2 / 28
2
しおりを挟む
ガタゴトと馬車に揺られること数時間。
王都の喧騒が遠ざかり、窓の外には見渡す限りの緑と、申し訳程度の未舗装路が広がっている。
「お嬢様、見えてきましたよ。あちらが旦那様……公爵様から指定された『ボロ屋敷』です」
御者台から身を乗り出したアンが、冷めた声で告げる。
私の視線の先に現れたのは、蔦が絡まり、屋根の瓦が数枚行方不明になり、今にも「お化け屋敷へようこそ!」という看板が立っていそうな建物だった。
「……素晴らしいわ、アン」
「はい?」
「見てちょうだい、あの適度な荒れ具合! これなら近所の貴族が茶会を申し込んでくる心配もないし、社交界の噂話もここまで届かないわ!」
私は馬車を飛び降りると、埃っぽい地面に立って深く息を吸い込んだ。
空気はおいしいし、何より「義務」の匂いが全くしない。
「お嬢様、正気に戻ってください。あそこ、たぶん雨漏りしますよ。あと、床を歩くたびに『ギィ……』って鳴ります」
「いいのよ、それくらい。BGMだと思えば風流じゃない? さあ、さっさと荷物を運び込んで、私の聖域(ベッド)を構築しましょう!」
私は意気揚々と屋敷の門をくぐろうとした――その時だった。
庭の隅、手入れの行き届いていない茂みの中から、何かが突き出しているのが見えた。
「……アン、あれ何かしら。切り株?」
「いえ、形からして人間の足ですね。それも、かなり上等なブーツを履いた」
「えっ、死体!? やだ、初日から事故物件なんて聞いてないわよ!」
私は慌てて駆け寄った。
そこには、銀色の髪を地面に散らし、彫刻のように整った顔立ちの男が倒れていた。
泥に汚れてはいるが、着ている服は明らかに高級品だ。
「ちょっと、貴方! 大丈夫!? 死んでるの? 死んでたら労働が発生するから、生きててちょうだい!」
私は必死に男の肩を揺さぶった。
「……う、ううん……」
男がゆっくりと瞼を持ち上げる。
その瞳は、吸い込まれるような深い深い深い蒼色をしていた。
(……うわっ、超絶イケメン。でも、なんか顔色が悪いわね。お腹でも空いてるのかしら)
私は、自分が寝不足とドライアイのせいで「ものすごく不機嫌そうな顔」をしている自覚がないまま、男を覗き込んだ。
男は私の顔を見るなり、目を見開いて硬直した。
「……くっ、刺客か……? ついに、ここまで……」
「は? 刺客? 失礼ね。私は今日からここに住む家主よ。貴方こそ、人の家の庭で勝手に行き倒れないでくれる?」
私は思わず、いつものクセで三白眼を鋭く細めて睨みつけてしまった。
すると、男は頬を微かに染め、呆然とした表情で呟いた。
「……美しい」
「え?」
「その、凍てつくような冷たい瞳。私を蔑み、ゴミを見るような高潔な眼差し……。素晴らしい。これほどまでにクールな女性が、この世に存在したとは……」
「……アン、この人、頭を打ってるみたい。至急、氷と水を」
私が指示を出すと、アンは冷ややかな目で男を見下ろした。
「お嬢様。その必要はなさそうです。この紋章……隣国の『氷の公爵』、アルベルト・フォン・ノイマン閣下で間違いありません」
「氷の公爵? あの、冷酷非道で女嫌いで、近づく者全てを凍りつかせるっていう、あの有名な変人?」
「ええ。どうやら国境付近で賊に襲われ、ここまで逃げてきたようですね」
アルベルトと呼ばれた男は、ふらつきながらも上体を起こした。
そして、私の手を恭しく取り、泥のついた手袋のまま指先に口づけをした。
「名を聞かせてほしい、麗しき氷の女神よ。君のその鋭い一瞥に、私は魂を射抜かれた」
(……いや、これただのドライアイなのよ。あと、眩しいから細めてるだけなんだけど)
私は手を引っこ抜こうとしたが、彼の力は意外にも強かった。
「私はエスター。見ての通り、婚約破棄されて追放されてきた、ただの元悪役令嬢よ。さあ、事情はわかったから、元気になったらすぐに出て行ってちょうだい」
「婚約破棄? 信じられん。あの王子は節穴か。君のような至宝を手放すとは」
「至宝っていうか、ただのニート志望なんだけど……」
「エスター。私には行くあてがない。傷が癒えるまで、ここに置いてはくれないか?」
アルベルトは、その美貌を最大限に活用し、捨てられた子犬のような目で見つめてきた。
「ダメよ。私は一人でのんびり暮らすの。他人の世話なんて、一番の重労働だわ」
「金ならある。私の資産の半分を君に譲ってもいい。食料も、最高の料理人を呼び寄せよう。君は何もしなくていい。ただ、時折その美しい三白眼で私を蔑んでくれれば、それでいいんだ」
(……えっ、何もしなくていい? お金もくれるし、料理人も来る?)
