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4 新たな客
4-6 昔の歌
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アナイスは花を眺めぼんやりとしていた。
山荘の自室に戻り、本と花を置いて、帽子のリボンを解いた。
水差しに花を活けた後、椅子に座って再び本を手に取った。気分がそわそわと落ち着かず、結局一文字も読めなかった。
そこへ部屋付きの小間使いが戻って来て言った。
「あの、ジュリー様が二階の廊下でお呼びなのですが……」
アナイスは部屋を飛び出した。
尋ね人はすぐに見つかった。廊下の壁に寄りかかったり離れたりしながら、ジュリーはふらふらと歩いていた。
「ジュリー!」
アナイスは慌ててジュリーに駆け寄った。よろけたジュリーの腕をとって、一緒に床にしゃがみ込んだ。ジュリーは目を閉じてがっくりと頭を垂れた。
「ジュリー、ジュリー、しっかりして」
アナイスが青ざめて何度も名前を呼んでいると、後ろから声がかかった。
「アナイス、よかった、あなたがいて」
エヴァンだった。
正餐に出ているはずの二人がなぜここにいるのか。アナイスはますます混乱した。
エヴァンはアナイスと共にジュリーを助け起こすと、肩と膝の下に腕を入れて抱き上げた。
「部屋へ?」
エヴァンはアナイスに尋ねた。階段の方からは、ざわざわと声が聞こえて来た。外出していた客人たちが揃って戻って来たらしい。
「とりあえず、こっちへ」
アナイスは近くの応接間の扉を開けた。人目に付くのは得策ではないと思った。
少し前の舞踏会で、アナイスはパンチ酒を浴びせられて部屋に戻ったことがあった。その時には、彼女は酔っぱらって部屋に帰るのだという、好ましくない噂が立った。
「わかった」
エヴァンがジュリーを抱えて応接間に入り、アナイスは扉を閉めた。
二人でジュリーを長椅子の上に座らせた。ジュリーは両腕でひじ掛けにもたれ、一瞬目を開けたが、また眠るようにして目を閉じてしまった。ジュリーの頬は紅潮していた。
「ジュリー……」
アナイスは側に跪いてジュリーの手をとった。
「たぶん、酔っぱらっているだけだと思う」
冷静なエヴァンの声だった。アナイスは驚いて彼を見上げた。
「水をもらってくる、あなたはジュリーのそばに」
***
「お水……」
「あるわよ、ゆっくりね」
ジュリーはアナイスが差し出した銀色のコップに口をつけるとうれしそうに水を飲んだ。そして、「アナイス、ありがとう」とつぶやくと、また寝入ってしまった。
アナイスはエヴァンを振り返った。
「寝てるのかしら?」
「そう思います」
「昼餐会の場で、何があったの?」
「少し、お酒がすすんだようでした」
「それだけ?」
「それだけです」
明快な答えだった。他に隠し事があるとも思えなかった。
アナイスは拍子抜けした。自分は物事を複雑に考え過ぎていたようだ。
ジュリーの様子は落ち着いていた。アナイスはエヴァンがすすめてくれた椅子に腰かけた。エヴァンも少し離れて座った。彼もまた、しばらくこの場に付き添ってくれるらしい。
少しの沈黙の後でエヴァンが口を開いた。
「ジュリーのことが心配ですか?」
「ええ……友達だもの。不思議ね。ジュリーと友達になりたい人はたくさんいるでしょうに、なぜか私が親友なの」
「ジュリーの方でもそう思っているでしょうね」
そう考えたことはなかった。アナイスが戸惑った様子をみせると、エヴァンが微笑んだ。アナイスもつられて微笑んだ。
「あなたとセドリックも、お友達でしょう?」
「今はそうですが……僕とセドリックは本当に小さい時から一緒だったので、喧嘩ばかりしていて、……どこからよい友人になったのか、今となっては思い出せません」
「ずいぶんな言い方ね」
アナイスは笑った。憎まれ口がきけるのも、仲のよい証拠だと思った。
エヴァンは話題を変えた。
「あなたは歌が嫌いですか?」
「いいえ。なぜ?」
「人前では歌わないようにしているでしょう。でもあなたは本当は歌が好きなはずだと、ジュリーが言うのを聞きました」
