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06.唐突な再会
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この町で喫茶店を始めてから一年は経っただろうか。
午前中に新聞を読みながらコーヒーを啜っていたお爺さんが帰ってからは、客が入る気配はない。商売人としてはどうなんだと言われてしまいそうだが、ひとりで切り盛りしているからあまり混んでも困るし、常連客がそこそこいるおかげで生活には困らない程度の利益は上がっている。
そもそも俺は、まったりとした時間の中、コーヒーの薫りを嗅ぐのが好きなだけだ。
客も来ない事だし、有線のチャンネルをいじる。いかにも喫茶店らしいジャズ音楽から、趣味であるクラシック音楽に切り替えた。調度、ペトルーシュカからの3楽章が流れ始めたところだ。複雑で力強いピアノの調べが、俺をストラヴィンスキーの世界に連れて行ってくれる。余計な雑念も、音楽の前ではたちまち薄れていく。
まぶたを閉じて聴覚に神経を集中させていると、邪魔な電子音が割り込んできた。この店に電話なんて滅多にかかってこないのに。無視する事も考えたが、呼び出し音が鳴り続けているのが苦痛でしかないので、仕方なく受話器を取る。
「はい、Popotin d'angeです」
「ポポタン・ダンジュさんですね! わたくし、情報誌『townプロデュース』編集部の矢島と申します」
「はあ。情報誌の編集の方がウチに何のご用事で?」
「townプロデュースの方で、是非ともポポタン・ダンジュさんの事を特集させて頂きたいと思い、取材の許可をお願いしたいのですが」
「townプロデュースと言ったら、有名な地元情報誌ですよね……正直、ウチのような小さな店を取り上げても得ではないと思うのですが」
三十にもなっていないような、年若い男性編集者にやんわりと断りの旨を伝える。が、電話口の矢島と名乗る編集者は食い下がってくる。
「うちの新人がどうしても、そちらのお店を紹介したい! と聞かないんですよ。これは面白い、と思いまして。載せる載せないはともかく、取材だけでもお受けして頂けませんか?」
そんな若い客なんてウチの店に居たか? 記憶を巡らせても、思い出す事は出来なかった……もう痴呆が始まってしまっているのだろうか。
もし情報誌に紹介されたら、あの人がまた来てくれるという事もあるかもしれない。一瞬頭に思い浮かんだ顔をぱたぱたと取り払い、受話器に向かって返事をする事にした。
「まあ、取材だけなら」
「ありがとうございます! 早速ですが、取材日時はいつに致しましょうか?」
「次の定休日でも良いですか。客が入っていると相手出来ないんで」
「それでは三日後の午前十一時でも大丈夫ですか?」
「じゃあ、それで」
「それでは後日訪問させて頂きますので、よろしくお願いします! 失礼します!!」
はつらつとした挨拶の後に通話が切れた。
どうして情報誌の取材なんか受ける気になったんだろうか、昔の俺だったらそんな事をしなかっただろうに。
ポケットに突っ込んでいた携帯を取り出し、画像フォルダを表示する。消す気にならなかった一枚の画像を見て、溜め息を吐いた。
もう二度と会うことなんてないだろうに、時たまこうしてあいつの顔が見たくなる。あいつの事を思い出すと、かつて抱いていた辛い想いすらもどうでも良くなってくる気がするのだ。暖かな日射しの中を散歩して、風が頬を優しく撫でるかの様な。足下に名前も知らない、小さな花が咲いているのを見付けた時の様な暖かさが包み込む。
どうも俺は未練がましくていけないな。
「忙しくなれば、忘れられるかな」
小さく呟いた声は、激しい旋律の中に溶けていった。
**********
今日は定休日、約束通りの時間に店のチャイムが鳴らされた。扉を開くと、ふたりの若者が立っていた。
ひとりはかなり背の高い眼鏡をかけた男。そしてもうひとりは見覚えがある男だった。
思わず呆けていると、眼鏡をかけた方の男が名刺を差し出してきた。
「先日お電話させて頂きました、矢島と申します。今回は取材の承諾、ありがとうございます!」
「あ、いえ」
「こちらはアシスタントの西目。ほら、挨拶をしろ」
「西目です。今回はカメラマンも兼ねています。よろしくお願いしますね」
全く同じ顔に同じ名前。俺の記憶が間違いでなければ、去年の春に世話を焼いた西目紘一そのものだ。どうしてお前がここに、という一言を口に出す事が出来ない。
ひとまず初対面、というていで挨拶を返す。
「ここの店主の若美です。立ち話もなんですから、どうぞ中へ」
ふたりを店の中に案内し、適当な席に座らせた。
あまり待たせるのも悪いと思ったが、ゆっくりとコーヒーをドリップさせる。香ばしい薫りを確認して、溢さないように席へと運んでいった。
「どうぞ。砂糖とミルクは好みで勝手に入れてください」
「ありがとうございます。早速お話を伺いたいので、若美さんも掛けて下さい」
ふたりに向かい合うように席に着いた。
ちらりと紘一の方に視線を向けると、砂糖とミルクをたっぷりコーヒーに入れているところだった。そういう所は変わっていないんだな。
