七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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正声

十七拍・鳳勢(拾参)

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 翌日、信時は国府で政務に追われていた。彼がそうしている間に、裏の私邸には実は時有が来ていた。信時はそれと知らずにいたが。

 悪阻があるのか。

 別に、窶れた様子もない。ただ、以前には見られなかった何ともいえぬ色香があった。身ごもる前にはなかった妖光まで加わって、以前にも増して美しく見える。

 御簾も隔てず貴姫君と対面した。いや、廂にいるのは貴姫君の方で、奥の上座に時有が座っていた。そうすることを強要した。

 御簾もなく直に接する貴姫君の美貌に、つい時有はあらぬ想像を掻き立てられた。だが、あくまでも冷徹を装い、言い放つ。

「姫君よ。おもとを斬首することに決めた」

「はい。嫁ぐ前より覚悟はできております。いつこのような日が来ても、おかしくはないと思っておりました。いつでも死ぬる支度は整えております」

 貴姫君は全く動じる様子がない。異様に肝が据わっているところを見ると、偽りなく、常に死ぬ準備はしているらしい。

「む。よい覚悟じゃ。その覚悟に免じて、おもとに慈悲を授けよう。おもとを殺すは、信時と致す。おもとも殺されるなら、他の者ではなく信時の手によって殺されたかろう」

「はい。感謝致します」

 なんだか時有は腹が立った。姫のこの様子に。

「されど、辛かろう。おもとは身重じゃ。おもとが死ねば、同時に腹の子も死ぬことになる」

と、わざと言った。

 しかし、この女は、

「殿の御意故、どうにもなりませぬ」

と言った。

 時有は益々気に入らない。

 時有は急に不敵に笑い出した。実にいやらしい顔だ。

「その腹の子は信時の子。我が家の子じゃ。我が家の子を殺すのは忍びない。おもと次第によっては、助けてやらぬこともないぞ」

 さすがに一瞬、姫の中に迷いが宿ったようだった。時有はほくそ笑んだ。

「私はおもとを次妻(うわなり)にしようと思っておった。今でもおもとは、この時有の心を妖しく蠢かす傾城の悪女よ。もし、おもとがこの時有に身をまかせ、私に抱かれれば、その命、助けてやらぬこともない」

 途端に姫は氷りついた。

 時有はその息のまま続ける。

「どうする?腹の子の命を守るため、私に抱かれるか?それとも、信時への貞操を守るため、腹の子を見殺しにするか?」

 困れ、困れと時有の心は楽しんだ。

 だが、姫は少しも困った様子もなく、迷いも見せない。

「それは私には決められませぬ。私が自分の望みを口にすることは、許されぬこと。仮に言ったとしても、どうするか決めるのは、結局殿なのであって、私の望み通りになるとは限りませぬ。私は殿の御命に従うしかない身でございますれば」

 きっぱり言うのが、何とも憎らしく、時有は思わず突っ立った。

「何だと、だったら私に抱かれると言うのかっ!?」

 そのままずかずかと近寄り、姫の膝の前で立ち止まった。

 姫は時有をきっと見上げる。

 時有は勢いよくそこへ腰を下ろし、膝を折ると、むずと右手で姫の顎をつかんだ。そして強引に、息のかかりそうな距離にまで引き寄せる。

 時有はくわっと姫の目を見やる。姫も時有の目から、視線を外さなかった。そのまま互いに全く動かず。

 時有の息がかかって、姫の額の辺りの髪が揺れているだけ。頗る緊迫した時。

 その緊張を破ったのは、時有だった。

「ふははははは」

 不意にからから笑い出し、姫の顎から手を離すと、少し距離を空けて座り直した。

「信時は我が弟じゃ。私は奴が可愛くてならん。信時に恨まれるのは堪えられん。何でおもとを抱いたり、殺したりできようぞ」

 時有はいつも通りの愛想笑いを浮かべた。

「おもとは殺さぬ。安心せい。おもとは我が一門の子を産む大事な体。体をいたわり、元気な子を産め」

 そして、ゆっくり立ち上がった。急に顔色が変わる。

「おもとは殺さぬ。かわりに、おもとの継母を処刑する」

「そ……!」

 仰天して、姫が時有を見上げる。

「それはご勘弁を!何卒!!」

 必死に額付いて頼み込む。

 だが、時有の顔は残酷な独裁者の顔であった。

「おもとに意見など許されぬ。仮に望みを述べたとしても、決めるのは私じゃ。おもとは私の決定に従うことしかできぬ身じゃ」

 言い捨てると、時有は去った。

 時有の来訪は、全く信時に伝えられていなかった。

 信時が帰宅したのは夕方だったが、すでに時有は帰った後。

 そんな信時を心配させまいと、貴姫君は、三亥御前が殺されてしまうという恐怖を必死に仕舞い込んで、信時を迎えた。

 姫は廂に立っていたが、信時が外から歩いて来ると、自ら歩み寄って、

「信時の君!」

と満面の笑顔を見せた。

 二人は互いの手を取り合った。が、すぐに信時は眉を曇らせ、

「顔色が悪いですよ。少し休んだ方が」

と言った。愁眉の下の両目には、探るような色が見えた。

「……私は健やかでございます」

 姫がそう答えると、信時は少し怒ったような、困ったような顔をした。それで、姫の笑顔は消えた。

 信時はその顔のまま、

「姫君。あなた、懐妊しているのでしょう?」

と言った。

 姫ははにかむようにしながら、

「さすが、信時の君ですね。私のことなど、何でも見透かされてしまう」

と答えた。

 信時は時有に、貴姫君が懐妊したと言ったが、姫はそのことを信時に告げたわけではなかった。

 信時は知らない筈だが、姫の懐妊を悟ったようだった。先程の時有の話から、姫は予想していた。

 信時が姫の懐妊に気づき、時有にその旨伝えたことを。

「めでたいことなのに、何故隠すのです?」

 信時はなお愁眉のままに問うた。信時には、本当に不思議なことだった。

 だが、姫もまた、信時が姫の懐妊に気づいたことが不思議だった。

「どうしてお気づきになりましたの?」

 信時の問いに答えるどころか、己の疑問を口にしていた。

「ただ何となく。それと気づきました。どうしてわかったのか、私自身わかりません」

 信時はそう答えた。本当に何故か察したのだ。

「そうですか」

 姫は穏やかな笑顔で、明るい声色で言った。

 今度は姫が信時の質問に答える番である。

「どうして、懐妊を隠していたのですか?」

「隠していたわけでは。ただ、兄が殿と和睦するまで、黙っていようかと……」

「何故に?」

「兄がもし、このまま殿に従わねば、人質たる私は殺されることもあるかもしれませぬ。殿が私を殺せと命じられた時、私が懐妊していると知ったら、御身は私を殺すことを躊躇うでしょう?躊躇えば、御身は殿のお怒りにふれる。家の内紛を招くことにもなりかねません。だから。躊躇いなく私を殺して下さるようにと」

「姫君……」

 信時の表情が崩れた。そっと姫を抱き締めた。

 三日後。

 三亥御前は処刑された。

 経実が激怒したのは言うまでもない。だが、それ以上に、彼女の実家の水軍の悲憤は凄まじかった。

 斬られる瞬間の彼女が思ったことは。

「貴姫君!従順を装わなければ、本懐を遂げることなどできない。そうですよね?姫君!頑張って!!」
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