その婚約破棄、今すぐに承諾いたしますわ。

ツナ

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「……公爵様。七枚目、計算ミスです」

「む……どこだ」

「ここです。兵站(へいたん)輸送費の減価償却費が抜けています。馬車は消耗品ですよ」

「チッ、忘れていた。……修正する」

「あと、こちらの『夜会用スーツ新調費』。却下です」

「なぜだ! 公爵として身嗜みは必要経費だろう!」

「先月、三着も作っていますよね? 体は一つしかないのに、そんなに布を巻き付けてどうするんですか。既存のものを着回してください。クリーニング代なら出します」

「……鬼か、お前は」

「事務官です」

カッカッカッ……と、万年筆が紙を走る音だけが、執務室にリズミカルに響く。

あれから三日。

私とキース公爵は、完全に「仕事のゾーン」に入っていた。

掃除によって環境が改善された執務室は、驚くほど快適だった。

どこに何があるか一目で分かる棚。

整理されたデスク。

そして何より、私の(口うるさい)サポートにより、キースの書類処理速度は以前の三倍に跳ね上がっていた。

コンコン。

控えめなノックの音がして、メイド長のマーサが入ってきた。

手には銀のトレイを持っている。

「失礼いたします。旦那様、ノワル事務官様。三時のお茶をお持ちしました」

マーサの態度は、三日前とは雲泥の差だ。

特に私に対しては、「事務官様」と敬称付きで呼び、最敬礼で接してくる。

どうやら、あのゴミ屋敷を一掃したことで、私は彼女の中で「掃除の女神」か何かに昇格したらしい。

「そこに置いてくれ」

キースが書類から目を離さずに指示する。

マーサは手早くテーブルにお茶のセットを並べ、一礼して下がっていった。

ふわりと漂う、上質な紅茶の香り。

私は手を止めて、凝り固まった首を回した。

「……休憩にしましょうか。効率が落ちてきました」

「そうだな」

キースもペンを置き、眉間を揉んでいる。

私たちはソファへと移動した。

テーブルの上には、湯気を立てる紅茶と、そして――

「……これは?」

私は目の前に置かれた皿を指差した。

そこには、宝石のように色鮮やかなマカロンと、金箔が乗ったチョコレートケーキが鎮座していた。

どう見ても、市井のケーキ屋で売っているレベルではない。

王室御用達の高級店『ラ・ルネ』の箱が横に見える。

「菓子だ。見れば分かるだろう」

「いえ、物体の名称を聞いているのではありません。なぜ、私の前にこの『高カロリー・高コスト物体』が置かれているのか、その意図を聞いているのです」

私は胡乱(うろん)な目でキースを見た。

「まさか、餌付けですか?」

「……は?」

「甘いもので手懐けて、さらに過酷な労働を強いるつもりですね? 言っておきますが、私はチョロくありませんよ。お菓子一つで尻尾を振ると思ったら大間違いです」

キースは呆れたように息を吐き、紅茶を一口飲んだ。

「……考えすぎだ。ただの差し入れだ」

「差し入れにしては高級すぎます。このマカロン一つで、平民の三日分の食費に相当しますよ。裏があるに決まっています」

「お前な……素直に『ありがとう』と言えないのか」

「タダより高いものはない。私の家訓です」

私が頑なに手を伸ばそうとしないと、キースは不機嫌そうにマカロンを摘み上げ、私の口元に突きつけた。

「いいから食え。糖分補給も仕事のうちだ」

「むぐっ……!?」

強引に押し込まれた。

口の中に、サクッとした食感と、濃厚なピスタチオの香りが広がる。

甘い。けれど、くどくない。

絶妙なバランスのクリームが舌の上で溶けていく。

(……美味しい)

