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序章
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一人の老人が、見事な山桜の巨木を前に、物語した。満開の桜を眺めながら。
──────────
それは昔。
上野に一人の少年がいた。彼は名を信時と言った。都の貴族だったが、賊討伐のために下向して、そのまま土着したのであった。
彼の兄は、上野周辺の武士団の盟主として、人々から大変尊敬されていた。
ある時、信時は兄から二千の兵を与えられ、隣国・下野へ進軍した。
盛夏の中での進軍であった。
猛暑である。人も馬も疲れきっていた。しばらくこの辺りで休憩した方がよさそうだ。
総大将の信時は、全軍に休めと号令した。
丁度川が流れている。
兵達は次々に川へ飛び込んで行く。
ところで、この近くには、名水の湧き出でている所がある。老将の俊幸は、かねてからこの湧き水の名を知っていて、機会があったら飲んでみたいと思っていた。
信時は、ふとそのことを思い出して、
「おおじを呼べ」
と、従者に命じた。
俊幸は、信時の母の叔父である。信時の母は、身分卑しい女の腹から生まれていた。つまり、叔父とはいえ、俊幸は身分が低い。信時やその母には、臣下という立場で仕えていた。
信時は、それでも俊幸に対して、肉親の情を感じている。乳父よりも、俊幸に懐いていたし、俊幸も、まるで孫を見るように、目に入れても痛くないというような、可愛がり方であった。
やがて、従者と共に現れた俊幸は、温和な人柄をそのまま顔にした老人だった。
「お呼びで、若君?」
「おお、おおじ。ちょっとそこまで、つき合わぬか?」
「ほあ?どちらへ」
「まあ、よいから」
「はあ?」
信時は、すたすたと先を歩き出してしまった。そして、そこに繋がせておいた馬に乗る。
慌てて俊幸もついて行った。
しばらく馬を歩かせていると、本当に炎天下がこたえる。
「それにしても、暑うございますなあ」
老人の、鈍い感覚にさえ、それは激しく訴えてくるのだ。日なたの気温は凄まじい。
やがて、信時は、前方に簡素な庵を見つけた。
それを通り過ぎると、目当てのものが目に飛び込んでくる。
「あれだな」
「はい?」
大きな池があった。清らかな水を漫々と湛えている。
「あっ!」
初めて老人は、若君が供を命じた理由に気付く。
「おおじ。前に、この水を飲んでみたいと言っていたな」
「なんとも、いやはや……」
孝行な若君である。
年寄りは涙もろい。すぐにぼろぼろ涙をこぼし始めたので、信時は慌てるやらおかしいやら。
「喉が渇いた。早く飲もうよ」
「はい。はい」
下馬し、二人は連れ立って池のほとりまでやって来た。
相当大きい。かなりの水量だ。
沢山の人が訪れては水を汲み、喉を潤すのだろう。柄杓が幾つか置いてある。
信時は柄杓を取って水を汲む。名水で満たしたそれを俊幸に渡し、さらにもう一つの柄杓に水を汲んだ。
俊幸は柄杓を押し頂いたまま、信時が次の柄杓に水を満たすのを待っていた。
信時が、柄杓に口を付け、一口飲み、
「うまい。おおじも飲んでみよ」
と言うと初めて、
「では。戴きまする」
と、有り難そうに水を飲んだ。
「ほう。これは甘露な。体の隅々にまでしみまする。某の老いてぼろぼろになった全身の骨のひびの隙間に入り込んで、潤いを与えてくれるような」
老人の大袈裟な感動がおかしく、信時は吹き出した。
「ほ、骨にまで染み込むか?」
「はあ。骨が潤いを取り戻し、やわらかくなったようで。いやあ、ありがたいですなあ」
「それはよい。もっと、二杯でも三杯でも飲んだらよかろう」
「はい、はい」
俊幸は嬉しそうに、新たに水を汲む。
望みの名水に出会えたのだ。
それだけでも幸せなのに、猛暑の行軍で喉が渇いていたこもあって、もともと甘露な水が、余計においしく感じる。
だがそれ以上に爺は、若君が自分のために、ここまで連れて来てくれたという、その心が嬉しかった。胸いっぱい。名水は、幸せの味がした。
