七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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正声

十六拍・菖蒲王丸と碣石調幽蘭(肆)

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 陸奥に逃げた大盗賊団・大乘党の動きが、近頃頻りに聞こえてくる。

 大乘党はかなり盛り返しているらしい。

 上野の武蔵守時有は、警戒を強めていた。

 弟の上野介信時は、都から帰ってきてからというもの、少々以前と様子の違うような所が見受けられた。

 いつ大乘党や法化党と戦になるかわからないからとて、毎日のように狩に出掛けては、衣服を汚して帰ってくる。

 法化党の貴姫君を訪ねることも多くなった。以前と変わらず、彼女を気遣ってはいるが、少し気兼ねは減ったようだ。

 時有が都から妻を迎えるにあたり、母の春日の大上は牧邸の脇に新しい邸を建てさせ、貴姫君を連れてそちらに移ったのだったが、信時もそこに住むことになった。

 寝殿と北の対、東の対、西の釣殿があるだけの、余り広くもない邸。信時は東の対に。貴姫君は大上と共に北の対に住んでいる。

 貴姫君の兄の常陸の経実は、烏丸殿が死んで、何か目的を失ったようだった。

 時有は大乘党との戦に備え、法化党と和睦できるならした方が望ましいと考えていた。

 だが、経実は時有からの和議には応じない。

 時有の要求を拒み続ければ、人質である貴姫君は殺される可能性もある。しかし、それでも経実は和議に応じようとはしなかった。烏丸殿が死んで、時有と対峙する意味も見つからぬままに──。

 時有の方でも、放っておけば、いずれ経実とは和睦できるかもしれないと、今直ぐの和議を強いてくることもなかった。当然、貴姫君の身に危険が訪れるようなことはない。

 貴姫君は今日も東殿こと牧邸の脇の邸で、のんびり過ごしていた。

 毎日のように、大上や信時が様々なものを差し入れてくれる。

 姫が信時から貰ったもので、最も嬉しかったのは、京土産の琴譜集であった。

 左手指法や右手指法なども付いている譜集で、呉楚派の稽古用に、かつて伊定博士が作ったものらしい。伊定は大学寮で多くの琴数寄者を指導したが、その人々の教材として作ったもののようだ。曲も初心者から上級者まで、段階に応じて順に学べるようになっている。最後の方は難易度がかなり高く、灌頂を遂げて血脉に記された人が弾くような曲まであった。

 碣石調『幽蘭』、『烏夜啼』、『嵆康四弄』などまである。

 姫はその譜を使って、独学で琴の練習に励んでいたが、独学というのは色々大変なことが多い。

 叔父の為長がいてくれたら、せめて韶徳三位殿が無事に安房まで着いていてくれたら、いつかは師事することも叶ったかもしれないのにと思った。そして、あの烏丸殿でさえ、三位殿を流罪にとどめたというのに、いったい何処の罰当たりな夜盗が三位殿を斬り殺してしまったのかと腹立たしく思った。

 そうやって、日々琴譜を前に法化の琴を弾いていたが、何も一日中そうしているわけではない。写経したり、縫い物をしたり、一日の間には様々なことをする時間もある。

 最近の姫は、大上からもらった反物で、縫い物をしていることが多かった。

 昨日、萌葱色の衣を一枚、仕立て上げたばかりだった。今日からは何を縫おうか。そう数々の布を前に考えていた時、信時がやって来た。

 侍女は皆下がらせていたので、部屋には貴姫君しかいない。御簾は上がっていて、姫は慌てたけれども、もうすぐそこまで信時の足音が接近している。

 姫は御簾はそのままにして、几帳の陰に身を隠した。

 信時はすぐに廂に現れた。

 几帳の端から、姫の五衣の裾や長い黒髪が見えている。

 信時は几帳の陰に姫がいると知ると、その前まで進んできて、腰を下ろした。

「突然、申し訳ありません」

 信時は言った。

 突然やってきた。余程な急用か。だが、信時には別段用事はなく、ただ急に無性に姫と話したくなっただけだった。だから来た。

 いや、特別話があるわけでもない。

 申し訳ないと謝ったきり、むっつり黙っているので、姫はこの人は何を考えているのだろうと思った。何だか落ち着かない。息苦しくさえ感じ、姫は、そうだと、わざとこの空気を壊して、

