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乱声
三拍・一切法自性清浄(弐)
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数日後。
小右京は覚如の眠っている隙に、輪台尼の遺児を密かに連れ出し、山階を後にした。途中で姪の福生と待ち合わせる。
この福生は姉の悪相御前の娘だが、赤子の頃から、小右京が母となって育ててきた。実は覚如が実父なのだが、未だ二人を対面させていないし、福生には父の話さえしていない。
小右京は旅支度の福生と共に、六条西洞院の左大臣邸を訪れた。
門前に至った時には、もう既に東雲時となっていた。
暫く待っていると、右大将殿が門まで出てきた。この人は昔から早起きの人だから、今日もとうに起床して、経に向き合っていたのだった。
出てきた右大将殿は、さすがは伝説の美女・清花の姫君の同母兄だけのことはあり、実に美しい殿御だった。
小右京は、かつての自分の主に勝るとも劣らない右大将殿の美を、尊いものでも見るように拝んだ。
「韶徳三位殿に仕えた小右京とか」
「はい。若水の伯母でもございます」
「いったい、この時ならぬ時に如何したか?」
「実は、お暇を申し上げに参りました。尼公の遺された若君とともに、都を出て、どこか遠国へまかろうかと存じまして」
小右京のその言葉を想定していたのか、右大将殿は意外そうな表情一つ見せない。寧ろ頷きつつ、
「それで、我を訪ねてきたわけか」
と言い、後ろの福生とその懐に抱かれている赤子を見た。
「それが尼の──?」
「はい」
「尼の亡骸はどうしたか?」
「既に荼毘にふしましてございます」
「墓所は?」
「月の輪に」
「そうか。必ず供養しよう。年忌の度に、当方で責任を持って回向しよう。尼の墓は当家が管理すると約束する」
右大将殿ははっきりそう答えた。
「かたじけのうございます。ついでに、その、厚かましくも、いま一つお願いできましょうか?」
「何事を?」
「都を去れば、死ぬまで戻るつもりはございませぬ。二度と帰らぬ死出の旅路。その餞と思うて、願いを聞いて下さいませ。最後にもう一度、敏平の君に会わせて頂けませぬか」
それも右大将殿は予想していたらしい。驚きもせず、ただ申し訳なさそうに、
「それは許可しかねる。ただ遠くから見るだけならば、許してやれるが」
と答えた。
小右京もそうとわかっている。慈悲で物陰から見ることだけ許可されたのだと納得し、それで構わないと返事した。
右大将殿、小右京を後ろに連れて、東の対の端の陰に来た。福生は赤子と中門に残っている。
右大将殿の指差す方向に、師道朝臣の姿が見えた。師道朝臣は中の人へ何か言っている。
やがて、中の人が琴を弾き始めた。
敏平だ。あちらはその牢。
師道朝臣が、小右京のために敏平に弾かせたものらしい。その来訪は告げぬまま。
「予がおことの琴を聴きたくなったから、何でもよいから弾いてくれ」
そう言ったらしい。
わけもわからず、主君の若君の気紛れに付き合わされ、敏平は仕方なく琴を弾いたのだった。
小右京は涙を流して聴き入った。
「ああ、これは『烏夜啼』ですね。無実の罪の夫が帰ってくるという……」
昔の主、韶徳三位殿の琴の音を思い出す。
かの人の愛した曲。かの人の罪も晴れて、帰ってきてくれたら、どんなにか。だが、たとえ無実が証明されたとしても、主が帰ってくることはない。
「……帰ることのない旅に出るわらわが、この曲で送り出されるとは」
涙に咽び、堪えきれずに彼女は途中で去って行った。
小右京はそのまま福生と赤子とともに都を出て、何処へともなく消え失せた。
小右京が都を去った日の昼、いつものように見張りの者に向かって、敏平は喚き散らしていた。
「出せ!ここから出せ。せめて尼公を荼毘にするところくらい、同席させろ。子に会わせろ。父だぞ、この敏平は。恨めしや。出せ、出せ!」
見張りが困っているところへ、
「出さん」
と言いながら、左大臣殿が現れた。右大将殿もついて来ていた。
「尼を忘れよ。そうしたら出してやる」
