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乱声
三拍・一切法自性清浄(参)
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翌朝、ただならぬ気配に目を覚ました。牢の見張りは眠り込んでいる。
敏平、庭に目を凝らすと、梅の木の横に確かに人影がある。目が合った。
侵入者は一瞬ぎくっとしたようだが、中の人が敏平と知って、急に緊張を解くと歩み始めた。
十歩前で立ち止まる。その人は。
「か、覚……」
覚如だった。
どうやって、この邸奥まで忍び込んだというのか。
この法師はかつて呪師であったから身軽だが、それとて、ここまでうかうか通してしまう、当家の警護には問題がある。
「驚くな。幽霊でも見るように見るな。築地を跳び越えただけだわ」
覚如は仏頂面でぶっきらぼうに言った。
「おぬし、若君をどこへ隠した?」
覚如、挨拶もなしにいきなり用件を言い始める。
敏平はただ面食らって、言葉も見つからない。
それを覚如は苛立ち見て、なお五歩ばかり前に出た。そしてもう一度。
「若君をどこへやった?」
「……わ、若君、とは?」
敏平は呆気にとられつつ、ようやくそれだけ言った。
「何をすっとぼけおって!若君と言うたら、輪台の尼公の若君に決まっておる」
「輪台?」
「おうよ」
それはもしや、自分の恋人の尼公のことかと、敏平はようやく悟った。
「輪台というのですか。若君とは何故?私のような者の子を」
敏平、内心どぎまぎしている。昨日、自分の出生を知ったばかりだ。
真実の身分の自分であれば、その子は若君と呼ばれるに相応しい。まさか、覚如がこの秘密を知っている筈がないが……
しかし、覚如は、
「おぬしの子だからといって、どうということはない。尼公のお子故に若君なのだ。尼公は我が娘ではないからな」
と、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「おぬし、あの若君をどうした?」
「い、いなくなったのですか?」
我が子故に心配である。
「尼公亡き今、私が手元に置いて育てようとしていたのに、こちらの方が聞きたい。私の子をどこになくしたのです?」
「おぬしも知らんのか。なれば、小右京だな。あの女、若君を連れて何処へともなく逃げおったな。我が娘の福生まで盗んで行きよった。くそっ、必ず見つけ出してくれるわ」
覚如、そう言うと、はやくも踵を返して跳び去ろうと身構えた。が、
「お待ち下さい!」
との敏平の凄い声に、膝は挫け、
「何だ!?番人が起きようぞ」
と言って、振り返った。
「尼公がご坊の御娘でなかったとは、誠ですか?いったいどなたの御子だったのです……り、輪台とは?」
言っているうちに、敏平、よからぬ直感が働く。
覚如、なおまだ尼公を我が子同然に思い、自害した理由を敏平のせいだと思って恨んでいる。尼公の出生は、覚如の誇りでもある。
覚如、胸を反らして言った。
「尼公は二条殿の、輪台青海波のご兄妹。母君の二条殿は太皇太后宮の姪君。そのような高貴な御方の御腹の姫君だ。父君は風香中納言殿の御子の忠兼少将殿。尼公は貴種であったのだ。それを、おぬしの如き卑しい者と通じたことを恥じて、自害なされたのだ。おぬしに害された!」
すると、その最後の部分の叫び声に、牢の番人が目を覚ました。覚如、風よりも疾く逃げ去った。
「今、誰かいたか、敏平の君?」
番人、真っ青な敏平へ問う。けれど、敏平は何も答えず、その青い顔に冷や汗を流していた。
朝も早くから敏平が倒れたというので、右大将殿は夕方、朝参より帰宅すると、すぐに獄中の敏平を見舞った。
敏平はもう意識も取り戻し、起きていたが、なお顔色が死人のようにひどい。ただ、眼だけが、長年怨み続けた宿敵と対峙した時のもののようであった。頬が痩けているだけに、それが余計に異様に見える。
右大将殿が思わず背筋を寒くすると、敏平の方が口を開いた。
