真実の愛の犠牲になるつもりはありませんー私は貴方の子どもさえ幸せに出来たらいいー

春目

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60. 錆びついてしまったもの、守り抜いたもの

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アーネットがマリィの首に手をかけようとした時だった。


「何をしているんだ! アーネット!」


アーネットがその声にハッとして手を止めた瞬間、廊下の照明が沈黙を破るように次々に点灯し、全てを白日の元に晒す。

その声をした方を向けると、そこには護衛を連れたセロンがいた。

マリィに手をかけようとする態勢のまま固まるアーネット。そんな彼女を睨みつけるセロンの表情を見た瞬間、アーネットは息を飲んだ。
直ぐに手を引っ込ませ、アーネットは右手を左手で隠すように握った。

「セ、セロン殿下……!こ、これは違うのです……!これは……これは……!」

青ざめた顔ではくはくと口を開閉させ、アーネットは1歩、また1歩とセロンから逃げるように後退していく。

そんな彼女にセロンは目を細めた。

「……アーネット、逃げるな。
完璧な淑女とも称された貴方が、ここで、こんな状況で! 
これ以上、僕を失望させないでくれ!」

「……っ」

その言葉にアーネットは息を飲み、足を止めた。セロンにそこまで言われてしまっては、もう青ざめたまま立ち尽くすしかない。

戦意も消え茫然自失となるアーネット。それを確認し、セロンは護衛達に命じた。

「アーネットを部屋に。
追って沙汰が下るまで軟禁しろ。周囲には急病と通知し面会謝絶にしろ」

その命令にアーネットは顔を上げた。

「待ってください! そんな! あんまりでは無いですか!」

「何を言っている? 
貴方はズィーガー夫人の命を奪おうとしたのに。
……堕ちたものだ。あれだけ兄様は兄様はとうるさいくらい僕に兄様らしくあれと言っていた貴方がこうなるなんて……」

「……っ!」

絶句して絶望してアーネットは膝から崩れ落ちる。
そのアーネットを護衛達は無理やり立たせ、引き摺るように連れて行く。

連れて行かれながら、アーネットはふとマリィを見た。

マリィは未だにアーネットに敵意を向けたままだった。

先程殺されそうになったばかりだというのに、彼女は怯みもせず、毅然とした態度のまま、清廉された貴婦人の姿でそこに凛と立っている。その姿はまるで……。

(昔の私みたい……)

学院時代、完璧な淑女と称され、クリフォードに厳しく王族としての姿勢を説いていた、誰が見ても敬われる自分……あの頃の自分は、まだフィルバートに出会っておらず、両親に悩みながらも、自分の価値を磨き高め研鑽することしか頭に無かった。
目の前のマリィが段々とかつての自分に見えてくる。

(いつ、私は……いつの間に私は……)






あのカフェの1件の後、タイミング良く、広まり出したあの噂。

マリィとフィルバートが恋人になったという噂を聞いた。アーネットはあのカフェでフィルバートと共にいた女性こそが、マリィだったのだと気づいた。

彼女はアーネットがかつて夢見た立場にいた。

愛され、触れられ、名前を呼ばれる。そんな恋人になる……親の命令で仕方がなく王太子妃になってしまったせいで諦めざる得なくなった夢。

アーネットはその夢を振り払ったはずだった。 

あのカフェで自分の父が「彼の伴侶になる気はないか?」と甘い言葉を囁かれた時もアーネットはすぐさま断った。

王太子妃としての矜恃と、完璧な淑女と呼ばれてきた自分への誇りがそうさせた。

その瞬間、アーネットは甘言に打ち勝ち、夢を振り切った。

……振り切ったはずだった。

だが、何処ともしれない女に完全に横取りされてしまったと知った瞬間、アーネットは発狂してしまいそうになるほどの嫉妬を抱いた。

(分かってるわ。冷静にならないといけないって。私は王太子妃でもうそんな資格ないって。
でも……あの日、髪飾りを渡してくれた彼の姿を、今でもはっきりと思い出せる。瞼の裏に映る。
彼が誰かのものになったなんて、そうなるのも仕方がないって分かっていても、許せないの……感情が抑えられないの)

公務している最中も、部屋にいる時も、こうしている間にも、あの女がフィルバートの傍にいるのではないかとアーネットは思うと苛立ちを覚え、頭を掻きむしりたくなった。

日が経つ毎に身を焦がすような嫉妬と憎しみが彼女の心を支配していく。

(あの女さえいなければ、私はもう少し平穏になれるのかしら……?
いやいやダメよ。嫉妬に狂うなんて! 王太子妃だからそれだけは……!)

