後拾遺七絃灌頂血脉──秋聲黎明の巻──

国香

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軍勢(弐)

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 眼下に広がる平原。霧もなく、くっきり見えた。そこには昨日からの軍勢が、相変わらず犇めいていた。陣幕が張られ、中央には子解のものとひけをとらない幕舎がある。全て昨日のままである。

 但し、昨日と違うのは、軍勢が整然と並んでいたことだ。

 陣幕の前に台が築かれ、その前に多数の軍勢が整列しているのである。前方には騎馬の武将、後方には歩兵が。

 皆、屈強な男の兵であり、女は一人もいない。身につけている甲冑も、子解のいる草紅葉の原の兵とは違う。

 無数の軍旗がはためいているが、その旗の色も、向こうの原の軍勢には見られないものだ。ただ、どこの軍勢かはっきりとはわからない。

 嬰は道を探した。この眼下の平原に近付ける道を。そして、右往左往するうちに、無意識に標を越えてしまっていた。

 標を越え、聖域の外に出て尾根を下り、すぐに木の茂る中に迷い込む。すると、少数の兵が森の中を進む音が聞こえてきた。

 さっと草陰に身を沈める。

 甲冑の擦れ合う音。馬の蹄の音。草を切り、掻き分けながら、それらが進んでくる。ざっざっと近づいてきて、やがて嬰の頭上を通り越して行った。

 急いでいるのか、ひどく速い。それとも、これがこの軍の機動力なのか。

 嬰は過ぎて行った小隊の後ろ姿をそっと窺った。騎馬一騎、歩兵十人。彼らは謎の軍勢と同じ甲冑である。

「そういえば、平原の軍には馬車がなかった」

 投石機のような大掛かりな武器もない。そして、今過ぎて行った小隊の、この機動力。

「奇襲に適した軍勢なのかしら?」

 嬰は小隊の後をついて行った。小隊唯一の騎馬の人は、何故か平服である。彼は一度も振り返らなかった。

 やがて、平原に近付く。嬰は小隊とは離れて、平原を見下ろせそうな丘陵地の岩場に潜んだ。平原よりは少し標高のある場所だ。

 岩場からはちょうど中央の台が見える。軍勢のそれぞれの隊の旗が、しっかり見えた。

 台の上にも数種の立派な旗が立っており、その中央には、「衛」や「張」の字が大きく誇らしく書かれたものがあった。

「衛?張?」

 嬰は目を見張る。それから、台の前の大軍に視線を移すと──。

 大軍の海は真ん中で二つに分かれていた。左右に分かれて、きれいに整列している。数千人はいるだろう。

 その左右の大軍の中央には、馬が三頭は並んで通れるくらいの幅の、台に向けて真っ直ぐに伸びる道ができている。

 ちょうどそこを、数十騎の騎馬武者が進んできた。彼等は台に上り、左右に並んで立った。

 最後に、多数の歩兵を引き連れた平服の男と甲冑の男が、台の真ん中に立つ。

 平服の男は先程、森の中で見かけて、嬰が追ってきた男のようである。着ている物が同じだった。いや。

「そうだわ、あの衣はっ──!」

 嬰がはっとした時、男がこちらに顔を向けた。

「張大夫っ!」

 先程まで向こうの原にいて、儀式の途中で消えていた張大夫──以前の周雅の目となっていた男である。

 そして、張大夫の隣に立つ男。台の中央にいて、軍勢に向かって手を挙げた男は──。

 周雅は知っていた。この男は、西の方邑の将軍だ。以前から張大夫と親しげだった、何事か企みがあるらしい将軍である。

 兵たちが屠った牛を運んできた。台の上の中央に置かれる。

 将軍が小刀でその牛の耳を切る。それを見て、全軍が鬨を上げる。

「こ、これは……?」

 嬰は狼狽えた。

 台の上では将軍が、騎馬の諸将たちと牛の血を啜り合っている。それが済むと、将軍は何事か全軍に向かって号令した。

「何を言っているの?何が始まるの?」

 内容は聞こえないが、これはただ事ではない。よからぬことが起こる予感がある。嬰は震えた。それでも、彼女はがくがくする足を必死に動かし、よろよろともと来た道を戻り始めた。

「あれは、あれは張大夫と、そして……あの軍旗、張大夫と親しくて、あの軍旗を掲げている人なら……あの軍勢を指揮しているあの人は、満将軍だわ……どうして、将軍の軍勢がここに?」

 そして、やはり戦闘馬車は見当たらず、騎兵も少なかった。

「この山中で、最も奇襲しやすい軍勢は、あのような軍勢よね、きっと……」

 西方にいるはずの、中原地域からの亡命軍が、子解の狩の場に現れた。それも、こっそりと、この平原に隠れて。

 嬰は震えながらも、何とか走り続け、小高く開けた場所に出た。そこで後ろを振り返ると、平原に動きがあった。

 軍勢が整然と、平原から山中の道に進み始めたのである。嬰が今走って来た道を、あの満将軍の軍勢が進んでくるのである。

 あの機動力と嬰の足とでは。急がなければ、嬰は追い付かれてしまう。

「これは!子解の軍勢に向かっている!」

 嬰は子解が儀式をしている草紅葉の原に向かっていた。同じ道を満将軍の軍勢が進んできているのだ。

「張大夫がいらっしゃるけれど、だからといって、満将軍が狩に合流するはずがないわ!」

 満将軍が狩に参加する予定はなかった。それに、先程、牛の耳を切る儀式をしていた。

 これは古から中原で、諸侯が同盟を結ぶ時に行ってきた儀式である。盟主が牛の耳を切り、諸侯がその血を啜り合って、盟約を誓うというもの。

 つまり先程の儀式は、満将軍が何か新しい組織を作り、その盟主となったことを意味する。台に集まっていた諸将は、満将軍を盟主に推戴し、その組織に属して将軍に従うということだ。

「子解の狩の日に、その狩場の至近距離で、大軍が新しい組織を結社するなんて、これは普通の事ではないわ!満将軍は──。子解の狩の軍勢に奇襲するつもりなのね!張大夫は子解を裏切ったの?」

 いや、張大夫はもともと満将軍と親しく、共に中原からこちらに亡命してきた人間だ。

 最も問題なのは、台に集って、満将軍の牛の血を啜った諸将である。一人一人の顔は確認できなかったが、おそらくもとからこの国の有力者だった士大夫たちのはずである。

 この国の人間が満将軍を盟主に頂き、子解に謀叛して、その軍を奇襲するということだ。

「ああ、司母辛の占われた、西方の禍々しい気というのは、満将軍の謀叛を意味していたのね!国の存亡に関わる、子解のお命に関わる大事とは、これのことだったのね!私が生け贄となることで避けられる筈だったのに、天よ、何故です?何故、御祓の終わらぬうちに、もう満将軍を動かし給うたのですか?」

 嬰は天を仰いだ。が、その抜けるような青空をきっと睨むと、すぐに勝ち気に、決意の意志を固めたのである。

「諦めないわ!諦めるのはまだ早い。私が国を助けるための生け贄に選ばれたのよ。私が国を救う人間なのよ、だから。私が止めてみせる、子解を助けてみせる!今ならまだ間に合うわ!」

 国難の時。嬰はもう完全に標の外を走り続けていた。草紅葉の原に大事を告げるべく。標など、目の前の大事に比べたら些細なもののはずである。

 嬰は走った。ひらすら走った。
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