七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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乱声

三拍・一切法自性清浄(弐)

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 数日後。

 小右京は覚如の眠っている隙に、輪台尼の遺児を密かに連れ出し、山階を後にした。途中で姪の福生と待ち合わせる。

 この福生は姉の悪相御前の娘だが、赤子の頃から、小右京が母となって育ててきた。実は覚如が実父なのだが、未だ二人を対面させていないし、福生には父の話さえしていない。

 小右京は旅支度の福生と共に、六条西洞院の左大臣邸を訪れた。

 門前に至った時には、もう既に東雲時となっていた。

 暫く待っていると、右大将殿が門まで出てきた。この人は昔から早起きの人だから、今日もとうに起床して、経に向き合っていたのだった。

 出てきた右大将殿は、さすがは伝説の美女・清花の姫君の同母兄だけのことはあり、実に美しい殿御だった。

 小右京は、かつての自分の主に勝るとも劣らない右大将殿の美を、尊いものでも見るように拝んだ。

「韶徳三位殿に仕えた小右京とか」

「はい。若水の伯母でもございます」

「いったい、この時ならぬ時に如何したか?」

「実は、お暇を申し上げに参りました。尼公の遺された若君とともに、都を出て、どこか遠国へまかろうかと存じまして」

 小右京のその言葉を想定していたのか、右大将殿は意外そうな表情一つ見せない。寧ろ頷きつつ、

「それで、我を訪ねてきたわけか」

と言い、後ろの福生とその懐に抱かれている赤子を見た。

「それが尼の──?」

「はい」

「尼の亡骸はどうしたか?」

「既に荼毘にふしましてございます」

「墓所は?」

「月の輪に」

「そうか。必ず供養しよう。年忌の度に、当方で責任を持って回向しよう。尼の墓は当家が管理すると約束する」

 右大将殿ははっきりそう答えた。

「かたじけのうございます。ついでに、その、厚かましくも、いま一つお願いできましょうか?」

「何事を?」

「都を去れば、死ぬまで戻るつもりはございませぬ。二度と帰らぬ死出の旅路。その餞と思うて、願いを聞いて下さいませ。最後にもう一度、敏平の君に会わせて頂けませぬか」

 それも右大将殿は予想していたらしい。驚きもせず、ただ申し訳なさそうに、

「それは許可しかねる。ただ遠くから見るだけならば、許してやれるが」

と答えた。

 小右京もそうとわかっている。慈悲で物陰から見ることだけ許可されたのだと納得し、それで構わないと返事した。

 右大将殿、小右京を後ろに連れて、東の対の端の陰に来た。福生は赤子と中門に残っている。

 右大将殿の指差す方向に、師道朝臣の姿が見えた。師道朝臣は中の人へ何か言っている。

 やがて、中の人が琴を弾き始めた。

 敏平だ。あちらはその牢。

 師道朝臣が、小右京のために敏平に弾かせたものらしい。その来訪は告げぬまま。

「予がおことの琴を聴きたくなったから、何でもよいから弾いてくれ」

 そう言ったらしい。

 わけもわからず、主君の若君の気紛れに付き合わされ、敏平は仕方なく琴を弾いたのだった。

 小右京は涙を流して聴き入った。

「ああ、これは『烏夜啼』ですね。無実の罪の夫が帰ってくるという……」

 昔の主、韶徳三位殿の琴の音を思い出す。

 かの人の愛した曲。かの人の罪も晴れて、帰ってきてくれたら、どんなにか。だが、たとえ無実が証明されたとしても、主が帰ってくることはない。

「……帰ることのない旅に出るわらわが、この曲で送り出されるとは」

 涙に咽び、堪えきれずに彼女は途中で去って行った。

 小右京はそのまま福生と赤子とともに都を出て、何処へともなく消え失せた。

 小右京が都を去った日の昼、いつものように見張りの者に向かって、敏平は喚き散らしていた。

「出せ!ここから出せ。せめて尼公を荼毘にするところくらい、同席させろ。子に会わせろ。父だぞ、この敏平は。恨めしや。出せ、出せ!」

 見張りが困っているところへ、

「出さん」

と言いながら、左大臣殿が現れた。右大将殿もついて来ていた。

「尼を忘れよ。そうしたら出してやる」

 牢の格子の前にどっかと座り、左大臣殿はそう言った。隣に右大将殿、同じく座り。

「琴にのみ生きろ。琴道のことだけ考えろ。そうすれば、いつか尼のことを思い出さなくなる。それまでは出さん」

 敏平、明らかに嫌そうな顔をして俯く。白い顔を、一層青白くさせている。

「そのような生き方はもう嫌です、もうたくさん。院中での失敗以来、琴には絶望しました。他のことにも興味はあります。それなのに、琴だけしか私の生きる道がないなんて、そんな人生は寂し過ぎます」

