七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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乱声

九拍・母(陸)

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 敏平が母と会うことは二度となかった。また、深草の君への思いを再燃させることも。

 母に会ってからは、何か憑き物が落ちたように清々しい様子。顔なども、紗を一枚被ったような今までとは違い、明るくつやつやしている。

 だが、相変わらず六条太政大臣家に厄介になっている。そして、自分の練習と弟子の稽古に励む日々であった。

 民部卿局(諱・宗子)は師の心を敏感に察していた。師は女を信じなくなった。自分も女、きっと最低だと思われているのだ、そう思っていた。

 その思い込みが果たして的を得ているのか、敏平は相変わらず誰にも灌頂を授けていない。弟子中随一際立つ才能と実力を備え、桁違いの根性と意地を持つ努力の人・民部卿局にも、決してそれを授けようとしない。

 民部卿局の実力ならば、授けられてもおかしくはない。この優等生はもしかすると、過去の血脉の中の人より達者かもしれない。灌頂を受けた人でも、この民部卿局以下の人もいた可能性がある。それほど、彼女は上手なのだ。

 だが、敏平は授けようとしない。彼女に勝る者は他にいないのに。

 民部卿局こそが、敏平の後継者である筈だ。

 民部卿局は欲と焦燥感と日々葛藤していた。

 何故自分への灌頂はないのか。その問いを彼女は師にぶつけたことは未だにない。女の奥ゆかしさが、それを憚らせる。それを問うことは、師への非礼とも思う。師は絶対君主にして、弟子は奴僕、師に忠誠し、侍かなくてはならぬものという考えである彼女故に。

 だが、言葉にはせずとも、弟子の頭の中のことなど師にはお見通しである。およそ師と呼ばれるような立場の人は、他人の自分への目、世間の評判をとかく気にするものである。殊に、弟子が何を考え、自分に対して如何なる気持ちであるのかということに敏感だ。

 敏平もまた、民部卿局の頭の中にあることは、常に気にもし、察していたのだ。そういう勘のよさが彼にはある。

 ある時、敏平は亡き師の清花の姫君の言葉を思い出しつつ、民部卿局へ言った。

「人というものは、頂点が見えぬからこそ、生き甲斐を感じるものなのです。見えぬ頂点を目指すからこそ人生は喜び、希望に溢れている。目標に達してしまうと、案外がっかりしてしまうものでしょう。一度頂点に達すると、あとは気持ちも下るだけです。頂点なんてものは、人生最期の時まで到達するべきものではない。いや、頂点なぞは極めぬままに、人生は終わる。そういう、頂きが拝めぬような高い目標を持って、それに向かって努力するべきものなのですよ」

 その言葉から、民部卿局は察した。敏平が彼女へ灌頂する気はないのだということを。

 灌頂は一つの高い目標。それこそ人生をかけて目指すべきもの。生涯、到達できないかもしれない程のものだ。

 だが、敏平にしてみたら、それは一つの大山の頂上に過ぎず、人生の一通過点に過ぎないのだろう。彼には彼女が灌頂にこだわり過ぎているように思えた。

 そうはいっても、民部卿局にとっては、やはり大きな夢なのだ。彼女だけでない。琴を学んでいる全ての人間にとっての最大の夢。得てみたい夢。

 確かに琴の楽を極めるのに、灌頂が最終目的というわけではない。灌頂のために琴を弾いているわけではない。あくまで民部卿局が琴を弾くのは、その芸術を極めるためである。

 とはいえ、未だ目標の頂上というものに到った経験のない民部卿局は、師の言葉が気に入らなかった。「目標に達すると、案外がっかりしてしまうものでしょう」という言葉は、一度でも頂上を味わった経験のある人間の言葉なのであって、彼女には全く理解できない贅沢な心境だ。

 灌頂という目的が達成されれば、がっかりしてしまうものなのか。その後は、心も技も下降線を辿ることになるのか。

 だが、それでもよいではないか。がっかりしても、悩んでも、苦しんでも、絶望してもよいではないか。このまま一度も頂上に到れぬまま、夢一つ叶えられぬままに人生を終えるよりも。

「それとも、夢というものは叶わないものなの?頂点というものは、ないものなの?それを極めることはできないまま、人間は死んでゆくものなの?夢だけ見続け、上を見続け、叶わぬことに絶望したまま、死ななければならないものなの?」

 一度きりの人生なのに、一度も幸福を噛みしめずに死ぬのか。

「なんて悲しい生き物なの、人間は……。来世では猫や犬、いえ、虫、草花になりたい……いえいえ、木石がいいわ!」

 いやいや──口に出してみて、急に考えが変わる。

 そんな後ろ向きなことは言ってはいられぬ。もうすぐ稽古の日だ。いつでも前を見ていなくては。

 思い直して、また練習に励む。

 まだまだ練習の仕方が甘いのだ。もっと厳しく。厳しく!

 ところで、この民部卿局には姪がいた。さすが民部卿局の血筋、箏の天才少女である。

 民部卿局はこの姪と同居はしていなかったが、親しく交流していた。

 民部卿局は実祖父で養父の公頼(きんより)のもとに身を寄せているが、姪は実父の頼時の邸に住んでいた。

 ある日、民部卿局が実父を訪ねると、ちょうど姪が箏の稽古から帰宅したところだった。

「あす、調子はどう?」

 箏を抱えて車宿りから歩いてきた姪のあすに、民部卿局は笑顔で声をかけた。だが、あすは急いでいるのか焦っているようで、無愛想に、

「ええ、まあまあ」

と応じると、足早に自分の部屋に入ってしまった。

「まあ、何なの、あの子」

 後からついて歩いてきたあすの乳母に文句をつける。

「申し訳ございません」

 乳母は民部卿局に頭を下げた。

「今、稽古から戻られて、師の君に注意されたことを忘れないようにと、すぐに復習なさりたいのだそうです」

「稽古から帰ってきて、すぐ練習?」

「左様で」

「疲れていないの?」

「それは、大層お疲れでしょうが……それでも、なさらずにはいられないのでしょう。とても熱心でいらせられまする故」

「何言ってるの。頭も体も疲れたという実感があるならば、相当な疲労よ。耳はもっとよ。信じられないくらい鈍くなっているわ。それなのに練習なんて、無駄よ。いえ、逆効果!」

 乳母を叱りつけても仕方ないとは知りつつも、つい言って、彼女はあすの部屋に入った。

 中ではあすがむきになって練習している。それを邪魔して、

「あす、おやめ!」

と、大声で言った。

 ぴたりとあすは手を止める。そして、非難がましい顔をこちらに向けた。

「何かご用?」

「休みなさい。ちっとも集中していないではないの。やるだけ無駄よ」

「疲れたなんて、甘ったれたことは言っていられません!」

「疲れたのに練習したって、耳が死んでいるのよ。よくなるわけないでしょう。また、疲れきってしまうくらいでなければ、よい稽古ではない。稽古の後でも練習できてしまうなんて、ろくな稽古ではないわ。全身全霊で稽古に臨まなければ、師から何も吸収できない。稽古の後は精魂尽き果てて、倒れ込むようでなければ。練習できる余力が残っているということは、こなたは適当に稽古を受けてきたのね」

「そ、そんなこと!」

「情けない子ね」

 自分の口惜しさをあすにぶつけて、憂さ晴らしをしているのか。民部卿局は口汚く姪を罵り続けた。

 姪に八つ当たりしているのかもしれぬ。そう冷静に思うもう一人の彼女も脳裏にはいるが、止められない。

 姪への言葉は、自分への言葉なのであろう。
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