22 / 38
夢占(参)
しおりを挟む
周雅は、清花の姫君の琴を聴いた時に見た最初の怪異、次に見た夢、続いて巨大な目と鳳勢に導かれて見せられた幻について、滔々と語った。
広仲の酔いはすっかり醒めてしまったようだ。話の間、周雅はもちろん、広仲は全く箸をつけていないし、酒一舐めさえしていない。
語り終えると、疲れたのか、周雅は羮の汁を一口飲んだ。
「ふうむ、なるほど、幻想には二種あるのですね。蓬莱と子余の国と思しきものと」
広仲は閉じた扇を口元にあて、考え込んだふうになった。
「しかし、御身の夢の曲を奏でる蓬莱の女は、その姫嬰と同じか化身かと思われる……」
広仲はそう結論付けた。
「そうでしょうか?」
周雅は羮の椀を置いて、身を乗り出すようにした。
「その姫嬰なる人は、殺されて川に流されたといいまするに。おそらくその亡骸は海に沈んでいるのでは」
「しかし、御身がその子解の目となる直前に見た蓬莱の景色。その中にいた女は、姫嬰の顔をしていたのでしょう?」
「そうか!」
周雅は思い得た。
「蓬莱は異界。何故、生身の人間たる姫嬰に似た人が蓬莱にいたのかと思いましたが──」
広仲にも言わんとすることが伝わり、一つ頷いた。
「蓬莱は東海中にある異界。姫嬰の舟は蓬莱に行きつき、姫嬰はかの地で仙女となったのでしょう。仙女は人にあらず。生身の人から仙女と化す者もありましょうが、死者から仙女として蘇る者もあるかもしれませぬ」
姫嬰は蓬莱の仙女となったのだろうか。
「それにしても、私には縁もゆかりもない話です。何故、このような幻想を見せられるのでしょう?そして、何故、その姫嬰と思しき仙女の奏でる琴曲を夢の中に覚え、弾くことができるようになったのでしょうか?」
周雅は琴士である。一連の幻想を見せられているのは、琴士であることくらいしか理由が見出だせない。ならば、夢の曲と蓬莱の岩の上にあった十絃琴が、周雅と幻想とを結ぶものなのではないか。
「若君には、その十絃琴にお心当たりは?」
「いいえ、ございません」
「残念ながら、私も蓬莱の十絃琴などというものは聞いたこともありません。まだ知られていない名器なのでしょうか、これから世に現れるのか。何れにせよ、御身がその発見者か、やがて持ち主になるか。将来、御身と関わることになる琴なのでしょう」
広仲はそこで、なかなかに恐ろしい考えに至った。
「何れにせよ、御身の灌頂の日と関係あるようですから、十八日までに答えを導き出さなければなりません。幻にはまだ続きがあるようです。謎を解くには、再び幻を見なければ。鳳勢が異界へと導くのならば、鳳勢を鳴らしてみましょう」
周雅は仰天した。そんなことをしたら、またあの邪悪な双眼がやって来るではないか。
「絶対にいけません!」
強く否定すると、
「大丈夫、悪霊だろうと生き霊だろうと、今は私がついております。お一人ではないから、そんなに恐ろしくはないでしょう?」
「いいえ!将監の君はあの目にお遇いなさっていないから、恐ろしさがおわかりにならないのです」
「ふうむ、したが、その目は師の君に灌頂の意味を教え給いし縦目阿闍梨と無関係とは思われず──。悪意などないように思われますが」
周雅がまた頑なに頭を振るので、広仲も諦めたのか、ため息をついた後、再び食事を始めた。
「とにかく、食べてしまいましょう。夢解きは十八日までにしてしまわないといけないでしょうから、手がかりは掴まないと。先ずは御身の曲を譜にしてみましょう」
あの巨大な目を呼ぶことを拒絶している以上、手がかりは夢の曲からしか得られない。広仲は一計を案じ、周雅に楽譜に記すことを提案した。
食後、さっそく作業にとりかかった。周雅は鳳勢以外の琴一張を膝に乗せた状態で文机に向かった。隣に座った広仲の膝の上にも、鳳勢ではない琴一張。
周雅は時折、琴絃を弾いて確認しながら、夢の曲を楽譜におこして行く。周雅の手元を覗き、書かれた文字を目で追いつつ、広仲も琴絃を弾いて行った。