「……何も意地悪で言うているわけではないのだぞ。琴に縛り付けているわけでもない。ただ、宿命を言っているだけだ。何故、我等がこれほどまでに、おことに琴を極めて欲しいと願うか、考えたことはあるか?」

 左大臣殿がそう言った。

「何故、亡き姫君が、あんなに熱心におことを指導したのか。姫君にはおこと以外の弟子はなかった。何故、おことを弟子にしたのか。身を削り、命を削ってまでも、おことに灌頂を授けたのは何故か。どうして頼周も儂も、おことを獄に繋いでまで、琴をやらせようとするのか。考えたことはあるか?」

「……?」

「おことには、もう言わなくてはならぬな。よいか、心して聞け」

「いや、しばしお待ちを」

 左大臣殿が何か重大なことを言わむとするのを、右大将殿が遮る。

「その前に、一つ敏平に尋ねるべきことがあります」

 右大将殿の言葉を、左大臣殿も敏平も、何事かと思う。

 右大将殿、

「敏平よ。おこと、聶政をどう思うか?」

と、問うた。

「は?」

 唐突に、余りに意外なことを訊かれて、敏平は目を丸くした。

「教えてくれ。聶政を如何に思うか」

 右大将殿は真剣である。

「はあ。聶政ですか。聶政は、生まれる前に死んだが故に、会ったこともない父がため、復讐しました。敵への憎しみは烈し過ぎます。失敗しても失敗しても、何年経とうと、憎しみは衰えず増すばかり。遂に復讐を果たしますが、待つは処刑。母への累を恐れて己の身を切り刻み、何者かわからない姿になって自害しました。親への孝が過ぎるのか、敵への憎しみが過ぎるのか。彼の人生は死んだ父のためだけ、復讐のためだけの人生でした。会ったこともない父のために復讐だけして、死にました」

「彼の一生で行ったことは、復讐というただ一つのことのみ。そんな聶政の生き方をどう思う?」

「悲しき男、哀れです。愚かなことと思ってしまいます。孝行者よと手放しで褒めてやることはできません。愚かだと思います。愚か故に哀れなのです。悲しいのです」

「では、もしおことが聶政ならば、どうするか?」

「恨みは捨てます。恨みは忘れて平凡に生きます」

「恨み消えぬ時は?」

「そういう人間ではございませぬ、私という人間は。そんな執念深く、己の人生全てをかけてまで復讐する程の、激情は持ち合わせておりません」

「そうか」

 右大将殿はほっとしたのか、がっかりしたのか、ふっと肩の力を落とした。左大臣殿へ、

「なれば、父君。教えてやりましょう」

「うむ」

と左大臣殿は大きく頷いた。そして、瞼を閉じて心を鎮める。やがてゆっくり瞼を開け、息を一つ吐き出した。

「昔、四辻内大臣殿という人がいた。先帝の外戚であった上に、先帝の寵姫の父君でもあったことから、権勢の人であった」

と、語り始めた。

「烏丸左大臣殿という人がいた。今上の外戚であり、独裁者であった。則ち、四辻殿と烏丸殿は、覇権を争う仲であった。烏丸殿の姫君は今上の皇后宮で、東宮をお産みになっていた。後にこの東宮は亡くなられたので、我等が中宮の御腹の三の宮が、現在は東宮であらせられるわけだが、当時の東宮は烏丸殿の孫に当たられる御方であったのだ。一方、先帝の女御であった四辻殿の姫君は、六の宮をお産みになった。四辻殿の兄君の風香中納言殿という人は意地張った人で、烏丸殿を心底嫌い、その悪政を排斥して、烏丸殿をねじ伏せようと考えている人だった。院の庁の近臣達は、自分たちの手に政権を得むと画策して、東宮を廃し、六の宮即位を計画したという。帝と東宮を呪詛し奉ったというのだ。だが、烏丸殿は未然に察知し、首謀者の風香殿・四辻殿兄弟を捕らえ、院近衆どもを悉く除籍、解官に処した。風香殿ら四辻殿の一族は皆、流罪に決定した」

