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清声変声(下)
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食事を済ませた周雅は、しばらくの間、夢の曲を楽譜にする作業をした。広仲は絃を張り替えたばかりの鳳勢の手入れをしている。
巳の刻過ぎた頃、政任の家司が甘く作った唐菓子と白湯を持ってきた。その時、夢の曲はあと一拍で完成というところまで来ていた。
一度、唐菓子で休憩する。
広仲も菓子に手をつけながら、思い出したように言った。
「そういえば、朝お話し下さった夢のことですが。蓬州の人々のことです。蓬州というのは、話の内容から考えるに、甲斐周辺と、駿河から尾張辺りにかけての海沿いの一帯のように思えます」
話に出てきた山は、富士山のことではないか。
「おそらく、そうでしょうね」
周雅は白湯を一口飲んでから返事した。
また、その辺りは今でも蓬州と呼ぶ。周雅は過去の歴史を幻想に見ていると思われるが、その太古の昔から、その地域は蓬州と呼ばれていたということだろう。
広仲は一瞬目撃した幻のことを思った。あれは熱田だったと思われる。熱田は尾張にあり、確かに蓬州と呼ばれている所だ。
(蓬州とはすなわち蓬莱のこと。若君の幻に出てきた蓬莱は、実は熱田なのでは?)
蓬州から出てきて、子解の接待をしていた人々は、渡来人が多かった。富士山から熱田にかけての地域に、斉や秦から来た人々がいたということか。
「若君のご覧になった幻の中に出てきた蓬莱が、仮にその蓬州だったとしたら──」
「え?」
周雅は唐菓子を懐紙に持ちながら、一瞬かたまった。
蓬莱は唐土から見て東海中にあると言われている。方角的には日本のある方角だろうが、蓬莱が日本の中にあるとは、思いもよらなかった。そもそも蓬莱は異界であるはずだ。
「現世に蓬莱があるとは思えません……」
「神域なれば、現世であって現世ではありませんよ。熱田や富士の御山ならばね」
広仲は熱田神宮か富士山が、周雅の見た景色ではないかと推察した。
「実は、私もほんの刹那、幻を見たのです。私には熱田が見えました。その鳳勢の絃が切れた時です」
驚いて仰け反り気味になる周雅に、広仲は己の指の傷を見せた。
「これは、鳳勢の絃が切れた時に負傷したものです。でも、その時、私の目に見えたのは草薙の剣でした。剣が私の指を斬ったように、私には見えたのです」
草薙剣とは天叢雲剣のことで、須佐之男が八岐大蛇を討った時、その尾から出てきたものだ。熱田神宮の御神体である。
海辺に立つ鳥居が見え、そして、草薙の剣が現れたとなれば、広仲が見た場所は熱田神宮に違いない。
「若君の見た蓬莱は蓬州であり、姫嬰という女に似た仙女が弾いていた十絃琴は、蓬州にあるのかもしれません。清羽という女は蓬州から来た人です。若君にはその十絃琴を探し出す使命があるのか、あるいはその十絃琴の主となる宿命なのでしょうから──」
「私は蓬州へ下向するべきなのですか?いや、蓬州へまかれば、その十絃琴を見つけられるということですか?」
広仲は頷きかけたが、そこで止まった。考えてみれば、周雅は高貴な家柄の公達である。名門の若君が、都を出て東下りなど、あってはならない。
手がかりは富士山か熱田神宮にあると思われるのだ。
「あっ!」
そこで不意に周雅は声を上げた。思い出したことがあるのだ。
