婚約破棄で謳歌するはずが、構ってほしそうにこっちを見てる?

どんぶり

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ガタゴトと馬車に揺られること数時間。


王都の喧騒が遠ざかり、窓の外には見渡す限りの緑と、申し訳程度の未舗装路が広がっている。


「お嬢様、見えてきましたよ。あちらが旦那様……公爵様から指定された『ボロ屋敷』です」


御者台から身を乗り出したアンが、冷めた声で告げる。


私の視線の先に現れたのは、蔦が絡まり、屋根の瓦が数枚行方不明になり、今にも「お化け屋敷へようこそ!」という看板が立っていそうな建物だった。


「……素晴らしいわ、アン」


「はい?」


「見てちょうだい、あの適度な荒れ具合! これなら近所の貴族が茶会を申し込んでくる心配もないし、社交界の噂話もここまで届かないわ!」


私は馬車を飛び降りると、埃っぽい地面に立って深く息を吸い込んだ。


空気はおいしいし、何より「義務」の匂いが全くしない。


「お嬢様、正気に戻ってください。あそこ、たぶん雨漏りしますよ。あと、床を歩くたびに『ギィ……』って鳴ります」


「いいのよ、それくらい。BGMだと思えば風流じゃない? さあ、さっさと荷物を運び込んで、私の聖域(ベッド)を構築しましょう!」


私は意気揚々と屋敷の門をくぐろうとした――その時だった。


庭の隅、手入れの行き届いていない茂みの中から、何かが突き出しているのが見えた。


「……アン、あれ何かしら。切り株?」


「いえ、形からして人間の足ですね。それも、かなり上等なブーツを履いた」


「えっ、死体!? やだ、初日から事故物件なんて聞いてないわよ!」


私は慌てて駆け寄った。


そこには、銀色の髪を地面に散らし、彫刻のように整った顔立ちの男が倒れていた。


泥に汚れてはいるが、着ている服は明らかに高級品だ。


「ちょっと、貴方! 大丈夫!? 死んでるの? 死んでたら労働が発生するから、生きててちょうだい!」


私は必死に男の肩を揺さぶった。


「……う、ううん……」


男がゆっくりと瞼を持ち上げる。


その瞳は、吸い込まれるような深い深い深い蒼色をしていた。


(……うわっ、超絶イケメン。でも、なんか顔色が悪いわね。お腹でも空いてるのかしら)


私は、自分が寝不足とドライアイのせいで「ものすごく不機嫌そうな顔」をしている自覚がないまま、男を覗き込んだ。


男は私の顔を見るなり、目を見開いて硬直した。


「……くっ、刺客か……? ついに、ここまで……」


「は? 刺客? 失礼ね。私は今日からここに住む家主よ。貴方こそ、人の家の庭で勝手に行き倒れないでくれる?」


私は思わず、いつものクセで三白眼を鋭く細めて睨みつけてしまった。


すると、男は頬を微かに染め、呆然とした表情で呟いた。


「……美しい」


「え?」


「その、凍てつくような冷たい瞳。私を蔑み、ゴミを見るような高潔な眼差し……。素晴らしい。これほどまでにクールな女性が、この世に存在したとは……」


「……アン、この人、頭を打ってるみたい。至急、氷と水を」


私が指示を出すと、アンは冷ややかな目で男を見下ろした。


「お嬢様。その必要はなさそうです。この紋章……隣国の『氷の公爵』、アルベルト・フォン・ノイマン閣下で間違いありません」


「氷の公爵? あの、冷酷非道で女嫌いで、近づく者全てを凍りつかせるっていう、あの有名な変人?」


「ええ。どうやら国境付近で賊に襲われ、ここまで逃げてきたようですね」


アルベルトと呼ばれた男は、ふらつきながらも上体を起こした。


そして、私の手を恭しく取り、泥のついた手袋のまま指先に口づけをした。


「名を聞かせてほしい、麗しき氷の女神よ。君のその鋭い一瞥に、私は魂を射抜かれた」


(……いや、これただのドライアイなのよ。あと、眩しいから細めてるだけなんだけど)


私は手を引っこ抜こうとしたが、彼の力は意外にも強かった。


「私はエスター。見ての通り、婚約破棄されて追放されてきた、ただの元悪役令嬢よ。さあ、事情はわかったから、元気になったらすぐに出て行ってちょうだい」


「婚約破棄? 信じられん。あの王子は節穴か。君のような至宝を手放すとは」


「至宝っていうか、ただのニート志望なんだけど……」


「エスター。私には行くあてがない。傷が癒えるまで、ここに置いてはくれないか?」


アルベルトは、その美貌を最大限に活用し、捨てられた子犬のような目で見つめてきた。


「ダメよ。私は一人でのんびり暮らすの。他人の世話なんて、一番の重労働だわ」


「金ならある。私の資産の半分を君に譲ってもいい。食料も、最高の料理人を呼び寄せよう。君は何もしなくていい。ただ、時折その美しい三白眼で私を蔑んでくれれば、それでいいんだ」


(……えっ、何もしなくていい? お金もくれるし、料理人も来る?)


私の脳内計算機が、高速で弾き出された答えを提示した。


『メリット:圧倒的。デメリット:目の前の変人の相手をするだけ。』


私は、今一度男の顔をじっと見つめた。


「……本当に、私、何もしなくていいのね?」


「ああ。君が望むなら、呼吸以外の全てを私が代行してもいい」


「それは流石に死ぬわ。……わかったわ。傷が治るまでよ。その代わり、私の昼寝を邪魔したら即刻叩き出すから」


「感謝する、エスター」


アルベルトは、まるでプロポーズに成功したかのような、輝かしい笑顔を見せた。


こうして、私の「悠々自適なニート生活」の初日に、なぜか隣国の公爵という特大の荷物が加わった。


(まあ、なんとかなるわよね。だって、私はもう自由なんだから!)


私はアンを促し、ボロ屋敷の掃除を始めた。


もちろん、私は指示を出すだけで、実際に動くのはアンと、なぜか張り切って雑巾を握り始めた「氷の公爵」である。


「エスター! この床の汚れ、君の視線のように冷たく拭き取ってみせたぞ!」


「……ハイハイ、すごーい」


私のニートへの道は、どうやら最初から大きく脱線し始めたようだった。
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