「何故私が獄に入れられたのか、その本当の理由がわかりましたよ」
「……え?」
「私が真実を知ったら、必ず自害すると思ったからでしょう。自害させて下さらないのですか、どうしても?残酷ですね、あなた方は本当に残酷だ」
右大将殿を射殺さむとするような眼。
「と、敏平……真実は昨日話したが」
「いいえ、全てではないでしょう。私に輪台尼の秘密は隠しましたね?」
「な、何故……それを……」
「尼公を、どこの馬の骨とも知れぬなどと仰有って!尼公は風香殿の御孫!忠兼少将殿の御娘!貴人ではありませんか……私と尼公は、父は違えども、母を同じくする兄と妹だったのですね。こんなひどい現実を知りながら、私に隠していたのですか」
「……話せると思うのか。知ったら、こなたがどんなに苦しむかと思って」
慌てふためいた直後には、もうこのように開き直る。いや、開き直ったと敏平には見えた。
「知ったら、死ぬに違いないと思ったのでしょう?どうしても死なせないつもりですか、残酷な。こんな真実のあるこの世に、いつまでも私を生かしておくおつもりでしたか。お慈悲のないことです。この受け入れ難き真実。尼公の自害の真相はこれだったのですね。ようやく合点がいきましたよ」
「敏平……」
「もう何も包み隠さず仰有って下さい。小右京の君はどちらへ行ったのです?」
「小右京が何方へ行ったのかは知らぬ。ただ、尼公の遺児を連れて都を出た。遠い国へ行くと言うて去ったわ」
「教えて下さい。私は誰です?尼公はいったい何者なのですか?」
「……こなたの敏平という名には秘密がある」
右大将殿は急に何を思ったか、問われていることとは全く関係のない、敏平の名前について語り始めた。右大将殿もかなり動揺しているのに違いない。
「こなたの実父の韶徳三位殿には一人、猶子がいた。いとこの備中前司の娘だ。これを猶子として、諱(いみな)を重子(しげこ)と名付けた。こなたにとっては義理の姉君だ。そして、二条局との間に実子のこなたが生まれた。その後、二条局とは離縁なさって、二条局は三位殿の兄君・忠兼朝臣との間に姫君を儲けられた。これが尼公だ。三位殿にとっては姪君だが、こなたにとっては、父は違えど妹。故に、怒りを捨てて、三位殿は尼公の世話をなさった。経王御前と名付けての」
ここまで話すと、右大将殿は一呼吸おいた。
敏平は先を促すような眼。
「時に、こなたは何故敏平という名なのか、考えたことはあるか?」
「亡き姫君が付けて下さった名ですが?」
「そうだ。姫君は我が妹ながら、流石に察しのよい人であった。長姉(このかみ)の姫は重子。仲のこなたに何と名付けるつもりでいたか、三位殿は。こなたの妹に経王御前と付けたのだから。三位殿のお考えを読み取って、亡き姫君はこなたに敏平と名付けるよう、私に遺言したのだ」
「……?」
「重、経は宮、角に同じだとか。つまり、重とは宮であり、経とは角である。重子と経王御前という名は、五声に由来するのだ。とすると、仲のこなたは何と名付けられるべきか」
「宮と角の間ですから、商です。宮、商、角、徴、羽が五声ですから」
「だから、こなたは商なのだ。商は敏に同じ。宮、商、角は、重、敏、経と申すこともあるとか。三位殿の命名の意図を我が妹が察して、こなたを敏平と命名したのだ」
「私は恐ろしうございます。経王御前つまり尼公は、紛れもなく我が妹であったのですね。名前からもそれが明らかなのですね。その間に子ができたなぞ!小右京の君が連れ去ったとはいえ、世にこのことが知れ渡ったら……!いえ、その子そのものが恐ろしい。殿、お願いです。見つけ出して殺して下さい。そんな得体の知れないものを、大人に成長させてはなりません。……私、この先どうやって生きて行けばよいのですか?」
そう言われてしまうと、右大将殿もどうしてよいやらわからなくなってしまう。ただひたすら敏平の身が案じられた。このまま牢に入れておいたら、心を病み、体力次第に衰え、遂には病魔に蝕まれてしまうだろう。
「獄から出してやる。まずは養生せよ」