夢中で水を飲んでいると、ふと信時が、遠くに目を凝らし、
「おおじ。あれは人ではないか?」
と、注意した。
「はえ?」
老人も顔を上げ、信時の指差す方向を見る。
東南彼方、百草百花乱れる中に、確かに人が臥しているような、そんな感じの何かが見えた。
その草むらは、日なたである。夏の強い日光が直射している。
信時と俊幸は、顔見合わせた。
「もしも人ならば、大変ですぞ」
俊幸は、柄杓を放り出し、健脚でもう、そちらに向かって歩き出していた。信時もすぐにその後に続く。
俊幸がその草むらに至ると、やはりそこに横たわっていたのは、人であった。間違いなく、人間の女が地にうつ伏している。
白い衣の黒髪長き女。傍らに、樽が転がっている。
「しっかりなされ、いかがなさったか」
女の背に手をやり、体を揺すってみるが、全く反応がない。
信時が追いついて、
「どうだ?」
と尋ねた。
「はあ、気絶しておりますな」
俊幸は女の体をくると横に転がして、仰向けにさせた。初めて女の白い顔が見えた。
「こ……」
二人は息を呑んだ。
これは。真っ白な芍薬の花を思わせる。精霊か何かのような、まだ若い女である。透けるような色の白さ。日に透けて、そのまま消えてしまいそうだ。
俊幸は女の背に手を置いたまま、身動きできずにただ目をぱちくりさせるばかりである。じっと女の白い顔を見ている。と突然、その白い額に、他人の手があてられるのが見えた。
「熱がある」
信時の声に我に返り、俊幸は、いつの間にか女の頭の横に回り込んで片膝をついていた信時の顔を見た。
「熱が?」
「うむ。あつけだな」
信時は女の額から手を外すと、深刻そうに眉を寄せた。
「早く水を飲ませて、涼しい所に寝かせてやらないと、死んでしまうぞ」
「ああ、左様でござるな。若君、この娘に名水を飲ませてやりましょう」
「うむ」
信時はすぐ、娘を抱き上げると、泉の池まで運んで行く。
木陰に入ると、娘を下ろし、
「おおじ、柄杓を」
と、手をのばした。
俊幸は素早く水を汲んで、信時の出している手に柄杓を握らせる。信時は、娘の顔を見たまま、柄杓は見ずにそれを握ると、娘の口元に運んでやった。
しかし、娘は飲むことができない。
それではと、信時は娘の上半身を抱き起こしてやった。体が縦になれば飲めるかもしれない。
再び柄杓をその口にやる。
しかし、水は娘の口に少しも入らず、全て唇から流れて、娘の顎から首を伝い、胸を濡らした。
「飲みなさい。飲まねば死んでしまう。さ、飲んで」
信時が必死に声をかけるが、娘の反応はない。
「飲みなされ」
俊幸も言う。が、突然「あっ」と驚きの声を上げた。
何を思ったか、ふいに信時が柄杓を己の口元に運び、水を全て口中に含んでしまったのだ。そのまま、空になった柄杓を俊幸の方に無言で押しやる。俊幸がそれを受け取るが早いか、信時はその刹那、娘の唇に自分の唇を重ねた。
「若君っ!?」
俊幸は柄杓を放り投げてしまいそうだった。
この若君は、何と見知らぬ娘を助けるために、見知らぬ行きずりの他人に口移しで水を飲ませたのだ。
何という御方か。そう思った次の瞬間、俊幸の正義は、衝撃に勝った。すぐに柄杓に水を満たして信時の手に握らせる。
信時はそれも口に含んで、娘に飲ませた。
幾度かそれを繰り返した後、信時はそっと鎧下に忍ばせていた布で娘の口元を拭ってやった。口移しとはいえ、多少娘の口から漏れた水が、彼女の顎の辺りを濡らしていたからだ。
「とりあえず、水は飲ませたが、どこか涼しい所で介抱せねばなるまい」
「そこの庵に頼みましょう。薬もあるやもしれませぬ」
「そうしよう」
信時は娘を抱き上げ、先程この泉に来る前に通った、庵まで運んだ。
二人が門の前まで来ると、ちょうど中年の尼が庭を掃き清めているのが見えた。
尼はすぐ鎧の擦れる音に気づいて、門外に眼を向けた。信時と俊幸を見て、一瞬ぎょっとしたようだったが、
「すまぬが、この人を助けて下さらぬか」
と、信時が腕の中の人を見せると、尼はすぐ安堵の色を滲ませた。