牢の格子の前にどっかと座り、左大臣殿はそう言った。隣に右大将殿、同じく座り。
「琴にのみ生きろ。琴道のことだけ考えろ。そうすれば、いつか尼のことを思い出さなくなる。それまでは出さん」
敏平、明らかに嫌そうな顔をして俯く。白い顔を、一層青白くさせている。
「そのような生き方はもう嫌です、もうたくさん。院中での失敗以来、琴には絶望しました。他のことにも興味はあります。それなのに、琴だけしか私の生きる道がないなんて、そんな人生は寂し過ぎます」
「……何も意地悪で言うているわけではないのだぞ。琴に縛り付けているわけでもない。ただ、宿命を言っているだけだ。何故、我等がこれほどまでに、おことに琴を極めて欲しいと願うか、考えたことはあるか?」
左大臣殿がそう言った。
「何故、亡き姫君が、あんなに熱心におことを指導したのか。姫君にはおこと以外の弟子はなかった。何故、おことを弟子にしたのか。身を削り、命を削ってまでも、おことに灌頂を授けたのは何故か。どうして頼周も儂も、おことを獄に繋いでまで、琴をやらせようとするのか。考えたことはあるか?」
「……?」
「おことには、もう言わなくてはならぬな。よいか、心して聞け」
「いや、しばしお待ちを」
左大臣殿が何か重大なことを言わむとするのを、右大将殿が遮る。
「その前に、一つ敏平に尋ねるべきことがあります」
右大将殿の言葉を、左大臣殿も敏平も、何事かと思う。
右大将殿、
「敏平よ。おこと、聶政をどう思うか?」
と、問うた。
「は?」
唐突に、余りに意外なことを訊かれて、敏平は目を丸くした。
「教えてくれ。聶政を如何に思うか」
右大将殿は真剣である。
「はあ。聶政ですか。聶政は、生まれる前に死んだが故に、会ったこともない父がため、復讐しました。敵への憎しみは烈し過ぎます。失敗しても失敗しても、何年経とうと、憎しみは衰えず増すばかり。遂に復讐を果たしますが、待つは処刑。母への累を恐れて己の身を切り刻み、何者かわからない姿になって自害しました。親への孝が過ぎるのか、敵への憎しみが過ぎるのか。彼の人生は死んだ父のためだけ、復讐のためだけの人生でした。会ったこともない父のために復讐だけして、死にました」
「彼の一生で行ったことは、復讐というただ一つのことのみ。そんな聶政の生き方をどう思う?」
「悲しき男、哀れです。愚かなことと思ってしまいます。孝行者よと手放しで褒めてやることはできません。愚かだと思います。愚か故に哀れなのです。悲しいのです」
「では、もしおことが聶政ならば、どうするか?」
「恨みは捨てます。恨みは忘れて平凡に生きます」
「恨み消えぬ時は?」
「そういう人間ではございませぬ、私という人間は。そんな執念深く、己の人生全てをかけてまで復讐する程の、激情は持ち合わせておりません」
「そうか」
右大将殿はほっとしたのか、がっかりしたのか、ふっと肩の力を落とした。左大臣殿へ、
「なれば、父君。教えてやりましょう」
「うむ」
と左大臣殿は大きく頷いた。そして、瞼を閉じて心を鎮める。やがてゆっくり瞼を開け、息を一つ吐き出した。
「昔、四辻内大臣殿という人がいた。先帝の外戚であった上に、先帝の寵姫の父君でもあったことから、権勢の人であった」
と、語り始めた。
「烏丸左大臣殿という人がいた。今上の外戚であり、独裁者であった。則ち、四辻殿と烏丸殿は、覇権を争う仲であった。烏丸殿の姫君は今上の皇后宮で、東宮をお産みになっていた。後にこの東宮は亡くなられたので、我等が中宮の御腹の三の宮が、現在は東宮であらせられるわけだが、当時の東宮は烏丸殿の孫に当たられる御方であったのだ。一方、先帝の女御であった四辻殿の姫君は、六の宮をお産みになった。四辻殿の兄君の風香中納言殿という人は意地張った人で、烏丸殿を心底嫌い、その悪政を排斥して、烏丸殿をねじ伏せようと考えている人だった。院の庁の近臣達は、自分たちの手に政権を得むと画策して、東宮を廃し、六の宮即位を計画したという。帝と東宮を呪詛し奉ったというのだ。だが、烏丸殿は未然に察知し、首謀者の風香殿・四辻殿兄弟を捕らえ、院近衆どもを悉く除籍、解官に処した。風香殿ら四辻殿の一族は皆、流罪に決定した」