楽譜は基本、文字譜である。唐土では隋の時代から、記譜法の研究が進められていて、唐になると、減字譜なるものが発明された。とはいえ、未だ琴界共通の記譜法は確立されていない。
だから、面倒だが、文字で記譜するしかなかった。つまり、右手のどの指でどの絃をどういった奏法で弾き、同時にその時、左手はどの指でどの徽をどういった角度で押さえてどこの徽まで滑らせるのかといったことを、いちいち文章で書くわけである。一音書くのに数十文字も必要になる。
記号化できれば、記譜も楽になるが。しかし、未だこれといった記譜法が確立されていないので、文章でつらつら書いていくしかない。
一拍(一段)書くのも大変だ。一拍書き終えた時、随分夜も深まっていた。
周雅は記した楽譜に間違いがないか確認するため、一拍部分を楽譜を見ながら演奏してみる。
「はい、これで大丈夫です」
広仲に頷いてみせた。
「奏法はさすがに殷(商)の曲らしく複雑ではないようですが、撮の手が多いですね。七絃ではなく十絃ならではといったところですか」
広仲はそう言うと、楽譜を見ながら、一拍部分を弾いてみた。時折、首を傾げつつ、
「こうかな?いや、こうか」
と、左手を微調整して、周雅にも質問する。
さすがに政任の高弟だけあり、周雅の説明を受けながら、すぐに弾けるようになってしまった。
「しかしまあ、夢の中で訊いただけで、よくもまあ弾けるようになったものですね。実際に弾いてみると、なかなか厄介なのに。しかも、もとは十絃の曲です。それをよく七絃ですらすら弾けるものだ」
十絃琴用の曲を、七絃に編曲して弾いているわけである。広仲は改めて弟弟子の天才ぶりに驚愕した。
「いや、それはまことに不思議なのです」
謙遜せず、周雅はすんなり弾けたことを肯定した。
「夢に聴いた曲を、起きて琴に向かえば、少しの迷いもなくすんなり弾けてしまいました。こんな経験は初めてです。霊験が働いているとしか思えませぬ」
「夢は自分の頭が作るもの。この曲は寝ながら御身が作られたということなのでしょうが、しかし、起きている時にも蓬莱でこれを弾く女を見たならば──。いくら自分で作ったものとはいえ、全くの迷いなくすんなり弾けてしまうというのは、やはり神仏のお力が働いているとしか思えませんね」
広仲もそう認めた。
その後、周雅は三拍まで楽譜にした。そこで深更、さすがに疲れたので、寝ることにしたのである。
灯りは一つ文机の所につけたまま、几帳の向こう側に入り、並んでいる寝具にそれぞれ入り込む。
周雅は隣の広仲が眠りにつくのを確認する前に、寝入ってしまった。さすがに疲れたのだろう。
「若君?」
小声で広仲に呼ばれたことにも気付かなかった。
(許されよ)
広仲は周雅が眠ったのを確認すると、もぞもぞと自分の寝具から這い出して几帳の外に出、鳳勢を掻い抱いた。灯りを寄せ、几帳すれすれににじり寄って、先程の曲を奏で始めたのである。
やがて、几帳の向こう側から呻き声が聞こえてきた。魘されているのか、それとも邪悪な気配に包まれたのか。
広仲のいる場所は、空気一つ、何ら変化はなかった。ただ、この薄い几帳一枚隔てた向こうの閨には、何らかの変化が起きているのだ。
巨大な双眼が現れたのか、周雅は幻想へと連れ去られたのか。
周雅の夢の曲は、最初の三拍までしか楽譜がない。広仲が弾けるのもそこまでである。だから、広仲はそこだけ絶え間なく何遍も何遍も弾き続けた。
三拍を往還すること十遍。さすがに疲れを覚えた時、ふと広仲にも変化が顕れた。
楽譜から目を逸らし、膝の上の鳳勢の焦尾を見やった時である。そこに海が見えたのだ。
慌てて目を擦ってみると、やはり波にぶつかる岬が見えた。そこには鳥居があって、立派な御社殿がある。
すると、大波がばんっと弾けて、広仲の指に衝撃が走った。見ると、広仲の指を一振の剣が襲っている。
「痛っ!」
痛みに我に返ると、幻は消え、鳳勢はまたもとの一張の琴に戻っていた。一番太い宮絃が切れていた。
(草薙の剣?……蓬莱。そうか、熱田!尾張か!)
広仲は確信して、そして、己の指を改めてよく見てみた。じわりと血が滲んできた。
懐紙で傷口を押さえ、鳳勢の絃を張り替えようと、塗籠に向かいかける。灯りを手にした時、ふと几帳の向こう側が静かになっていることに気付いた。気になって、几帳の奥を覗いてみた。
周雅の顔に灯りを翳すと、すやすやと安らかに眠っている。悪夢は去ったようだ。
安心して、広仲は塗籠に入り、新しい絃を持ってきた。
鳳勢の絃を張り替える頃には、出血も止まっていた。指から懐紙を取り去ると、広仲は切れた絃を取り払い、新しいものに替えていく。
張り終えて、絃を調べるために鳳勢を鳴らすと、再び異変が起きた。
几帳の向こうから、周雅の声がしてきたのだ。一瞬、起きたのかと思った。それくらいはっきりと、話したのである。
「子余の国の王・準、南に至りてこれを討ち、その地で王にならんとすれどもならず。同地、大いに荒れる。衛満、王倹城にて即位し、南下して先王を討たんと欲す。海中の太子・解、満の野心知りて、先王と合流せず、兵を頼まんとて倭に入る……」
「若君?」
広仲は鳳勢をもとの場所に戻して、灯りを持って閨に戻った。周雅を照らせば、またすやすやと眠っていて、先程しっかり話していた人とは思えない。
(やはり、鳳勢が怪異を見せるようだ……)
何故、鳳勢は怪異を見せる道具となっているのだろうか。比類ない名器であることは確かだが──。これも周雅の灌頂、または政任の発心と関係があるのだろうか。
そういえばと、広仲は先程見た政任手製の以前の目録を思い出した。それによれば──
鳳勢は流祖・曹倫から大学頭行実に渡されたものの一つだが、それら曹倫由来の品のほとんどが、行実から伊定の手を経て、政任に継承されている。だが、鳳勢は伊定を経ず、晩年の行実から幼少時代の政任へ直接渡されたものであった。
政任にとって鳳勢は特別であったに違いない。政任の一の名器だろう。
(だから、鳳勢が異界への入り口になったのやもしれぬ)
その鳳勢を離し、夢の曲も奏でない以上、今夜はもう異変は起こらないだろう。念のため、枕元は照らしておこうと、灯りを枕の近くに置くと、広仲は再び衾を被いて、今度こそ熟睡した。
広仲の酔いはすっかり醒めてしまったようだ。話の間、周雅はもちろん、広仲は全く箸をつけていないし、酒一舐めさえしていない。
語り終えると、疲れたのか、周雅は羮の汁を一口飲んだ。
「ふうむ、なるほど、幻想には二種あるのですね。蓬莱と子余の国と思しきものと」
広仲は閉じた扇を口元にあて、考え込んだふうになった。
「しかし、御身の夢の曲を奏でる蓬莱の女は、その姫嬰と同じか化身かと思われる……」
広仲はそう結論付けた。
「そうでしょうか?」
周雅は羮の椀を置いて、身を乗り出すようにした。
「その姫嬰なる人は、殺されて川に流されたといいまするに。おそらくその亡骸は海に沈んでいるのでは」
「しかし、御身がその子解の目となる直前に見た蓬莱の景色。その中にいた女は、姫嬰の顔をしていたのでしょう?」
「そうか!」
周雅は思い得た。
「蓬莱は異界。何故、生身の人間たる姫嬰に似た人が蓬莱にいたのかと思いましたが──」
広仲にも言わんとすることが伝わり、一つ頷いた。
「蓬莱は東海中にある異界。姫嬰の舟は蓬莱に行きつき、姫嬰はかの地で仙女となったのでしょう。仙女は人にあらず。生身の人から仙女と化す者もありましょうが、死者から仙女として蘇る者もあるかもしれませぬ」
姫嬰は蓬莱の仙女となったのだろうか。
「それにしても、私には縁もゆかりもない話です。何故、このような幻想を見せられるのでしょう?そして、何故、その姫嬰と思しき仙女の奏でる琴曲を夢の中に覚え、弾くことができるようになったのでしょうか?」
周雅は琴士である。一連の幻想を見せられているのは、琴士であることくらいしか理由が見出だせない。ならば、夢の曲と蓬莱の岩の上にあった十絃琴が、周雅と幻想とを結ぶものなのではないか。
「若君には、その十絃琴にお心当たりは?」
「いいえ、ございません」
「残念ながら、私も蓬莱の十絃琴などというものは聞いたこともありません。まだ知られていない名器なのでしょうか、これから世に現れるのか。何れにせよ、御身がその発見者か、やがて持ち主になるか。将来、御身と関わることになる琴なのでしょう」
広仲はそこで、なかなかに恐ろしい考えに至った。
「何れにせよ、御身の灌頂の日と関係あるようですから、十八日までに答えを導き出さなければなりません。幻にはまだ続きがあるようです。謎を解くには、再び幻を見なければ。鳳勢が異界へと導くのならば、鳳勢を鳴らしてみましょう」
周雅は仰天した。そんなことをしたら、またあの邪悪な双眼がやって来るではないか。
「絶対にいけません!」
強く否定すると、
「大丈夫、悪霊だろうと生き霊だろうと、今は私がついております。お一人ではないから、そんなに恐ろしくはないでしょう?」
「いいえ!将監の君はあの目にお遇いなさっていないから、恐ろしさがおわかりにならないのです」
「ふうむ、したが、その目は師の君に灌頂の意味を教え給いし縦目阿闍梨と無関係とは思われず──。悪意などないように思われますが」
周雅がまた頑なに頭を振るので、広仲も諦めたのか、ため息をついた後、再び食事を始めた。
「とにかく、食べてしまいましょう。夢解きは十八日までにしてしまわないといけないでしょうから、手がかりは掴まないと。先ずは御身の曲を譜にしてみましょう」
あの巨大な目を呼ぶことを拒絶している以上、手がかりは夢の曲からしか得られない。広仲は一計を案じ、周雅に楽譜に記すことを提案した。
食後、さっそく作業にとりかかった。周雅は鳳勢以外の琴一張を膝に乗せた状態で文机に向かった。隣に座った広仲の膝の上にも、鳳勢ではない琴一張。
周雅は時折、琴絃を弾いて確認しながら、夢の曲を楽譜におこして行く。周雅の手元を覗き、書かれた文字を目で追いつつ、広仲も琴絃を弾いて行った。
楽譜は基本、文字譜である。唐土では隋の時代から、記譜法の研究が進められていて、唐になると、減字譜なるものが発明された。とはいえ、未だ琴界共通の記譜法は確立されていない。
だから、面倒だが、文字で記譜するしかなかった。つまり、右手のどの指でどの絃をどういった奏法で弾き、同時にその時、左手はどの指でどの徽をどういった角度で押さえてどこの徽まで滑らせるのかといったことを、いちいち文章で書くわけである。一音書くのに数十文字も必要になる。
記号化できれば、記譜も楽になるが。しかし、未だこれといった記譜法が確立されていないので、文章でつらつら書いていくしかない。
一拍(一段)書くのも大変だ。一拍書き終えた時、随分夜も深まっていた。
周雅は記した楽譜に間違いがないか確認するため、一拍部分を楽譜を見ながら演奏してみる。
「はい、これで大丈夫です」
広仲に頷いてみせた。
「奏法はさすがに殷(商)の曲らしく複雑ではないようですが、撮の手が多いですね。七絃ではなく十絃ならではといったところですか」
広仲はそう言うと、楽譜を見ながら、一拍部分を弾いてみた。時折、首を傾げつつ、
「こうかな?いや、こうか」
と、左手を微調整して、周雅にも質問する。
さすがに政任の高弟だけあり、周雅の説明を受けながら、すぐに弾けるようになってしまった。
「しかしまあ、夢の中で訊いただけで、よくもまあ弾けるようになったものですね。実際に弾いてみると、なかなか厄介なのに。しかも、もとは十絃の曲です。それをよく七絃ですらすら弾けるものだ」
十絃琴用の曲を、七絃に編曲して弾いているわけである。広仲は改めて弟弟子の天才ぶりに驚愕した。
「いや、それはまことに不思議なのです」
謙遜せず、周雅はすんなり弾けたことを肯定した。
「夢に聴いた曲を、起きて琴に向かえば、少しの迷いもなくすんなり弾けてしまいました。こんな経験は初めてです。霊験が働いているとしか思えませぬ」
「夢は自分の頭が作るもの。この曲は寝ながら御身が作られたということなのでしょうが、しかし、起きている時にも蓬莱でこれを弾く女を見たならば──。いくら自分で作ったものとはいえ、全くの迷いなくすんなり弾けてしまうというのは、やはり神仏のお力が働いているとしか思えませんね」