「まあまあ、いったいどうしたのですか」
尼は箒を庭木の幹に立て掛け、こちらに歩み寄ってくる。
「暑気でしょうか、あちらに倒れていました。水は飲ませたのですが、涼しい所に寝かせないと。こちらをお貸し願えまいか」
信時が言うと、尼は当然のように頷いた。
「もちろんです。さ、早く、あちらへ寝かせて下さい」
尼は日陰で風通しのよい、庵の廂を指差した。
「おそれいる」
信時は軽く頭を下げ、尼の指差した庵の中へ娘を抱え入れる。
尼も庵の中へ入って、奥から枕と薄い羅の衣を持ってきた。
尼の置く枕に、信時はそっと娘の頭をのせてやる。尼は娘の体に衣を掛けると、すぐに水を汲みに出て行った。
信時は改めて娘の白い顔を見つめた。
夢のように美しい。やはり芍薬のようだ。そっと触れただけでも壊れてしまいそうな程、華奢で。
「美しうございまするな」
突然、背後から俊幸が感心したように言った。俊幸の声が、一気に信時の胸や腕に残る娘の余韻を消した。
「まことに美しい。目を開ければ、どのような花なのでしょう。目を開けている姿を見てみとうございまする」
俊幸は相変わらずしわがれた声だが、その中にもうっとりとした響きが混じっていた。
「身なりもよいですし、かなりの身分の人かもしれませぬ」
「……しからば、敵かもしれぬ」
信時はやっと娘から視線を外して、冷静に言った。
その時、桶に水を溜めた尼が戻ってきた。
尼はそのまま娘の枕元に寄り、布を水に浸して軽く絞ると、娘の額にのせる。
その様子を見て、俊幸がそっと小声で促した。
「さ、そろそろ行きませぬと。あとは尼御前にまかせましょう」
信時は頷いた。
俊幸が尼に言う。
「我等は先を急ぐ故、もう行かねばならぬ。申し訳ないが、その人をお頼みできましょうか」
「見ず知らずの人をお助けになったお二人。とてもよいことをなさいました。御仏もお二人をお守り下さるでしょう。ご心配なく。あとはこちらで、この御方のお世話を致します故」
尼は、にこやかに言った。
これから殺生するために先を急ぐ二人に、何で御仏がご慈悲を下さろうか。信時は心が苦しくなった。行きずりの娘一人の命を救ったとて、これから何百、何千もの命を奪いに行くというのに。
「これを。その人のためにお使い下さい」
信時は鎧下の肌着の中から小袋を取り出し、その中から父がくれた水晶の数珠だけ抜き取ると、袋の口を閉じて、尼の前に置いた。
尼はその小袋を有難く受け取った。
「では」
信時と俊幸は尼に一礼して、庵をあとにする。
小袋の中身は砂金である。尼は後で袋を開けてみて、びっくりすることだろう。娘の世話の報酬にしては余りに巨額過ぎる。しかし、信時は、余った金は、泉の管理に使って欲しいと思った。多くの旅人の心と命とを守った名水のために。
信時は一言も口をきかぬまま、すたすたと馬を繋ぐ木に歩いて行った。俊幸はその後にひたすらついて行く。
信時の握り締める水晶の数珠に付着している砂金が、きらきら輝き放っていた。
その数ヶ月後、信時は思わぬ場所で、その娘と再会する。敵として。
それは、落城した彼女の館でのことだった。
瞼を開けている彼女は、想像した通り、美しかった。
信時は敗れた娘を生け捕りにした。
そうした中で、二人は恋に落ち──
勝者の少年と捕虜の少女の恋。それは、思うようには行かず、障害だらけ。
しかし、信時の家と彼女の家は敵対したまま、やがて、二人は結ばれたのだった。障害を乗り越えて。
──────────
二人の恋を、側でいつも見ていた老人──俊幸翁。
そのぼそぼそとした語り口でも、聞く人の心はうっとりさせられた。
この満開の桜は、昔、その少女のものだった。この邸も。
──貴(あて)姫君──
貴姫君にとって、宝物であったこの山桜。
かつて、ここは桜の名所として知られ、多くの人々に訪れられ、愛された邸であった。花の季節は日を置かず、毎日一日中、宴が催され、雅な貴族達が集った。
詩歌管絃鳴りやまず、霞の中に、紫雲たなびくような桜の姿は、まるで仙界のようであった。