悔しいけれど、絶品だった。

私の脳内で、枯渇していたブドウ糖が一気に補充されていくのが分かる。

「……どうだ」

「……悪くありませんね。血糖値の上昇を確認しました。脳の回転数が回復しています」

「なら残りのケーキも食え」

キースは自分の皿に乗っていたケーキまで、私の前にスライドさせてきた。

「え? 公爵様は召し上がらないのですか?」

「俺は甘いものが苦手だ」

「は?」

「味がくどい。見ているだけで胸焼けがする」

キースは顔をしかめて、ブラックコーヒーを飲んだ。

私は眨(しばた)いた。

「……じゃあ、なんでこんな高級菓子を用意させたんですか?」

「来客用の手土産として貰ったものだ。消費期限が近いから、誰かが処理しなければならん」

「つまり、私は『生ゴミ処理機』扱いということですか?」

「『有効活用』と言え。捨てるのはもったいないだろう。お前はドケチだし、甘いものは好きそうだからな」

キースはツンとそっぽを向いた。

なるほど。

甘いものが苦手な自分の代わりに、甘党(に見えたらしい)私に処理させようという合理的判断か。

それなら納得だ。

変な下心があるより、よほど信用できる。

「分かりました。食品ロス削減の観点から、私が責任を持って処分させていただきます」

私はフォークを手に取り、チョコレートケーキに向き合った。

濃厚なガトーショコラ。

一口食べると、ビターなカカオの風味が鼻に抜ける。

「……ん」

思わず頬が緩んだ。

美味しいものを食べると、人間はどうしても顔がにやけてしまう。

これは生理現象だから仕方ない。

私が幸せそうに(本人は真顔のつもりだが)ケーキを頬張っていると、ふと視線を感じた。

顔を上げると、キースが頬杖をついて、じっとこちらを見ていた。

その目は、珍しい動物でも観察するような、あるいはもっと別の……柔らかな光を帯びていた。

「……なんですか。人の食事風景をジロジロ見ないでください。減ります」

「見ても減らん。……お前、そんな顔もするんだな」

「どんな顔ですか」

「いつも眉間に皺を寄せて電卓を叩いている顔しか見ていなかったからな。……餌付けした甲斐があったというものだ」

「餌付けではありません。廃棄物処理です」

「はいはい、そうだな」

キースは楽しげに笑った。

この男、最近よく笑うようになった気がする。

初対面の時の「絶対零度の氷像」はどこへ行ったのか。

「……ところで、公爵様」

「なんだ」

「口の端にクリームがついていますよ」

私は自分の口元を指差して指摘した……つもりだったが、キースはキョトンとしている。

「俺か?」

「いえ、私につくわけが……」

言いかけて、私は気づいた。

私の口元だ。

慌ててナプキンで拭おうとすると、キースの手が伸びてきた。

彼の親指が、私の唇の端を無造作に拭う。

「っ……!?」

冷たい指の感触。

心臓が、ドクンと跳ねた。

「……ついていたのはお前だ、ノワル」

キースは私の唇から拭い取ったクリームを、ペロリと自分の舌で舐め取った。

「あ」

「……ふむ。確かに、悪くない味だな」

彼は妖艶に微笑んだ。

私はカッと顔が熱くなるのを感じた。

な、ななな、何をしているんだこの男は!

それは間接……いや、ほぼ直接的なアレではないか!

「不潔です! セクハラです! 追加料金を請求します!」

私は真っ赤になって叫んだ。

キースはきょとんとして、それから意地悪くニヤリとした。

「減るもんじゃないだろう」

「精神的衛生が減ります! 今の行為は『事務官への不適切な身体的接触』として記録しましたからね!」

「厳しいな。……だが、甘いものが苦手な俺でも、これくらいなら食えるかもしれん」

「……っ!」

意味深なセリフに、私は言葉を失った。

この公爵、天然なのか確信犯なのか分からないところがタチが悪い。

私は咳払いをして、無理やり話題を変えた。

「……そ、それより! 仕事の話です!」

「まだ休憩時間だぞ」

「休憩終了です! カロリーは摂取しました! 働いてください!」

私は空になった皿を押しやり、強引に立ち上がった。

動揺を隠すには、仕事に没頭するのが一番だ。

「公爵様。先ほどの兵站輸送費の件ですが、業者との癒着の疑いがある見積書が一枚ありました」

「ほう?」

「単価が相場の二割増しです。担当者の名前は『バロン男爵』。……これ、切りますか?」

私は悪役令嬢モード全開の冷徹な声色を作った。

すると、キースも瞬時に「仕事の顔」に戻る。

その切り替えの速さは、さすが「裏の宰相」だ。

「バロンか。あいつは古狸だ。切るなら証拠が必要だな」

「証拠なら、裏帳簿のコピーと思われる紙片が、ゴミ箱(という名の書類の山)から発掘されています」

「……お前、ゴミの中からそんなものまで見つけたのか」

「情報は宝です。ゴミの分別は徹底しましたから」

私はニヤリと笑った。

「この証拠を使って、値下げ交渉どころか、過去の過払い金まで巻き上げてやりましょう。浮いた予算で、執務室の空調設備を最新式にリフォームします」

「……お前を敵に回さなくて本当に良かったと思うよ」

キースは苦笑しながら、しかしその瞳には信頼の色が浮かんでいた。

「毒を食らわば皿まで、か。……いいだろう、ノワル。その毒舌と計算高さ、存分に振るえ。俺のために」

「貴方のためではありません。私の給与と返済のためです」

「違いない」

私たちは顔を見合わせて、小さく笑った。

甘いお菓子の余韻と、ピリッとした毒舌のスパイス。

奇妙なティータイムは終わり、私たちは再び「紙の戦場」へと戻っていく。

借金完済まで、あと四億九千九百九十万ゴールド(概算)。

道のりは遠いが、少なくとも糖分は足りている。

「さあ、公爵様。バロン男爵を血祭りにあげますわよ!」

「言い方を変えろ。……『監査』だ」

こうして、私たちの「悪巧み」にも似た財政改革は、加速していくのだった。
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