質問が飛んできたので視線を矢島さんの方に戻し、ひとつひとつ丁寧に答えていった。
午前中に新聞を読みながらコーヒーを啜っていたお爺さんが帰ってからは、客が入る気配はない。商売人としてはどうなんだと言われてしまいそうだが、ひとりで切り盛りしているからあまり混んでも困るし、常連客がそこそこいるおかげで生活には困らない程度の利益は上がっている。
そもそも俺は、まったりとした時間の中、コーヒーの薫りを嗅ぐのが好きなだけだ。
客も来ない事だし、有線のチャンネルをいじる。いかにも喫茶店らしいジャズ音楽から、趣味であるクラシック音楽に切り替えた。調度、ペトルーシュカからの3楽章が流れ始めたところだ。複雑で力強いピアノの調べが、俺をストラヴィンスキーの世界に連れて行ってくれる。余計な雑念も、音楽の前ではたちまち薄れていく。
まぶたを閉じて聴覚に神経を集中させていると、邪魔な電子音が割り込んできた。この店に電話なんて滅多にかかってこないのに。無視する事も考えたが、呼び出し音が鳴り続けているのが苦痛でしかないので、仕方なく受話器を取る。
「はい、Popotin d'angeです」
「ポポタン・ダンジュさんですね! わたくし、情報誌『townプロデュース』編集部の矢島と申します」
「はあ。情報誌の編集の方がウチに何のご用事で?」
「townプロデュースの方で、是非ともポポタン・ダンジュさんの事を特集させて頂きたいと思い、取材の許可をお願いしたいのですが」
「townプロデュースと言ったら、有名な地元情報誌ですよね……正直、ウチのような小さな店を取り上げても得ではないと思うのですが」
三十にもなっていないような、年若い男性編集者にやんわりと断りの旨を伝える。が、電話口の矢島と名乗る編集者は食い下がってくる。
「うちの新人がどうしても、そちらのお店を紹介したい! と聞かないんですよ。これは面白い、と思いまして。載せる載せないはともかく、取材だけでもお受けして頂けませんか?」
そんな若い客なんてウチの店に居たか? 記憶を巡らせても、思い出す事は出来なかった……もう痴呆が始まってしまっているのだろうか。
もし情報誌に紹介されたら、あの人がまた来てくれるという事もあるかもしれない。一瞬頭に思い浮かんだ顔をぱたぱたと取り払い、受話器に向かって返事をする事にした。
「まあ、取材だけなら」
「ありがとうございます! 早速ですが、取材日時はいつに致しましょうか?」
「次の定休日でも良いですか。客が入っていると相手出来ないんで」
「それでは三日後の午前十一時でも大丈夫ですか?」
「じゃあ、それで」
「それでは後日訪問させて頂きますので、よろしくお願いします! 失礼します!!」
はつらつとした挨拶の後に通話が切れた。
どうして情報誌の取材なんか受ける気になったんだろうか、昔の俺だったらそんな事をしなかっただろうに。
ポケットに突っ込んでいた携帯を取り出し、画像フォルダを表示する。消す気にならなかった一枚の画像を見て、溜め息を吐いた。
もう二度と会うことなんてないだろうに、時たまこうしてあいつの顔が見たくなる。あいつの事を思い出すと、かつて抱いていた辛い想いすらもどうでも良くなってくる気がするのだ。暖かな日射しの中を散歩して、風が頬を優しく撫でるかの様な。足下に名前も知らない、小さな花が咲いているのを見付けた時の様な暖かさが包み込む。
どうも俺は未練がましくていけないな。
「忙しくなれば、忘れられるかな」
小さく呟いた声は、激しい旋律の中に溶けていった。
**********
今日は定休日、約束通りの時間に店のチャイムが鳴らされた。扉を開くと、ふたりの若者が立っていた。
ひとりはかなり背の高い眼鏡をかけた男。そしてもうひとりは見覚えがある男だった。
思わず呆けていると、眼鏡をかけた方の男が名刺を差し出してきた。
「先日お電話させて頂きました、矢島と申します。今回は取材の承諾、ありがとうございます!」
「あ、いえ」
「こちらはアシスタントの西目。ほら、挨拶をしろ」
「西目です。今回はカメラマンも兼ねています。よろしくお願いしますね」
全く同じ顔に同じ名前。俺の記憶が間違いでなければ、去年の春に世話を焼いた西目紘一そのものだ。どうしてお前がここに、という一言を口に出す事が出来ない。
ひとまず初対面、というていで挨拶を返す。
「ここの店主の若美です。立ち話もなんですから、どうぞ中へ」
ふたりを店の中に案内し、適当な席に座らせた。
あまり待たせるのも悪いと思ったが、ゆっくりとコーヒーをドリップさせる。香ばしい薫りを確認して、溢さないように席へと運んでいった。
「どうぞ。砂糖とミルクは好みで勝手に入れてください」
「ありがとうございます。早速お話を伺いたいので、若美さんも掛けて下さい」
ふたりに向かい合うように席に着いた。
ちらりと紘一の方に視線を向けると、砂糖とミルクをたっぷりコーヒーに入れているところだった。そういう所は変わっていないんだな。
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