 ここまで言うと、六条左大臣殿は昔のことを思い出したのか、気分を害したような苦い表情を浮かべた。

 右大将殿は身を研ぎ澄ましている。

 敏平だけが、いったい何の話を始めたのだろうかと思っていた。

 左大臣殿は心を強いて鎮め、再び話し出す。

「たまたまだということなのだが、流人どもは一人残らず死んだ。急病であったり、自害であったり、はたまた夜盗に襲われたりと、理由は様々だったのだが……。そして、その後、四辻狩りというものが秘密裏に行われたらしい。四辻殿の縁者は、幼き者でも見つけ出されて殺されたらしいのだ。幼児までもが全員、何らかの理由で死に絶えたが、これは、烏丸殿が密に裏で手を回してのことだったということだ。このような異常なことが罷り通る、酷い時代だったのだ。烏丸殿最大の悪行、最大の罪。かの人は、今頃無限地獄で苦しみ悶えていることであろう。ともかくも、四辻殿の縁者は必ず殺されたからの。その血脈は断絶してしまったのだが……。実はの。当家は帝に背きたる罪を……一家で長きに渡って、帝に背き続けておるのだ……実はの。実は……四辻殿の縁者の素性を偽り、秘密裏に匿っておるのだ」

「え」

 敏平、初めて表情を動かした。

「風香殿の御孫をの。青海波の君とて、風香殿の息の韶徳三位殿の御子なのだ。三位殿の離縁したもとの北ノ方・二条局が産んだ御子での」

 左大臣殿、そこまでをさらりと言ったが、じっと敏平を見つめて、

「敏平。おことぞ」

と、一息に言った。

 右大将殿も、頷きながら涙を浮かべて。

「敏平こそが青海波の君。かの七絃七賢・韶徳三位殿のただ一人の御子が、敏平なのだ」

「……」

 余りに極端な話であったため、敏平はただ目を瞬かせるばかり。

 左大臣殿は右大将殿につられて、おいおいと泣き始めた。まともに話せなくなってしまう。

 で、涙を流しつつも、右大将殿が続けた。

「我が妹が、呉楚、南唐両流を学びながらも、おことに呉楚派の灌頂を伝業したのは、おことが三位殿の御子であったためだ。姫君は、三位殿の遺児であり、その才能までをも受け継ぐおことを、命をかけて、一人前の琴士にすると誓って、他の弟子はとらず、おことのことだけを育てた。その姫君の思い、またおことの血筋を思えばこそ、我等はおことに琴の道だけ歩んで欲しいと願うている」

「お、お待ち下さい」

 ここにきて、ようやく敏平の頭は物を思考することができるようになってきた。

「母は、母は……?」

「讃岐は育ての親に過ぎぬ。おことの父は、当家の家司の房雄でもなく、母も讃岐ではない。房雄と讃岐の子として、育てたに過ぎぬのだ」

「で、では。母上は母上ではないというのですか?一度も実の親でないと疑ったこともないのに……あの人が……?」

「おことに微塵の疑いも抱かせぬ、それほどの愛情で讃岐は育てたのよ。よいか、真実がどうであれ、おことは讃岐に感謝しなくてはならぬぞ。一生、子として侍き、孝行してやらねば、のう」

「そうよ」

と、左大臣殿も袖で面を整えると言った。

「今、おことの実の親の話をしたが、なお四辻殿は勅勘の人だ。おことを世間に出すわけにはゆかぬ。今聞かせた話は胸にしまって、ゆめ人には聞かすな。おことの身の安全のためだ。それ故、これから先も我等一家は、おことを讃岐の子として扱う。よいな」

「はい」

とは答えたものの、讃岐の子でないということの方が不自然で、真実とやらが冗談に思える。だから、すぐに忘れてしまえるように感じた。

 だが、右大将殿はこう言った。

「よいか。たとい讃岐の子として生きていても、おことが韶徳三位殿の御子であることには変わりはない。大事なる身なのや。琴士として生きるように、前の世から約束されている身。だから、女などに現を抜かしているな。尼のことなぞ忘れてしまえ。どこの馬の骨とも分からぬ尼のことなど忘れよ」

「それは……」

「忘れるのだ!!」

 結局、言いたいことはそれなのだ。左大臣殿も右大将殿も。そのことが一番言いたかったことなのだ。
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