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「……ふぅ。ごちそうさまでした。まさか、閣下が自ら炭火を起こして鯛を焼く姿を拝むことになるとは思いませんでしたわ」
ヴォルフラム公爵邸の広大な庭園。
夜風が木々を揺らす音と、遠くで跳ねる魚の水の音だけが響く静かな夜です。
お腹はいっぱい。心も、どこかふわふわとしています。
最高級の鯛茶漬けという「胃袋への攻撃」に、私のモブとしての鉄壁の守りが、少しずつ溶かされていくのを感じていました。
「……ミューモ。味は、どうだっただろうか。焦げてはいなかったか?」
カイン様が、少しだけ不安そうに私を覗き込んできました。
戦場では一騎当千の英雄が、焼き魚の出来栄え一つでこれほどまでに揺れ動く。
そのギャップが、最近の私には少しだけ「ずるい」と思えてしまいます。
「完璧でしたわ。皮はパリッと、身はふっくらして……。閣下、騎士団長を引退しても、お茶漬け専門店として生きていけますよ」
「引退はしないが、君専用の料理人になる準備はいつでもできている。……ミューモ、少し歩かないか」
差し出された大きな手。
私は、迷うことなくその手に自分の手を重ねました。
以前のような「連行される」感覚ではなく、自然に身を任せられる温かさが、そこにはありました。
庭園の奥、月明かりが美しく注ぐベンチの前に私たちは止まりました。
カイン様は私の手を離さないまま、まっすぐに私を見つめました。
「……ミューモ。今日まで、私は君を強引に振り回してきた。……それは自覚している」
「……ええ、もう。外堀を埋めるどころか、本丸まで地ならしをされましたからね」
「すまなかった。……怖かったんだ。君が、またあの王子の影に隠れて、私の手の届かない場所へ消えてしまうのではないかと。……君という存在が、あまりにも尊くて、失うことが耐えられなかった」
カイン様の声が、夜の静寂に溶け込むように低く、そして誠実に響きました。
いつもの「独占欲全開」の彼ではありませんでした。
「私は、君の事務能力を愛しているのではない。君が『モブ』だから選んだのでもない。……誰もいない場所で、一人で花を慈しみ、誰も見ていない場所で、人のために汗を流す……。そんな、君自身も気づいていない君の『気高さ』に、私は救われたんだ」
カイン様が、私の指先にそっと唇を寄せました。
「十年前、暗い倉庫で君に手を握られたあの日から、私の世界には君という光しか存在しなかった。……君が自分を『価値のない背景』だと言うたびに、私は自分の無力さを呪った。君に、自分の素晴らしさを教えることができない自分を」
「…………閣下」
「ミューモ。……これは騎士団長としての命令でも、公爵としての契約でもない。……ただの一人の男としての、一生に一度の願いだ」
カイン様は、私の両手を包み込むように握りしめました。
「私を、君の隣にいさせてほしい。……君が静かに過ごしたいなら、私は君を包む静寂になろう。君がお茶漬けを食べたいなら、私は一生、君のために鯛を焼こう。……私のすべてを、君に捧げさせてはくれないか」
カイン様の瞳に、月の光が反射して揺れていました。
そこには、偽りのない、剥き出しの愛情だけが宿っていました。
私は、ゆっくりと息を吐きました。
モブとして生きてきた二十年間。
私は「誰かに必要とされること」を諦め、「誰にも見つからないこと」を幸せだと思い込んできました。
でも。
「……閣下。……私、お茶漬けは自分で作るのも好きなんですよ?」
「……え?」
カイン様が、きょとんとした顔をしました。
「でも。……閣下が焼いてくださるなら、たまには甘えてもいいかなって、思えるようになりました。……私の静かな生活をめちゃくちゃにした責任、一生かけて取ってくださいますか?」
私の言葉に、カイン様の瞳が驚愕に見開かれ、次の瞬間には、溢れんばかりの歓喜で満たされました。
「……ミューモ! それは……つまり……!」
「……はい。私も、閣下の隣なら、少しだけ目立つ人生も悪くないかな……なんて。……あ、でも、週に三日は、誰とも会わない『完全モブの日』を作ってくださいね!」
「毎日でもいい! 君が望むなら、国中の人間を一時的に目隠しさせよう!」
「それは犯罪です! やめてください!」
カイン様は私の言葉が終わるのも待たず、私を力いっぱい抱きしめました。
彼の鼓動が、驚くほど速く、力強く伝わってきます。
「……愛している、ミューモ。私の人生の、唯一の主役」
「……私も。……閣下のこと、それなりに……いえ、かなり……大切に思っていますわ」
夜の風が、優しく私たちを包みました。
悪役令嬢でもなく、ヒロインでもなく。
一人の「元・モブ令嬢」が、世界で一番不器用で情熱的な騎士団長と、新しい物語を書き始めた瞬間でした。
……さて。しんみりした雰囲気はここまでです。
「ところで閣下。結婚式の予算案ですが、先ほどチラリと見えた数字、ゼロが二個ほど多い気がしたのですが。……あれ、明日までに私が修正しておきますね?」
「……っ! ……ああ。……やはり君は、最高の伴侶だ」
感動の涙を流しながら私の事務能力を称賛するカイン様を見て、私は思いました。