それでも毎日ギリギリのところで踏みとどまってどうにかアーネットは耐えていた。

だが、今日。

アーネットの父からワインの贈り物があった。

実家からこうして何か贈り物が来るのは珍しくなかった。

贈られる大体のものがアーネットの好みではなかったが、ワインだけはアーネットも進んで飲むような良い品物ばかりだった。
アーネットは自分をジリジリと焼き焦がす嫉妬から逃げる為に、そのワインを手に取った。

「今日は予定もない……飲んだって別に良い、わよね?
私、ワインで酔ったことないけど、今日はいっぱい飲むし。
万が一、酔ってしまったことを考えて部屋から出ないようにしないと……」

アーネットは人生で初めて酒を浴びるほど飲んだ。

……それから記憶は無い。ひたすら赤い色をした酒をグラスに注いでいたのは確かだが。

だが、アーネットが正気になった時、何故かアーネットは廊下にいた……そして、その視線の先にマリィとルークを見つけた。


あのカフェ以来、久しぶりに見た彼女は子どもを叱りつけているようだった。

話の内容までは聞こえなかったが、フィルバートの話をしているのは分かった。随分親しい間柄のようでフィルバートを語る彼女の表情は恋する女の子のようだった。

アーネットは直感した。噂は本当だったのだと。

その瞬間、視界が真っ赤になるほどの怒りと悲しみと……狂おしい嫉妬がアーネットの心を支配した。

(許せない!  あの方の隣に誰かいるなんて! 彼女さえ! 彼女さえいなければ!
もうちょっと私は幸せに生きれるのに!)

ワインを浴びるように飲んだからか、感情のたがは簡単に外れ、王太子妃の矜恃という最後の歯止めも吹き飛び、彼女はマリィの全てを壊そうと歩き出す。

本当に全て、完膚なきまでに、全て壊すつもりだった。

そこにいたのは、昔の恋を忘れられないただの女だった。





……そこまで回想してアーネットはようやく冷静になる。

今でもマリィは許せない。

確かにアーネットから売った喧嘩だが、彼女はアーネットを馬鹿にし、その肩書きに傷をつけ、アーネットを否定した。

だが、そんな彼女よりも許せないのは……。

(私、私はフィルバート様が最も嫌う……身勝手な理由で人を傷つける人間になってしまった……)

アーネットは部屋に連れ戻されながら、項垂れた。

(私は……完璧な淑女と言われながら……結局……そこまでの女だったってことね……。
ワインに酔ってつい……なんて言い訳できないわ)

だが、その時、アーネットはふと違和感を覚えた。

あのワイン……赤ワインにしては、そんな味をしていなかったな、と……。
















アーネットの姿が完全に見えなくなった頃、マリィはやっと肩の力を抜いた。

「はぁ……ぁ……」

そして、身を翻し、自分の後ろ、ずっとそこにいたルークの方を見た。

「マリィ……」

不安そう顔を浮かべマリィを見上げるルーク、その瞬間、マリィはずっと堪えていたものが溢れてきた。

ルークに駆け寄りその小さな体を抱きしめる。ルークは息を飲む。離さないように回された華奢な腕は震えており、ルークの耳元から今にも泣きそうな人のその声がした。

「……っ、ごめんね、怖かったよね……?」

「ううん、僕は大丈夫。マリィが守ってくれたから……」

「……っ」

マリィはルークを強く抱き締めた。
その膝はガタガタと震え、喉からは荒れた息しか出ず、指先にはすっかり温度が消えていた。

(……彼女の目を見た瞬間分かった。
あの人は私が大事にしているもの全部壊す気だって……。
そして、私の大事なものがルークだって気づいたら……絶対にルークを壊しに来るって……)

自分のことは幾ら言われたって構わない。だが、ルークのことはそうではない。

マリィは自分の大切な家族を傷つけられて、正気でいられるような人間ではない。

ルークはマリィが強くなれる理由であり、最大の弱点だった。

その弱点がバレたら、あの時の彼女は確実にルークを攻撃したはずだ。

(……もし、彼女にルークのことがバレたらって怖かった。
彼女は王太子妃、ゆくゆくは王妃よ。今日だけでなく、彼女が本気になれば人を使って私への嫌がらせとして……永遠にルークを傷つけることだってできる。
むしろ、真っ先にルークを殺しにかかったかも……。
だから、どうにかして彼女の怒りが私だけに向くようにしなくちゃダメだと思った。
ルークだけは守りたかった。この子が傷つけられたら……私は……!)

「マリィ」

名前を呼ばれ、マリィは顔を上げる。そこには泣きそうな顔でマリィを見ているルークがいた。

「マリィ、泣かないで?」

「……え?」

気づけばマリィの目尻からぽろぽろと雫が落ちていた。

止めようとマリィは拭うが、頬を伝ってルークの服を濡らすそれにマリィが気づいてしまうと、堰を切ったようにその涙は止まらなくなった。

やがて肩を震わせ、嗚咽混じりになる涙。マリィはルークを抱きしめたまま泣いていた。

マリィの背中をさするルークの手がとても温かった。

「マリィ、泣かないで。僕、大丈夫だよ?」

「えぇ、大丈夫だわ……本当に。
ルーク、これは嬉し泣きよ。
貴方が無事。それが一番嬉しいの……」

日が沈むまでマリィは泣き続けた。ルークを抱いていつまでも。


そんなマリィの背中をセロンはずっと見ていた。
だが、その顔は何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。

「……兄様に聞かないとな。今後どうするつもりなのか……彼女をどうしたいのか。もし可能性が少しでもあるのなら……」

夜の空気に移り変わりゆく世界で、彼の呟きは煙のように溶けていった。

















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