魔法使いと皇の剣

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5章 運命

オーデントを抜け

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 日差しが優しく照りつける穏やかな空の下、カスタンドを離れて二日目の朝を迎えた頃には、ミエラの中にあったアーベンへの怒りは、すっかり薄れていた。

 ――この快適さの前では、怒っているのが馬鹿らしくなる。

 その理由は明白だった。貴族の意地か、それともドーユンの計らいか、アーベンが持ち帰った荷馬車には想像以上の物資が積まれていた。着替えや保存食、水袋、干し肉に果物、それどころか調味料や予備の武具まで――。

 ミエラにまで用意された衣服は質の良い布地で丁寧に仕立てられており、彼女の体にぴたりと合った。

 おそらくドーユンが何らかの情報を元に準備したのだろう。唯一の不満は、アイリーンの分がなかったこと。本人は「差別よ!」といじけていたが、食事の美味しさには勝てなかったようで、最終的には黙々と干し肉を頬張っていた。

 しかし、そんな穏やかさも長くは続かない。彼方に見えてきた国境の“間所”――オステリィアへの唯一の正規ルート――が近づくにつれて、ミエラの胸には再び緊張が湧き上がってきた。

「ベン。間所で……何か“手”はあるんですか?」

 未だに慣れない“アーベン”の略称。しかし当の本人は、気にした様子もなく、首を傾げて答えた。

「うーん、それなんだがね。いろいろ考えてみたけど、今のところ妙案は浮かんでいないのだよ。」

「……はあ? あんたの問題でしょ? 何とかしなさいよ!」

 呆れたように言い放つアイリーンの声に、アーベンは軽く肩をすくめた。

「そうは言うけれど、君の問題でもあるんだよ。竜族の存在は目立つ。ましてやオーデントでケイオスと面会した者として、君の名も知られているだろう。すぐに捕まるとは思わないが、警戒はすべきだね。」

「でも、“真の王”ってやつがそのサイスルなんでしょ? なら、竜族への迫害なんてないって言ってたじゃない。あいつら、信仰を理由に人を傷つけないんでしょ?」

「そのとおりだが……」

 そこで口を挟んだのはロスティンだった。気怠げに帽子を傾けながらも、声の調子は真剣だった。

「それでも用心すべきだな。少なくとも、俺たちに依頼を出した奴は“真の王”を騙ってお前を殺そうとした。」

 ミエラは思案しながら、問いを重ねた。

「……ベン。オステリィアが今閉ざしているのは“街”であって、“領土”には入れるんですよね?」

「まあ、そうだね。少なくとも表向きは。でも……どうして?」

 ミエラは息を整え、ゆっくりと口にした。

「私が“オステリィアの魔術師”と名乗ったら、通してもらえる可能性はありませんか?」

 だがアーベンは、申し訳なさそうに首を横に振った。

「名乗るだけで通れるなら、間所の意味がない。昔はそれほど厳しくなかったが……サイスルが玉座に就いてから、状況は読めない。緩くなっている保証はどこにもない。」

 そのやり取りに、ニヤリと笑みを浮かべたロスティンが声を上げた。

「だったらさ、またミエラに“娼婦のフリ”でもしてもらえばいいんじゃないか? カスタンドではそれで入れたんだろ? 男なんて、股間の判断力で生きてるもんだからな。」

「……今のあなたみたいですね」

 ミエラの目が鋭くなった瞬間、アーベンが先んじて口を挟んだ。

「難しいだろう。それは使えない手だ。あの時は“私たちが何らかの手で外からきて間所を通過した者”だと兵士たちが誤認していた。だから隙ができた。さらに、ドーユンがパルテナス人であることを兵たちは知っていた。それが後押しになったのさ。」

 アイリーンが驚いたように目を丸くした。

「……へぇ。あんた、案外ちゃんと考えてたのね。」

 アーベンは苦笑しながら、冗談めかして返した。

「君の中での私の評価が少しでも上がってくれたら、それで報われるよ。」

 ロスティンは荷馬車の後ろを探りながら提案した。

「荷物の中に、あの閣下様が書簡か何か入れてくれてないか?」

 アーベンは首を振った。

「それがあればと期待したんだが、残念ながらなかったよ。物資は十分だったが、通行証は……渡せなかったようだ。」

 ミエラはため息混じりに呟いた。

「打つ手なし……ですか。」

「いや、まだ最悪の手が残っている。強行突破というやつだ。それに、もしかしたら私が名乗れば、忠誠が残った者が見逃してくれるかもしれない。ミエラの提案でもいいしね」

「何であんたはそんな呑気なのよ!」

 苛立つアイリーンに、アーベンは笑みを浮かべたまま答える。

「君たちもだろう? こうして歩みを止めず、ここで作戦会議なんてしているんだから。“どこかで何とかなる”――そう思っているからこそ、足を進めている。」

 ロスティンは笑いながら肩をすくめた。

「まぁ、王子様の言う通りだな。結局は“行けるところまで行く”。それだけだろ。」

 ミエラもようやく笑いを浮かべ、小さく息を吐いた。

「――私も、どこかでそれを期待していたのかもしれません。……向かいましょう、“間所”へ。」


 広大な平原の先に、まるで大地を切り裂くように横一線に築かれた壁が姿を現した。石と鋼で固められたその構造物は、ただの防壁というより“拒絶”そのものを体現していた。

 アーベンが事前に話していたとおり、壁には一見すると通り抜けられそうな終わりがあった。だがその先には、崖のようにそびえる断壁と、人の手を寄せつけない密林、さらに背後に連なる岩山――自然という名の要塞が幅を利かせていた。