ようやく敏平は解放されたのであった。
それから讃岐の局に忍び込む。
讃岐は大北ノ方に呼ばれていて不在らしい。局の中はがらんとしていた。
敏平は屏風の前に忍び寄る。その裏の讃岐が執着する太刀に、すっと手を伸ばした。太刀を手に取り、腕の中に抱く。
尼公は狡いと思った。現実から逃れる道を選んだ。いくら受け入れ難い真実だからとて。酷い。敏平にだけ責任を押し付けて。
ぎりと手の中の太刀を絞り上げれる。
その時、
「何していやる?」
と、背後から声を掛けられた。紛れもなく讃岐の声。
「母上」
敏平は振り返りもせず、太刀を両の袖でくるむようにした。
讃岐は戸口より中に進んできて、目敏くそれを見つける。
「太刀をどうするつもりか?」
「いえ、何でも……」
「それで死ぬ気か?」
讃岐は眼を尖らせた。
「まさか!」
敏平、内心ぎくりとする。
「誤魔化しても、母にはわかるわ!」
讃岐はそう怒鳴ったが、敏平、それで急に彼の中の何かに火が点いた。
「母上っ!」
と、急に語気を荒げると、
「いや、母と呼ぶべきか」
と、言い改めた。
讃岐はその一言で、全てを悟った。気を鎮めようと努めながら、
「何もかも、お知りになったのか……」
と問うでもなく、ぽつりと呟く。
「母上。この敏平はいったい何者なのか?」
相変わらず魄霊のように覚束ない様の彼だが、その意志薄弱そうな姿に反して、鋭い声と語気であった。
讃岐は責め立てられているような心地がして、眉根を強く寄せる。
「申し訳ありません。貴人(あてびと)としてお育ち遊ばす筈の御身を、二十一になる今の今まで、卑しい者の子と偽ってお育て申してしまいました。如何に御身の御命を助け参らせんがためとは申せ、誠に恐ろしい罪を犯してしまいました」
「母上」
「卑しい者とて、今まで幾度となく口惜しい思いを遊ばしたことでしょう。身分が欲しやと思われたこと、これまでに何度となくあったことと推察……」
「母上っ!」
綿々と詫びる讃岐の、讃岐らしからぬ態度を見ているうちに悲しくなってきて、ついその言葉を遮った。
「あなたは。あなたにだけは、否定して欲しかった、母上。あなたを他人ではないかと疑ったことは、これまでに一度もない。今でもあなたを母以外の者だとは信じられない。なのに!どうしてどうして否定して下さらないのです。どうして、大臣のお話は全て嘘で、真実おことは我が子よと仰有らない!?」
「敏平、の……君」
「母上!!」
激昂する。胸が苦しい。痛い。
肉親の情そのままの絆で結ばれていた愛する母が、母ではないとは。この人との絆が、肉親の情愛ではなかったとは。
敏平の幽鬼のような体に、強い悲しみの魂が宿った。散々に泣き腫らした眼を再び涙でいっぱいにする。
讃岐もいつの間にか泣いていた。床の上に手をついて、ただ、
「許し給え、許し給え」
と繰り返す。
讃岐とて、敏平を実の子と思わぬ日はなかった。本当は貴人なのだという思いもいつしか消えて、本当に腹を痛めた子だと信じるようになって、今日まで育ててきたのだ。いつかは真実を告げねばならぬ日がくる。そう不意に思い出し、我が子でなかったことを確認する時も、ままあった。その度に、永遠にその日が来ぬようにと願い、その日の訪れを恐れた。その日が訪れ、そして、その後のことを考えると、空恐ろしくなった。今までの関係が崩れてしまう。いや、その日の訪れた後のことなど考えたくなかった、考えられなかった、考えなかった。
その思いのたけを、讃岐は全て敏平にぶつけたかった。だが、怜悧で冷静で、正しき判断をしなければならぬ。讃岐は母としての思いを無理矢理胸に押し込んで、泣く泣くこう言うしかなかった。
「御身は確かに韶徳三位殿の御子。母君は二条殿にて、我が腹痛めし実の子にあらず。御身をお預かりして、我が子としてお育て申し上げました。偽りましたは、御身をお守りせんがため。御身は勅勘の人のお子なれば、処刑される恐れがあったのです。故に、我が子として、卑しい身分に落としてお育て致しました。なれど、父君の御技のみはお伝えしようと、亡き姫君が御身を弟子とされ、琴呉楚派の灌頂をお授けになられたのでございます」
