その婚約破棄、今すぐに承諾いたしますわ。

ツナ

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「グランディール公爵閣下、ならびにノワル・ヴァレンタイン嬢、ご入場!」

衛兵の張りのある声と共に、大広間の重厚な扉が左右に開かれた。

瞬間、煌びやかな光と音楽、そして数百人の貴族たちの喧騒が押し寄せてくる……はずだった。

しかし、現実は違った。

私たちが足を踏み入れた瞬間、会場は水を打ったように静まり返ったのだ。

まるで、時間が止まったかのように。

全ての視線が、私たち二人に突き刺さる。

「(……おい、あれを見ろ。グランディール公爵だ)」

「(相変わらず、空気が凍るような威圧感ね……)」

「(隣にいるのは? まさか、あの婚約破棄された……?)」

「(なんて美しい……いや、禍々しいほどの美貌だわ)」

さざ波のような囁き声が広がる。

私はキースの腕に手を添え、背筋を伸ばしてレッドカーペットを歩いた。

コルセットのおかげで姿勢は完璧だ。

内心では酸欠で死にそうだが、顔には「余裕の冷笑」を貼り付けておく。

「……公爵様。視線が痛いですね。見物料を徴収したい気分です」

私が口を動かさずに囁くと、キースも前を向いたまま小さく答えた。

「好きにしろ。だが見ろ、モーゼの海割りのようだぞ」

確かに、私たちが進む先々で、貴族たちが恐れをなして道を空けていく。

「氷狼」と「悪役令嬢」。

この組み合わせは、平和ボケした貴族たちには刺激が強すぎるらしい。

「……あら、美味しそうなローストビーフ」

私の目は、貴族たちではなくビュッフェ台の肉に釘付けだった。

「あの肉の厚み……推定ランクAの最高級牛ですね。一切れで金貨一枚分でしょうか。元を取るには、最低でも五切れは食べる必要があります」

「……この状況で食い物の計算か。お前の神経はどうなっている」

「胃袋と財布は直結していますから」

そんな軽口を叩きながら、会場の中央付近まで進んだ時だった。

「――よくもまあ、のこのこと顔を出せたものだな!」

聞き覚えのある、そして聞くたびにイラっとする甲高い声が飛んできた。

人の波が割れ、そこから一組の男女が進み出てくる。

金髪に派手な王族の正装を纏ったアレン王子。

そして、その腕にまとわりつくようにしがみついている、ピンク色のフリルドレスを着たミナ男爵令嬢。

役者は揃った、というわけだ。

私は立ち止まり、扇を広げて口元を隠した。

「ごきげんよう、アレン殿下。そしてミナ様。本日のパーティ、予算超過の匂いがプンプンしますわね」

「貴様……! いきなり金の嫌味か!」

アレンは顔を歪めた。

以前よりも少し痩せた気がする。目の下にクマもあるようだ。

(……ふむ。私の予想通り、公務の負担が彼にのしかかっているようね)

私が抜けた穴は大きかったはずだ。

ざまあみろ、と言いたいところだが、国の行政が滞るのは納税者として困る。

「ノワル様……」

ミナが潤んだ瞳で私を見上げ、怯えたようにアレンの背中に隠れた。

「そんな、真っ黒なドレスを着て……まるで喪服みたいですぅ。やっぱり、婚約破棄されたのがショックで、心が闇に染まってしまったんですね……」

その言葉に、周囲の貴族たちが「ぷっ」と吹き出した。

「(確かに、あの色は不吉だわ)」

「(捨てられた女の怨念かしら)」

嘲笑の空気が広がる。

アレンが得意げに鼻を鳴らした。

「ふん、ミナの言う通りだ。華やかな場に相応しくない陰気な姿だな。それに引き換え、今日のミナは春の女神のように可憐だ」

「いやぁん、アレン様ったら」

二人は私の目の前でイチャイチャし始めた。

私は冷静にミナのドレスを分析した。

(……生地は安物の化学繊維、レースは既製品の貼り付け。宝石はガラス玉……総額で金貨十枚もしないわね。予算削減には貢献しているようだけど、王子の婚約者としては安っぽすぎる)

私は扇を閉じ、パチンと音をさせた。

「喪服、とおっしゃいましたか? 勉強不足ですね、ミナ様」

「えっ?」

「黒は全ての色を飲み込む最強の色。そして、最も汚れが目立たない実用的な色です。貴女のような薄い色のドレスは、ワインを一滴こぼしただけで『即廃棄』になりますが、このドレスなら洗って何度でも着回せます。……リサイクル効率が違うのですよ」