「幻の最後に目に留まったものが玉でした。その清羽という女が持っていたのですが」
腕輪としていた玉は、とても輝きが強く、美しいものだった。
「幻の中で、見覚えがあるなと思っていたのです。玉でありながら、光を受けると螺鈿のように様々な色彩を放ち──」
「螺鈿?まるで徽ですね」
「それです!」
周雅は膝を打った。
徽とは、琴の勘所のようなものである。琴では十三の徽を付ける。徽は丸く、螺鈿を埋め込むのが普通だ。金や玉を埋め込むこともあるが、普通は螺鈿である。
「幻の中で見た蓬莱の十絃琴に、虚空を浮遊する玉が吸い込まれていたのですが。その玉に似ていたのです」
「その清羽という女が持っていた玉がですか?」
「はい」
周雅は大きく頷いて、広仲は手を打った。
「なれば、ますます蓬州に行って調べる必要がありましょう。十絃琴の手掛かりはその蓬州から来た清羽なる者にある。若君は無闇に出歩けませんから、蓬州へ人を遣って──。そうだ、さっそく」
広仲は部屋の外に出て、政任の家司を呼び、広仲の従者や周雅の家の者を召すよう頼んだ。
周雅や広仲の家の者を熱田に行かせて、十絃琴の手がかりを探させるのである。
それぞれの邸からここまではすぐには来られないから、家の者が到着するまでの間、再び楽譜作りをする。
残る一拍を楽譜に記し終えた頃には、午の刻になっていた。広仲はそれを見ながら、鳳勢ではない琴で弾いてみる。
周雅の家人はまだ到着していない。彼の邸からこの政任宅までは、けっこうな距離がある。馬で駆けつけるのでもなければ、まだ到着できないだろう。
周雅は、家人に熱田へ行くよう命じてから、寝るつもりでいた。しかし、広仲の練習する音を聴いていたら、急に堪え難いほどの眠気に襲われた。
「将監の君、もう無理です。横になっても宜しいでしょうか?」
「おや、それは──」
この曲が幻想に誘っているのだと広仲は思って、周雅を寝床へ連れて行く。
「ずっとお側におります。若君の御家の方が見えたら、私からお願いしておきます。若君は何もご心配にならず、眠って下さい」
周雅は衾を被りながら、勇気ある依頼をした。
「では、あとのことはお願い致します。どうか、鳳勢を弾いて下さい」
広仲はその覚悟を受け取り、周雅が横になっている隣に鳳勢を運んできて、完成したばかりの楽譜を見ながら、夢の曲を奏で始めたのだ。
すぐに周雅は普請場の風景を見た。そして、子解の姿を──。
巳の刻過ぎた頃、政任の家司が甘く作った唐菓子と白湯を持ってきた。その時、夢の曲はあと一拍で完成というところまで来ていた。
一度、唐菓子で休憩する。
広仲も菓子に手をつけながら、思い出したように言った。
「そういえば、朝お話し下さった夢のことですが。蓬州の人々のことです。蓬州というのは、話の内容から考えるに、甲斐周辺と、駿河から尾張辺りにかけての海沿いの一帯のように思えます」
話に出てきた山は、富士山のことではないか。
「おそらく、そうでしょうね」
周雅は白湯を一口飲んでから返事した。
また、その辺りは今でも蓬州と呼ぶ。周雅は過去の歴史を幻想に見ていると思われるが、その太古の昔から、その地域は蓬州と呼ばれていたということだろう。
広仲は一瞬目撃した幻のことを思った。あれは熱田だったと思われる。熱田は尾張にあり、確かに蓬州と呼ばれている所だ。
(蓬州とはすなわち蓬莱のこと。若君の幻に出てきた蓬莱は、実は熱田なのでは?)