「あなたまでもが、私の生母が二条殿だと仰るか」
「そうです!」
きっぱり言い切る。
敏平は、今までとはまた別の、苦い表情になる。
「では、私が青海波の君だというのか。山階の尼公は輪台の君だという。二条殿の御腹の姫君なのだと……父は違えど、同じ人の腹から生まれた私と尼公。尼公は私の妹だと仰るのかっ!!」
敏平の絶叫に、讃岐は嗚呼と泣き伏し──。
「輪台尼は私の妹。私は妹と通じ、妹は兄の子を産んで死んだ」
「──確かに、死んだら楽でしょう」
袂を涙で濡らしながら、讃岐は言う。
「母の心情としては、御身に尼公の後を追わせて差し上げたい気も致します。あの世へ行けば、実のご家族とも再会できましょう。なれど、生きて頂かなくてはなりません。慈悲のない仕打ちと思し召すやと存じますが、御身は死ぬことを許されぬ身なれば」
敏平、眉を吊り上げた。
「それは、どういうことです?」
「申し上げるまいと思っておりました。死ぬまでこのことは隠し通そうと誓うておりました。御身が余りにお可哀想で。なれど、四辻狩りが行われたのに、どうして無事に生きられたのか、御身も疑問に思っておいででしょうから、思いきって申し上げます。それに、そうすれば、二度と死ぬなぞと情けないことは仰有いますまい。ただ、本当の厳しい現実をお教えせねばなりませぬ」
讃岐は自らを奮い立たせるためか、いつもの彼女らしく凄んだ。
太刀を敏平の手から奪い取り、それをぎゅっと握りしめたまま、敏平を睨めつけるようにして見つめる。
敏平も真っ正面から讃岐を見返す。
「よいですか。これからお話しすることは、御身のご出生の事実よりも恐ろしきこと。覚悟して聞かれよ。なれど、この話を聞けば、どんなに堪え難く思おうとも、死ぬことが許されぬことを悟られるでしょう」
讃岐、もはや慈悲は完璧に捨てきって、長々と昔語りを始めたのであった。
敏平、庭に目を凝らすと、梅の木の横に確かに人影がある。目が合った。
侵入者は一瞬ぎくっとしたようだが、中の人が敏平と知って、急に緊張を解くと歩み始めた。
十歩前で立ち止まる。その人は。
「か、覚……」
覚如だった。
どうやって、この邸奥まで忍び込んだというのか。
この法師はかつて呪師であったから身軽だが、それとて、ここまでうかうか通してしまう、当家の警護には問題がある。
「驚くな。幽霊でも見るように見るな。築地を跳び越えただけだわ」
覚如は仏頂面でぶっきらぼうに言った。
「おぬし、若君をどこへ隠した?」
覚如、挨拶もなしにいきなり用件を言い始める。
敏平はただ面食らって、言葉も見つからない。
それを覚如は苛立ち見て、なお五歩ばかり前に出た。そしてもう一度。
「若君をどこへやった?」
「……わ、若君、とは?」
敏平は呆気にとられつつ、ようやくそれだけ言った。
「何をすっとぼけおって!若君と言うたら、輪台の尼公の若君に決まっておる」
「輪台?」
「おうよ」
それはもしや、自分の恋人の尼公のことかと、敏平はようやく悟った。
「輪台というのですか。若君とは何故?私のような者の子を」
敏平、内心どぎまぎしている。昨日、自分の出生を知ったばかりだ。
真実の身分の自分であれば、その子は若君と呼ばれるに相応しい。まさか、覚如がこの秘密を知っている筈がないが……
しかし、覚如は、
「おぬしの子だからといって、どうということはない。尼公のお子故に若君なのだ。尼公は我が娘ではないからな」
と、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「おぬし、あの若君をどうした?」
「い、いなくなったのですか?」
我が子故に心配である。
「尼公亡き今、私が手元に置いて育てようとしていたのに、こちらの方が聞きたい。私の子をどこになくしたのです?」
「おぬしも知らんのか。なれば、小右京だな。あの女、若君を連れて何処へともなく逃げおったな。我が娘の福生まで盗んで行きよった。くそっ、必ず見つけ出してくれるわ」
