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屋敷の執務室
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室内は静かで人の気配はない。わずかに窓から差し込む月光が積みあがった書類の束を薄く照らしているが、ほとんど暗闇だった。
この中から必要な物を見つけ出すのは至難の業。
目に付くところに重要な書類は置いていないだろう、隠しているはずだ。そう考えると……
その時、わずかに空気が揺れたかと思うと、次の瞬間何者かに後ろから口をふさがれた。
「うっ!」
羽交い絞めにされるよう首元から肩にかけて男の腕が回され抑え込まれた。逃れるよう相手の拘束に抵抗するがびくともしない。
誰もいないと思っていたのに、まだ執務室に誰かが残っていたんだ。
灯りは消えていた。ちょうど帰ろうと思い消したところだったのか、あるいは私の気配を察知して急いで消したのか。
頭の中で必死に言い訳を考える。私は公爵夫人だ、泥棒じゃない。別に執務室に入っても問題はないわ。こういう場合は逆に堂々とし……
「静かに」
男は耳元で小さな声でそう言うと、腕の力を少し緩めた。どこかで聞いたことのあるような低くかすれた声だった。
やっとの思いで首を少し回し後ろの相手を確認する。
マルスタン?誰……
辺りは暗闇で目が慣れるまで時間がかかった。
「……ジョン!」
「お嬢様。お静かに願います」
彼は私が借りたアパルトマンにいるはずのジョンだった。
「な、なんで……あなたが」
「アイリス様。私は三日前からここに執務事務員として潜入しています」
「なんですって!」
驚きのあまり声が大きくなる。
彼は右の人差し指を唇に当て、静かにするようにとジェスチャーした。
「事情はマリーから聞いています。なんとか公爵家に入り込めるよう紹介状を用意し、今はリッツ伯爵からの紹介でここの執務の手伝いをしに来たカインという人物に成りすましています」
「偽の紹介状なんて危ない橋を渡って、一体どういうこと」
「手紙を読んでくださったなら、ある程度お分かりかと思いますが」
ジョンはそう言って話し始めた。
私を救う為にここへ来たと彼は言う。それには彼らの悪事の証拠を探さなければならない。金の流れを把握し、執事たちの横領の証拠を掴むつもりだという。
それは私が考えていた事と同じだ。彼らの不正を暴き、大金を勝手に動かしている証拠。現夫人である私を冷遇して、我が子を夫人にするために画策している証明。
何よりスノウは古くから屋敷に勤める執事やメイド長を信頼している。
口で言ったこと等は証拠に残らない。だから確実な物を手に入れなければならない。
「領地から得られる税金や農作物海産物の売り上げや王宮から支給される給金、公爵家全体の収益を把握したいです。そして支出、屋敷の修繕費、税金、管理費。勿論人件費などの記録が記されている帳簿を確認します」
「この広大な王都の屋敷にかかる費用は莫大でしょう。その管理を任されているのはマルスタン。自由に私的に使える資金を調達する事くらい簡単なはず」
「はい。支出が大きすぎる物に関して掘り下げれば、使途不明金が必ず出てくると思います。投資に失敗したと偽っているとか、大きな費用が掛かる改築などの工事費の水増し、あるいは高価な宝飾品美術品など購入履歴の改ざん」
「それが記されている裏帳簿ね」
そうだというように彼は頷いた。
「私はリッツ伯爵の紹介なので疑いの眼は向けられていないようです。彼らは同じ悪事を働いている者同士だからです。ただ、まだ信用されているわけではない。申し訳ありませんが少し時間がかかります。新参者ですからね」
「リッツ伯爵の紹介状って、それ偽造したのでしょう?」
「いえ、本物です。カインという人物に私が成り代わっただけで彼から金で紹介状を買い取りました」
どこまでも頭が切れる男だと思った。さすがジョンだ。
「けれどとても危険だわ……」
「それはこっちのセリフです。アイリス様はどうやってこの部屋に」
ドンドンッ!
扉を叩く音がした。なにやら外が騒がしい。
お互いやっと顔が見られた者同士で少し油断していた。私の体が驚きと恐怖で強張った。
カインに緊張が走る。
カインは部屋の明かりを灯けて、私に机の下に隠れるように言った。
「いったい何事ですか!」
彼は鍵を開けて外の来訪者に詰問する。
「ここに誰か来ていませんか!奥様が部屋から逃げ出したようです」
「は?ここになんて誰も訪ねてこない。ここは執務室だぞ。鍵もかけている。限られた執務関係の者しか立ち入らない」
従者たちは中を覗き込もうとする。
ジョンは部屋の中が見えるように扉を大きく開いた。
「ここは一般の者たちの立ち入りは禁じられている。そこから動かず確認しろ、誰もいない私一人だ」
従者たちは扉の外から中を一通り見まわした。
「はい!失礼しました。また鍵を閉めて、誰も中へ入れないようにして下さい」
頭を下げて彼らは他の場所へ走っていった。
どうしよう。寝室にいない事がバレてしまった。私は焦って机の下で身体を抱きしめた。
「お嬢様、落ち着いて聞いてください。辺りが静かになったら堂々と廊下を歩いて部屋へ戻って下さい。喉が渇いたからとか、食堂へ行っていたとか、眠れないから散歩したとか適当な理由を言って部屋に戻るんです。扉の前に監視の者が立っていたでしょうが、トイレにでも行っていたんでしょう。部屋を出る時はいなかったと言ってください」
「分かったわ。隠し通路の事は言わない方がいいって事ね。監視員たちには申し訳ないけど、彼らの失態って事にしましょう」
私は深呼吸するとジョンに頷いて廊下が静まるのを待った。