「ジュリーが?」
「ええ」
昼餐の席でのことだった。次から次へと話題は変わったし、自分以外の誰も気に留めなかっただろうとエヴァンは思った。
アナイスは少しうつむいた。
「ジュリーが一緒に歌ってくれるのなら平気なんです、でも、独りで歌うのはちょっと……私、ずいぶん昔に失敗していて。……あなたは、歌劇もお詳しいでしょうか?」
アナイスがある歌劇……の名前を挙げると、エヴァンは知っているとうなずいた。練習の伴奏をしたこともあった。
「その中で、ソプラノの女性が歌う有名な歌があるでしょう、主人公を誘惑して、『さあ来て愛しい人、共に夢を見ましょう』……」
「『私の腕の中で、愛に罪はなく、ただ悦びがあるだけ、どうか恐れないで、幸せを知りましょう』……」
アナイスが最初の旋律を声に出し、エヴァンが先の歌詞を続けた。彼は全く迷うことなく、すらすらと読み上げるように歌詞を言った。歌うのに超絶技巧を必要とすることで知られている難曲だった。
「そうそう、その歌」
アナイスは手を打った。
「私が小さい頃その歌が流行っていて、どこかで聞いて覚えたんでしょう、歌の先生の所に行って、試しに何か歌ってごらんと言われたので」
「それで、その歌を歌った?」
「六歳の時のことでした」
子供が歌う歌ではなかった。
「先生もお弟子さんも上手ねと褒めてくれたのですが、一緒にいた母はものすごく怒りまして、それ以来私は歌ってはいけないことになっているんです」
アナイスはできるかぎり感情を込めずに言って、肩をすくめた。言われたエヴァンの反応も穏やかだった。
「それは残念でした。あの難しい曲を歌ったあなたを、お母上は誇りにしたらよかったのに」
軽蔑された様子も、変に同情された様子もなかった。どちらかというと、彼の性格の優しい部分を見た気がした。
アナイスはほっとした。
言い出しにくいことで、今まで黙って来ていて、でも本当は誰かに話してしまいたかったのだと思った。話してしまえば、ただの昔の思い出、その一つにすぎなかった。
エヴァンは立ち上がった。
「セドリックを呼んできます。最愛の人がどこかに消えてしまって、相当あせっている頃でしょうから、ここにいると教えてきます」
山荘の自室に戻り、本と花を置いて、帽子のリボンを解いた。
水差しに花を活けた後、椅子に座って再び本を手に取った。気分がそわそわと落ち着かず、結局一文字も読めなかった。
そこへ部屋付きの小間使いが戻って来て言った。
「あの、ジュリー様が二階の廊下でお呼びなのですが……」
アナイスは部屋を飛び出した。
尋ね人はすぐに見つかった。廊下の壁に寄りかかったり離れたりしながら、ジュリーはふらふらと歩いていた。
「ジュリー!」
アナイスは慌ててジュリーに駆け寄った。よろけたジュリーの腕をとって、一緒に床にしゃがみ込んだ。ジュリーは目を閉じてがっくりと頭を垂れた。
「ジュリー、ジュリー、しっかりして」
アナイスが青ざめて何度も名前を呼んでいると、後ろから声がかかった。
「アナイス、よかった、あなたがいて」
エヴァンだった。
正餐に出ているはずの二人がなぜここにいるのか。アナイスはますます混乱した。
エヴァンはアナイスと共にジュリーを助け起こすと、肩と膝の下に腕を入れて抱き上げた。
「部屋へ?」
エヴァンはアナイスに尋ねた。階段の方からは、ざわざわと声が聞こえて来た。外出していた客人たちが揃って戻って来たらしい。
「とりあえず、こっちへ」
アナイスは近くの応接間の扉を開けた。人目に付くのは得策ではないと思った。
少し前の舞踏会で、アナイスはパンチ酒を浴びせられて部屋に戻ったことがあった。その時には、彼女は酔っぱらって部屋に帰るのだという、好ましくない噂が立った。
「わかった」
エヴァンがジュリーを抱えて応接間に入り、アナイスは扉を閉めた。
二人でジュリーを長椅子の上に座らせた。ジュリーは両腕でひじ掛けにもたれ、一瞬目を開けたが、また眠るようにして目を閉じてしまった。ジュリーの頬は紅潮していた。
「ジュリー……」
アナイスは側に跪いてジュリーの手をとった。