覚如、そう言うと、はやくも踵を返して跳び去ろうと身構えた。が、
「お待ち下さい!」
との敏平の凄い声に、膝は挫け、
「何だ!?番人が起きようぞ」
と言って、振り返った。
「尼公がご坊の御娘でなかったとは、誠ですか?いったいどなたの御子だったのです……り、輪台とは?」
言っているうちに、敏平、よからぬ直感が働く。
覚如、なおまだ尼公を我が子同然に思い、自害した理由を敏平のせいだと思って恨んでいる。尼公の出生は、覚如の誇りでもある。
覚如、胸を反らして言った。
「尼公は二条殿の、輪台青海波のご兄妹。母君の二条殿は太皇太后宮の姪君。そのような高貴な御方の御腹の姫君だ。父君は風香中納言殿の御子の忠兼少将殿。尼公は貴種であったのだ。それを、おぬしの如き卑しい者と通じたことを恥じて、自害なされたのだ。おぬしに害された!」
すると、その最後の部分の叫び声に、牢の番人が目を覚ました。覚如、風よりも疾く逃げ去った。
「今、誰かいたか、敏平の君?」
番人、真っ青な敏平へ問う。けれど、敏平は何も答えず、その青い顔に冷や汗を流していた。
朝も早くから敏平が倒れたというので、右大将殿は夕方、朝参より帰宅すると、すぐに獄中の敏平を見舞った。
敏平はもう意識も取り戻し、起きていたが、なお顔色が死人のようにひどい。ただ、眼だけが、長年怨み続けた宿敵と対峙した時のもののようであった。頬が痩けているだけに、それが余計に異様に見える。
右大将殿が思わず背筋を寒くすると、敏平の方が口を開いた。
「何故私が獄に入れられたのか、その本当の理由がわかりましたよ」
「……え?」
「私が真実を知ったら、必ず自害すると思ったからでしょう。自害させて下さらないのですか、どうしても?残酷ですね、あなた方は本当に残酷だ」
右大将殿を射殺さむとするような眼。
「と、敏平……真実は昨日話したが」
「いいえ、全てではないでしょう。私に輪台尼の秘密は隠しましたね?」
「な、何故……それを……」
「尼公を、どこの馬の骨とも知れぬなどと仰有って!尼公は風香殿の御孫!忠兼少将殿の御娘!貴人ではありませんか……私と尼公は、父は違えども、母を同じくする兄と妹だったのですね。こんなひどい現実を知りながら、私に隠していたのですか」
「……話せると思うのか。知ったら、こなたがどんなに苦しむかと思って」
慌てふためいた直後には、もうこのように開き直る。いや、開き直ったと敏平には見えた。
「知ったら、死ぬに違いないと思ったのでしょう?どうしても死なせないつもりですか、残酷な。こんな真実のあるこの世に、いつまでも私を生かしておくおつもりでしたか。お慈悲のないことです。この受け入れ難き真実。尼公の自害の真相はこれだったのですね。ようやく合点がいきましたよ」
「敏平……」
「もう何も包み隠さず仰有って下さい。小右京の君はどちらへ行ったのです?」
「小右京が何方へ行ったのかは知らぬ。ただ、尼公の遺児を連れて都を出た。遠い国へ行くと言うて去ったわ」
「教えて下さい。私は誰です?尼公はいったい何者なのですか?」
「……こなたの敏平という名には秘密がある」
右大将殿は急に何を思ったか、問われていることとは全く関係のない、敏平の名前について語り始めた。右大将殿もかなり動揺しているのに違いない。
「こなたの実父の韶徳三位殿には一人、猶子がいた。いとこの備中前司の娘だ。これを猶子として、諱(いみな)を重子(しげこ)と名付けた。こなたにとっては義理の姉君だ。そして、二条局との間に実子のこなたが生まれた。その後、二条局とは離縁なさって、二条局は三位殿の兄君・忠兼朝臣との間に姫君を儲けられた。これが尼公だ。三位殿にとっては姪君だが、こなたにとっては、父は違えど妹。故に、怒りを捨てて、三位殿は尼公の世話をなさった。経王御前と名付けての」
ここまで話すと、右大将殿は一呼吸おいた。
敏平は先を促すような眼。