ここまで言うと、六条左大臣殿は昔のことを思い出したのか、気分を害したような苦い表情を浮かべた。
右大将殿は身を研ぎ澄ましている。
敏平だけが、いったい何の話を始めたのだろうかと思っていた。
左大臣殿は心を強いて鎮め、再び話し出す。
「たまたまだということなのだが、流人どもは一人残らず死んだ。急病であったり、自害であったり、はたまた夜盗に襲われたりと、理由は様々だったのだが……。そして、その後、四辻狩りというものが秘密裏に行われたらしい。四辻殿の縁者は、幼き者でも見つけ出されて殺されたらしいのだ。幼児までもが全員、何らかの理由で死に絶えたが、これは、烏丸殿が密に裏で手を回してのことだったということだ。このような異常なことが罷り通る、酷い時代だったのだ。烏丸殿最大の悪行、最大の罪。かの人は、今頃無限地獄で苦しみ悶えていることであろう。ともかくも、四辻殿の縁者は必ず殺されたからの。その血脈は断絶してしまったのだが……。実はの。当家は帝に背きたる罪を……一家で長きに渡って、帝に背き続けておるのだ……実はの。実は……四辻殿の縁者の素性を偽り、秘密裏に匿っておるのだ」
「え」
敏平、初めて表情を動かした。
「風香殿の御孫をの。青海波の君とて、風香殿の息の韶徳三位殿の御子なのだ。三位殿の離縁したもとの北ノ方・二条局が産んだ御子での」
左大臣殿、そこまでをさらりと言ったが、じっと敏平を見つめて、
「敏平。おことぞ」
と、一息に言った。
右大将殿も、頷きながら涙を浮かべて。
「敏平こそが青海波の君。かの七絃七賢・韶徳三位殿のただ一人の御子が、敏平なのだ」
「……」
余りに極端な話であったため、敏平はただ目を瞬かせるばかり。
左大臣殿は右大将殿につられて、おいおいと泣き始めた。まともに話せなくなってしまう。
で、涙を流しつつも、右大将殿が続けた。
「我が妹が、呉楚、南唐両流を学びながらも、おことに呉楚派の灌頂を伝業したのは、おことが三位殿の御子であったためだ。姫君は、三位殿の遺児であり、その才能までをも受け継ぐおことを、命をかけて、一人前の琴士にすると誓って、他の弟子はとらず、おことのことだけを育てた。その姫君の思い、またおことの血筋を思えばこそ、我等はおことに琴の道だけ歩んで欲しいと願うている」
「お、お待ち下さい」
ここにきて、ようやく敏平の頭は物を思考することができるようになってきた。
「母は、母は……?」
「讃岐は育ての親に過ぎぬ。おことの父は、当家の家司の房雄でもなく、母も讃岐ではない。房雄と讃岐の子として、育てたに過ぎぬのだ」
「で、では。母上は母上ではないというのですか?一度も実の親でないと疑ったこともないのに……あの人が……?」
「おことに微塵の疑いも抱かせぬ、それほどの愛情で讃岐は育てたのよ。よいか、真実がどうであれ、おことは讃岐に感謝しなくてはならぬぞ。一生、子として侍き、孝行してやらねば、のう」
「そうよ」
と、左大臣殿も袖で面を整えると言った。
「今、おことの実の親の話をしたが、なお四辻殿は勅勘の人だ。おことを世間に出すわけにはゆかぬ。今聞かせた話は胸にしまって、ゆめ人には聞かすな。おことの身の安全のためだ。それ故、これから先も我等一家は、おことを讃岐の子として扱う。よいな」
「はい」
とは答えたものの、讃岐の子でないということの方が不自然で、真実とやらが冗談に思える。だから、すぐに忘れてしまえるように感じた。
だが、右大将殿はこう言った。
「よいか。たとい讃岐の子として生きていても、おことが韶徳三位殿の御子であることには変わりはない。大事なる身なのや。琴士として生きるように、前の世から約束されている身。だから、女などに現を抜かしているな。尼のことなぞ忘れてしまえ。どこの馬の骨とも分からぬ尼のことなど忘れよ」
「それは……」
「忘れるのだ!!」
結局、言いたいことはそれなのだ。左大臣殿も右大将殿も。そのことが一番言いたかったことなのだ。
