その婚約破棄、今すぐに承諾いたしますわ。

ツナ

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「……それで、どこから手をつけるつもりだ?」

部屋の入り口に腕組みをして寄りかかり、キース公爵が面白そうに聞いてくる。

目の前には、天井まで届きそうな書類の山脈。

私はハンカチで口元を覆い、埃っぽい空気を手で払った。

「まずは動線の確保です。入り口からデスクまでの道を切り開きます。でないと、遭難しますので」

「遭難か。あながち冗談に聞こえんな」

「冗談ではありません。この地層、下の方から腐敗臭がします。おそらく食べ残しのサンドイッチか何かが化石化しているのでしょう」

私はスカートの裾をまくり上げ、紐で縛った。

令嬢としてはあるまじき格好だが、今は戦場だ。

なりふり構っていられない。

「おい、マーサさん! いますか!」

廊下に向かって声を張り上げると、先ほどのメイド長が不機嫌そうな顔で現れた。

「……なんでしょう。大声を出さないでいただけますか」

「掃除用具一式を持ってきてください。箒、塵取り、雑巾、バケツ、それからゴミ袋を五十枚ほど。あと、マスクと軍手も」

「はあ? 貴女、自分で掃除をするつもりですか? 使用人に任せれば……」

「任せた結果がこれですよね?」

私は書類の山を指差した。

「この惨状を放置していたあなた達に、重要書類の分別ができるとは思えません。私がやります。道具だけ持ってきてください。……三十秒以内に」

「さ、三十秒!? 無理をおっしゃらないで!」

「二十九、二十八……」

私がカウントダウンを始めると、マーサは顔を真っ赤にして走り去った。

「……お前、あのお局のマーサを顎で使うとはな」

キースが感心したように口笛を吹く。

「使うも何も、必要なリソースを要求しただけです。……さて、公爵様」

私はキースに向き直った。

「貴方にも働いていただきます」

「俺が?」

「はい。この書類の山、『要る』か『要らない』かの最終判断は貴方にしかできません。私が分別して貴方に投げますので、一秒で判断してください」

「……俺は公爵だぞ。掃除の手伝いなど……」

「借金五億の債権者様ですよね? 早く元本を回収したいなら、労働環境の整備に協力してください。この部屋が片付かない限り、私は一銭も稼げません」

キースは少しだけ目を丸くし、それからくっくと喉を鳴らして笑った。

「いいだろう。そこまで言うなら付き合ってやる」

数分後。

戻ってきたマーサたちが持ってきた道具をひったくり、私は猛烈な勢いで作業を開始した。

「はい、これ! 決裁済み書類!」

「保管」

「これ! 隣国からの招待状、期限切れ!」

「廃棄」

「これ! 謎の暗号文!」

「……ああ、俺が暇つぶしに書いた落書きだ」

「廃棄!!」

バサッ、バサッ、と紙が舞う。

私の手は残像が見えるほどのスピードで動いていた。

アレン王子の下で鍛えられた事務処理能力が火を吹く。

「おい、ちょっと待て。それはまだ読んでない」

「タイトルだけで中身が分かります。『予算増額のお願い』。中身スカスカの定型文です。却下でいいですね?」

「……お前、透視能力でもあるのか」

「経験則です。……次! これ!」

一時間経過。

部屋の入り口からデスクまで、獣道のような一本の通路が開通した。

私は額の汗を拭い、埃まみれになった顔でキースを見上げた。

「……ふぅ。第一段階、クリアです」

キースは、私が積み上げた「廃棄処分」の山の高さを見て、呆れたような表情をしていた。

「……お前、本当に人間か? 魔導具仕掛けの自動人形(オートマタ)じゃないのか?」

「燃料(食事)とメンテナンス(睡眠)が必要な生身の人間です。……あ、そういえば」

私はふと思い出したように、キースに尋ねた。

「雇用契約の詳細を詰めていませんでしたね。私の給与、いくらに設定されていますか?」

「給与?」

キースは怪訝な顔をした。

「借金のカタに連れてきたと言ったはずだが」

「ええ。ですが、借金返済のためには収入が必要です。私がタダ働きをしたら、いつまで経っても五億は減りません」

「……衣食住は保証すると言っただろう」

「それは生活保障です。労働対価とは別です。私の事務官としての月給を設定し、そこから生活費を差し引いた分を返済に充てる。それが筋でしょう」

私はキースに詰め寄った。

金の話になると、私は距離感を喪失する悪癖がある。