「時に、こなたは何故敏平という名なのか、考えたことはあるか?」
「亡き姫君が付けて下さった名ですが?」
「そうだ。姫君は我が妹ながら、流石に察しのよい人であった。長姉(このかみ)の姫は重子。仲のこなたに何と名付けるつもりでいたか、三位殿は。こなたの妹に経王御前と付けたのだから。三位殿のお考えを読み取って、亡き姫君はこなたに敏平と名付けるよう、私に遺言したのだ」
「……?」
「重、経は宮、角に同じだとか。つまり、重とは宮であり、経とは角である。重子と経王御前という名は、五声に由来するのだ。とすると、仲のこなたは何と名付けられるべきか」
「宮と角の間ですから、商です。宮、商、角、徴、羽が五声ですから」
「だから、こなたは商なのだ。商は敏に同じ。宮、商、角は、重、敏、経と申すこともあるとか。三位殿の命名の意図を我が妹が察して、こなたを敏平と命名したのだ」
「私は恐ろしうございます。経王御前つまり尼公は、紛れもなく我が妹であったのですね。名前からもそれが明らかなのですね。その間に子ができたなぞ!小右京の君が連れ去ったとはいえ、世にこのことが知れ渡ったら……!いえ、その子そのものが恐ろしい。殿、お願いです。見つけ出して殺して下さい。そんな得体の知れないものを、大人に成長させてはなりません。……私、この先どうやって生きて行けばよいのですか?」
そう言われてしまうと、右大将殿もどうしてよいやらわからなくなってしまう。ただひたすら敏平の身が案じられた。このまま牢に入れておいたら、心を病み、体力次第に衰え、遂には病魔に蝕まれてしまうだろう。
「獄から出してやる。まずは養生せよ」
ようやく敏平は解放されたのであった。
それから讃岐の局に忍び込む。
讃岐は大北ノ方に呼ばれていて不在らしい。局の中はがらんとしていた。
敏平は屏風の前に忍び寄る。その裏の讃岐が執着する太刀に、すっと手を伸ばした。太刀を手に取り、腕の中に抱く。
尼公は狡いと思った。現実から逃れる道を選んだ。いくら受け入れ難い真実だからとて。酷い。敏平にだけ責任を押し付けて。
ぎりと手の中の太刀を絞り上げれる。
その時、
「何していやる?」
と、背後から声を掛けられた。紛れもなく讃岐の声。
「母上」
敏平は振り返りもせず、太刀を両の袖でくるむようにした。
讃岐は戸口より中に進んできて、目敏くそれを見つける。
「太刀をどうするつもりか?」
「いえ、何でも……」
「それで死ぬ気か?」
讃岐は眼を尖らせた。
「まさか!」
敏平、内心ぎくりとする。
「誤魔化しても、母にはわかるわ!」
讃岐はそう怒鳴ったが、敏平、それで急に彼の中の何かに火が点いた。
「母上っ!」
と、急に語気を荒げると、
「いや、母と呼ぶべきか」
と、言い改めた。
讃岐はその一言で、全てを悟った。気を鎮めようと努めながら、
「何もかも、お知りになったのか……」
と問うでもなく、ぽつりと呟く。
「母上。この敏平はいったい何者なのか?」
相変わらず魄霊のように覚束ない様の彼だが、その意志薄弱そうな姿に反して、鋭い声と語気であった。
讃岐は責め立てられているような心地がして、眉根を強く寄せる。
「申し訳ありません。貴人(あてびと)としてお育ち遊ばす筈の御身を、二十一になる今の今まで、卑しい者の子と偽ってお育て申してしまいました。如何に御身の御命を助け参らせんがためとは申せ、誠に恐ろしい罪を犯してしまいました」
「母上」
「卑しい者とて、今まで幾度となく口惜しい思いを遊ばしたことでしょう。身分が欲しやと思われたこと、これまでに何度となくあったことと推察……」
「母上っ!」
綿々と詫びる讃岐の、讃岐らしからぬ態度を見ているうちに悲しくなってきて、ついその言葉を遮った。
「あなたは。あなたにだけは、否定して欲しかった、母上。あなたを他人ではないかと疑ったことは、これまでに一度もない。今でもあなたを母以外の者だとは信じられない。なのに!どうしてどうして否定して下さらないのです。どうして、大臣のお話は全て嘘で、真実おことは我が子よと仰有らない!?」