「リ、リサイクル……?」

ミナがポカンとする。

アレンが苛立たしげに割り込んだ。

「相変わらず貧乏くさい理屈を! 公爵家に拾われたと聞いたが、どうせメイドか愛人としてこき使われているのだろう? 落ちぶれたものだな、元公爵令嬢!」

「愛人?」

私はキドっと目を剥いた。

「訂正してください。私は『事務官』です。しかも、王宮の事務次官の倍の給与を頂いている、超エリートキャリアウーマンですが?」

「はあ? 事務官だと? 女が事務などできるわけがない!」

「できますよ。現に、貴方が以前『自分でやった』と豪語していた書類仕事、あれ全部私が処理していたわけですし」

「なっ……! そ、それは言うな!」

アレンが慌てて周囲を見回す。

幸い、音楽にかき消されて周囲には聞こえていないようだ。

「とにかく! 貴様がいくら虚勢を張ろうと、幸せな私とミナには勝てない! 見ろ、私たちはこんなに愛し合っているんだ!」

アレンはミナの腰を抱き寄せ、見せつけるようにキスをした。

会場から「キャー」という歓声(と悲鳴)が上がる。

私は真顔でそれを見つめ、キースに小声で尋ねた。

「……公爵様。公衆の面前での猥褻行為は、軽犯罪法に抵触しませんか?」

「王族特権でギリギリセーフだな。……目が腐るが」

キースは氷のような冷たい視線で二人を見ていた。

その冷気に気づいたアレンが、ビクリと肩を震わせる。

「き、キース叔父上……! い、いらしていたのですか」

「叔父と呼ぶな。老けて見える」

キースが一歩前に出ると、アレンとミナは反射的に後ずさった。

「それに、俺の連れに対して随分な口の利き方だな、アレン。俺の『最高の人材』を侮辱することは、この俺への宣戦布告と受け取っていいのか?」

「ひっ……!」

キースから放たれる殺気(物理的に周囲の温度が下がっている)に、アレンは顔面蒼白になった。

「い、いえ! 滅相もございません! ただ、ノワルがあまりに可愛げのないことを言うもので、つい……!」

「可愛げがない? ……そうか?」

キースは私の肩に手を回し、引き寄せた。

「俺には、この毒舌が心地よいがな。お前のような甘ったれた子供には、理解できんだろう」

「ぐっ……!」

アレンは悔しげに唇を噛んだ。

叔父であり、国の実力者でもあるキースには、さすがの王子も頭が上がらないらしい。

そこで、ミナが動いた。

彼女はアレンの袖を引き、上目遣いで囁く。

「アレン様……もう行きましょう。ノワル様たちは、私たちとは住む世界が違うんです。可哀想な人たちなんです……」

「そ、そうだな! ミナの言う通りだ!」

アレンは勢いを取り戻し、私に向かって捨て台詞を吐いた。

「ノワル! せいぜい、叔父上の機嫌を損ねないように必死に働くんだな! 私とミナは、真実の愛で結ばれている! お前のような打算的な女には、一生手に入らない幸せだ!」

二人は鼻高々に去っていった。

その背中を見送りながら、私は深くため息をついた。

「……はぁ。疲れました。あの方々の会話、中身がなさすぎてカロリーの無駄遣いです」

「同感だ。……だが、ノワル」

キースが私の顔を覗き込む。

「悔しくはないのか?」

「何がです?」

「『真実の愛』とやらを見せつけられてだ」

私はキョトンとした。

「真実の愛? ああ、あの『脳内お花畑フィルター』のことですか?」

私は懐中時計を取り出し、時間を確認した。

「愛だの恋だので腹は膨れません。それに、あの二人の関係……私の計算では、賞味期限はあと三ヶ月ですね」

「……根拠は?」

「アレン殿下の浪費癖と、ミナ様の承認欲求。そして、私が抜けたことによる『王家の財政破綻』が顕在化するまでのタイムラグです」

私はニヤリと笑った。

「金が尽きた時、愛が残るかどうか……見ものですね。賭けますか? 私は『泥沼破局』に一万ゴールド」

「……性格が悪いな」

「褒め言葉です」

キースはくっくと笑い、私の背中をポンと押した。

「行くぞ。挨拶回りはこれからだ。……それに、どうやらまだ終わっていないようだぞ」

キースの視線の先。

離れた場所で、ミナが何やらウェイターに耳打ちしているのが見えた。

ウェイターは盆に赤ワインのグラスを載せている。

ミナはこちらをチラリと見て、邪悪な笑みを浮かべた……つもりなのだろうが、私から見れば「これから悪戯します」という看板を掲げているようにしか見えない。

「……なるほど。ベタな手口ですね」

私は瞬時に状況を理解した。

「わざとぶつかって、私のドレスを汚す気だわ」

「避けるか?」

「いいえ。……迎撃します」

私はドレスの裾をわずかに持ち上げた。

「クリーニング代を請求する手間が増えるだけですが、売られた喧嘩です。倍返し、いえ、三倍返しで請求書を送りつけてやりましょう」

「……手加減してやれよ」

「善処します。……死なない程度に」

音楽がワルツに変わる。

優雅な舞踏会の裏で、ドケチ事務官と白百合系ヒロインの、仁義なき戦い(第二ラウンド)が始まろうとしていた。
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