七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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後序

三拍・禁指(参)

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 追い討ちをかけるように、不幸な出来事が敏平を襲った。

 梅若が東寺に入ってしまったのである。

 人々が寝静まった時刻にこっそり家を出て、行ってしまった。

 両親は慌てた。

 東寺から、梅若が出家させて欲しいと駆け込んできたという連絡があったので、敏平は腹の大きな今出川殿と連れ立って、東寺へ急いだ。

 東寺の法務は何かあると察して、僧房の一つをこの問題を抱えた家族のために空け、家族水入らずで話し合うよう言った。

 梅若の怒りは未だ収まっていない。その強い怒りと出家するという言葉に、今出川殿は嘆くばかりだった。

 敏平は、何か誤解している梅若に、愛の大切さを伝えむとした。

「人は愛するからこそ人なのだ。人にとって、最も大切なことは愛。愛を知れば、悲しみも楽しみも知り、思いやることを覚える」

 だが、梅若は明らかに軽蔑の眼差しを向けた。もはや、「汚らわしいことです」とも言わなかった。

 梅若は、こんな父の血を後に残したくないと思った。自分にも、この父と同じ血が流れていると思うと、ぞっとする。

 この男のいやらしい性情を自分も受け継いでいたら、どうしたらよいのだ。自分も汚れているのだとしたら。いや、汚れている!

 人間が、どのようにしてこの世に誕生するか。人間が、愛を最も大切だとするのは……

 男と女の汚らわしき行い。情欲の大罪の果てに、女は男の子供を宿す。子というものは、情欲の果てに産み出されるものなのだ。

 情欲の産物に他ならない子は、生まれながらに両親の情欲を受け継いでいる。故に、長じれば、この子もまた欲情の限りを尽くし、子を儲ける。その子もまた情欲の虜となり、子を儲け……。人は綿々とこの情欲によって、子孫を残してきた。

 情欲は生物としての本能である。生物にとって最も大切なことは、種の保存。人以外の動物を見れば、それぞれの動物の一生の中で、最重要な行いが、交尾と出産であることが明らかだ。動物ばかりでない。植物でさえ受粉して種をこぼし、次の世代を発芽させることこそが、生涯の最重要事項。いかなる生物であれ。雄と牝が交わり次世代を残す、それこそが生物であることの根本なのだ。それは、人とて同じこと。

 だから、両親の情欲が最も尊く、大切で、寧ろ神聖なことなのかもしれないとは、梅若でも知っている。だが、梅若の潔癖さは、どうしても父の情欲が許せなかった。いや、父だけでない。全ての。

 情欲のもとである愛というものさえおぞましく、汚らわしく思える。愛と聞くと、知らず鳥肌が立ち、寒気を覚えるのだ。

 ましてや、彼の両親の間に愛があるとは思えない。愛のない男女が、ただ情欲により結びつき、子をなしている。想像してみるがよい。愛のない男女の、ただ欲情にまかせている姿を。何というおぞましさ。汚らわしさ。

 こうして自分は産み出されてきたのだと、彼は思った。自分が人である以上、きっと自分にも情欲というものが隠れ住んでいるのだろう。まして、あの父の子であるならば、相当質の悪いものであるに違いない。自分は常人よりも汚れているのだ。

 梅若は以前から、漠然と妻を持ちたくないと思っていた。そして今、はっきりと決意がかたまった。

 女犯は決してしない。それとは無縁の生き方をするのだ。

 生涯女には触れるまい。そうすれば、生まれながらに持っていた情欲の罪も薄れ、死ぬ頃までにはその罪、ほとんど消えているのではないか。死ぬる時、罪から救済されるのではないか。

 今出川殿がどう説得しようとも、梅若の決心は強い。

 東寺の法務も、ここまで強く出家を望み、修行して徳を積みたいという少年を、滅多に見たことがない。どこか期待さえ覚え、

「ここまで修行を望んでいるのならば、必ず成し遂げましょう。必ずや賢人となり、世のために、人々のために役立つ存在となりましょう」

と、東寺としては、是非とも梅若を預かりたいと言った。

 今出川殿は泣き続けている。

 敏平は、

「人にとって、恋とは素晴らしいものなのに。男が女と出逢い、恋をし、やがて子に恵まれ、家族の愛を育んでゆく。それこそが、人間にとって最も幸せなことなのだ。先祖に感謝し、子孫の繁栄を願う。その人として当然の情愛を拒み、子を持ちたくないなどと、こなたが本気で考えているなんて……生まなければよかった……親として、こんなに悲しいことはない。私自身を否定されたようだ」