「敏平、の……君」
「母上!!」
激昂する。胸が苦しい。痛い。
肉親の情そのままの絆で結ばれていた愛する母が、母ではないとは。この人との絆が、肉親の情愛ではなかったとは。
敏平の幽鬼のような体に、強い悲しみの魂が宿った。散々に泣き腫らした眼を再び涙でいっぱいにする。
讃岐もいつの間にか泣いていた。床の上に手をついて、ただ、
「許し給え、許し給え」
と繰り返す。
讃岐とて、敏平を実の子と思わぬ日はなかった。本当は貴人なのだという思いもいつしか消えて、本当に腹を痛めた子だと信じるようになって、今日まで育ててきたのだ。いつかは真実を告げねばならぬ日がくる。そう不意に思い出し、我が子でなかったことを確認する時も、ままあった。その度に、永遠にその日が来ぬようにと願い、その日の訪れを恐れた。その日が訪れ、そして、その後のことを考えると、空恐ろしくなった。今までの関係が崩れてしまう。いや、その日の訪れた後のことなど考えたくなかった、考えられなかった、考えなかった。
その思いのたけを、讃岐は全て敏平にぶつけたかった。だが、怜悧で冷静で、正しき判断をしなければならぬ。讃岐は母としての思いを無理矢理胸に押し込んで、泣く泣くこう言うしかなかった。
「御身は確かに韶徳三位殿の御子。母君は二条殿にて、我が腹痛めし実の子にあらず。御身をお預かりして、我が子としてお育て申し上げました。偽りましたは、御身をお守りせんがため。御身は勅勘の人のお子なれば、処刑される恐れがあったのです。故に、我が子として、卑しい身分に落としてお育て致しました。なれど、父君の御技のみはお伝えしようと、亡き姫君が御身を弟子とされ、琴呉楚派の灌頂をお授けになられたのでございます」
「あなたまでもが、私の生母が二条殿だと仰るか」
「そうです!」
きっぱり言い切る。
敏平は、今までとはまた別の、苦い表情になる。
「では、私が青海波の君だというのか。山階の尼公は輪台の君だという。二条殿の御腹の姫君なのだと……父は違えど、同じ人の腹から生まれた私と尼公。尼公は私の妹だと仰るのかっ!!」
敏平の絶叫に、讃岐は嗚呼と泣き伏し──。
「輪台尼は私の妹。私は妹と通じ、妹は兄の子を産んで死んだ」
「──確かに、死んだら楽でしょう」
袂を涙で濡らしながら、讃岐は言う。
「母の心情としては、御身に尼公の後を追わせて差し上げたい気も致します。あの世へ行けば、実のご家族とも再会できましょう。なれど、生きて頂かなくてはなりません。慈悲のない仕打ちと思し召すやと存じますが、御身は死ぬことを許されぬ身なれば」
敏平、眉を吊り上げた。
「それは、どういうことです?」
「申し上げるまいと思っておりました。死ぬまでこのことは隠し通そうと誓うておりました。御身が余りにお可哀想で。なれど、四辻狩りが行われたのに、どうして無事に生きられたのか、御身も疑問に思っておいででしょうから、思いきって申し上げます。それに、そうすれば、二度と死ぬなぞと情けないことは仰有いますまい。ただ、本当の厳しい現実をお教えせねばなりませぬ」
讃岐は自らを奮い立たせるためか、いつもの彼女らしく凄んだ。
太刀を敏平の手から奪い取り、それをぎゅっと握りしめたまま、敏平を睨めつけるようにして見つめる。
敏平も真っ正面から讃岐を見返す。
「よいですか。これからお話しすることは、御身のご出生の事実よりも恐ろしきこと。覚悟して聞かれよ。なれど、この話を聞けば、どんなに堪え難く思おうとも、死ぬことが許されぬことを悟られるでしょう」
讃岐、もはや慈悲は完璧に捨てきって、長々と昔語りを始めたのであった。
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貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
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