キースがソファに座っているその足の間に踏み込み、上から覗き込むような体勢になった。

「公爵様。貴方は私を五億で買った。それは認めます。ですが、それは私の『所有権』ではなく、『独占労働契約権』を買ったに過ぎません」

「……ほう」

キースは背もたれに体を預け、私を見上げた。

その瞳が、妖しく光る。

「随分と生意気な奴隷だな」

「奴隷ではありません。社員です」

「違いがあるのか? ……俺は五億払ったんだぞ。普通なら、そうだな……」

キースが不意に手を伸ばし、私の腰を引き寄せた。

「っ!?」

バランスを崩した私は、キースの膝の上に倒れ込みそうになる。

寸前で踏ん張ったが、顔の距離は数センチ。

整いすぎた彼の顔が目の前にある。

冷たい氷の香りがした。

「『体で払う』くらいの覚悟はしてきているんだろうな? ノワル」

低く、甘い声。

耳元で囁かれれば、普通の令嬢なら腰を抜かして顔を赤らめるところだ。

マーサたちが噂していた「夜伽」とはこのことか。

彼は私を試している。

この状況で、私がどう反応するかを。

私はキースの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

そして、真顔で答えた。

「――ええ、そのつもりですが?」

キースの動きが止まる。

「……なに?」

「ですから、『体で払う』つもりだと言っています。事務仕事というのは、貴方が思っている以上に肉体労働(フィジカルワーク)ですので」

私は指を折りながら解説を始めた。

「一日平均一万回の押印作業による上腕二頭筋の酷使。広大な屋敷を走り回る脚力の消耗。そして膨大な計算による脳のカロリー消費。これらは全て、私の『体』を使った労働です」

「……」

「つまり、労働=肉体の切り売りです。私は今まさに、全身全霊を持って体で支払っている最中ですが、何かご不満でも?」

キースはポカンと口を開け、数秒間、瞬きをした。

そして、私の腰から手を離し、顔を覆って肩を震わせ始めた。

「……く、くくっ……ははははは!」

いきなり爆笑し始めた公爵に、私は眉をひそめた。

「何がおかしいのですか」

「いや、最高だ。お前、本当に最高だよ」

キースは涙目になりながら笑った。

「『体で払え』と言われて、筋肉とカロリーの話を始めた女は、お前が初めてだ」

「事実を述べたまでです。……で、腰を離していただけますか? 作業の邪魔です」

「ああ、すまん。……だが、分かった」

キースは笑いを収めると、真剣な眼差しで私を見た。

「お前の言い分を認めよう。お前は俺の奴隷でも愛人でもない。……『事務官』として雇う」

「言質、取りました」

「給与は王宮の事務次官クラス……いや、その倍出そう。そこから生活費を引き、残りを返済に充てる。それでいいか?」

「倍!? ……交渉成立です!」

私はガッツポーズをした。

王宮の事務次官の倍といえば、かなりの高給取りだ。

これなら、計算上……二十年くらいで完済できるかもしれない!

(三十代で自由になれる! いける!)

私のモチベーションは急上昇した。

「さあ、そうと決まれば残業再開です! 公爵様、休んでいる暇はありませんよ! 次はあの『化石化したサンドイッチ』の発掘作業です!」

「……俺もやるのか?」

「当然です。貴方の食べ残しでしょう!」

私はキースの手を引いて立たせた。

公爵の手を引くなど不敬極まりないが、今の私にとって彼は『上司』であると同時に『作業員B』だ。

キースは苦笑しながらも、素直に従った。

「やれやれ。とんでもない現場監督を雇ってしまったな」

そう言いながらも、彼の手は書類の山へと伸びた。

こうして、愛人契約の危機(?)を物理的解釈で回避した私は、ついにこの「汚部屋」の深部へと到達することになる。

そこで私が発見したものは、腐ったサンドイッチよりもさらに恐ろしい、この国の「闇」だった。

「……公爵様」

「なんだ、今度は」

「なぜ、国家最高機密の『スパイ名簿』が、コースター代わりに使われてコーヒーの染みがついているのですか?」

「……机の上に置く場所がなくてな。手近にあった紙を使った」

「……一度、殺してもいいですか?」

「反省している」

前途多難。

私の借金返済ロードは、まだ始まったばかりである。
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