と言い捨てると、身重の今出川殿の手をとって立ち去った。

 諦めて、息子を寺に預けて帰って行く父。その背に梅若は、

「あなたの血を残したくないのですよ。あなたの汚れた血を受け継ぐ子を生み出したくない」

と冷淡な言葉を、小さな声で浴びせかけていた。

 梅若はその後得度して、以後ひたすら厳しい修行に打ち込む。修行にのみ生きた。

 かの東寺一の長者・賢真とは、後年の彼のことである。一代の賢僧となり、法務にまで昇りつめ、即身成仏のためだけに生きた賢真こそ、この日の梅若だったのである。

 邸に帰ってきた敏平は、あまりに悲しく、すっかり冷静さを欠いていた。妻にまで気など回らない。梅若の考えがどうにも理解できず、混乱している。

 粟田口尼のこともあり、彼はもうわけがわからなくなって、この世から逃げ出したくなった。

 同じ日。

 検非違使別当公季卿も、深刻そうに眉間に皺を寄せていた。彼は文書に目を落としている。

 現在扱っている事件の関係書類。今回の事件は、けっこう厄介なものだった。

 文書を見るでもなく視線を置いたまま、彼は次なる調査の計画を頭の中で組み立てていた。

 その時である。判官がやって来て、驚くべき報告をした。

「この度のこと、十年前の事件と関わりのあることであると突き止めました」

 そう言って、新たな報告書を出す。

 公季卿はそれを受け取り、すぐに読み始めた。しばらく読んでいたが、

「十年前の事件で押収したものがあるのか。今も残されているか?」

と訊いた。

「はい。ございます」

「それを見れば、今回の事件の鍵を解く手掛かりとなるかもな。見てみよう」

「持って参りましょう」

「いや。自分で行く」

 公季卿は判官を従えて、古い事件の押収物や書類を置いている蔵へ。普段、あまり使うことはない。だが、

「開けろ」

と命じて開けさせた戸からは、塵一つ舞い上がらない。

 公季卿と判官は蔵の中へ足を踏み入れたが、役人どもが頻繁に掃き清めているのか、蔵の床には埃も塵も落ちていなかった。

 蔵の中は幾重にも棚が組まれ、その中いっぱい荷物や書類が積まれている。棚に入りきらないものも、床から山積みになって、蔵じゅうを埋め尽くしていた。

 役人どももそれらには手を触れないのか、どれにも埃が積もっていた。

 荷物の山の間をぬうように走っている通路。まるで獣道のようだ。その清掃の行き届いた床と、埃だらけの荷物の山。その差の著しい中を、公季卿は進む。

 蔵の最も奥の四つ角の所で判官が、

「多分、この辺りにある筈です」

と、注意した。

 そこら辺の床にも、布に被われた大小様々な物体が所狭しと積まれている。

「わかった」

と公季卿、さっそく判官と、その辺りの物を探り始める。

 一つ一つ手に取ってみる。だが、なかなか目当ての物は見つからない。

 あれやこれやとやっているうちに、ふと公季卿の目を引く物があった。無造作に置かれているが、蒔絵を施された大きな箱である。

 公季卿、思わず蓋を手に取っていた。

 中を見てびっくり。何と、鮮やかな蜀錦の袋が出てきたではないか。少しも色褪せせず、くっきりと濃き紅色をした袋。かなり大きく、しかも二つある。中には堅いものが入っているようだった。

