その婚約破棄、今すぐに承諾いたしますわ。

ツナ

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「……来ますよ、公爵様。三時の方向より、敵影確認」

私は扇の陰から冷静に実況した。

人混みを縫って近づいてくるのは、なみなみと赤ワインが注がれたグラスを持ったミナ男爵令嬢。

その足取りは、わざとらしいほどふらついている。

「ターゲット、私。攻撃手段、ワインによる汚損攻撃。および『ぶつかられた』という冤罪(えんざい)の付与」

「……迎撃態勢は?」

キースがグラスを傾けながら小声で問う。

「万全です。回避ルートの計算完了。損害賠償の請求書フォーマットも脳内で作成済みです」

ミナとの距離、あと五メートル。

彼女は私と目が合うと、ニタリと口角を上げた。

そして、私の目の前で――

「きゃあっ! 足がもつれて……!」

ド派手な演技とともに、彼女は躓(つまず)くフリをして、持っていたワイングラスを私の方へと放り投げた。

中身の赤い液体が、物理法則に従って放物線を描き、私の漆黒のドレスへと迫る。

周囲の貴族たちが「あっ」と息を呑んだ。

――勝った。

私は内心でガッツポーズをした。

「遅い」

私はヒールを軸に、半歩だけ優雅に身を引いた。

最小限の動き。

まるでダンスのステップのように。

バシャアアアアッ!!!

ワインの飛沫(しぶき)は私の鼻先数センチを通過し、私の背後にあったもの――王城の床に敷かれた、純白の高級絨毯へと着地した。

そして、勢い余ったミナ自身も。

「ぶべっ!?」

カエルの潰れたような声を上げて、ミナは顔面から絨毯にダイブした。

赤ワインの海に、ピンク色のドレスが突っ込む。

「あらあら、ミナ様。大丈夫ですか?」

私は扇を閉じ、見下ろす形で声をかけた。

「きゃ……っ、痛ぁ……」

ミナはワインまみれになった顔を上げ、涙目で私を睨みつけた。

そして、予定通りのセリフを叫ぶ。

「ひ、ひどいですノワル様! いきなり足を引っ掛けて、突き飛ばすなんて!」

会場がざわめく。

「(えっ、突き飛ばしたのか?)」

「(いや、ノワル嬢は動いていなかったように見えたが……)」

遠巻きに見ていた人々は、一瞬の出来事に判断がつかないようだ。

そこに、騒ぎを聞きつけたアレン王子が駆け寄ってきた。

「ミナ! 大丈夫か! ……貴様、ノワル! またミナをいじめたのか!」

アレンは状況も確認せず、反射的に私を怒鳴りつけた。

「信じられん! 公衆の面前で暴力を振るうとは! やはり貴様は悪毒な女だ!」

「……アレン殿下。現場検証もせずに犯人扱いとは、相変わらず捜査能力が欠如しておられますね」

私は呆れてため息をついた。

「暴力? 言いがかりはおやめください。私は一指たりとも触れていません」

「嘘をつくな! ミナがこうして泣いているじゃないか!」

「被害者が泣いていれば加害者が確定するなら、裁判所は要りませんね」

私は冷ややかに言い放ち、そして床を指差した。

「見てください、この絨毯の惨状を」

真っ白な絨毯に、どす黒い赤ワインのシミが広がっている。

「これは東方の島国から輸入された、最高級のシルク絨毯です。推定価格、金貨三千枚」

「……は?」

「私が避けたから良かったものの、もし私のドレスにかかっていたら、ドレスの代金も含めて被害額は倍増していました。私が避けたことで、損害は絨毯だけに抑えられた。……つまり、私は王家の財産を守るために最善の行動をとったのです」

