ショートショートアソート

三木 佳

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異常気象

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 出社のためマンションの入り口を抜け、各住居のベランダ前を通り過ぎようとしていた。
 目の前を何かが通過する。雨にしては大きく色味を帯びた何か。続けざまにさらに通過して遅れて何であるかに気づいた。
 ポテトチップスだ。
 家を出る前までつけていたテレビの女性アナウンサーの声がよみがえる。
「ここ数日の暑さは異常気象と言えるでしょう」
 ポテトチップスが空から降るとは異常気象極まれりか。
 地面に転がったポテチの隣にはそれが入っていたと思われる袋も落ちていた。空いた袋の隙間からは地面とお見合いせずにすんだ仲間が顔を覗かせている。
 反射的に見上げると3階のベランダに少女がいた。視線が交わる。少女はぺこぺこと頭を下げ、顔の前でごめんなさいとでもいうように手を合わせ、ポテチを指さした。そのまますぐに室内に消えたので、降りてくるつもりのようだと分かった。
 ほどなくして階段を駆け下りてきた少女は俺の目の前まで来るともう一度頭を下げた。
「すみません、当たりませんでしたか?」
 不安そうな瞳が見上げてくる。
 彼女にはどう映っているのだろう。今から会社に向かうサラリーマンといったところだろうか。怯えさせないように努めて明るめの声で応じる。
「大丈夫当たってないよ。おいしそうな雨が降ってきたなあって思ってたとこ」
 冗談めかして言うと少女はふふっと笑ってくれた。ポテチへと視線を向けたので言う。
「袋の中にあるものはまだ食べられるんじゃないかな」
「あ、はい。よかった」
 少女はわずかに笑みを見せた。
「朝ごはん?」
「あ、いえ。お腹空いちゃって。お母さん起こしたくなくて」
 察する。音を立てて食べることで起こしてしまうことを危惧してベランダで食べようとしていたのだろう。
 ポテチを拾い上げた少女は一礼するとアパートへと戻っていく。階段を上がっていく少女を見守る。踊り場に一瞬姿が見えた時、視界の端に何かよぎった気がしてそちらを見る。少女の家の隣の部屋のカーテンが閉まるところだった。あそこは浪人生の一人暮らしだったか。一瞬目が合ったような気がしなくもなかった。
 もう一度視線を階段へと戻すと、踊り場に少女が見えた。そのまま耳を澄ましたがドアが閉まる音はしなかった。恐らく寝ている母親を起こさないようにそっと戻ったのだろう。
 ややするとベランダに少女が再度出てきた。目が合うとにこっと笑顔を見せてくれたので、笑顔を返して出勤するため歩き出した。


 少女が死んだという知らせは突然だった。屋上から飛び降りたとのことだった。普段は鍵がかかっているが、前日浄化槽の点検をした業者が鍵を閉め忘れたらしかった。
 漏れ聞こえてくる噂話からは様々な憶測が飛んでいたが、大半の意見が自殺だろうとのことだった。少女の家は母子家庭だ。そう思われてしまうのも無理からぬ話なのかもしれない。
 だが俺はそうは思わない。閉じた瞼の裏に少女の笑顔がよぎる。彼女が世を儚むはずがないのだ。
 屋上の柵に背を預けて待つ。空からひっきりなしに落ちてくる雨粒が顔を打つ。近年まれにみる雨量のこの大雨も異常気象に数えらられるらしい。雨音は激しく、雷鳴も響いていた。
 目線の先のドアが開いた。そこから浪人生が傘をさして、屋上へと踏み出てきた。近づいてくる。この雨音だ。会話をするには近くまで来るしかない。
 触れんばかりの距離に来た彼は半ば怒鳴るように言った。
「やっぱりあんただったか」
 『やったのは君だろ? 今日の23時屋上へ』そう書いたメモを彼の家の投函口に入れておいた。
 メモをひらひらさせながら浪人生は続けた。
「なあ。黙っておいてくれよ。あんたも同胞だろ?」
 媚びるような視線が向けられる。あまりの警戒心のなさに逆に警戒していたがそういうことらしい。
 そんなわけがあるか! 内心そう思いながらも返す。
「まあ、若いころはやんちゃだったからな」
 そう。昔は色々やらかしていた。ここまでくるのに10年かかったのだ。これから先起こりうるであろう幸せも思い描いていた。そんな矢先の出来事だった。
 俺の内心を知る由もなく、浪人生はうんうんと二度頷きながら同意を示してくる。
「あの子かわいかったもんなあ。もったいないことをした」
 浪人生は柵の向こうへと視線をやる。
「でも――」
 考えるように視線を伏せ、浪人生は続けた。
「一番いい時に時間を止めてあげたと考えれば悪くないか」
 下卑た笑みを浮かべた。
 聞くに堪えない。でも、もう少しだけ、もう少しだけ我慢する。少女の最期を知らなければならない気がした。
「突き落としたのか?」
 直接的な問いに浪人生は多少逡巡の色を見せた。
「いや。ああ、まあ、いや。結果的にそうなったけどさ。廊下で偶然出くわして、話してたらいてもたってもいられなくなってきて。反射的に腕を掴んで、振りほどかれて、逃げ出された。なんかまずい気がして追いかけたらここまで来た」
 言葉を止めて思い出すような仕草を見せた後続けた。
「柵を乗り越えてこっち見て『来ないで!』って言ってた。ちょっとむかついたんだよな。柵があるから大丈夫って思ってんのか、飛び降りるって脅してんのか知んないけど」
「なるほど」
 自分の声には微かに剣呑な響きが宿っていた。だが浪人生は追憶に浸っているのか気づかなかったようだ。
「だから思いっきり押してやった」
 ふいに走った稲光が満足そうな歪んだ浪人生の顔を浮かび上がらせた。
 浪人生の両足を掴む。え? と漏れた声が聞こえたが構わない。そのまま勢いよく持ち上げて、柵の向こうへと投げ出した。突然のことで抵抗する暇もなかっただろう。浪人生は落ちていった。雨の音が大きすぎて、叩きつけられる音は聞こえなかった。
 落ちる間際に取り落としてしまったであろう傘を拾い上げると、柵のその向こう虚空へと投げ捨てた。レインコートのポケットに手を入れ、管理人室で杜撰に保管されていた屋上の鍵も同じように放った。
 ドアに向かって歩き出す。大雨が体を打つ音が激しい。雨音の中、聞こえるはずのない声がはっきりと聞こえる。
「大雨ときどき血の雨が降るでしょう」
 朝よく見るアナウンサーの声だ。自分の脳裏でのみ響いた声だ。
「異常気象極まれりか」
 ドアの取っ手へと手をかけながら独りごちた。 
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