七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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乱声

九拍・母(伍)

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 修理大夫の邸は四条室町にあった。そこに二条殿を迎え入れ、前腹の右兵衛佐、左馬権頭と共に暮らしているのである。

 敏平が赴くと、修理大夫が迎えに門口に立っていた。実に人のよい小男である。五十を幾つか出た位に見える。髪にはいくらか白いものが混じっていた。ふっさりとした顎髭をたくわえており、その髭の中の口が、いかにも人のよさそうな笑みを形作っていた。

「やあ、敏平の君。よく見えられた。さ、これへこれへ」

 敏平が挨拶するよりも早く、招き入れる。敏平は継子なわけだが、彼に対するこの態度は立派なものだ。この人は人格者なのだろうと、敏平は心の内で思った。

「お邪魔致します。私のような疎ましい者に、かように真心をお示し下さろうとは……日頃、母がお世話になっていることと共に、重ねて御礼申し上げます」

「なんの」

 修理大夫は硬い表情の敏平に、にっこりと笑顔を見せた。

「貴殿が見えると聞いて、母君は昨日からそわそわしておいでだ。首を長うしておわそう、すぐにも逢ってあげられよ」

と、自身先に立って、北ノ対に導いてゆく。

「母君に逢えるの、楽しみでおわそうの?」

 途中何度も話し掛けられたが、敏平は短く答えてはすぐに黙った。

「それとも、怖いのかな?」

 急に立ち止まって振り返り、顔を覗き込まれたので、敏平は困ってしまう。

「……え。ええ、少し」

と答えた。

 期待と不安で胸がいっぱいなのだろうと、修理大夫は独り合点に頷いて、また歩き始めた。だが、敏平は意外にも冷静だった。

 物心つかないうちに別れた母との、二十数年振りの再会。それだというのに、心は騒がず、不安もなく、喜びもない。何もない。ただ一つの心配事と言えば、母が輪台尼のことをどこまで知っているのかという点だけである。

 自分と尼とのことをもし知っていたらと、胸に少しの恐怖を覚えた時、遂に北ノ対に着いてしまった。

「さあ中へ」

 妻戸を開けて、修理大夫が声をかける。戸口に立って、敏平の方を先に中へ導き入れた。その後で入ってくるのかと思えば、

「では、みどもはここで」

と言って、外から戸を閉めてしまったのである。

 敏平は初めて動揺した。

 中は薄暗く、がらんとしている。正面に御簾が垂れているが、周囲には女房らしき影も見えない。母と二人きりにされてしまったのだろうか。

 どうしようと途方にくれた時、

「青海波の君?」

 御簾のずっと奥の方から、中年女性の声がかすかに聞こえた。

 母か。

 心に動揺が走る。何故かその声を聞いた瞬間、身動きできなくなった。

「青海波の君ですね?」

 再び奥からの声。同時に、奥の人が身じろぎしたようだ。衣擦れの音がする。そして、それは確実にこちらに近づいてくる。

 嗚呼、来る!

 彼は目を瞑った。逃げ出したい。逃げたいのに、何故か足に根が生えたように動けない。

「青海波の君」

 ついに、御簾のすぐそこまで、それは近づいてきた。気配も感じられる。

 御簾に、手をかけたような音がした。

「お、青海波の君。なんと大きゅうなって」

 そう言いながら御簾をくぐって、こちらに出てきたようだ。だが、そこでぴたりと止まった。

「お、お……青海波の……」

 語尾は涙声になって、そして、しゅくしゅくと泣く女の声。

 敏平はぎゅっとつぶっていた目をゆっくり開けた。

 三歩ほど離れた所に、松襲ねの五衣を着た女人が、袖に顔を埋めて立っていた。

 これが母か。

 脳がそういう言葉を発した。

 これが。この泣いている人が、母……

 彼は暫くその姿を見ていた。この人が母なのかと、ただそれだけ思いながら。ただ見ていた。

 だが、しばらくすると、急に彼の中に反発がわき上がってきた。

 どうしたわけか、急にこの泣き伏す女の姿が、深草の君に重なって見えてきたのである。

 女とは何と信じられないものだろう。

 彼は顔も上げられずにいる母に、冷たく言った。

「伯父の子が、どうなったかご存知か」

 氷のような声にはっとしたのか、問いに対してなのか、ひくっと急に母の身が止まった。そして、ゆっくりと顔を上げ、恐る恐るこちらを見た。

 目が合いそうになると、敏平は反射的に視線を逸らす。

「伯父の姫君の行方をご存知か」

「……」

 母は明らかに動揺している。子との再会で、子から聞く最初の言葉がそんなものだとは、想像もしていなかったのだろう。

 敏平にとっては別に感動的でも何でもない、母との再会である。

「……わ、私は若君しか産んでいません」

「は?」

「……」

「御身は若君と同時に、姫君も産んだ筈ですが」

「許して下さい。私の過去の過ちは……反省しているのです。私の身勝手な行動。あなたを見捨てたこと。あなたの父君にご迷惑をかけたこと。本当に私が悪かった……かわいそうなことをした、申し訳なかった、あなたに辛い思いをさせて……ええ、許してとは言いますまい。ただ謝ります。この通り」

 母は膝を折って両手をついて詫びた。土下座のまま、頭を上げようとしない。

「天罰が下ったのです。一度に若君と姫君を産んだことは……あなたへの罪に対する天からの裁き」

「で、姫君はどうしたんです?」

「生まれてすぐに捨てました。その後どうなったのか、無事に大人になれたのか、どこでどうしているのか……でも、一度も忘れたことはありません。あなたのことは、毎日想っていました。姫君のことも、ただ申し訳なく……」

 母は本当に、自分の双子の娘のことを知らないらしい。何だか愉快な気持ちになった。母は、捨てた双子の娘が、前夫に拾われ養われたことを知らない。

 教えてやるものか。敏平の意地の悪さが、そう言ってほくそ笑む。

 母はそう、娘が輪台尼であることも、その尼と敏平のことも知らない。そう確信し、安心感も生まれていた。

「お泣きなさるな。泣いても、過ぎたことは取り返せない。それよりも、以後、誤った道を進まぬよう、努められることです。新しい夫君を不幸にしないようになさいよ。新しい家族との幸せを考えて、生きて行かれよ」

 吹っ切れた。

 そう思った。母に会ったことで、何もかも吹っ切れた。

 彼はくるっと背を向けて、そのままずかずかと闊歩し、戸を押し開けると振り返りもせずに出て行った。きっと、中の母は泣き伏しているだろうが、別に気にもならない。

 渡殿まで来ると、修理大夫が柱の前に佇んでいた。敏平の姿を見、ちょっと驚いたらしい。目を丸くして、

「もう終わりか?」

と柱から離れて、こちらに向かってくる。

 敏平は立ち止まって、深々と礼をした。

「有難うございました」

「もう帰るので?お急ぎのご用でも?」

「ええ、まあ……。失礼致します。このような場を設けて下さり、かたじけのうございました」

 敏平は再び歩き出す。その背へ、修理大夫が、

「またいつでもいらっしゃい。遠慮しないでいらっしゃいよ」

と、声をかけた。

 だが、敏平はもう振り返らなかった。
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