私の脳内計算機が、高速で弾き出された答えを提示した。
『メリット:圧倒的。デメリット:目の前の変人の相手をするだけ。』
私は、今一度男の顔をじっと見つめた。
「……本当に、私、何もしなくていいのね?」
「ああ。君が望むなら、呼吸以外の全てを私が代行してもいい」
「それは流石に死ぬわ。……わかったわ。傷が治るまでよ。その代わり、私の昼寝を邪魔したら即刻叩き出すから」
「感謝する、エスター」
アルベルトは、まるでプロポーズに成功したかのような、輝かしい笑顔を見せた。
こうして、私の「悠々自適なニート生活」の初日に、なぜか隣国の公爵という特大の荷物が加わった。
(まあ、なんとかなるわよね。だって、私はもう自由なんだから!)
私はアンを促し、ボロ屋敷の掃除を始めた。
もちろん、私は指示を出すだけで、実際に動くのはアンと、なぜか張り切って雑巾を握り始めた「氷の公爵」である。
「エスター! この床の汚れ、君の視線のように冷たく拭き取ってみせたぞ!」
「……ハイハイ、すごーい」
私のニートへの道は、どうやら最初から大きく脱線し始めたようだった。
王都の喧騒が遠ざかり、窓の外には見渡す限りの緑と、申し訳程度の未舗装路が広がっている。
「お嬢様、見えてきましたよ。あちらが旦那様……公爵様から指定された『ボロ屋敷』です」
御者台から身を乗り出したアンが、冷めた声で告げる。
私の視線の先に現れたのは、蔦が絡まり、屋根の瓦が数枚行方不明になり、今にも「お化け屋敷へようこそ!」という看板が立っていそうな建物だった。
「……素晴らしいわ、アン」
「はい?」
「見てちょうだい、あの適度な荒れ具合! これなら近所の貴族が茶会を申し込んでくる心配もないし、社交界の噂話もここまで届かないわ!」
私は馬車を飛び降りると、埃っぽい地面に立って深く息を吸い込んだ。
空気はおいしいし、何より「義務」の匂いが全くしない。
「お嬢様、正気に戻ってください。あそこ、たぶん雨漏りしますよ。あと、床を歩くたびに『ギィ……』って鳴ります」
「いいのよ、それくらい。BGMだと思えば風流じゃない? さあ、さっさと荷物を運び込んで、私の聖域(ベッド)を構築しましょう!」
私は意気揚々と屋敷の門をくぐろうとした――その時だった。
庭の隅、手入れの行き届いていない茂みの中から、何かが突き出しているのが見えた。
「……アン、あれ何かしら。切り株?」
「いえ、形からして人間の足ですね。それも、かなり上等なブーツを履いた」
「えっ、死体!? やだ、初日から事故物件なんて聞いてないわよ!」
私は慌てて駆け寄った。
そこには、銀色の髪を地面に散らし、彫刻のように整った顔立ちの男が倒れていた。
泥に汚れてはいるが、着ている服は明らかに高級品だ。
「ちょっと、貴方! 大丈夫!? 死んでるの? 死んでたら労働が発生するから、生きててちょうだい!」
私は必死に男の肩を揺さぶった。
「……う、ううん……」
男がゆっくりと瞼を持ち上げる。
その瞳は、吸い込まれるような深い深い深い蒼色をしていた。
(……うわっ、超絶イケメン。でも、なんか顔色が悪いわね。お腹でも空いてるのかしら)