経実、希姫君、貴姫君の棣顎の兄妹の自慢であり、心のより所でもあった。
それはもともと彼等兄妹の父のものだったのであり。
人々は、花園殿と呼び親しんでいたのである。
──────────
それは昔。
上野に一人の少年がいた。彼は名を信時と言った。都の貴族だったが、賊討伐のために下向して、そのまま土着したのであった。
彼の兄は、上野周辺の武士団の盟主として、人々から大変尊敬されていた。
ある時、信時は兄から二千の兵を与えられ、隣国・下野へ進軍した。
盛夏の中での進軍であった。
猛暑である。人も馬も疲れきっていた。しばらくこの辺りで休憩した方がよさそうだ。
総大将の信時は、全軍に休めと号令した。
丁度川が流れている。
兵達は次々に川へ飛び込んで行く。
ところで、この近くには、名水の湧き出でている所がある。老将の俊幸は、かねてからこの湧き水の名を知っていて、機会があったら飲んでみたいと思っていた。
信時は、ふとそのことを思い出して、
「おおじを呼べ」
と、従者に命じた。
俊幸は、信時の母の叔父である。信時の母は、身分卑しい女の腹から生まれていた。つまり、叔父とはいえ、俊幸は身分が低い。信時やその母には、臣下という立場で仕えていた。
信時は、それでも俊幸に対して、肉親の情を感じている。乳父よりも、俊幸に懐いていたし、俊幸も、まるで孫を見るように、目に入れても痛くないというような、可愛がり方であった。
やがて、従者と共に現れた俊幸は、温和な人柄をそのまま顔にした老人だった。
「お呼びで、若君?」
「おお、おおじ。ちょっとそこまで、つき合わぬか?」
「ほあ?どちらへ」
「まあ、よいから」
「はあ?」
信時は、すたすたと先を歩き出してしまった。そして、そこに繋がせておいた馬に乗る。
慌てて俊幸もついて行った。
しばらく馬を歩かせていると、本当に炎天下がこたえる。
「それにしても、暑うございますなあ」
老人の、鈍い感覚にさえ、それは激しく訴えてくるのだ。日なたの気温は凄まじい。
やがて、信時は、前方に簡素な庵を見つけた。
それを通り過ぎると、目当てのものが目に飛び込んでくる。
「あれだな」
「はい?」
大きな池があった。清らかな水を漫々と湛えている。
「あっ!」
初めて老人は、若君が供を命じた理由に気付く。
「おおじ。前に、この水を飲んでみたいと言っていたな」
「なんとも、いやはや……」
孝行な若君である。
年寄りは涙もろい。すぐにぼろぼろ涙をこぼし始めたので、信時は慌てるやらおかしいやら。
「喉が渇いた。早く飲もうよ」
「はい。はい」
下馬し、二人は連れ立って池のほとりまでやって来た。
相当大きい。かなりの水量だ。
沢山の人が訪れては水を汲み、喉を潤すのだろう。柄杓が幾つか置いてある。
信時は柄杓を取って水を汲む。名水で満たしたそれを俊幸に渡し、さらにもう一つの柄杓に水を汲んだ。
俊幸は柄杓を押し頂いたまま、信時が次の柄杓に水を満たすのを待っていた。
信時が、柄杓に口を付け、一口飲み、
「うまい。おおじも飲んでみよ」
と言うと初めて、
「では。戴きまする」
と、有り難そうに水を飲んだ。
「ほう。これは甘露な。体の隅々にまでしみまする。某の老いてぼろぼろになった全身の骨のひびの隙間に入り込んで、潤いを与えてくれるような」
老人の大袈裟な感動がおかしく、信時は吹き出した。
「ほ、骨にまで染み込むか?」
「はあ。骨が潤いを取り戻し、やわらかくなったようで。いやあ、ありがたいですなあ」
「それはよい。もっと、二杯でも三杯でも飲んだらよかろう」
「はい、はい」
俊幸は嬉しそうに、新たに水を汲む。
望みの名水に出会えたのだ。
それだけでも幸せなのに、猛暑の行軍で喉が渇いていたこもあって、もともと甘露な水が、余計においしく感じる。
だがそれ以上に爺は、若君が自分のために、ここまで連れて来てくれたという、その心が嬉しかった。胸いっぱい。名水は、幸せの味がした。
夢中で水を飲んでいると、ふと信時が、遠くに目を凝らし、
