後拾遺七絃灌頂血脉──秋聲黎明の巻──

国香

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軍勢(参)

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 角笛の低い音が響き、太鼓が地を震わせた。狩の開始の合図である。

 嬰は慌て、急ぐ。草紅葉の原が見渡せる所に出た。まさに子解が馬に鞭を当てるところだった。戦闘馬車の娘たちは、それぞれの手勢のもとに行って待機している。まだ全軍、原にいた。

「この状態で、満将軍がここに攻め込んでくるのと……狩が始まってばらばらに散ったところを、満将軍に奇襲されるのと……どちらがいいの?」

 子解の馬が走り出す。嬰は木々の中に飛び込み、一気に丘陵地をかけおりて、ようやく原にたどり着いた。草から顔を出すと、続々と子解の率いる軍が原を出て、森の中に分け入っている。

「子解!子解!」

 嬰は夢中でそれを追った。

 狩は始まっている。早くも子解麾下の将が獲物を見つけて、子解に合図していた。

「ようし、回り込め!」

 子解の少年らしい声が響く。

 未だほとんどの軍が原を出ていない。開始直後にいきなり獲物に遭遇するなど、幸先が良い。

 子解の軍が獲物を囲い始めた。嬰はそれを遠目に確認しながら、後ろを振り返る。まだ、草紅葉の原には数千の軍が犇めいたままだ。

「子解!」

 嬰の声が聞こえたのだろうか、子解が振り返った時、ぴょんと牡鹿が子解目掛けて飛び上がってきた。咄嗟に槍を振るって身を捩るや、ひゅんと矢が鹿に命中し、鹿は態勢を崩しながらも囲みを突破しかかる。さらに、ひゅんひゅん、矢が飛んできた。