私は、自分が寝不足とドライアイのせいで「ものすごく不機嫌そうな顔」をしている自覚がないまま、男を覗き込んだ。
男は私の顔を見るなり、目を見開いて硬直した。
「……くっ、刺客か……? ついに、ここまで……」
「は? 刺客? 失礼ね。私は今日からここに住む家主よ。貴方こそ、人の家の庭で勝手に行き倒れないでくれる?」
私は思わず、いつものクセで三白眼を鋭く細めて睨みつけてしまった。
すると、男は頬を微かに染め、呆然とした表情で呟いた。
「……美しい」
「え?」
「その、凍てつくような冷たい瞳。私を蔑み、ゴミを見るような高潔な眼差し……。素晴らしい。これほどまでにクールな女性が、この世に存在したとは……」
「……アン、この人、頭を打ってるみたい。至急、氷と水を」
私が指示を出すと、アンは冷ややかな目で男を見下ろした。
「お嬢様。その必要はなさそうです。この紋章……隣国の『氷の公爵』、アルベルト・フォン・ノイマン閣下で間違いありません」
「氷の公爵? あの、冷酷非道で女嫌いで、近づく者全てを凍りつかせるっていう、あの有名な変人?」
「ええ。どうやら国境付近で賊に襲われ、ここまで逃げてきたようですね」
アルベルトと呼ばれた男は、ふらつきながらも上体を起こした。
そして、私の手を恭しく取り、泥のついた手袋のまま指先に口づけをした。
「名を聞かせてほしい、麗しき氷の女神よ。君のその鋭い一瞥に、私は魂を射抜かれた」
(……いや、これただのドライアイなのよ。あと、眩しいから細めてるだけなんだけど)
私は手を引っこ抜こうとしたが、彼の力は意外にも強かった。
「私はエスター。見ての通り、婚約破棄されて追放されてきた、ただの元悪役令嬢よ。さあ、事情はわかったから、元気になったらすぐに出て行ってちょうだい」
「婚約破棄? 信じられん。あの王子は節穴か。君のような至宝を手放すとは」
「至宝っていうか、ただのニート志望なんだけど……」
「エスター。私には行くあてがない。傷が癒えるまで、ここに置いてはくれないか?」
アルベルトは、その美貌を最大限に活用し、捨てられた子犬のような目で見つめてきた。
「ダメよ。私は一人でのんびり暮らすの。他人の世話なんて、一番の重労働だわ」
「金ならある。私の資産の半分を君に譲ってもいい。食料も、最高の料理人を呼び寄せよう。君は何もしなくていい。ただ、時折その美しい三白眼で私を蔑んでくれれば、それでいいんだ」
(……えっ、何もしなくていい? お金もくれるし、料理人も来る?)
私の脳内計算機が、高速で弾き出された答えを提示した。
『メリット:圧倒的。デメリット:目の前の変人の相手をするだけ。』
私は、今一度男の顔をじっと見つめた。
「……本当に、私、何もしなくていいのね?」
「ああ。君が望むなら、呼吸以外の全てを私が代行してもいい」
「それは流石に死ぬわ。……わかったわ。傷が治るまでよ。その代わり、私の昼寝を邪魔したら即刻叩き出すから」
「感謝する、エスター」
アルベルトは、まるでプロポーズに成功したかのような、輝かしい笑顔を見せた。
こうして、私の「悠々自適なニート生活」の初日に、なぜか隣国の公爵という特大の荷物が加わった。
(まあ、なんとかなるわよね。だって、私はもう自由なんだから!)