「おおじ。あれは人ではないか?」
と、注意した。
「はえ?」
老人も顔を上げ、信時の指差す方向を見る。
東南彼方、百草百花乱れる中に、確かに人が臥しているような、そんな感じの何かが見えた。
その草むらは、日なたである。夏の強い日光が直射している。
信時と俊幸は、顔見合わせた。
「もしも人ならば、大変ですぞ」
俊幸は、柄杓を放り出し、健脚でもう、そちらに向かって歩き出していた。信時もすぐにその後に続く。
俊幸がその草むらに至ると、やはりそこに横たわっていたのは、人であった。間違いなく、人間の女が地にうつ伏している。
白い衣の黒髪長き女。傍らに、樽が転がっている。
「しっかりなされ、いかがなさったか」
女の背に手をやり、体を揺すってみるが、全く反応がない。
信時が追いついて、
「どうだ?」
と尋ねた。
「はあ、気絶しておりますな」
俊幸は女の体をくると横に転がして、仰向けにさせた。初めて女の白い顔が見えた。
「こ……」
二人は息を呑んだ。
これは。真っ白な芍薬の花を思わせる。精霊か何かのような、まだ若い女である。透けるような色の白さ。日に透けて、そのまま消えてしまいそうだ。
俊幸は女の背に手を置いたまま、身動きできずにただ目をぱちくりさせるばかりである。じっと女の白い顔を見ている。と突然、その白い額に、他人の手があてられるのが見えた。
「熱がある」
信時の声に我に返り、俊幸は、いつの間にか女の頭の横に回り込んで片膝をついていた信時の顔を見た。
「熱が?」
「うむ。あつけだな」
信時は女の額から手を外すと、深刻そうに眉を寄せた。
「早く水を飲ませて、涼しい所に寝かせてやらないと、死んでしまうぞ」
「ああ、左様でござるな。若君、この娘に名水を飲ませてやりましょう」
「うむ」
信時はすぐ、娘を抱き上げると、泉の池まで運んで行く。
木陰に入ると、娘を下ろし、
「おおじ、柄杓を」
と、手をのばした。
俊幸は素早く水を汲んで、信時の出している手に柄杓を握らせる。信時は、娘の顔を見たまま、柄杓は見ずにそれを握ると、娘の口元に運んでやった。
しかし、娘は飲むことができない。
それではと、信時は娘の上半身を抱き起こしてやった。体が縦になれば飲めるかもしれない。
再び柄杓をその口にやる。
しかし、水は娘の口に少しも入らず、全て唇から流れて、娘の顎から首を伝い、胸を濡らした。
「飲みなさい。飲まねば死んでしまう。さ、飲んで」
信時が必死に声をかけるが、娘の反応はない。
「飲みなされ」
俊幸も言う。が、突然「あっ」と驚きの声を上げた。
何を思ったか、ふいに信時が柄杓を己の口元に運び、水を全て口中に含んでしまったのだ。そのまま、空になった柄杓を俊幸の方に無言で押しやる。俊幸がそれを受け取るが早いか、信時はその刹那、娘の唇に自分の唇を重ねた。
「若君っ!?」
俊幸は柄杓を放り投げてしまいそうだった。
この若君は、何と見知らぬ娘を助けるために、見知らぬ行きずりの他人に口移しで水を飲ませたのだ。
何という御方か。そう思った次の瞬間、俊幸の正義は、衝撃に勝った。すぐに柄杓に水を満たして信時の手に握らせる。
信時はそれも口に含んで、娘に飲ませた。
幾度かそれを繰り返した後、信時はそっと鎧下に忍ばせていた布で娘の口元を拭ってやった。口移しとはいえ、多少娘の口から漏れた水が、彼女の顎の辺りを濡らしていたからだ。
「とりあえず、水は飲ませたが、どこか涼しい所で介抱せねばなるまい」
「そこの庵に頼みましょう。薬もあるやもしれませぬ」
「そうしよう」
信時は娘を抱き上げ、先程この泉に来る前に通った、庵まで運んだ。
二人が門の前まで来ると、ちょうど中年の尼が庭を掃き清めているのが見えた。
尼はすぐ鎧の擦れる音に気づいて、門外に眼を向けた。信時と俊幸を見て、一瞬ぎょっとしたようだったが、
「すまぬが、この人を助けて下さらぬか」
と、信時が腕の中の人を見せると、尼はすぐ安堵の色を滲ませた。
「まあまあ、いったいどうしたのですか」
尼は箒を庭木の幹に立て掛け、こちらに歩み寄ってくる。