小右京は覚如の眠っている隙に、輪台尼の遺児を密かに連れ出し、山階を後にした。途中で姪の福生と待ち合わせる。
この福生は姉の悪相御前の娘だが、赤子の頃から、小右京が母となって育ててきた。実は覚如が実父なのだが、未だ二人を対面させていないし、福生には父の話さえしていない。
小右京は旅支度の福生と共に、六条西洞院の左大臣邸を訪れた。
門前に至った時には、もう既に東雲時となっていた。
暫く待っていると、右大将殿が門まで出てきた。この人は昔から早起きの人だから、今日もとうに起床して、経に向き合っていたのだった。
出てきた右大将殿は、さすがは伝説の美女・清花の姫君の同母兄だけのことはあり、実に美しい殿御だった。
小右京は、かつての自分の主に勝るとも劣らない右大将殿の美を、尊いものでも見るように拝んだ。
「韶徳三位殿に仕えた小右京とか」
「はい。若水の伯母でもございます」
「いったい、この時ならぬ時に如何したか?」
「実は、お暇を申し上げに参りました。尼公の遺された若君とともに、都を出て、どこか遠国へまかろうかと存じまして」
小右京のその言葉を想定していたのか、右大将殿は意外そうな表情一つ見せない。寧ろ頷きつつ、
「それで、我を訪ねてきたわけか」
と言い、後ろの福生とその懐に抱かれている赤子を見た。
「それが尼の──?」
「はい」
「尼の亡骸はどうしたか?」
「既に荼毘にふしましてございます」
「墓所は?」
「月の輪に」
「そうか。必ず供養しよう。年忌の度に、当方で責任を持って回向しよう。尼の墓は当家が管理すると約束する」
右大将殿ははっきりそう答えた。
「かたじけのうございます。ついでに、その、厚かましくも、いま一つお願いできましょうか?」
「何事を?」
「都を去れば、死ぬまで戻るつもりはございませぬ。二度と帰らぬ死出の旅路。その餞と思うて、願いを聞いて下さいませ。最後にもう一度、敏平の君に会わせて頂けませぬか」
それも右大将殿は予想していたらしい。驚きもせず、ただ申し訳なさそうに、
「それは許可しかねる。ただ遠くから見るだけならば、許してやれるが」
と答えた。
小右京もそうとわかっている。慈悲で物陰から見ることだけ許可されたのだと納得し、それで構わないと返事した。
右大将殿、小右京を後ろに連れて、東の対の端の陰に来た。福生は赤子と中門に残っている。
右大将殿の指差す方向に、師道朝臣の姿が見えた。師道朝臣は中の人へ何か言っている。
やがて、中の人が琴を弾き始めた。
敏平だ。あちらはその牢。
師道朝臣が、小右京のために敏平に弾かせたものらしい。その来訪は告げぬまま。
「予がおことの琴を聴きたくなったから、何でもよいから弾いてくれ」
そう言ったらしい。
わけもわからず、主君の若君の気紛れに付き合わされ、敏平は仕方なく琴を弾いたのだった。
小右京は涙を流して聴き入った。
「ああ、これは『烏夜啼』ですね。無実の罪の夫が帰ってくるという……」
昔の主、韶徳三位殿の琴の音を思い出す。
かの人の愛した曲。かの人の罪も晴れて、帰ってきてくれたら、どんなにか。だが、たとえ無実が証明されたとしても、主が帰ってくることはない。
「……帰ることのない旅に出るわらわが、この曲で送り出されるとは」
涙に咽び、堪えきれずに彼女は途中で去って行った。
小右京はそのまま福生と赤子とともに都を出て、何処へともなく消え失せた。
小右京が都を去った日の昼、いつものように見張りの者に向かって、敏平は喚き散らしていた。
「出せ!ここから出せ。せめて尼公を荼毘にするところくらい、同席させろ。子に会わせろ。父だぞ、この敏平は。恨めしや。出せ、出せ!」
見張りが困っているところへ、
「出さん」
と言いながら、左大臣殿が現れた。右大将殿もついて来ていた。
「尼を忘れよ。そうしたら出してやる」
牢の格子の前にどっかと座り、左大臣殿はそう言った。隣に右大将殿、同じく座り。
「琴にのみ生きろ。琴道のことだけ考えろ。そうすれば、いつか尼のことを思い出さなくなる。それまでは出さん」
敏平、明らかに嫌そうな顔をして俯く。白い顔を、一層青白くさせている。