「はてな?」

 つい公季卿はその袋の紐を解いてしまった。

 一つ目の袋は細長い。中から出てきたものは、一張の琴であった。それもかなりの上品。

 その琴が普通の代物でないことは、一瞥してわかる。

 どうしてこんな所にこんな立派なものが蔵されているというのだ。琴士・公季卿の心の臓は、胸騒ぎのようにざわめき始める。

 彼は息を切らしながら、もう一つの袋に手を伸ばした。

 こちらは開けなくても、形から琵琶だということがわかる。それでもその紐を解き、中身を確かめる。

 中からは琵琶一面と、紙一枚が出てきた。

 その紙を見て、公季卿は凍りついた。紙は昔の検非違使が書いたもので、この押収品のことについて纏めて箇条書きしたものであった。それによると。

 この琵琶も琴も、粟田口尼を捕らえた時に、押収したものだというのだ。

 かの尼の遺品を、まさかこちらで所蔵していたとは。しかも、尼はこんな立派な琴も持っていたのだ。改めて、あの女は何者なのかと思った。恐ろしい。

 彼が関係ないものを広げて見入っているので、判官が、

「どうなさいましたか?」

と、声をかける。

 公季卿、我に返り、慌てて言い繕うが、判官も深く考えることもなく、また目的のものを探し始める。

 それから間もなく、今回の事件に関わる品物が見つかり、公季卿は再び今片付けるべき事件に取りかかった。

 そうしているうちに数日が経ち、公季卿は今回の事件に忙殺していたが、あらかたこちらは片付いてきた。

 少し時間に余裕が出てくると、彼はつい粟田口尼のことを考えてしまう。彼女が琵琶の名手であったことは確かだった。だが、だからといって、あれほどの琴を持っているのはおかしい。洛神図も持っていたというし、いったい何者だ。

 だいたい、院を毒殺するなど。絶対にただ者ではない。

 そして、公季卿は、敏平がやたらと尼のことを知りたがることが気になっていた。これは絶対何かあるだろう。洛神図の真相を知るためだと敏平は言っていたが、そんな単純なことばかりでもないように思えた。

 調べてみる必要がある。公季卿は一つ試みることにした。

 四日後は稽古の日である。

 敏平は都にいたくなかったが、無責任に稽古を休みにするわけにもゆくまい。

 仕方なしに、公季卿の来訪を待った。北白川の邸で。

 公季卿は稽古の時間ぴったりにやって来た。いつもとは違う琴を携えて。

 敏平はそれを目敏く見つける。

「どうしましたか、その琴は?」

「ええ。素晴らしい琴でしょう?」

 公季卿は誇らしげにそう答え、敏平にその琴を差し出した。

「ある商人から買ったのですよ」

 そう言ったが、無論、これは粟田口尼の押収品である。

「やっ!?」

 敏平が頓狂な声を上げた。

 裂冰紋が見える。思わず琴を裏返した。

「舜琴……」

 掠れた声で呟いた後、

「韶徳三位殿の形見の琴だっ!」

と絶叫した。声は裏返り、半分掠れている。

 しかし、そんな聞き苦しさなど気にもかけず、敏平は興奮したまま、

「これを、どうしましたか!三位殿が捕らえられた時から消えてしまったのですぞ!長年行方不明になっていたものを、大理卿はいったいどうしてどうやって、これを手に入れたのですか!?」

と顔を真っ赤にしている。

 やはり──公季卿はそう思った。

 しかし、公季卿はとぼける。

「そんなにとんでもない代物なのですか?」

 色にも出して、驚いて見せる。

「それはそうです。だって舜琴ですよ!」

 興奮し過ぎている敏平は、しゃべり過ぎを恐れることもなく、見境なくまくし立てる。

「これは舜琴。南唐派の南風と対をなす名器。太古の昔、帝舜が琴で南風を歌い舞ったという伝説に因む銘です。舜琴・南風は揃って唐より我が国に伝来しました。何大人が持っていらしたのです。南風はそのまま南唐琴門の宝物となりました。一方舜琴は、呉楚派の政任朝臣に贈られました。何大人の政任朝臣への友情と尊敬の印として。その後、広仲、三位殿と受け継がれたのです。三位殿が捕らえられた時、押収された筈なのですが、何故か行方不明となっていたのです。どうして大理卿がこれをお持ちなのです?」

「さあ、私にもさっぱり。私も商人から買っただけですから。三位殿が捕らえられた時、押収したこの琴を、悪い役人が商人に売りさばいて儲けてしまったのでは?」

 やはり公季卿は、粟田口尼が持っていたことは言わない。しかし、これで粟田口尼のことが少し判った気がするのである。

 一方、敏平は敏平で、粟田口尼の素性に、恐ろしい予感がある。この予感が当たっていたら、帝に察知される前に身を隠した方がよい。

 自分の中でそれを理由にしたのか、言い訳にしたのか、敏平は公季卿の稽古が終わると、その夜、逢坂の乙女のもとに行ってしまった。産み月間近でありながら、梅若のことで悩み悲しんでいる妻を置いて。行ってしまったのだ。
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