなかった。
その場から動こうとする意思すら失せていた。まるで世界が急に色褪せ、周囲の音すら遠のいていく。
部屋の隅に控えていた執事のセバスチャンが前へ出てきた。
「ライアン様、僭越ながら申し上げますが、少々現実を直視していただかねばなりません」
セバスチャンは落ち着いた口調で、はっきりとそう言った。
「まず、現在ライアン様がネイル侯爵家に属されていないことは、すでにご承知のはずです。ルビー様との正式な離婚により、婿としての立場は自動的に解消されました。つまり、ネイル侯爵家の一員としての資格は、すでに失われております」
俺は言い返すことができなかった。セバスチャンはさらに続ける。
「元来、侯爵の地位と称号はルビー様ご本人に属するものでございました。ライアン様は“侯爵の夫”として『ネイル侯爵家のライアン様』と称されていたにすぎません。よって、離縁された今、ネイル姓を名乗られる法的根拠は、どこにも残されていません」
血の気が引いていくのがわかった。
セバスチャンの声音に、憐れみはなかった。
「次に、爵位についてでございます。ビスコンテ子爵家はすでにご長兄が家督を継がれ、当主の座にございます。貴族制度において、次男以下は通常、軍や聖職、騎士団への所属、もしくは他家への婿入り等により、別の道を選ぶのが常でございます。ライアン様はかつて、侯爵家への婿入りによってその地位を築かれましたが、離婚によりその基盤も崩れ去ったということになります」
「……つまり、俺は今、爵位を……?」
「ご理解いただけたようで、何よりです。ライアン様は“無爵”でございます」
俺は両手で顔を覆った。
「貴族の血筋には変わりありませんが、爵位を持たぬお立場。加えて、実家である子爵家も、今回の件を受けて、ライアン様の除籍を決定されたと伺っております。もはや、どこからも“保護”を受けられる立場ではない、ということでございます」
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