「上野介の君にこれを」

と、几帳の裾から、昨日仕立てた萌葱色の狩衣を差し出した。

「……上野介の君には、日々、狩にお出掛けと聞きましたので」

 差し出された狩衣に驚き、信時は言葉もない。この貴姫君が信時の狩衣を縫うなど、予想外にも程がある。

 信じられないと、信時はただただ狩衣を見つめ続けた。

「……」

「……いつも、色々有難うございます」

 姫は礼のつもりらしい。

「有難うございます」

 信時はやっとそう言った。

「上野介の君には、いつも助けて頂いてばかり。桜町館で初めてお会いした時、私の桜をお守り下さり。木工助の処刑の折も、ただ一人、御身だけは私の誇りを尊重して下さいました。その後も、こうして何不自由ない暮らしをさせて下さり……御母君は日々慰めて下さり、御身は法化や琴譜を下さって……御身からは敵味方関係なく、人として、数え切れないご恩を頂戴しております。人として与えて頂いたご恩には、人としてお返し致したく。でも、今の質の身の私は、お返しできるようなものは何も持っていません。こうして日々、御身から差し入れを頂いている身では。私が身に携えているものは、この身一つだけ。だから、私が唯一差し上げられるものを、心を差し上げます。御礼の心を、感謝の心を。一針一針に心を込めました」

 一針一針に込めた姫の感謝の心──姫の言葉を聞いて、信時は思わず胸に手をあてた。

 懐奥に秘めた物の感触が、狩衣を通して手に伝わる。

 一文字一文字に感謝の心を込めたという経文。

 今度は狩衣に心を込めたか。如何にも貴姫君らしい。

 信時は、

「大したことはしておりませぬに。かえってお気を煩わせてしまい、申し訳ありません」

と、新調の狩衣に手を伸ばした。

 どういうわけか、いつも貴姫君を助けてしまう。そうせずにはいられない。だから、別に礼などしてもらわなくても、満足しているのに。

 それでも、こうして狩衣を貰うのは嬉しい。

 姫はこれが二度目だということを知っているのだろうか。信時に、その心をくれるのが二度目だということを。

「とても感謝しております。でも、それ以上の御礼はできません。何も持っていない私なので。だから、これ以上のご親切は……もう充分です。何も不自由しておりませんし、心も健やかになりました」

 がた、と不意に几帳が音を立てた。

 びっくりして顔を上げた姫の視界に、信時の姿が飛び込む。

 信時の左手は几帳を払いのけていた。

 顔は影が宿り、唇は赤いが、その眼は姫が正視できぬ程の光を帯びている。あまりのことに、姫は動けない。

 信時は叫んでいた。

「私は好きで、姫君を助け申している。そのことに姫君が、申し訳ないとか、遠慮しなければとお考えになることはありませぬ」

 初めて会った時から。あの夏の日、下野で倒れていた貴姫君を救った時から、信時はずっと姫を助けたかったのだ。

「そうしたいからしている!礼が欲しいわけではありません。だから、もう私の助けが要らないなどと、悲しいことはおっしゃいますな!」

「……でも、心苦しいです、から……」

「だったら!」

 信時はずいっと顔を近づけた。

 彼は変わった。

 以前の彼なら、生涯言わなかっただろう。

「姫君の、その身に携えているものが、その身一つだけならば、その身を私に下さい!」

 以前の彼なら、堪えただろう。

「私は姫君が欲しいっ!」

「……!」

 姫は恐怖に戦慄いた。なのに逃げられない。動けない。

 虎に挑まれた小動物の怯える眼。

「……」

 信時はその瞳に映る自分の姿に愕然となった。

 不意に眼を伏せると、力なく、その場に崩れ落ちるように両手をついた。

「……ご無礼を」

と、呟くように言った。

 ずっと貴姫君のことが好きだった。恋い焦がれているのだ。




 そんなことがあってから、二十日余り後。遂に、陸奥の大乘党が挙兵したとの報告が入った。

 一万余の兵でもって、南下しているという。

 既に下野や常陸の北方さえ手に入れ、兵数は一万五千にも達しているとの噂もある。

「常陸の法化党にも、同盟を求めているらしゅうござる」

 時有はさっそく家の子郎党を集めて軍議を開いたのだが、その席で俊幸がそう言った。

「まさか。大乘党はただの盗賊ぞ。法化党が加担なぞするものか」

 時有は一笑したが。

「わかりませぬぞ。我等を討ち果たすためなら、盗賊とだって手を組み、自ら盗賊と化すこととて有り得まする。近頃の経実なれば、何をやらかしても不思議はござらぬ」

 もしも法化党が大乘党と協力して、こちらに攻めてきたら……想像するだけで恐ろしかった。

 こういう時のために、人質はいるものなのである。

 時有は、

「法化党が大乘党と手を組んだなら、貴姫君の命はない」

と、法化党へ使者を遣って、経実にそう言った。

 その上で、やがて進路を西に向け始めた大乘党との決戦のために、出陣して行ったのであった。
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