 わあわあ声が響く。嬰の背後の方向から、鹿へ、いや、子解の軍に向かって流れ矢が幾つも飛んでいた。

「なんだなんだ?」

 子解の軍に動揺が走る、その隙に鹿は大きく跳躍して森の中に消えた。

「左将軍!いったい何が起きた?」

 子解の、周囲に撒き散らす慌てた声を聞きながら、嬰は背後の原を見た。

「大変!」

 原にまだ残っている軍勢が大混乱に陥っていた。沢山の矢が飛んでいる。その矢に女兵たちが次々に倒れ、そして、雪崩れ込んできた軍勢に斬られていた。

「満将軍だわ!」

 嬰はしかし、原の混乱を打ち捨て、子解に向かって必死に走った。

 異変に気付いた子解も原に引き返そうとしている。

「子解!なりません!」

 嬰が叫んだ。しかし、あらぬ方向からの鬨に、その声はかき消され、ほぼ同時に子解軍も矢に襲われた。

 次々に矢に倒れ、混乱したところに、満将軍麾下の将の率いる一隊が現れた。五十人もいないようだが、突然現れて、子解軍に向かってきたのである。

 崩れている子解軍には応戦する余裕もない。数では圧倒的に多いのに、容易く討たれて行く。

 嬰は子解を見失わないよう注意しながら、夢中で走った。子解を守護する者が五人しかいない。すぐにその五人も敵から挑まれ、応戦し始める。

 敵の放った矢が子解の馬に命中し、暴れた愛馬から子解が振り落とされた。

「おうい、子解がいるぞ!子解はこっちだぞ!」

 敵が仲間を呼んでいる。

「子解!」

 ようやく嬰は子解の至近距離に来られた。子解の回りの者は皆敵と応戦していて、誰一人彼を見ていなかった。

「子解!」

 藪から顔を出した嬰に気付いたのは子解ただ一人だ。

「そなたはっ!」

 驚愕して嬰を見つめる子解に、嬰は危機感募らせ、

「早く!こちらへ!」

と、無理矢理その腕を藪に引き摺り込んだ。

「危ないですわ!こちらへ!」

 嬰は有無も言わさず、子解を引っ張って藪の中を走り出した。が、すぐにその重さに振り返る。

「子解っ?」

「くっ!落馬した時に、足を痛めたようだ」

「まさか!」

 嬰は焦った。逃げないわけにはいかないのだ。

「とにかく、歩いて!」

 嬰は鬼のように言って、子解を引っ張って行った。子解は重い足を懸命に引き摺りながら、嬰について行く。

「子解はどこだ?」

「ちっ!逃げたか?」

「子解が逃げたぞ!追え!」

 敵の蛮声が響いていた。

「大変、急がなきゃ!」

 嬰が言えば、子解も頷き、必死に足を引き摺る。

 嬰が子解の腕を肩に担ぎ、どんどん行く。余程辛いのか、子解はふらふらしてきて、次第に嬰の体にその重みが強く感じられるようになっていく。

 標を越えて、聖域に入った。

「聖域の中までは、敵も追って来ないのではないかと……」

 子解は微かに頷いていたが、意識が朦朧としかかっている。

「この足ではこれ以上は……」

 やっとそう言った。

 川が見える。大きな岩があった。嬰はその岩に子解を凭れさせ、座り込んだ。

 嬰はさっそく作業を始める。岩に薬草を置き、上から石を押し付けて、薬草を潰し始めたのである。

 息を切らしながら、子解は朦朧と、

「何をしている?」

「お怪我なさったところに塗ります。それと、これを召し上がって下さい。痛みが和らぐはずです」

 嬰は籠の中の薬草を子解に渡した。頷いて、素直に口にする子解。川の水を手で掬って飲んだ。

 嬰は湿布薬を作りながら、敵について説明した。

「あちらの平原に衛や張の旗がありました。三千以上の兵がおります。これは満将軍による謀叛でございます。謀叛に加担している者は他にも多数おります」

「満将軍だって?」

 子解は汗だくの顔を嬰に向け、まじまじと彼女を見た。

「ええ。満将軍は子解を討ち、王倹城に攻め寄せるつもりでしょう。諸将が満将軍を盟主に戴いていました」

「私を殺したら、父王も殺して、玉座を奪うということか?」

 嬰は頷いた。

「しかし、諸将が加担しているとなると、これは容易には片付かぬぞ。満将軍……他国の人間を保護したら、このようなことになるとは。国土を削って、西部の土地を割譲してやったのに、僅か一年余りで、早くも恩を仇で返すような真似を!満将軍とは、いったいどういう人間性をしてるんだ!」

 憤る子解。嬰は思い詰めたような声で言った。

「満将軍は勿論ですが、それ以上に恐ろしいのは張大夫です。子解の信頼厚く、それに、私を子解の、その……婦の候補に推挙して下さった方なのに、こんな……」

「張大夫が裏切ったのか?」

 弾かれたように、勢いよく子解が嬰の肩を掴んだ。そこには艶も色も欠片もない。話の内容のためか、或いは少し休んだおかげか、頭がすっきりしてきたようだ。

「ええ」

 嬰も強く頷くと、できた湿布薬を塗ろうと、子解の足を捲った。足の熱に触れた瞬間、はっとした。

「子解……」

「戻らねば!」

 嬰は強く頭を振った。

「だが、戻る前に討たれては話にならぬ。どうやって、我が軍まで戻るか」

 嬰はなお頭を振る。

「とにかく、それを塗ってくれ」

「なりません、子解、お風邪を召していらっしゃるでしょう?」

「なに?」

「足が、とても熱いですわ、お熱が出ているのでしょう?」

「それは怪我したところが熱を帯びているだけだろう」

「いいえ、子解は咳込んでいらっしゃいましたもの」

 子解は驚いて、まじまじと嬰を見やった。

「ここまで来る間に、ふらふらになっていらっしゃいました。お怪我のためかと思っていましたが、高熱のせいだったのですね。私も夢中で、子解のお体の熱さに気付きませんでしたが……子解は今日は初めから体調を崩しておられた」

「そなた、何故知っている?」

「聖地から狩をずっと見物させて頂いていましたもの。向こうの平原の異変も、聖域内から見て気づいたんです」

「姫嬰。そなたは姫嬰だな?」

 一瞬熱によるものなのか、子解の目が潤んだ。朦朧としながらも鋭かった、先程までの目とは違う。

「はい、子解、左様でございます」

「嬰……」

 見つめて、手を嬰の頬に伸ばしかける。だが、つと途中で止めて、子解は目を伏せた。

「そなたは生け贄に選ばれたと聞いた……狩でそなたに会えると思っていたが、残念、いやいや、いけない……嬰、私は戻る」

「そのお体では無駄死になさるだけです!」

 嬰は子解の心の乱れなど察する余裕もない。必死に引き留めた。

「それに、きっと子解の軍は……すでに潰滅しております。原の本陣の方は、奇襲の混乱から今はもう立て直って、司母の指揮の下、満将軍を迎撃しておりましょう」

「我が国の総大将は司母。司母ならば、確かに奇襲に遭って混乱した軍を、すぐに立て直し、かえって敵を完膚なきまでに叩きのめしておられよう。だが……」

「そうです。司母におまかせになったら、何も心配はありません。司母の本隊と離れてしまった子解は、敵に討たれやすい危険な状態なのです。今はそのお体で出て行かれることが、最悪の事態を招くことになります。災厄が通り過ぎるまで身を潜め、頃合いを見計らって本隊に合流なさるべきです。今は軍から離れて隠れていても、誰も卑怯の弱虫のとは申しません!」

「そなたは……」

 子解は顔を上げて、嬰に微笑みかけた。熱っぽい眼差しなのに、達観したような、どこか諦めたような表情だ。

「軍を率いる能力に長けていたようだな……」

 ふっと笑って、残念だと呟く。日焼けしたように、子解の白析の面が赤く火照っていた。

 嬰は周囲を見回した。

「とにかく、今はお体を休めて、熱を下げましょう」

 子解は素直に頷いた。

「この川を渡って、少し行った所に、賓貞の庵があります。そこで休みましょう。もう少し、我慢して歩いて下さいませ」
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