婚約破棄で謳歌するはずが、構ってほしそうにこっちを見てる?

どんぶり

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「……お嬢様。お嬢様。本日は、隣国のノイマン公爵領から『閣下の安否を確認する』という名目の、非常に口うるさそうな視察団が到着されました」


アンの声が、心地よいまどろみの結界を無慈悲に引き裂く。


私は高級シルクの枕に顔を埋め、抵抗の意を込めて足をバタつかせた。


「……アン。お隣の国の人には、こう伝えてちょうだい。『アルベルトなら、庭で犬の真似でもして遊んでいるから、そのまま連れて帰っていいですよ』って」


「そうしたいのは山々ですが、アルベルト様が『エスターの美しさを我が国の重臣たちにも拝ませ、彼女を次期公爵夫人として認めさせねば!』と張り切って、応接間に案内してしまいました」


「……余計なことを。あの男、本当に余計なことしかしないわね」


私は重い頭を振りながら、よろよろとベッドから這い出した。


鏡を見ると、そこには寝不足と低血圧で、死神も裸足で逃げ出しそうなほど形相の凄まじい私が映っていた。


「……完璧だわ。この顔で睨めば、視察団も三秒で逃げ帰るはずよ」


「お嬢様、それは『威嚇』ではなく、もはや『呪い』の類ですが……まあ、よろしいでしょう。さあ、行きましょうか」


応接間に辿り着くと、そこにはアルベルトと、白髪を厳格に整えた老人――ノイマン公爵家の筆頭家臣、ギュンターが対峙していた。


ギュンターは、豪華に改装された屋敷の装飾を見回し、苦々しげに吐き捨てた。


「閣下! これほどの資金を、他国の、しかも婚約破棄されたような『悪役令嬢』のために注ぎ込むとは、一体何を考えておられるのですか!」


「ギュンター、言葉に気をつけろ。彼女は悪役令嬢ではない。この世に舞い降りた、氷の微笑を忘れた女神だ」


アルベルトが、冷徹な声で(しかし内容は支離滅裂に)反論する。


「笑止千万! 噂では、彼女は傲慢で、怠惰で、他人の婚約を壊すことを愉悦とする魔女だと聞いております。そのような女に、我がノイマン家の宝冠を渡すわけには……!」


ガチャリ。


私がドアを開けた瞬間、室内の温度がさらに五度ほど下がったように感じた。


私は入室するなり、一番大きなソファーにドサリと座り、深く背もたれに沈み込んだ。


そして、三白眼の焦点をギュンターに合わせ、地を這うような掠れ声で言った。


「……誰。うるさいわよ」


ギュンターが、ヒッ、と短い悲鳴を上げて仰け反った。


(……あ、やっぱり。この顔、効くわね)


私は視線を逸らさず、彼をじっと「観察」した。本当は、視点を合わせるのが面倒で凝視してしまっているだけなのだが。


「お、お前が……エスター・ド・ヴァリエールか! この、礼儀知らずな……!」


「……礼儀? そんなもの、昨日の晩ごはんと一緒に食べて消化したわ。……ねえ、貴方。ノイマン家の重臣なのよね?」


「そ、そうだ! 私が認めない限り、閣下との婚姻は――」


「じゃあ、好都合だわ。彼を、今すぐ連れて帰ってちょうだい。ついでに、この屋敷に勝手に持ち込まれた噴水と、百羽の小鳥も全部引き取って」


一瞬、静寂が訪れた。


ギュンターは呆然とし、アルベルトはショックで胸を押さえ、アンは隅っこで茶を啜っている。


「……何だと? 今、何と言った? 閣下を……連れて帰れと?」


「ええ。私は一人で、静かに寝ていたいの。彼がいると、毎朝『おはよう、私の氷雪の女王!』なんて大声で起こされるから、寿命が縮まるわ」


私は嘘偽らざる本音を、最大限の「拒絶」を込めて放った。


すると、ギュンターの表情が劇的に変化した。


「……おお。……おおおお……!」


「……何よ」


「素晴らしい! これほどの……これほどの『無欲』! そして閣下を『うるさい』と一蹴する、その圧倒的な自立心! さらに、このギュンターの威圧を真っ向から受け止め、逆に塵芥を見るような目で一瞥する、その度胸!」


(……。は?)


ギュンターは突然、その場に膝をつき、絨毯に頭を擦りつけた。


「申し訳ございませんでした、エスター様! 私は貴女様を、富と権力に飢えた浅ましい女だと勘違いしておりました! しかし実際は……権力に執着せず、真理(眠り)のみを求める、孤高の哲学者であられたとは!」


「……哲学者?」


「閣下がのめり込むのも無理はございません! これほどまでに『媚び』という概念から遠い女性を、私は八十年の人生で初めて見ました! エスター様、どうか、我が国の歪んだ貴族共に、その冷たい眼光で喝を入れてやってください!」


(いや、喝じゃなくて、ただの眠気なんだけど)


アルベルトが、嫉妬の炎をメラメラと燃やしながらギュンターを突き飛ばした。


「どけ、ギュンター! エスターのその眼差しは私のためのものだ! 勝手に喝を入れられた気になるな!」


「閣下、何を仰いますか! エスター様は我が国の……いや、全人類の至宝です! 今すぐ本国に、彼女のための『安眠特区』を建設する準備をさせます!」


「……アン。これ、どういう状況かしら」


私が助けを求めると、アンは満足げに頷いた。


「お嬢様。どうやら、隣国も一網打尽にされたようですね。おめでとうございます、これで『国際的なニート』としての地位が確立されましたよ」


「……もう、勝手にして」


私は再びソファーの上で目を閉じた。


翌日の隣国の新聞には、『伝説の冷徹令嬢、氷の公爵の重臣を三分で心服させる』というデカデカとした見出しが躍ることになる。


そして王都では、エスターを慕って国を脱出する者が続出し、セドリック王子の執務室は、ついに文字通りの「もぬけの殻」になろうとしていた。
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