「そのような生き方はもう嫌です、もうたくさん。院中での失敗以来、琴には絶望しました。他のことにも興味はあります。それなのに、琴だけしか私の生きる道がないなんて、そんな人生は寂し過ぎます」
「……何も意地悪で言うているわけではないのだぞ。琴に縛り付けているわけでもない。ただ、宿命を言っているだけだ。何故、我等がこれほどまでに、おことに琴を極めて欲しいと願うか、考えたことはあるか?」
左大臣殿がそう言った。
「何故、亡き姫君が、あんなに熱心におことを指導したのか。姫君にはおこと以外の弟子はなかった。何故、おことを弟子にしたのか。身を削り、命を削ってまでも、おことに灌頂を授けたのは何故か。どうして頼周も儂も、おことを獄に繋いでまで、琴をやらせようとするのか。考えたことはあるか?」
「……?」
「おことには、もう言わなくてはならぬな。よいか、心して聞け」
「いや、しばしお待ちを」
左大臣殿が何か重大なことを言わむとするのを、右大将殿が遮る。
「その前に、一つ敏平に尋ねるべきことがあります」
右大将殿の言葉を、左大臣殿も敏平も、何事かと思う。
右大将殿、
「敏平よ。おこと、聶政をどう思うか?」
と、問うた。
「は?」
唐突に、余りに意外なことを訊かれて、敏平は目を丸くした。
「教えてくれ。聶政を如何に思うか」
右大将殿は真剣である。
「はあ。聶政ですか。聶政は、生まれる前に死んだが故に、会ったこともない父がため、復讐しました。敵への憎しみは烈し過ぎます。失敗しても失敗しても、何年経とうと、憎しみは衰えず増すばかり。遂に復讐を果たしますが、待つは処刑。母への累を恐れて己の身を切り刻み、何者かわからない姿になって自害しました。親への孝が過ぎるのか、敵への憎しみが過ぎるのか。彼の人生は死んだ父のためだけ、復讐のためだけの人生でした。会ったこともない父のために復讐だけして、死にました」
「彼の一生で行ったことは、復讐というただ一つのことのみ。そんな聶政の生き方をどう思う?」
「悲しき男、哀れです。愚かなことと思ってしまいます。孝行者よと手放しで褒めてやることはできません。愚かだと思います。愚か故に哀れなのです。悲しいのです」
「では、もしおことが聶政ならば、どうするか?」
「恨みは捨てます。恨みは忘れて平凡に生きます」
「恨み消えぬ時は?」
「そういう人間ではございませぬ、私という人間は。そんな執念深く、己の人生全てをかけてまで復讐する程の、激情は持ち合わせておりません」
「そうか」
右大将殿はほっとしたのか、がっかりしたのか、ふっと肩の力を落とした。左大臣殿へ、
「なれば、父君。教えてやりましょう」
「うむ」
と左大臣殿は大きく頷いた。そして、瞼を閉じて心を鎮める。やがてゆっくり瞼を開け、息を一つ吐き出した。
「昔、四辻内大臣殿という人がいた。先帝の外戚であった上に、先帝の寵姫の父君でもあったことから、権勢の人であった」
と、語り始めた。
「烏丸左大臣殿という人がいた。今上の外戚であり、独裁者であった。則ち、四辻殿と烏丸殿は、覇権を争う仲であった。烏丸殿の姫君は今上の皇后宮で、東宮をお産みになっていた。後にこの東宮は亡くなられたので、我等が中宮の御腹の三の宮が、現在は東宮であらせられるわけだが、当時の東宮は烏丸殿の孫に当たられる御方であったのだ。一方、先帝の女御であった四辻殿の姫君は、六の宮をお産みになった。四辻殿の兄君の風香中納言殿という人は意地張った人で、烏丸殿を心底嫌い、その悪政を排斥して、烏丸殿をねじ伏せようと考えている人だった。院の庁の近臣達は、自分たちの手に政権を得むと画策して、東宮を廃し、六の宮即位を計画したという。帝と東宮を呪詛し奉ったというのだ。だが、烏丸殿は未然に察知し、首謀者の風香殿・四辻殿兄弟を捕らえ、院近衆どもを悉く除籍、解官に処した。風香殿ら四辻殿の一族は皆、流罪に決定した」
ここまで言うと、六条左大臣殿は昔のことを思い出したのか、気分を害したような苦い表情を浮かべた。
右大将殿は身を研ぎ澄ましている。
敏平だけが、いったい何の話を始めたのだろうかと思っていた。