「なっ、何を訳のわからないことを!」

「訳ならあります。ミナ様、貴女が転んだのは、自分のドレスの裾が長すぎて踏んづけたからです。証拠に、貴女のドレスの裾に靴跡がついていますよ」

私が指摘すると、ミナは慌てて自分の足元を見た。

そこにはくっきりと、泥のついた靴跡が。

「あ……」

「自損事故ですね。……さて、ここで問題です」

私は電卓を取り出すフリをして、指を立てた。

「この絨毯のクリーニング代、および張り替え費用。誰が負担すべきでしょうか?」

「そ、それは……」

アレンが口ごもる。

王族の所有物に対する損害。

通常なら、不敬罪も含めて厳重な処罰対象だ。

「っ……だ、だが! ミナは貴様に驚かされて転んだんだ! 原因は貴様にある!」

「驚かされた? 私はただ立っていただけですが。私の存在自体がホラーだとでも?」

「そうだ! その黒いドレスと死んだような目が怖いんだ!」

「主観による言いがかりですね。法的根拠が薄弱です」

私が一歩踏み出すと、ミナはワインまみれのまま後ずさった。

「うぅ……アレン様ぁ……」

このまま泥仕合になるかと思われた、その時。

「――見苦しいぞ、アレン」

絶対零度の声が、頭上から降り注いだ。

キース公爵だ。

彼は私とアレンの間に割って入り、冷たい瞳で甥である王子を見下ろした。

「キ、キース叔父上……」

「俺は見ていた。その女が勝手に転び、勝手にワインをぶちまけたのをな。……ノワルは微動だにしていなかった。ただ『避けた』だけだ」

「で、ですが……!」

「俺の証言を疑うのか?」

キースの全身から、凄まじい威圧感が放たれる。

周囲の貴族たちが、恐怖で青ざめて震え上がった。

「裏の宰相」の睨み一つで、国家予算が動くと言われる男だ。

ただの王子ごときが敵う相手ではない。

「い、いえ! 滅相もございません!」

アレンは即座に折れた。

「なら、結論は出たな」

キースは無表情に告げた。

「絨毯の弁償は、そこの男爵令嬢……および、監督不行き届きである婚約者、アレン。お前たちが払え」

「なっ……!?」

「金貨三千枚だ。……まさか、払えないとは言わんよな?」

アレンとミナの顔色が、赤ワインよりも青ざめていく。

「さ、三千枚……!? そんな大金、今の僕の小遣いでは……!」

「あら、お金がないのですか?」

私がすかさず口を挟んだ。

「王族の方が、たかが絨毯一枚の弁償もできないとは。……世も末ですね」

「ぐぬぬ……!」

「もしお困りでしたら、私が一時的に立て替えてもよろしいですよ? もちろん、利息はいただきますが。トイチで」

「き、貴様ぁぁ……!」

アレンは屈辱に震えながら、ミナの手を引いて立ち上がらせた。

「お、覚えていろ! 後で必ず払ってやる! 行くぞ、ミナ!」

「あ、アレン様……ドレスが……」

ワインまみれのミナは、もはや「春の女神」ではなく「泥酔した酔っ払い」のようだった。

二人は逃げるように会場を去っていった。

その後ろ姿を見送りながら、私は懐から手帳を取り出した。

「……絨毯の弁償代、アレン殿下のツケに追加、と。これでまた一歩、私の隠居生活へ近づきました」

「……お前、本当に転んでもただでは起きないな」

キースが呆れたように、しかしどこか誇らしげに笑った。

「当然です。転んだのはあちらですから。私は利益を拾っただけです」

騒ぎが収まると、楽団が気を取り直して優雅なワルツを奏で始めた。

周囲の貴族たちは、今のやり取りを見て、完全に理解したようだった。

この漆黒の令嬢は、ただの「捨てられた女」ではない。

グランディール公爵の寵愛を受け、かつ王子すらも論破する、正真正銘の「猛獣」であると。

「……さて、ノワル」

キースが私の前に立ち、恭しく手を差し出した。

「掃除は終わった。……次は、ダンスの時間だ」

「ダンスですか。追加料金が発生しますが」

「請求書に書いておけ」

「では、遠慮なく」

私はキースの手を取り、フロアの中央へと進み出た。

彼のリードは完璧だった。

力強く、それでいて強引すぎない。

私たちは滑るように踊り始めた。

漆黒のドレスが旋回し、キースの軍服と溶け合う。

「(……おい、見ろよあのダンス)」

「(完璧だ……息がぴったりじゃないか)」

「(さっきのミナ嬢のへっぴり腰とは格が違うな……)」

周囲からの賞賛の声が聞こえる。

私はキースの肩に手を置き、小声で囁いた。

「……公爵様。ステップが少し早いです。私の歩幅に合わせてください。ドレスが重いんです」

「文句が多いな。……これならどうだ」

キースが速度を緩め、私の腰をぐっと引き寄せた。

顔が近づく。

「……悪くないですね。合格点です」

「ふん。……お前こそ、悪役令嬢にしては軽いステップだ」

「体が資本ですから。毎日の書類運びで鍛えています」

私たちは視線を交わし、不敵に微笑み合った。

アレンとミナの退場、絨毯の弁償、そしてこの圧倒的なダンス。

今夜の舞踏会の主役が誰であるか、もはや誰の目にも明らかだった。

「……ねえ、公爵様」

「なんだ」

「このダンスが終わったら、ビュッフェのローストビーフを確保しに行きます。……全部なくなる前に」

「……お前、本当にローストビーフのことしか考えてないのか」

「花より団子、愛より肉です」

曲が終わる。

私たちはピタリと動きを止め、優雅に一礼した。

万雷の拍手が会場を包む。

それは、私たちが「最強の共犯者カップル」として社交界に認知された瞬間だった。
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