蓬州から出てきて、子解の接待をしていた人々は、渡来人が多かった。富士山から熱田にかけての地域に、斉や秦から来た人々がいたということか。
「若君のご覧になった幻の中に出てきた蓬莱が、仮にその蓬州だったとしたら──」
「え?」
周雅は唐菓子を懐紙に持ちながら、一瞬かたまった。
蓬莱は唐土から見て東海中にあると言われている。方角的には日本のある方角だろうが、蓬莱が日本の中にあるとは、思いもよらなかった。そもそも蓬莱は異界であるはずだ。
「現世に蓬莱があるとは思えません……」
「神域なれば、現世であって現世ではありませんよ。熱田や富士の御山ならばね」
広仲は熱田神宮か富士山が、周雅の見た景色ではないかと推察した。
「実は、私もほんの刹那、幻を見たのです。私には熱田が見えました。その鳳勢の絃が切れた時です」
驚いて仰け反り気味になる周雅に、広仲は己の指の傷を見せた。
「これは、鳳勢の絃が切れた時に負傷したものです。でも、その時、私の目に見えたのは草薙の剣でした。剣が私の指を斬ったように、私には見えたのです」
草薙剣とは天叢雲剣のことで、須佐之男が八岐大蛇を討った時、その尾から出てきたものだ。熱田神宮の御神体である。
海辺に立つ鳥居が見え、そして、草薙の剣が現れたとなれば、広仲が見た場所は熱田神宮に違いない。
「若君の見た蓬莱は蓬州であり、姫嬰という女に似た仙女が弾いていた十絃琴は、蓬州にあるのかもしれません。清羽という女は蓬州から来た人です。若君にはその十絃琴を探し出す使命があるのか、あるいはその十絃琴の主となる宿命なのでしょうから──」
「私は蓬州へ下向するべきなのですか?いや、蓬州へまかれば、その十絃琴を見つけられるということですか?」
広仲は頷きかけたが、そこで止まった。考えてみれば、周雅は高貴な家柄の公達である。名門の若君が、都を出て東下りなど、あってはならない。
手がかりは富士山か熱田神宮にあると思われるのだ。
「あっ!」
そこで不意に周雅は声を上げた。思い出したことがあるのだ。
「幻の最後に目に留まったものが玉でした。その清羽という女が持っていたのですが」
腕輪としていた玉は、とても輝きが強く、美しいものだった。
「幻の中で、見覚えがあるなと思っていたのです。玉でありながら、光を受けると螺鈿のように様々な色彩を放ち──」
「螺鈿?まるで徽ですね」
「それです!」
周雅は膝を打った。
徽とは、琴の勘所のようなものである。琴では十三の徽を付ける。徽は丸く、螺鈿を埋め込むのが普通だ。金や玉を埋め込むこともあるが、普通は螺鈿である。
「幻の中で見た蓬莱の十絃琴に、虚空を浮遊する玉が吸い込まれていたのですが。その玉に似ていたのです」
「その清羽という女が持っていた玉がですか?」
「はい」
周雅は大きく頷いて、広仲は手を打った。
「なれば、ますます蓬州に行って調べる必要がありましょう。十絃琴の手掛かりはその蓬州から来た清羽なる者にある。若君は無闇に出歩けませんから、蓬州へ人を遣って──。そうだ、さっそく」
広仲は部屋の外に出て、政任の家司を呼び、広仲の従者や周雅の家の者を召すよう頼んだ。
周雅や広仲の家の者を熱田に行かせて、十絃琴の手がかりを探させるのである。
それぞれの邸からここまではすぐには来られないから、家の者が到着するまでの間、再び楽譜作りをする。
残る一拍を楽譜に記し終えた頃には、午の刻になっていた。広仲はそれを見ながら、鳳勢ではない琴で弾いてみる。
周雅の家人はまだ到着していない。彼の邸からこの政任宅までは、けっこうな距離がある。馬で駆けつけるのでもなければ、まだ到着できないだろう。
周雅は、家人に熱田へ行くよう命じてから、寝るつもりでいた。しかし、広仲の練習する音を聴いていたら、急に堪え難いほどの眠気に襲われた。
「将監の君、もう無理です。横になっても宜しいでしょうか?」
「おや、それは──」
この曲が幻想に誘っているのだと広仲は思って、周雅を寝床へ連れて行く。
「ずっとお側におります。若君の御家の方が見えたら、私からお願いしておきます。若君は何もご心配にならず、眠って下さい」
周雅は衾を被りながら、勇気ある依頼をした。
「では、あとのことはお願い致します。どうか、鳳勢を弾いて下さい」
広仲はその覚悟を受け取り、周雅が横になっている隣に鳳勢を運んできて、完成したばかりの楽譜を見ながら、夢の曲を奏で始めたのだ。
すぐに周雅は普請場の風景を見た。そして、子解の姿を──。
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