「婚約破棄、万歳!本日をもって『完璧な淑女』は廃業いたしますわ!」

どんぶり

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「っ!! な、な、ななな……!!」


ヒルデガルド様は、目を見開いたまま固まっておられました。


その口元には、濃厚なバター味噌のソースが一点、真珠のように輝いています。


「お母様? 大丈夫ですか? やはり、刺激が強すぎましたか?」


オズワルド様が心配そうに身を乗り出します。しかし、ヒルデガルド様はそれに応える余裕もないようでした。


「なんてこと。……なんてことなの、これ……!!」


ガタガタと震える手で、彼女は再びフォークを手に取りました。


今度はマナーもへったくれもありません。魚の身を大きく毟り取ると、これでもかとソースを絡め、口の中へと放り込みました。


「あぁ……!! 口の中で、バターの暴君が私の理性を踏み荒らしていくわ……! 味噌のコクが、逃げ場のない喉の奥を直撃して……!!」


「お母様、食レポの癖が強すぎますわ」


オズワルド様が呆れたように呟きましたが、ヒルデガルド様は止まりません。


「知らなかったわ。魚って、こんなに凶暴な食べ物だったのね。今まで食べていたあの『白い虚無』は何だったの!? 私は、私は……二十年以上も、何を求めてお湯を飲んでいたのかしら!!」


ヒルデガルド様は、最後の一切れを惜しむように食べ終えると、皿に残ったソースをパンで拭い取ろうとして……。


ハッと我に返り、背筋を伸ばしました。


「ゲフッ。……失礼、少し取り乱しましたわ」


「思い切り、げっぷをなさいましたわね、今」


私は、扇で口元を隠しながらニヤリと笑いました。


「さて、ヒルデガルド様。……判定はいかがでしょうか? この『バター味噌の暴力』、お口に合いませんでしたかしら?」


ヒルデガルド様は、頬を赤らめ、スッと視線を逸らしました。


「認めるわ。確かに、味の『破壊力』だけは評価してあげてもいいわ。……ですが! このような下品な食事を公にするわけにはいきません!」


「あら、そうですの?」


「ええ、そうですとも! 我が国の貴族たちは、私の『完璧な健康美』を崇拝しているのです。私が夜な夜なニンニクを摂取しているなどと知れたら、国家の威信に関わりますわ!」


ヒルデガルド様は、厳格な表情を取り戻そうと必死でした。


しかし、その鼻の頭にはまだ、芳醇なバターの香りが染み付いています。


「わかりましたわ。では、私は明日、お父様の元へ帰りましょう。ノースランド公国の方々には、私の料理は『不適切』だったということで……」


私がわざとらしく荷物をまとめる仕草をすると、ヒルデガルド様が「あっ!」と声を上げました。


「ま、待ちなさい」


「はい?」


「その、なによ。貴女の『外交特使』としての役割は、まだ始まったばかりでしょう? ……そう、教育よ。貴女には、私への『徹底的な再教育』が必要だわ」


ヒルデガルド様が、震える声で提案してきました。


「再教育……ですか?」


「ええ。……私の知らない『味の深淵』について、貴女から個別に……そう、人目を避けた場所で、夜な夜な講義を受ける必要があると判断したわ。……わかったかしら!?」


(……つまり、夜食を作れってことですわね)


私は、心の中でガッツポーズをしました。


「承知いたしました、ヒルデガルド様。……では、今夜からさっそく『ズボラ流・深夜の背徳講習』を始めましょうか。……一回目は、揚げたてのチーズポテトなんていかが?」


「チ、チーズ、ぽてと……? 受けて立つわ。……一滴の油も残さず、攻略して見せますわよ!」


ヒルデガルド様の瞳に、王族としての誇りではない、別の「闘志」が宿りました。


その日の深夜二時。


私の自室に、フードを深く被り、周囲を警戒しながら忍び寄る影がありました。


「カナタ、いるかしら?」


「お待ちしておりましたわ、大公妃様。……準備は整っております」


部屋の中には、ミーナが手配した小型の魔導コンロ。そして、その上には黄金色に揚がったポテトが山盛りになっています。


「っ! これね、これが噂の『芋の誘惑』ね……!」


ヒルデガルド様は、シルクの寝巻き姿のまま、床に直に座り込みました。


「さあ、ヒルデガルド様。マナーなんていりません。……手で掴んで、この特製マヨネーズソースをたっぷりつけて……」


「あぁ、神様、お許しください。……はむっ!!」


サクッ、という軽快な音。


「っ! ……ふぅ……あぁ……!! 背徳の味がするわ……! 芋のホクホク感と、この『白い悪魔(マヨネーズ)』の酸味が絡み合って……!!」


「ヒルデガルド様、お声が大きいですわよ。門番にバレますわ」


「構わないわ、今の私はただの、飢えた一匹の牝狼よ……!!」


大公妃様は、一心不乱にポテトを口へ運びました。


かつての妃教育では、夜中に食事をすることなど「死」に等しい大罪でした。


でも、暗い部屋で、ろうそくの火に照らされながら、誰にも内緒で食べる高カロリーな食事。


これ以上の贅沢が、この世にあるでしょうか。


「貴女、本当に恐ろしい子ね」


ヒルデガルド様が、指についた塩を名残惜しそうに舐めながら言いました。


「今まで私を縛っていた『美しさの定義』が、この芋一粒で粉々に砕け散ったわ。……ねえ、次は……次は『お肉』がいいわ。それも、噛むと脂が飛び散るような、野蛮なやつを」


「お任せください、お義母様(仮)。……明日は『極厚バラ肉の照り焼き』をご用意いたしますわ」


「楽しみだわ、師匠」


こうして、私はノースランド公国の最高権力者までもを、ズボラ飯の虜にしてしまったのです。


翌朝。


食堂に現れたヒルデガルド様は、いつになく肌がツヤツヤしており、どこか晴れやかな顔をしていました。


「あら、オズワルド。おはよう。……今日のスープ、少し『味が薄い』わね。厨房に言って、もっとコクのある牛骨を足すように伝えなさい」


「ええっ? 母上、今まで野菜スープ以外は認めないと……」


「人は変わるものよ。……ねえ、カナタさん?」


ヒルデガルド様が私に目配せを送りました。


私は、澄ました顔で紅茶を啜りました。


「ええ。……これからのノースランド公国は、もっと『熱く』なりそうですわね」


リュカオン殿下に見せてあげたいものです。


完璧な淑女を目指して倒れたリリア様と、欲望を開放して美しくなった大公妃様。


本当の幸せがどちらにあるのか、その答えはもう、私の胃袋が知っていました。
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