「この壁を迂回しようとした連中の遺骸が、どこかで待っている。無理に越えようとすれば、命を落とす。」

 アーベンは冗談めかして言ったが、ミエラは背筋を冷やした。

 やがて、彼らが壁の門近くへと足を踏み入れると、石壁の上部から鋭く張り詰めた声が響いた。

「止まられよ!」

 見上げると、複数の衛兵が既に弓を構え、こちらを警戒していた。

「現在、オステリィアは国境を閉じている。許可なき者の通行は固く禁じられている! 然れど、目的があり正当な証明を持つ者であれば、名乗り出よ!」

 矢先を向けられながらも、ミエラは恐れず一歩前に出て、声を張った。

「私はこの大陸の者ではありません。グランタリス大陸より来た、ミエラと申します。オステリィアにて用があり、この地を越えたく通行を願います!」

 背後では、アイリーンとロスティンが静かに構え、アーベンが様子を窺っていた。

 ミエラは続ける。

「王都の混乱の最中にこの地を訪れたため、正式な通行証を得ることが叶いませんでした。ですが――オステリィアを目指す理由は確かにあります。」

 壁の上から、衛兵の一人が小さくうなずき、

「少し待たれよ」

 とだけ告げると、入れ替わるように、門の両側から数人の兵士が姿を現した。

 その中の一人は、鋭い目つきでミエラ達を見渡し、特にアイリーンの姿をじっと見つめていた。その気配に仲間たちも自然と警戒を強める。

 やがて、その兵士は口を開いた。

「……身元の確認は済んでいる。」

 意外な言葉に、ミエラは驚愕し、ロスティンやアイリーンも戸惑うなか、アーベンはわずかに目を見開き、懐かしむような微笑を浮かべていた。

「ど、どういうことですか?」

 戸惑うミエラに、兵士は淡々と答える。

「かつて王都より、ケイオス殿下が貴女方の通行について通達を出しておられました。伝書鳥により、銀髪の魔術師ミエラ殿、竜族のアイリーン殿、そして異国の剣士ジン殿の通行を許可せよとの命が。」

 ミエラは思わず息をのんだ。まさか、あの玉座の場で交わした言葉が、こうして形となって届いていたとは――。サイスルもまた、それを了承していたのだろうか。だが、今となっては真意は知れない。

 衛兵は続ける。

「……ただし、随行者が変更されているようですが?」

 ミエラはすぐに答えた。

「ジンは私たちとは別れました。今ご一緒しているのは、道案内人のロスティンと、ベンです。」

 その名を聞いた瞬間、兵士たちの視線がアーベンに集中する。赤髪の男に、まじまじと顔を見定める視線。ひとりの兵が腰の剣に手を添え、別の者が耳元で何かを囁いた。

 緊迫する空気に、ミエラは察した。――アーベンの正体が、バレた。

 あの帽子。臭うほど獣皮の匂いが染みついた、滑稽な隠れ蓑。捨てた判断を、今になって悔やんだ。

 しかし、事態は意外な方向へと動いた。

 隊長と思しき男が、兵たちの動きを制し、静かに一言を告げた。

「貴公らの身分は確認した。……通られよ。」

 一瞬、全員が呆然とした。アーベンでさえも、思わず眉を上げるほどだった。

 戸惑いながらも、他の兵たちは隊長の言葉に従い、剣を引いて後ずさった。命令に異を唱える者は、ひとりとしていなかった。

 残った隊長は、アーベンを正面から見つめると、鎧の胸元に手を添える。そこには、未だ擦り落とされていない――オーデント王家の紋章。

「オステリィアは今、国を閉ざしております。ここを抜けても、街に入れる保証はありません。……ご武運を。旅のお方。」

 アーベンは静かに頷き、深く頭を垂れた。

「国境が安全であるのは、貴方方のような者が守ってくださっているからだ。……我々の無事に、心より感謝します。」

 その言葉に、隊長は応えることなく、ただ静かに踵を返して去っていった。

 残されたミエラたちは顔を見合わせ、ようやく張り詰めた空気がゆっくりとほどけていくのを感じた。

 アーベンはいつもの調子に戻ったように微笑みながら呟く。

「……さて、行こうか。彼の言ったとおり、間所を越えて終わりではない。オステリィア側には間所は存在しない。だが次は――どうやって街に入るか、だね。」

 ミエラはその言葉に静かに頷き、遥かに続く未踏の地を見つめた。

「ええ。……行きましょう、私の母の故郷――オステリィアへ。」

 沈みゆく夕陽が背を押すように、ミエラ達は歩を進めた
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