婚約破棄で謳歌するはずが、構ってほしそうにこっちを見てる?

どんぶり

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「……お嬢様。お嬢様。本日は、避けては通れぬ、最大級に『ゴミ』のようなお客様が門前に到着されました」


アンの声が、心地よい昼寝の結界を無慈悲に粉砕する。


私は特注の「沈んだら二度と出られない極上ソファ」に埋もれたまま、片目だけを開けた。


「……アン。ゴミっていうのは、もしかして、あのセミみたいな声で鳴く王子のことかしら?」


「ご明察です。セドリック殿下が、マリア様を連れて『哀れな元婚約者を視察してやる』と息巻いていらっしゃいます。門番の騎士たちが『美しすぎるエスター様の安眠を邪魔するな』と追い返そうとしたのですが、一応は王子ということで手が止まってしまい……」


「……ああ、面倒くさい。あいつ、まだ生きてたのね。執務室の書類に埋もれて、紙の藻屑にでもなればよかったのに」


私は深い溜息をつき、這いずるような動作で起き上がった。


「アルベルトはどうしたの?」


「あの方は今、お嬢様のために『世界で最も静かなカーテン』を買い付けに隣国の市場まで飛んでいっています。すぐに連絡は入れましたが、到着まであと十分はかかるかと」


「そう。なら、さっさと追い払いましょう。私の貴重な午後のお昼寝タイムが、あんな無益な男のために削られるなんて許せないわ」


私はパジャマの上にガウンを羽織り、髪を適当に流したまま、玄関ホールへと向かった。


扉を開けると、そこには派手なマントを翻し、これでもかとばかりに「王族」をアピールしているセドリックと、その隣で相変わらず「健気なヒロイン」を演じているマリアが立っていた。


セドリックは、豪華絢爛に生まれ変わった屋敷の門構えを見て、顔を引きつらせていた。


「な、なんだこれは……! エスター、貴様、領地の果てのボロ屋に住んでいるのではなかったのか!? この金の装飾は、この不自然なほど整った庭園は、一体……!」


私は眩しそうに目を細め、三白眼の奥底から「早く帰れ」という殺意を放った。


「……うるさいわよ、セミ。人の家の前で大声を出さないで」


セドリックがヒッ、と短い悲鳴を上げて後退した。


(……あ、やっぱり。この顔、王子にも効くのね)


「な、なな、なんだその目は! 王族である私を、まるで道端の石ころを見るような……いや、石ころ以下の不燃ゴミを見るような目で!」


「不燃ゴミならまだマシよ。貴方は……そうね、夏の終わりの、ひっくり返って動けなくなったセミね。鳴き声だけは一丁前だけど」


「貴様ぁぁ!」


セドリックが憤慨する横で、マリアが目を輝かせて私を見ていた。


(……あ、マリア様。相変わらず私の大ファンなのね)


彼女はセドリックの腕を掴みながら、わざとらしく震えてみせた。


「セドリック様、怖いですぅ! エスター様のあの三白眼、以前よりさらに鋭さを増して、まるで見つめるだけで魂を凍りつかせる魔女のようですわ! ああ、なんて素敵……じゃなくて、恐ろしいのかしら!」


(マリア様、本音が漏れてるわよ)


私は一歩、セドリックの方へ踏み出した。


「それで? なんの用? まさかとは思うけど、仕事が回らなくなったから助けてほしい、なんて情けないことを言いに来たんじゃないでしょうね?」


セドリックは図星を突かれたのか、顔を真っ赤にして叫んだ。


「だ、誰がそんなことを! 私はただ、貴様がどれほど惨めな生活をしているか確認しに来てやったのだ! だが……なんだこの豪華さは! さては貴様、ヴァリエール家の金を横領したな!?」


「横領なんて面倒なこと、私がすると思う? これは全部、そこの変な……いえ、お隣の国のアルベルト公爵が勝手に置いていったものよ。私はただ、寝ていたいだけなのに」


「アルベルト公爵だと!? あの冷徹な『氷の公爵』が、なぜ貴様のような女に……!」


その時、空気を引き裂くような冷たい突風が吹き抜けた。


「――私のエスターを『貴様のような女』と呼んだのは、どこの不燃ゴミだ?」


屋根の上から、銀髪をなびかせたアルベルトが舞い降りた。


彼は着地するなり、セドリックと私の間に割り込み、氷よりも冷たい眼差しで王子を射抜いた。


「ノ、ノイマン公爵! 貴殿がなぜここに……!」


「ここは私の婚約者……いや、私の『女神』の聖域だ。不潔な言葉を撒き散らす不届き者は、ここで永久凍土のオブジェにしてやってもいいのだが?」


アルベルトの手のひらから、パキパキと氷の結晶が立ち昇る。


セドリックは腰を抜かし、その場にへたり込んだ。


「ひ、ひ、ひぃぃぃ! ま、待て、私は王族だぞ!」


「王族だろうが神だろうが関係ない。エスターの安眠を妨げる者は、私の敵だ」


アルベルトは私の肩に手を置き、恍惚とした表情で囁いた。


「エスター。今の、あの『セミ』を見るような蔑みの眼差し、最高だったよ。私のために、もう一度あの顔をしてくれないか?」


「……嫌よ。疲れるわ」


私はアルベルトの手を払い、セドリックを見下ろした。


「殿下。見ての通り、私は今、とても忙しいの。……寝るのに。用がないなら、そのセミみたいなマントを捨てて、這って王都まで帰ってちょうだい」


「……っ! エスター、覚えていろよ! 貴様、こんな生活が長く続くと思うなよ!」


セドリックはマリアに抱えられながら、這う這うの体で逃げ出していった。


マリアは去り際、私に向かってこっそりと親指を立て、満面の笑みを見せてくれた。


(マリア様、応援ありがとう。でも、もう少し殿下を甘やかして、再起不能にしておいてちょうだいね)


嵐が去り、静寂が戻る。


私は大きく欠伸をし、再びソファへと向かおうとした。


「エスター! 今の欠伸、まるで世界を飲み込む深淵のようだった! 記念に、今の欠伸を象った噴水を作らせよう!」


「……アン。塩。あと、この公爵を外に放り投げて」


「お嬢様、流石に公爵様を投げるのは重労働ですので、無視という名の制裁を加えましょう」


「そうね、それがいいわ……」


私は再び眠りの海へと沈んでいった。


エスター・ド・ヴァリエールのニート道。


元婚約者の乱入すらも、彼女の睡魔の前では、ただの心地よい子守唄に過ぎなかったのである。
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