……私の「事務処理マシーン」としてのスキルは、どうやら一生、この人の暴走を止めるために使われることになりそうです。
ヴォルフラム公爵邸の広大な庭園。
夜風が木々を揺らす音と、遠くで跳ねる魚の水の音だけが響く静かな夜です。
お腹はいっぱい。心も、どこかふわふわとしています。
最高級の鯛茶漬けという「胃袋への攻撃」に、私のモブとしての鉄壁の守りが、少しずつ溶かされていくのを感じていました。
「……ミューモ。味は、どうだっただろうか。焦げてはいなかったか?」
カイン様が、少しだけ不安そうに私を覗き込んできました。
戦場では一騎当千の英雄が、焼き魚の出来栄え一つでこれほどまでに揺れ動く。
そのギャップが、最近の私には少しだけ「ずるい」と思えてしまいます。
「完璧でしたわ。皮はパリッと、身はふっくらして……。閣下、騎士団長を引退しても、お茶漬け専門店として生きていけますよ」
「引退はしないが、君専用の料理人になる準備はいつでもできている。……ミューモ、少し歩かないか」
差し出された大きな手。
私は、迷うことなくその手に自分の手を重ねました。
以前のような「連行される」感覚ではなく、自然に身を任せられる温かさが、そこにはありました。
庭園の奥、月明かりが美しく注ぐベンチの前に私たちは止まりました。
カイン様は私の手を離さないまま、まっすぐに私を見つめました。
「……ミューモ。今日まで、私は君を強引に振り回してきた。……それは自覚している」
「……ええ、もう。外堀を埋めるどころか、本丸まで地ならしをされましたからね」
「すまなかった。……怖かったんだ。君が、またあの王子の影に隠れて、私の手の届かない場所へ消えてしまうのではないかと。……君という存在が、あまりにも尊くて、失うことが耐えられなかった」
カイン様の声が、夜の静寂に溶け込むように低く、そして誠実に響きました。
いつもの「独占欲全開」の彼ではありませんでした。
「私は、君の事務能力を愛しているのではない。君が『モブ』だから選んだのでもない。……誰もいない場所で、一人で花を慈しみ、誰も見ていない場所で、人のために汗を流す……。そんな、君自身も気づいていない君の『気高さ』に、私は救われたんだ」
カイン様が、私の指先にそっと唇を寄せました。
「十年前、暗い倉庫で君に手を握られたあの日から、私の世界には君という光しか存在しなかった。……君が自分を『価値のない背景』だと言うたびに、私は自分の無力さを呪った。君に、自分の素晴らしさを教えることができない自分を」
「…………閣下」
「ミューモ。……これは騎士団長としての命令でも、公爵としての契約でもない。……ただの一人の男としての、一生に一度の願いだ」
カイン様は、私の両手を包み込むように握りしめました。
「私を、君の隣にいさせてほしい。……君が静かに過ごしたいなら、私は君を包む静寂になろう。君がお茶漬けを食べたいなら、私は一生、君のために鯛を焼こう。……私のすべてを、君に捧げさせてはくれないか」
カイン様の瞳に、月の光が反射して揺れていました。
そこには、偽りのない、剥き出しの愛情だけが宿っていました。
私は、ゆっくりと息を吐きました。
モブとして生きてきた二十年間。
私は「誰かに必要とされること」を諦め、「誰にも見つからないこと」を幸せだと思い込んできました。
でも。
「……閣下。……私、お茶漬けは自分で作るのも好きなんですよ?」
「……え?」
カイン様が、きょとんとした顔をしました。
「でも。……閣下が焼いてくださるなら、たまには甘えてもいいかなって、思えるようになりました。……私の静かな生活をめちゃくちゃにした責任、一生かけて取ってくださいますか?」
私の言葉に、カイン様の瞳が驚愕に見開かれ、次の瞬間には、溢れんばかりの歓喜で満たされました。
「……ミューモ! それは……つまり……!」
「……はい。私も、閣下の隣なら、少しだけ目立つ人生も悪くないかな……なんて。……あ、でも、週に三日は、誰とも会わない『完全モブの日』を作ってくださいね!」
「毎日でもいい! 君が望むなら、国中の人間を一時的に目隠しさせよう!」
「それは犯罪です! やめてください!」
カイン様は私の言葉が終わるのも待たず、私を力いっぱい抱きしめました。
彼の鼓動が、驚くほど速く、力強く伝わってきます。
「……愛している、ミューモ。私の人生の、唯一の主役」
「……私も。……閣下のこと、それなりに……いえ、かなり……大切に思っていますわ」
夜の風が、優しく私たちを包みました。
悪役令嬢でもなく、ヒロインでもなく。
一人の「元・モブ令嬢」が、世界で一番不器用で情熱的な騎士団長と、新しい物語を書き始めた瞬間でした。
……さて。しんみりした雰囲気はここまでです。
「ところで閣下。結婚式の予算案ですが、先ほどチラリと見えた数字、ゼロが二個ほど多い気がしたのですが。……あれ、明日までに私が修正しておきますね?」
「……っ! ……ああ。……やはり君は、最高の伴侶だ」
感動の涙を流しながら私の事務能力を称賛するカイン様を見て、私は思いました。
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