私はアンを促し、ボロ屋敷の掃除を始めた。
もちろん、私は指示を出すだけで、実際に動くのはアンと、なぜか張り切って雑巾を握り始めた「氷の公爵」である。
「エスター! この床の汚れ、君の視線のように冷たく拭き取ってみせたぞ!」
「……ハイハイ、すごーい」
私のニートへの道は、どうやら最初から大きく脱線し始めたようだった。
0
あなたにおすすめの小説
私が嫌いなら婚約破棄したらどうなんですか?
きららののん
恋愛
優しきおっとりでマイペースな令嬢は、太陽のように熱い王太子の側にいることを幸せに思っていた。
しかし、悪役令嬢に刃のような言葉を浴びせられ、自信の無くした令嬢は……
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
冤罪をかけられた上に婚約破棄されたので、こんな国出て行ってやります
真理亜
恋愛
「そうですか。では出て行きます」
婚約者である王太子のイーサンから謝罪を要求され、従わないなら国外追放だと脅された公爵令嬢のアイリスは、平然とこう言い放った。
そもそもが冤罪を着せられた上、婚約破棄までされた相手に敬意を表す必要など無いし、そんな王太子が治める国に未練などなかったからだ。
脅しが空振りに終わったイーサンは狼狽えるが、最早後の祭りだった。なんと娘可愛さに公爵自身もまた爵位を返上して国を出ると言い出したのだ。
王国のTOPに位置する公爵家が無くなるなどあってはならないことだ。イーサンは慌てて引き止めるがもう遅かった。
余命3ヶ月と言われたので静かに余生を送ろうと思ったのですが…大好きな殿下に溺愛されました
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のセイラは、ずっと孤独の中生きてきた。自分に興味のない父や婚約者で王太子のロイド。
特に王宮での居場所はなく、教育係には嫌味を言われ、王宮使用人たちからは、心無い噂を流される始末。さらに婚約者のロイドの傍には、美しくて人当たりの良い侯爵令嬢のミーアがいた。
ロイドを愛していたセイラは、辛くて苦しくて、胸が張り裂けそうになるのを必死に耐えていたのだ。
毎日息苦しい生活を強いられているせいか、最近ずっと調子が悪い。でもそれはきっと、気のせいだろう、そう思っていたセイラだが、ある日吐血してしまう。
診察の結果、母と同じ不治の病に掛かっており、余命3ヶ月と宣言されてしまったのだ。
もう残りわずかしか生きられないのなら、愛するロイドを解放してあげよう。そして自分は、屋敷でひっそりと最期を迎えよう。そう考えていたセイラ。
一方セイラが余命宣告を受けた事を知ったロイドは…
※両想いなのにすれ違っていた2人が、幸せになるまでのお話しです。
よろしくお願いいたします。
他サイトでも同時投稿中です。
田舎娘をバカにした令嬢の末路
冬吹せいら
恋愛
オーロラ・レンジ―は、小国の産まれでありながらも、名門バッテンデン学園に、首席で合格した。
それを不快に思った、令嬢のディアナ・カルホーンは、オーロラが試験官を買収したと嘘をつく。
――あんな田舎娘に、私が負けるわけないじゃない。
田舎娘をバカにした令嬢の末路は……。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
そんなに妹が好きなら死んであげます。
克全
恋愛
「アルファポリス」「カクヨム」「小説家になろう」に同時投稿しています。
『思い詰めて毒を飲んだら周りが動き出しました』
フィアル公爵家の長女オードリーは、父や母、弟や妹に苛め抜かれていた。
それどころか婚約者であるはずのジェイムズ第一王子や国王王妃にも邪魔者扱いにされていた。
そもそもオードリーはフィアル公爵家の娘ではない。
イルフランド王国を救った大恩人、大賢者ルーパスの娘だ。
異世界に逃げた大魔王を追って勇者と共にこの世界を去った大賢者ルーパス。
何の音沙汰もない勇者達が死んだと思った王達は……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる