少女の血を少々

龍多

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 警察を辞めたいと思ったことは、正直何度でもある。
 一番最初は、交番勤務の頃、近所の公園の池から死体が上がった時だった。人っぽいものが浮いている、と、深夜ランニングをしていた近隣住人が戸惑ったように交番にやってきた。先輩が署に連絡をとっている間に、発見者と公園まで確認しに行った。最初は見間違いだろうと高を括っていた。だが、深夜の人気のない公園の、濁った水面を照らすだけの照明の下、まるでスポットライトを浴びるように浮いているそれを見て、ひどく後悔した。かつては白かったのだろうシャツは茶色く染まっているのに、肌は白くぶよぶよと膨れ上がり、頭髪らしきものが藻のように浮いていた。やがて池はブルーシートに囲まれ、明るくなるころには報道のヘリが公園の上空を飛び回り、野次馬やテレビのリポーターが深刻そうな顔で集まり始めた。
 最初、その死体は浮浪者だろうと思っていた。酒に酔って足を滑らしたとか、そういった具合だろう…そう思っていたのに、結局、被害者は男子中学生だった。それも、いじめの果て、高校生数人に暴行され、動かなくなったところを証拠隠滅のために池に捨てられたという顛末だった。
 最悪に反吐の出る話だった。ご丁寧に、加害者達はその辺の個人宅の庭を飾っていたコンクリートブロックを盗んできて、動かなくなった被害者に括り付け重しにして沈めたらしい。
 報道で、捜査本部で、交番で、同じ話を何度も聞き、被害者の悲惨な死にざまを写真で何度も見て、加害者の行動を淡々と検証した。やがて事件が密やかになり、いつもの交番勤務で朝の通勤・通学路を見守っていたとき、軽やかに笑いながら行き行く学生たちを見て、初めて警察を辞めたいと思った。
 あの、シャツをどろどろに茶色く汚しながら、白くぶよぶよに膨れた少年と、細い足で駆け足気味に談笑しながら登校していく少女たち。
 その差がひどく滑稽で、残酷で、眩暈がした。
 そして、その事件がきっかけになり、やがて刑事になったことで、自分の人生はより絶望に満ち満ちてきた。

 だから今回の通報があったとき、真瀬は、今度こそこの仕事を辞めるかもしれないと、片頭痛の端で予感していた。

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 通報があったのは朝の10時12分だった。警察署に直接入電のあったそれは通報というより相談で、地元のY高校の教頭からだった。
「山合宿へ向かった美術部の生徒7名、顧問の女性教諭と連絡がとれなくなっている。合宿は携帯持ち込み禁止で、顧問だけが携帯を所持している。初日は顧問から学校へ報告が入ったが、二日目には無かった。三日目の今日、学校側から連絡を取ろうとしたが、顧問の携帯電話も、ロッジの固定電話もつながらない。万が一の事があっても困るので、現地に確認しに行くのに当たり、警察に同行願えないか」
というものだった。
 そこで山から一番近い交番から1人派遣されて、教頭と一緒にロッジへ赴いた。
 山はろくに整備されておらず、山のふもとで車を降り、一時間歩いた場所にロッジはあった。山の周囲に民家は無く、少し離れた場所に高速道路が、そして酪農家が1軒あるだけの山だった。
 ロッジに入った教頭と警官は、そこに誰もいないのを見てまず不審に思った。寝室にも、アトリエを兼ねたリビングにも誰もおらず、スケッチブックと、何故か衣類が散乱していた。警官はダイニングテーブルの上に、画面の割れたスマートフォンを発見し、固定電話の受話器が外されたまま床に転がっているのを見つけた。そこでロッジの外に出て、警官が上司に指示を乞うていると、血まみれの裸の少女がふらりとロッジの脇から現れた。驚愕する二人を見ながら、少女は裸体を隠そうともせず、心ここにあらずといった調子で、ロッジ裏を指差した。そこには物置より少し広い程度の、木製の小屋があった。

「みんな、そこにいる」

 少女は血に濡れた指先を下すと、疲れたようにその場にへたり込んだ。


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