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第1章
狼?いいえ、シベリアンハスキーです
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「普通に、間違いだけ指摘しようと思って。契約書のミスがさ、訴訟にも発展しちゃったりするしさ」
誰もいない部屋の中、由紀は狼のぬいぐるみ、ロルフを両腕で抱えぽつりと呟いた。コートは着たまま、メイクも落としていない。ぬいぐるみ相手に話す自分は、とても滑稽に思えるけれども。落ち込んだ時の習慣になっていた。
「笑顔でって言うけどさ……」
──お前の喋り方、なんか変じゃね?
聞こえるはずのないその声が、今も耳の奥でこだましている。喉の奥が熱くなり、胸がずきりと痛む。
由紀は顔をしかめ、頭を振った。
「……先に、お風呂入ろ」
気持ちをリセットしよう。そう心に決め、立ち上がる。
夕飯は手早くサラダとオムライス。テレビの音をBGMにしながら口に運ぶ。ふと時計を見れば、時刻は8時半を過ぎていた。
洗い物を済ませた後、豆を挽いてコーヒーを淹れる。ふわりと漂う香ばしい香りに、張りつめていた神経が少しずつ緩んでいく。
カップに少しだけミルクを垂らし、パソコンの前へと向かう。いつものルーティン。キーボードを叩き、ログインしたのは──。
《エデンフィールド》
由紀が一日の中で、一番癒される時間だ。ベッドに入る前のたった2時間。だけどその2時間が、職場では絶対に見せられない“自分”を許してくれる、大切なひとときだった。
“エデンフィールド”は多人数参加型オンラインロールプレイングゲームだ。中世ファンタジーとサイバーパンクが融合した広大な世界“エデン”では、プレイヤーたちが様々なプレイスタイルで自由に過ごせる。
参加型オンラインゲーム、と言っても由紀はソロプレイが多かった。エデンフィールドはソロ専用のクエストやエリアも充実している。
ダンジョンを攻略するよりも、特に農業に魅せられた。土を耕し、実りを待ち、素材を加工して金に換え、それを資金に家や装備をアップグレードする。その地道な積み重ねが、どこか心地よかった。
「あ、ロード終わった」
待ちに待った新イベント更新日。日中も気が気じゃなく、早く仕事が終わらないかなと、しょっちゅう時計を見てしまっていた。
ログイン後、画面に現れたのは、ゲームのマスコットキャラクター、ロルフ。現実世界のぬいぐるみと同じく狼の姿をしている。
「新イベントだおん!」
そう告げられれば、自然に笑顔になる。由紀のスキンは雪だるま、ユーザー名は「ゆきんこ」。回復魔法を得意とするヒーラー職を選んだのは、攻撃より、癒す方が合っている気がしたからだ。
「え、なになに。今回の報酬は……幻の種!?」
思わず目を見張る。農業プレイヤーとしては絶対に手に入れたいアイテムだった。
だが、すぐに落胆の声が漏れる。
「ペアプレイ限定報酬。ソロはないんだ」
イベントによっては、参加人数が決まっているものがある。今回はソロ不可。
つまり誰かとパーティーを組まなければならない。
由紀にとっては、それが一番のハードルだった。特にこのゲームは、協力プレイは音声通話が必須の雰囲気があり、それが何よりもつらい。
「そんなの無理だよ。でも……幻の種って、どんな作物なんだろ。……ほしい」
葛藤が脳内でぐるぐると渦を巻いていた。
***
翌日、仕事中でさえ、頭の中は幻の種でいっぱいだった。
「……今日の先輩、一段と機嫌悪くありません?」
「……うーん、あーちょっと確かにピリピリしてんな」
「私また何かやっちゃったかな」
「たぶん違うだろ。気にすんなって」
由紀の様子を見て、同じ部署の佳奈と克也がひそひそ声で話しをしていた。
「失礼します」
そこに営業部の高橋亮がやってきた。
「あ、高橋さん」
「お、高橋」
「おつかれさまです」
爽やかな笑顔に、佳奈がほんのりと頬を赤らめた。社内でも1、2を争う人気者だ。由紀はというと、いつも通りクールに応対する。
「藤木さん、アトーレマンションの重説ってもうできてますか」
「……はい。できてます」
「さすが、早いですね」
亮の言葉には、いつもどこか真っ直ぐな響きがある。彼はドイツ育ちで、相手が年上でも、素直に思ったことを言葉にする。それでも、不快に感じさせない絶妙な空気の読み方ができる人だった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
その場で亮が書類をめくって確認する。由紀はその様子を見守るふりをして、彼をじっと見ていた。
ミルクティーブロンドの柔らかな髪が、青い瞳にかかっている。他の女性社員ならうっとりとして見つめるところだが、由紀は別のことを考えていた。
──奇遇ですね、俺もそのゲームやってるんですよ?
──もしよければ今度一緒に。
以前、確かにそんな言葉をかけられた。でも、まさか社内の人間と組むなんて──。ありえない。そんな姿、見られるわけにはいかない。
けれど、脳裏にはまたロルフの姿が浮かぶ。
──幻の種だおん!
「ありがとうございます」
「何か分からない箇所があれば、また後で聞いてください」
「はい!それじゃ、失礼します」
もっとこういうことを気軽にできる友達がいればな、と思う。最初に教えてくれた妹は、すでにこのゲームに飽きているし、子育てに奮闘中だ。
***
帰宅後、コーヒーを淹れ、PCの前に座る。
少しだけ、勇気を出してみよう。由紀は決意するように目をつむり、マイク機能をオンにした。恐る恐るペア募集の掲示板をクリックする。
「……初心者です」
小さく、つぶやきながら入力する。──もう5年もやってるのに、でもそう書いた。
「とても弱いですが、それでもよろしければ、って──え?もう申請されてる!?」
紹介文を書き終える前に、マッチング成立の通知が表示された。動揺のあまり息を飲む。「承認しますか?」のボタンに手が止まる。
深呼吸をする。あんなことを言われたのは、かなり昔のことだ。
相手は知らない人。だったら大丈夫かもしれない。
ボタンを押すと、画面が切り替わった。
「こんにちはー」
「こ、こんにちは……」
雪だるまの姿をした由紀の前に現れたのは、二足歩行の巨大な狼だった。
「でっか……」
思わず、口にしてしまった。
「はは、よく言われます。えーと、お名前はゆきんこさんですか?」
「は、はい。えっと、シンシオンさん、ですか?」
「そうです!シンシオンです!」
声からして、たぶん男性だろう。なぜか、どこか嬉しそうに返事をしてくれた。尻尾を左右にゆらゆらと振っているのが見える。
「……僕のこと知らない人と会うの、なんか新鮮だな」
「え?」
「いえいえ、なんでも。雪だるまスキン、かわいいですね」
「あ、ありがとうございます。その、狼スキンも、かっこいいです」
「あ、これ狼じゃなくて──」
[シベリアンハスキーです]
誰もいない部屋の中、由紀は狼のぬいぐるみ、ロルフを両腕で抱えぽつりと呟いた。コートは着たまま、メイクも落としていない。ぬいぐるみ相手に話す自分は、とても滑稽に思えるけれども。落ち込んだ時の習慣になっていた。
「笑顔でって言うけどさ……」
──お前の喋り方、なんか変じゃね?
聞こえるはずのないその声が、今も耳の奥でこだましている。喉の奥が熱くなり、胸がずきりと痛む。
由紀は顔をしかめ、頭を振った。
「……先に、お風呂入ろ」
気持ちをリセットしよう。そう心に決め、立ち上がる。
夕飯は手早くサラダとオムライス。テレビの音をBGMにしながら口に運ぶ。ふと時計を見れば、時刻は8時半を過ぎていた。
洗い物を済ませた後、豆を挽いてコーヒーを淹れる。ふわりと漂う香ばしい香りに、張りつめていた神経が少しずつ緩んでいく。
カップに少しだけミルクを垂らし、パソコンの前へと向かう。いつものルーティン。キーボードを叩き、ログインしたのは──。
《エデンフィールド》
由紀が一日の中で、一番癒される時間だ。ベッドに入る前のたった2時間。だけどその2時間が、職場では絶対に見せられない“自分”を許してくれる、大切なひとときだった。
“エデンフィールド”は多人数参加型オンラインロールプレイングゲームだ。中世ファンタジーとサイバーパンクが融合した広大な世界“エデン”では、プレイヤーたちが様々なプレイスタイルで自由に過ごせる。
参加型オンラインゲーム、と言っても由紀はソロプレイが多かった。エデンフィールドはソロ専用のクエストやエリアも充実している。
ダンジョンを攻略するよりも、特に農業に魅せられた。土を耕し、実りを待ち、素材を加工して金に換え、それを資金に家や装備をアップグレードする。その地道な積み重ねが、どこか心地よかった。
「あ、ロード終わった」
待ちに待った新イベント更新日。日中も気が気じゃなく、早く仕事が終わらないかなと、しょっちゅう時計を見てしまっていた。
ログイン後、画面に現れたのは、ゲームのマスコットキャラクター、ロルフ。現実世界のぬいぐるみと同じく狼の姿をしている。
「新イベントだおん!」
そう告げられれば、自然に笑顔になる。由紀のスキンは雪だるま、ユーザー名は「ゆきんこ」。回復魔法を得意とするヒーラー職を選んだのは、攻撃より、癒す方が合っている気がしたからだ。
「え、なになに。今回の報酬は……幻の種!?」
思わず目を見張る。農業プレイヤーとしては絶対に手に入れたいアイテムだった。
だが、すぐに落胆の声が漏れる。
「ペアプレイ限定報酬。ソロはないんだ」
イベントによっては、参加人数が決まっているものがある。今回はソロ不可。
つまり誰かとパーティーを組まなければならない。
由紀にとっては、それが一番のハードルだった。特にこのゲームは、協力プレイは音声通話が必須の雰囲気があり、それが何よりもつらい。
「そんなの無理だよ。でも……幻の種って、どんな作物なんだろ。……ほしい」
葛藤が脳内でぐるぐると渦を巻いていた。
***
翌日、仕事中でさえ、頭の中は幻の種でいっぱいだった。
「……今日の先輩、一段と機嫌悪くありません?」
「……うーん、あーちょっと確かにピリピリしてんな」
「私また何かやっちゃったかな」
「たぶん違うだろ。気にすんなって」
由紀の様子を見て、同じ部署の佳奈と克也がひそひそ声で話しをしていた。
「失礼します」
そこに営業部の高橋亮がやってきた。
「あ、高橋さん」
「お、高橋」
「おつかれさまです」
爽やかな笑顔に、佳奈がほんのりと頬を赤らめた。社内でも1、2を争う人気者だ。由紀はというと、いつも通りクールに応対する。
「藤木さん、アトーレマンションの重説ってもうできてますか」
「……はい。できてます」
「さすが、早いですね」
亮の言葉には、いつもどこか真っ直ぐな響きがある。彼はドイツ育ちで、相手が年上でも、素直に思ったことを言葉にする。それでも、不快に感じさせない絶妙な空気の読み方ができる人だった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
その場で亮が書類をめくって確認する。由紀はその様子を見守るふりをして、彼をじっと見ていた。
ミルクティーブロンドの柔らかな髪が、青い瞳にかかっている。他の女性社員ならうっとりとして見つめるところだが、由紀は別のことを考えていた。
──奇遇ですね、俺もそのゲームやってるんですよ?
──もしよければ今度一緒に。
以前、確かにそんな言葉をかけられた。でも、まさか社内の人間と組むなんて──。ありえない。そんな姿、見られるわけにはいかない。
けれど、脳裏にはまたロルフの姿が浮かぶ。
──幻の種だおん!
「ありがとうございます」
「何か分からない箇所があれば、また後で聞いてください」
「はい!それじゃ、失礼します」
もっとこういうことを気軽にできる友達がいればな、と思う。最初に教えてくれた妹は、すでにこのゲームに飽きているし、子育てに奮闘中だ。
***
帰宅後、コーヒーを淹れ、PCの前に座る。
少しだけ、勇気を出してみよう。由紀は決意するように目をつむり、マイク機能をオンにした。恐る恐るペア募集の掲示板をクリックする。
「……初心者です」
小さく、つぶやきながら入力する。──もう5年もやってるのに、でもそう書いた。
「とても弱いですが、それでもよろしければ、って──え?もう申請されてる!?」
紹介文を書き終える前に、マッチング成立の通知が表示された。動揺のあまり息を飲む。「承認しますか?」のボタンに手が止まる。
深呼吸をする。あんなことを言われたのは、かなり昔のことだ。
相手は知らない人。だったら大丈夫かもしれない。
ボタンを押すと、画面が切り替わった。
「こんにちはー」
「こ、こんにちは……」
雪だるまの姿をした由紀の前に現れたのは、二足歩行の巨大な狼だった。
「でっか……」
思わず、口にしてしまった。
「はは、よく言われます。えーと、お名前はゆきんこさんですか?」
「は、はい。えっと、シンシオンさん、ですか?」
「そうです!シンシオンです!」
声からして、たぶん男性だろう。なぜか、どこか嬉しそうに返事をしてくれた。尻尾を左右にゆらゆらと振っているのが見える。
「……僕のこと知らない人と会うの、なんか新鮮だな」
「え?」
「いえいえ、なんでも。雪だるまスキン、かわいいですね」
「あ、ありがとうございます。その、狼スキンも、かっこいいです」
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[シベリアンハスキーです]
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