「アイリス様、今回私は助けられません。しっかりと自身を見失わないようにして下さい。必ず助けに行きます」
私はジョンあらためカインに頷いてみせると姿勢を正し顎を上げた。
この中から必要な物を見つけ出すのは至難の業。
目に付くところに重要な書類は置いていないだろう、隠しているはずだ。そう考えると……
その時、わずかに空気が揺れたかと思うと、次の瞬間何者かに後ろから口をふさがれた。
「うっ!」
羽交い絞めにされるよう首元から肩にかけて男の腕が回され抑え込まれた。逃れるよう相手の拘束に抵抗するがびくともしない。
誰もいないと思っていたのに、まだ執務室に誰かが残っていたんだ。
灯りは消えていた。ちょうど帰ろうと思い消したところだったのか、あるいは私の気配を察知して急いで消したのか。
頭の中で必死に言い訳を考える。私は公爵夫人だ、泥棒じゃない。別に執務室に入っても問題はないわ。こういう場合は逆に堂々とし……
「静かに」
男は耳元で小さな声でそう言うと、腕の力を少し緩めた。どこかで聞いたことのあるような低くかすれた声だった。
やっとの思いで首を少し回し後ろの相手を確認する。
マルスタン?誰……
辺りは暗闇で目が慣れるまで時間がかかった。
「……ジョン!」
「お嬢様。お静かに願います」
彼は私が借りたアパルトマンにいるはずのジョンだった。
「な、なんで……あなたが」
「アイリス様。私は三日前からここに執務事務員として潜入しています」
「なんですって!」
驚きのあまり声が大きくなる。
彼は右の人差し指を唇に当て、静かにするようにとジェスチャーした。
「事情はマリーから聞いています。なんとか公爵家に入り込めるよう紹介状を用意し、今はリッツ伯爵からの紹介でここの執務の手伝いをしに来たカインという人物に成りすましています」
「偽の紹介状なんて危ない橋を渡って、一体どういうこと」
「手紙を読んでくださったなら、ある程度お分かりかと思いますが」
ジョンはそう言って話し始めた。
私を救う為にここへ来たと彼は言う。それには彼らの悪事の証拠を探さなければならない。金の流れを把握し、執事たちの横領の証拠を掴むつもりだという。
それは私が考えていた事と同じだ。彼らの不正を暴き、大金を勝手に動かしている証拠。現夫人である私を冷遇して、我が子を夫人にするために画策している証明。
何よりスノウは古くから屋敷に勤める執事やメイド長を信頼している。
口で言ったこと等は証拠に残らない。だから確実な物を手に入れなければならない。
「領地から得られる税金や農作物海産物の売り上げや王宮から支給される給金、公爵家全体の収益を把握したいです。そして支出、屋敷の修繕費、税金、管理費。勿論人件費などの記録が記されている帳簿を確認します」
「この広大な王都の屋敷にかかる費用は莫大でしょう。その管理を任されているのはマルスタン。自由に私的に使える資金を調達する事くらい簡単なはず」
「はい。支出が大きすぎる物に関して掘り下げれば、使途不明金が必ず出てくると思います。投資に失敗したと偽っているとか、大きな費用が掛かる改築などの工事費の水増し、あるいは高価な宝飾品美術品など購入履歴の改ざん」
「それが記されている裏帳簿ね」
そうだというように彼は頷いた。
「私はリッツ伯爵の紹介なので疑いの眼は向けられていないようです。彼らは同じ悪事を働いている者同士だからです。ただ、まだ信用されているわけではない。申し訳ありませんが少し時間がかかります。新参者ですからね」
「リッツ伯爵の紹介状って、それ偽造したのでしょう?」
「いえ、本物です。カインという人物に私が成り代わっただけで彼から金で紹介状を買い取りました」
どこまでも頭が切れる男だと思った。さすがジョンだ。
「けれどとても危険だわ……」
「それはこっちのセリフです。アイリス様はどうやってこの部屋に」
ドンドンッ!
扉を叩く音がした。なにやら外が騒がしい。
お互いやっと顔が見られた者同士で少し油断していた。私の体が驚きと恐怖で強張った。
カインに緊張が走る。
カインは部屋の明かりを灯けて、私に机の下に隠れるように言った。
「いったい何事ですか!」
彼は鍵を開けて外の来訪者に詰問する。
「ここに誰か来ていませんか!奥様が部屋から逃げ出したようです」
「は?ここになんて誰も訪ねてこない。ここは執務室だぞ。鍵もかけている。限られた執務関係の者しか立ち入らない」
従者たちは中を覗き込もうとする。
ジョンは部屋の中が見えるように扉を大きく開いた。
「ここは一般の者たちの立ち入りは禁じられている。そこから動かず確認しろ、誰もいない私一人だ」
従者たちは扉の外から中を一通り見まわした。
「はい!失礼しました。また鍵を閉めて、誰も中へ入れないようにして下さい」
頭を下げて彼らは他の場所へ走っていった。
どうしよう。寝室にいない事がバレてしまった。私は焦って机の下で身体を抱きしめた。
「お嬢様、落ち着いて聞いてください。辺りが静かになったら堂々と廊下を歩いて部屋へ戻って下さい。喉が渇いたからとか、食堂へ行っていたとか、眠れないから散歩したとか適当な理由を言って部屋に戻るんです。扉の前に監視の者が立っていたでしょうが、トイレにでも行っていたんでしょう。部屋を出る時はいなかったと言ってください」
「分かったわ。隠し通路の事は言わない方がいいって事ね。監視員たちには申し訳ないけど、彼らの失態って事にしましょう」
私は深呼吸するとジョンに頷いて廊下が静まるのを待った。
「アイリス様、今回私は助けられません。しっかりと自身を見失わないようにして下さい。必ず助けに行きます」
私はジョンあらためカインに頷いてみせると姿勢を正し顎を上げた。
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