「暑気でしょうか、あちらに倒れていました。水は飲ませたのですが、涼しい所に寝かせないと。こちらをお貸し願えまいか」
信時が言うと、尼は当然のように頷いた。
「もちろんです。さ、早く、あちらへ寝かせて下さい」
尼は日陰で風通しのよい、庵の廂を指差した。
「おそれいる」
信時は軽く頭を下げ、尼の指差した庵の中へ娘を抱え入れる。
尼も庵の中へ入って、奥から枕と薄い羅の衣を持ってきた。
尼の置く枕に、信時はそっと娘の頭をのせてやる。尼は娘の体に衣を掛けると、すぐに水を汲みに出て行った。
信時は改めて娘の白い顔を見つめた。
夢のように美しい。やはり芍薬のようだ。そっと触れただけでも壊れてしまいそうな程、華奢で。
「美しうございまするな」
突然、背後から俊幸が感心したように言った。俊幸の声が、一気に信時の胸や腕に残る娘の余韻を消した。
「まことに美しい。目を開ければ、どのような花なのでしょう。目を開けている姿を見てみとうございまする」
俊幸は相変わらずしわがれた声だが、その中にもうっとりとした響きが混じっていた。
「身なりもよいですし、かなりの身分の人かもしれませぬ」
「……しからば、敵かもしれぬ」
信時はやっと娘から視線を外して、冷静に言った。
その時、桶に水を溜めた尼が戻ってきた。
尼はそのまま娘の枕元に寄り、布を水に浸して軽く絞ると、娘の額にのせる。
その様子を見て、俊幸がそっと小声で促した。
「さ、そろそろ行きませぬと。あとは尼御前にまかせましょう」
信時は頷いた。
俊幸が尼に言う。
「我等は先を急ぐ故、もう行かねばならぬ。申し訳ないが、その人をお頼みできましょうか」
「見ず知らずの人をお助けになったお二人。とてもよいことをなさいました。御仏もお二人をお守り下さるでしょう。ご心配なく。あとはこちらで、この御方のお世話を致します故」
尼は、にこやかに言った。
これから殺生するために先を急ぐ二人に、何で御仏がご慈悲を下さろうか。信時は心が苦しくなった。行きずりの娘一人の命を救ったとて、これから何百、何千もの命を奪いに行くというのに。
「これを。その人のためにお使い下さい」
信時は鎧下の肌着の中から小袋を取り出し、その中から父がくれた水晶の数珠だけ抜き取ると、袋の口を閉じて、尼の前に置いた。
尼はその小袋を有難く受け取った。
「では」
信時と俊幸は尼に一礼して、庵をあとにする。
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信時の握り締める水晶の数珠に付着している砂金が、きらきら輝き放っていた。
その数ヶ月後、信時は思わぬ場所で、その娘と再会する。敵として。
それは、落城した彼女の館でのことだった。
瞼を開けている彼女は、想像した通り、美しかった。
信時は敗れた娘を生け捕りにした。
そうした中で、二人は恋に落ち──
勝者の少年と捕虜の少女の恋。それは、思うようには行かず、障害だらけ。
しかし、信時の家と彼女の家は敵対したまま、やがて、二人は結ばれたのだった。障害を乗り越えて。
──────────
二人の恋を、側でいつも見ていた老人──俊幸翁。
そのぼそぼそとした語り口でも、聞く人の心はうっとりさせられた。
この満開の桜は、昔、その少女のものだった。この邸も。
──貴(あて)姫君──
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かつて、ここは桜の名所として知られ、多くの人々に訪れられ、愛された邸であった。花の季節は日を置かず、毎日一日中、宴が催され、雅な貴族達が集った。
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状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
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