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4.帰還への願い

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「俺……帰れるのか?」

 驚きにかすれた俺の声に、ヴィルヘルムはゆるくかぶりを振った。

「この国では無理だ。熟練の魔法使いが数十人揃って《箒星》の召喚を失敗するようなありさまでは、返還術などとても敵わないだろう。だが、もっと魔法が発達した外国ならば、可能なんだ」

 魔法使いの数が少なく、武器を中心とした戦が主流であるラーフェンは、この世界でもかなりの魔法後進国なのだという。

「以前にも説明したと思うが、当代の大賢者は歴代に比べて魔力量が少ない。このままでは遠からずその身の魔力を使い果たし、この国の結界は消える。逸った魔法使いたちが未熟な召喚魔法を強行するほどに、大賢者の限界は近い」

「けど、俺が喚ばれて、それで――」
 魔力を補給できているじゃないか、と続けようとして、声が詰まった。湿った前髪からぽたりと雫が落ちる。

「アンリのお陰で大賢者の寿命は延びただろう。結界の強度も良好だ。君はあの世話係に一宿一飯などと言っていたが、既にじゅうぶん過ぎるほど報いている」

 蒸気の立ち込める湯殿に、ヴィルヘルムの声はよく通った。

「《箒星の旅人》アンリ・オーカーで居続ける必要はない。君は日本人の大河庵里おおかわあんりだ。忘れるなよ」
「……うん」

 心の整理がつかないまま、俺は小さく頷いた。その不承不承な空気は筒抜けだったようで、ヴィルヘルムは苦い笑みで俺の髪をかき回した。これは忘れてもいいけどな、と前置きして、鍛えられた身体が俺にもたれかかる。

「君の帰還は大賢者の願いでもある」
「えっ、どうして」

 大賢者は、魔力の補助を望んでいなかったということだろうか。

「どんなに時間を稼いだところで、大賢者の交代が行われるのは時間の問題だ。そのときに万が一にも君が巻き込まれることがないように。それだけが当代の気がかりだそうだ」

 どこか投げやりなヴィルヘルムが、俺の頭に顎を載せた。俺はあたたまった息を大きく吐き出す。

「……やっぱり優しいってことじゃないか」
「なあ、日本人ってのは皆そんな考えかたなのか? いまにひどい目に遭うぞ」

 ヴィルヘルムはどこまでも不満そうだった。


 
 ――君はこの世界に転移したばかりで、知らないことが多すぎる。高慢な魔法使いや、愚かな騎士や、いろいろな者から話を聞いて、学んで、考えてくれ。

 俺は湯殿で言われた言葉を、整えられたシーツの上で反芻する。

 ――そして心を決めたら、私の手を取ってほしい。

 あれは心臓が跳ねた。濡れた肌の裸の美青年が至近距離で囁いていい台詞ではなかった。
 騎士の言い回しは、誤解を招きかねないものが多い気がする。

 彼の眼差しはいつも真剣で、まっすぐだから。なおさら。

 ――君は、帰ることを諦めなくていいんだ。

 そう説いたヴィルヘルムはいま、俺の隣で眠っている。長椅子でいいと言われたのだが、俺が無理に寝台に引っ張り上げた。少しでも疲れがとれるほうがいい。

「帰ることを、か……」

 整った顔をした騎士の長いまつげを眺めながら、ぽつりとひとりごちる。

 とつぜんの異世界転移。混乱のうちにたいへんな性交を経験して、この世界で不自由なく生きることができるようになった。その衝撃から、まだ十日も経っていない。

 帰りたい、よりも、知らない世界の歩きかたを教えてもらうので精一杯だった。よくわからないままに死にたくはなかったからだ。

 強い郷愁があるかと訊かれれば、いまはそうでもない気がする。
 たぶん俺は、まだ興奮状態にあるのだろう。

 この剣と魔法の世界で、《箒星の旅人》という希少な存在となった自分。
 それには過激な性体験もセットでついてくるのだが、そこには目をつぶらせてもらって。

 本当に帰れる手段があるなら、多少は安心して冒険できる気がする。

「ありがとう、ヴィル」

 俺は久しぶりに、穏やかな気持ちでまぶたを閉じる。
 これからはちゃんと勉強する、とリコに伝えたら喜ぶだろうな、なんてのんきな想像をしながら。



 湯殿での発言が原因で、あまりにもひどい夜を迎えるはめになったのは、数日後のことだった。
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