「たぶん、酔っぱらっているだけだと思う」
冷静なエヴァンの声だった。アナイスは驚いて彼を見上げた。
「水をもらってくる、あなたはジュリーのそばに」
***
「お水……」
「あるわよ、ゆっくりね」
ジュリーはアナイスが差し出した銀色のコップに口をつけるとうれしそうに水を飲んだ。そして、「アナイス、ありがとう」とつぶやくと、また寝入ってしまった。
アナイスはエヴァンを振り返った。
「寝てるのかしら?」
「そう思います」
「昼餐会の場で、何があったの?」
「少し、お酒がすすんだようでした」
「それだけ?」
「それだけです」
明快な答えだった。他に隠し事があるとも思えなかった。
アナイスは拍子抜けした。自分は物事を複雑に考え過ぎていたようだ。
ジュリーの様子は落ち着いていた。アナイスはエヴァンがすすめてくれた椅子に腰かけた。エヴァンも少し離れて座った。彼もまた、しばらくこの場に付き添ってくれるらしい。
少しの沈黙の後でエヴァンが口を開いた。
「ジュリーのことが心配ですか?」
「ええ……友達だもの。不思議ね。ジュリーと友達になりたい人はたくさんいるでしょうに、なぜか私が親友なの」
「ジュリーの方でもそう思っているでしょうね」
そう考えたことはなかった。アナイスが戸惑った様子をみせると、エヴァンが微笑んだ。アナイスもつられて微笑んだ。
「あなたとセドリックも、お友達でしょう?」
「今はそうですが……僕とセドリックは本当に小さい時から一緒だったので、喧嘩ばかりしていて、……どこからよい友人になったのか、今となっては思い出せません」
「ずいぶんな言い方ね」
アナイスは笑った。憎まれ口がきけるのも、仲のよい証拠だと思った。
エヴァンは話題を変えた。
「あなたは歌が嫌いですか?」
「いいえ。なぜ?」
「人前では歌わないようにしているでしょう。でもあなたは本当は歌が好きなはずだと、ジュリーが言うのを聞きました」
「ジュリーが?」
「ええ」
昼餐の席でのことだった。次から次へと話題は変わったし、自分以外の誰も気に留めなかっただろうとエヴァンは思った。
アナイスは少しうつむいた。
「ジュリーが一緒に歌ってくれるのなら平気なんです、でも、独りで歌うのはちょっと……私、ずいぶん昔に失敗していて。……あなたは、歌劇もお詳しいでしょうか?」
アナイスがある歌劇……の名前を挙げると、エヴァンは知っているとうなずいた。練習の伴奏をしたこともあった。
「その中で、ソプラノの女性が歌う有名な歌があるでしょう、主人公を誘惑して、『さあ来て愛しい人、共に夢を見ましょう』……」
「『私の腕の中で、愛に罪はなく、ただ悦びがあるだけ、どうか恐れないで、幸せを知りましょう』……」
アナイスが最初の旋律を声に出し、エヴァンが先の歌詞を続けた。彼は全く迷うことなく、すらすらと読み上げるように歌詞を言った。歌うのに超絶技巧を必要とすることで知られている難曲だった。
「そうそう、その歌」
アナイスは手を打った。
「私が小さい頃その歌が流行っていて、どこかで聞いて覚えたんでしょう、歌の先生の所に行って、試しに何か歌ってごらんと言われたので」
「それで、その歌を歌った?」
「六歳の時のことでした」
子供が歌う歌ではなかった。
「先生もお弟子さんも上手ねと褒めてくれたのですが、一緒にいた母はものすごく怒りまして、それ以来私は歌ってはいけないことになっているんです」
アナイスはできるかぎり感情を込めずに言って、肩をすくめた。言われたエヴァンの反応も穏やかだった。
「それは残念でした。あの難しい曲を歌ったあなたを、お母上は誇りにしたらよかったのに」
軽蔑された様子も、変に同情された様子もなかった。どちらかというと、彼の性格の優しい部分を見た気がした。
アナイスはほっとした。
言い出しにくいことで、今まで黙って来ていて、でも本当は誰かに話してしまいたかったのだと思った。話してしまえば、ただの昔の思い出、その一つにすぎなかった。
エヴァンは立ち上がった。
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