左大臣殿は心を強いて鎮め、再び話し出す。
「たまたまだということなのだが、流人どもは一人残らず死んだ。急病であったり、自害であったり、はたまた夜盗に襲われたりと、理由は様々だったのだが……。そして、その後、四辻狩りというものが秘密裏に行われたらしい。四辻殿の縁者は、幼き者でも見つけ出されて殺されたらしいのだ。幼児までもが全員、何らかの理由で死に絶えたが、これは、烏丸殿が密に裏で手を回してのことだったということだ。このような異常なことが罷り通る、酷い時代だったのだ。烏丸殿最大の悪行、最大の罪。かの人は、今頃無限地獄で苦しみ悶えていることであろう。ともかくも、四辻殿の縁者は必ず殺されたからの。その血脈は断絶してしまったのだが……。実はの。当家は帝に背きたる罪を……一家で長きに渡って、帝に背き続けておるのだ……実はの。実は……四辻殿の縁者の素性を偽り、秘密裏に匿っておるのだ」
「え」
敏平、初めて表情を動かした。
「風香殿の御孫をの。青海波の君とて、風香殿の息の韶徳三位殿の御子なのだ。三位殿の離縁したもとの北ノ方・二条局が産んだ御子での」
左大臣殿、そこまでをさらりと言ったが、じっと敏平を見つめて、
「敏平。おことぞ」
と、一息に言った。
右大将殿も、頷きながら涙を浮かべて。
「敏平こそが青海波の君。かの七絃七賢・韶徳三位殿のただ一人の御子が、敏平なのだ」
「……」
余りに極端な話であったため、敏平はただ目を瞬かせるばかり。
左大臣殿は右大将殿につられて、おいおいと泣き始めた。まともに話せなくなってしまう。
で、涙を流しつつも、右大将殿が続けた。
「我が妹が、呉楚、南唐両流を学びながらも、おことに呉楚派の灌頂を伝業したのは、おことが三位殿の御子であったためだ。姫君は、三位殿の遺児であり、その才能までをも受け継ぐおことを、命をかけて、一人前の琴士にすると誓って、他の弟子はとらず、おことのことだけを育てた。その姫君の思い、またおことの血筋を思えばこそ、我等はおことに琴の道だけ歩んで欲しいと願うている」
「お、お待ち下さい」
ここにきて、ようやく敏平の頭は物を思考することができるようになってきた。
「母は、母は……?」
「讃岐は育ての親に過ぎぬ。おことの父は、当家の家司の房雄でもなく、母も讃岐ではない。房雄と讃岐の子として、育てたに過ぎぬのだ」
「で、では。母上は母上ではないというのですか?一度も実の親でないと疑ったこともないのに……あの人が……?」
「おことに微塵の疑いも抱かせぬ、それほどの愛情で讃岐は育てたのよ。よいか、真実がどうであれ、おことは讃岐に感謝しなくてはならぬぞ。一生、子として侍き、孝行してやらねば、のう」
「そうよ」
と、左大臣殿も袖で面を整えると言った。
「今、おことの実の親の話をしたが、なお四辻殿は勅勘の人だ。おことを世間に出すわけにはゆかぬ。今聞かせた話は胸にしまって、ゆめ人には聞かすな。おことの身の安全のためだ。それ故、これから先も我等一家は、おことを讃岐の子として扱う。よいな」
「はい」
とは答えたものの、讃岐の子でないということの方が不自然で、真実とやらが冗談に思える。だから、すぐに忘れてしまえるように感じた。
だが、右大将殿はこう言った。
「よいか。たとい讃岐の子として生きていても、おことが韶徳三位殿の御子であることには変わりはない。大事なる身なのや。琴士として生きるように、前の世から約束されている身。だから、女などに現を抜かしているな。尼のことなぞ忘れてしまえ。どこの馬の骨とも分からぬ尼のことなど忘れよ」
「それは……」
「忘れるのだ!!」
結局、言いたいことはそれなのだ。左大臣殿も右大将殿も。そのことが一番言いたかったことなのだ。
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藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
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