広仲もそう認めた。
その後、周雅は三拍まで楽譜にした。そこで深更、さすがに疲れたので、寝ることにしたのである。
灯りは一つ文机の所につけたまま、几帳の向こう側に入り、並んでいる寝具にそれぞれ入り込む。
周雅は隣の広仲が眠りにつくのを確認する前に、寝入ってしまった。さすがに疲れたのだろう。
「若君?」
小声で広仲に呼ばれたことにも気付かなかった。
(許されよ)
広仲は周雅が眠ったのを確認すると、もぞもぞと自分の寝具から這い出して几帳の外に出、鳳勢を掻い抱いた。灯りを寄せ、几帳すれすれににじり寄って、先程の曲を奏で始めたのである。
やがて、几帳の向こう側から呻き声が聞こえてきた。魘されているのか、それとも邪悪な気配に包まれたのか。
広仲のいる場所は、空気一つ、何ら変化はなかった。ただ、この薄い几帳一枚隔てた向こうの閨には、何らかの変化が起きているのだ。
巨大な双眼が現れたのか、周雅は幻想へと連れ去られたのか。
周雅の夢の曲は、最初の三拍までしか楽譜がない。広仲が弾けるのもそこまでである。だから、広仲はそこだけ絶え間なく何遍も何遍も弾き続けた。
三拍を往還すること十遍。さすがに疲れを覚えた時、ふと広仲にも変化が顕れた。
楽譜から目を逸らし、膝の上の鳳勢の焦尾を見やった時である。そこに海が見えたのだ。
慌てて目を擦ってみると、やはり波にぶつかる岬が見えた。そこには鳥居があって、立派な御社殿がある。
すると、大波がばんっと弾けて、広仲の指に衝撃が走った。見ると、広仲の指を一振の剣が襲っている。
「痛っ!」
痛みに我に返ると、幻は消え、鳳勢はまたもとの一張の琴に戻っていた。一番太い宮絃が切れていた。
(草薙の剣?……蓬莱。そうか、熱田!尾張か!)
広仲は確信して、そして、己の指を改めてよく見てみた。じわりと血が滲んできた。
懐紙で傷口を押さえ、鳳勢の絃を張り替えようと、塗籠に向かいかける。灯りを手にした時、ふと几帳の向こう側が静かになっていることに気付いた。気になって、几帳の奥を覗いてみた。
周雅の顔に灯りを翳すと、すやすやと安らかに眠っている。悪夢は去ったようだ。
安心して、広仲は塗籠に入り、新しい絃を持ってきた。
鳳勢の絃を張り替える頃には、出血も止まっていた。指から懐紙を取り去ると、広仲は切れた絃を取り払い、新しいものに替えていく。
張り終えて、絃を調べるために鳳勢を鳴らすと、再び異変が起きた。
几帳の向こうから、周雅の声がしてきたのだ。一瞬、起きたのかと思った。それくらいはっきりと、話したのである。
「子余の国の王・準、南に至りてこれを討ち、その地で王にならんとすれどもならず。同地、大いに荒れる。衛満、王倹城にて即位し、南下して先王を討たんと欲す。海中の太子・解、満の野心知りて、先王と合流せず、兵を頼まんとて倭に入る……」
「若君?」
広仲は鳳勢をもとの場所に戻して、灯りを持って閨に戻った。周雅を照らせば、またすやすやと眠っていて、先程しっかり話していた人とは思えない。
(やはり、鳳勢が怪異を見せるようだ……)
何故、鳳勢は怪異を見せる道具となっているのだろうか。比類ない名器であることは確かだが──。これも周雅の灌頂、または政任の発心と関係があるのだろうか。
そういえばと、広仲は先程見た政任手製の以前の目録を思い出した。それによれば──
鳳勢は流祖・曹倫から大学頭行実に渡されたものの一つだが、それら曹倫由来の品のほとんどが、行実から伊定の手を経て、政任に継承されている。だが、鳳勢は伊定を経ず、晩年の行実から幼少時代の政任へ直接渡されたものであった。
政任にとって鳳勢は特別であったに違いない。政任の一の名器だろう。
(だから、鳳勢が異界への入り口になったのやもしれぬ)
その鳳勢を離し、夢の曲も奏でない以上、今夜はもう異変は起こらないだろう。念のため、枕元は照らしておこうと、灯りを枕の近くに置くと、広仲は再び衾を被いて、今度こそ熟睡した。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる