小倉鍋──織田信長の妻になった女──

国香

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出会い

一・尾張の男

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「俺の兄の嫁は狐なのさ!」

 最近、無理やり家に養子に来た義兄の実隆が言っていた。

 遺恨あるとはいえ、お鍋は陽気な義兄が嫌いではない。

 実隆もお鍋も父の子ではない、互いに養子どうし。

 後継者のいない養父・小倉三河守実光は一揆勢に殺され、そこに実隆が他家から養子としてやってきた。

 この小倉家には、親族なら幾らでもいる。養子は一族から迎えるべきである。だから、反対する者ばかりだった。

 それを、無理無理、乗っ取り同然に養子に入ってしまったのだから。

 お鍋は彼を、恐ろしい人なのかもしれないと思って、怯えていた。だが、取り越し苦労だった。五つ程年長の義兄は陽気でいい人だ。

 十四歳のお鍋は、隣を行く同年の於巳(おみい)に訊く。

「兄上は昔からあんな方なの?」

 於巳は義兄の実隆が、生家から連れてきた女童だ。

 同い年ということもあって、すぐに親しくなってしまうと、実隆は気前よく於巳をお鍋の侍女にと譲ってくれた。

「はい。御三男ということもあってか、のびのびとしていらっしゃいます」

「そう、でも、ご自分の甥御を狐の子だと仰有るのは。ねえ?」

 実隆は、まだ幼い甥を狐の子だと言った。

「だって、生まれてすぐ祝いに駆けつけたら、髪も歯も生えていて、座って何か喋っていた。這うことなく、いきなり立って歩いたっていうし。これやどう考えたって狐の子だろう。それに、目の動きと髪の生え方。あれは尋常じゃない。そう、まさに狐の頭だ。あの子が狐とすれば、我が家には真っ当な普通の人間しかいないから、狐は兄嫁の家の血統ということになる」

 実隆はどこまで本気なのか、お鍋に真顔で言ったものだ。

「狐の子なんて!」

 反論すると、

「安倍晴明だって、母は狐ではないか。それに、ここは近江だぞ。近江には半人半畜生は珍しくない」

 そんな実隆の言葉に、お鍋は首を傾げた。

「なんだ、知らんのか?犬上郡には犬の子がいた。子孫には有名な者もいるぞ。昔、妙音院殿という大臣で琵琶の名手がおられたが、その頃の名工に筋若なる者がいた。本名は犬須地とて、その犬上の、人間と犬との子の末裔だそうだよ」

 随分不思議な話を聞くものだ。近所だが、聞いたこともない。

「どうしてそんなことをご存知なのですか?」

 訊くと、

「何だったか、楽書にもある」

と、実隆は教えてくれた。

 よくよく聞いてみれば、それは二条天皇の御代(平安時代末期)頃に書かれたらしい『胡琴教録』だという。

 実隆は一度読んだことがあったらしいのだが。

「おかしいな、小倉の蔵にはないようだ。実家で見たのかな?」

 探しても、実隆やお鍋が暮らす小倉家の佐久良城からは見つからなかった。

 そもそも、楽書の類は門外不出なことが多く、小倉家、実隆の実家の蒲生家、何れも好学な教養高い家とはいえ、持っているとしたら、不思議なことではある。

 だが、近年、都は乱れに乱れ、将軍さえも都にいられず逃げ出しているという有り様。公家や楽家の多くも、地方に蔵書と共に散っている。

 中でも、都から近いこの近江は最高の疎開先で、将軍も公家も皆、続々とやって来ていた。

 現将軍・足利義輝も、長年近江に潜んでいたのだ。都に帰ったのは、永禄元年(1558)。つい数ヶ月前に過ぎない。

 そうした事情から、楽家によって楽書がもたらされたのかもしれない。

 しかし、『胡琴教録』は小倉家にも蒲生家にもなかった。

 好奇心旺盛なお鍋はどうしても見てみたくなって、

「もう!兄上!いったい何処でご覧になったのですか?」

と、駄々をこねた。

「さてなあ。於巳の川副の家だったかなあ?」

 川副家も大変好学な家で、和歌の本などを多数持っている。公家との交流もあり、お鍋が於巳に聞いてみると、驚くべき答えが返ってきた。

「それなら、多分、石田村の親戚から借りたことがあります」

 お鍋は小躍りして、さっそく於巳を連れて、その家に『胡琴教録』を借りに行ったのだ。

 そして、自ら写本にした。

 先日、ついに写し終え、今日は返しに行くのである。

「何も、鍋自ら行かなくても」

 実隆はそう言ったが、

「質問したいことがあるんです!」

と、無理に出てきてしまった。

 そうして、今、於巳と馬を並べているわけである。すぐ後ろにはぞろぞろと、実隆が付けた護衛の武者達が十数名続いている。

 お鍋は『胡琴教録』と他の借り物の本数冊を胸に抱えて、機嫌良く馬を操っている。

「あ!」

 また何か発見したようだ。

 今日何度目だろう。こうやって、興味深い物を発見しては、道草を食ってばかりいるので、もう日も傾きかけた。

「いい加減になさらないと、暗くなってしまいますよ!」

 すぐ後ろから、護衛の寺倉の野太い声が響く。

「そうですね。今日は本を届けて、そのまま私の親戚の家に泊めてもらうことになっていますが──それにしたって、日の残っているうちに、そこに行き着いておきたいものです。寄り道はもうお止め遊ばしませ」

 さすがに於巳もそう言った。

 実はお鍋には縁談があった。今年の内には嫁ぐことになっており、嫁いだら、もうこんなに自由には歩けなくなる。

 これが最後だと思って、於巳もお鍋の道草を大目に見ていたのだが、さすがにそろそろ急がないとまずい。

「もうすでに、明るいうちに着くのは無理です。せめて、真っ暗になる前に──」

 夜道の女旅は危険だ。

「わかってる!でも、ほら、あれ!」

 お鍋は目を凝らし、指差すのだ。皆、そちらに視線をやるが、薄暗くてよく見えない。

「煙ではないかしら?」

 お鍋の爛々と輝く目には、見えているらしい。

「火事よ、きっと!」

「まさかっ!」

 ここは交通の要所・柏原。

 お鍋が指差す方向には、成菩提院がある。

「ややっ?確かに煤臭いぞ」

 護衛の一人、速水が鼻を啜って同意した。

「大変!行かなくちゃ!」

 お鍋は言うが早いか、もう手綱を操り、駆け出していた。

「やっ、お待ちを!」

 制止も聞かずに一目散なのは仕方なかろう。皆わかっている。

「今日は松明が要るな」

 護衛達は諦めて、於巳と共に全員馬を走らせて行った。

 跳ねっ返りのくせに、乗馬の達人でもないので、お鍋はすぐに皆に追いつかれた。

「やっぱり成菩提院から煙が出ているわ!」

 馬を走らせながら、お鍋が叫ぶ。

 成菩提院は名刹である。寺倉や速水も、この時にはすでに、心から消火しなくてはと思っていた。

 あれだけ煙いのに、気づく者がいない方が不思議だが、寺に着くと、人気がなかった。

「信じられない、旅人も領民も、何故気付かないのよ!」

 お鍋は馬を飛び降り、寺内に走りながら言う。

「寺の隅の方ですし。どうやら小火みたいですからな」
 
 寺倉はこれで気付くお鍋の方が普通でないのだと言いたげな口ぶりだ。

 しかし、実際、燃えているのは小さな堂で、寺の者さえそこには数人しか駆けつけていなかった。

「おら!何ぼうっとしてる!早くそっちの板戸を剥ぎ取れや!」

 一人の男が円座のような物で、ばさばさと火を叩きながら、怒鳴っていた。

 おろおろするばかりの僧侶が三人ほど。

 消火しているのはその俗人の男一人だけだ。

「おら!そっちに燃え移るだろがっ!」

 男が目の前の戸を蹴り倒した。

「ややや、しかし、堂を壊すなど……」

 僧侶は大事な堂を破壊するのに躊躇いがある。

 火の勢いは結構強い。小さな堂の正面の階段から火が出ている。そこから軒下全体を火柱が覆っていた。火が屋根に到達するのは時間の問題と思える。堂内の護摩壇からも火が上がっているので、火元はそちらなのかもしれない。

「これね!」

 お鍋は堂を駆け上がって、すぐ寸前まで火が至っている板戸に体当たりした。

 どんっ、ばあん!どおっ!

 身軽なお鍋でも、助走つけて体当たりしたので、板を倒すことができた。めりめりと板が割れた。

 板と一緒に倒れ込んだお鍋は、戸を破壊したことに、一瞬罪悪感に襲われたが、

「気にするな!」

と、先ほどから一人で消火する男の甲高い声に促され、すっくと立ち上がり、そこの御簾を引きちぎった。

 お鍋の護衛達も次々と消火し始めている。

 火を直接消そうとする者。火より先回りして、戸やら床やら引き剥がし、蹴破る者。

「ああ!そんな……」

 まだ燃えていないところまで破壊されて、悲鳴をあげる僧侶達。於巳はそんな彼等を叱咤して、堂内にある貴重品を外に運び出している。

 お鍋は男達と消火作業。

「危ないですよ!あなた様も於巳殿と一緒に、運び出された宝物を集めていて下さい!」

 速水が言うのも聞かず、池から汲んできた盥の水を、火にぶちまけていた。

 ぷすぷすと鎮火する頃には、辺りはすっかり暗くなっていたが、実はさほど時間は経っていないのかもしれない。

「ふう……消えた、わ……」

 お鍋は鎮火した後になって、急に気が抜け、へなへなとその場に崩れ落ちた。僧侶達も同様、庭でへたばっている。

 於巳はしっかり運び出した宝物を綺麗に並べ、整理していたが、速水や寺倉らもけっこう元気で、立ったまま汗を拭っていた。

「貴様、やるな!」

 どこからいつの間に持ってきたのか、松明を手に、若い男がお鍋に歩み寄った。

 火に照らされた顔は煤で真っ黒で、目だけが異常にぎらぎらしている。にやっと笑った歯も光っていた。

(げっ!)

 その人相に、お鍋はぎょっとした。

 最初に一人で消火していた男だ。何やら暴力的な印象を持ったが、今、改めて顔を確認してみると、相当こわい。

 お鍋が目を剥いていると、男はぷいっと向こうに行ってしまったが、すぐにまた戻ってきた。

「これ、貴様のだろう?なになに?『胡琴教録』だ?──知らんなあ。珍しい書なんだろうな。そんな大事な物、投げ捨てるなよ」

 男が平包(風呂敷包み)を差し出した。平包は結び目がほつれて乱れ、中身が丸見えになっている。

「え?」

「貴様、ここに飛び込んで来た時、これを投げ捨てただろう」

「……?」

「ぶはっ!」

 男は吹き出した。男のくせに、笑うときゃんきゃんきんきん甲高くてうるさい。

「無意識か?ま、そうだろな!生き霊か貴船詣でみたいな形相だったもんな!」

 ここに飛び込んで来た時のお鍋の顔を思い出したらしく、馬鹿みたいに笑い狂っている。

「んなっ!」

 お鍋は年頃の娘。容姿は何かと気になる年頃。失礼な男の顔を睨んだ。

 はっとした。悪人面の男が改めて真っ黒だったことに気づいたのだ。

(やだ!私、顔……)

 急に両頬を両手で覆って、俯いた。一緒に消火したのだ。きっと自分も男同様、顔中煤だらけになっている。

 色白の器量良し──それがお鍋の評判だ。許嫁もお鍋のその端正な容貌に惚れ込んでいるというのに。

 お鍋が急に下を向いて黙り込んでしまったので、男も笑いをおさめて、改めて平包を差し出した。

「ほれ」

「……」

 お鍋が手を出さずに黙っていると、

「なんだ、要らんのか?大事な物ではなかったのか」

 だから、放り投げたのかと、男は平包を解いて、『胡琴教録』をつまみ上げた。

「胡琴とは琵琶のことよな。貴様、重代の楽家か何かか?」

 松明を翳して、ぴらと捲って中を見る。ぴらぴらと斜め読みしては、首をひねり。しばらくそうしていたが、急に興味を失ったのか、お鍋の膝に投げて寄越した。

 他に和歌や連歌の教則本が三冊あり、それを一冊ずつ、ぽんぽん投げて寄越す。お鍋の膝に本が四冊積み上がった。

「別に大事な物でもなかったみたいだな?こいつもどうでもいいのか?」

 男は手に残った平包をひらひらさせた。

 お鍋は俯いたまま、目だけを平包に向けた。

 本は於巳の親戚から借りた物だが、平包は家にあったどうでもよい物だ。

 こくりと頷くと、

「じゃ、くれ」

と、男はお鍋が返事するより先に、己の顔をそれで拭い始めたのである。

「はあ!?」

 お鍋は思わず頬から手を放し、首を上げた。

「私、まだ何も……っ!」

 確かに大事なものでも何でもないが、勝手に顔を拭くなんて、おかしいだろう。

 頓狂な声を上げたが、後が続かない。ぱくぱく口だけ動かしていたが、先に上げた声は意外に大きく、護衛達が聞きつけて、

「貴様っ、何をしたか!」

と、速水が男に迫ってきた。

 お鍋に危害を加えられたと思ったのだ。

「お鍋様、大丈夫ですか?」

 慌てて於巳も駆け寄った。

「お鍋?ぶっ!」

 護衛達に取り囲まれているというのに、悠然と顔を拭い続けていた男は、また吹き出した。

「貴様、お鍋というのか?ぐっふふふふ」

「この無礼者!」

「なんなのよ!さっきから、この男っ!」

 寺倉と同時にお鍋が叫んだ。だが、男はますます愉快そうに、拭いながら笑う。

「お鍋、お鍋、良い名だ。鍋、柄杓、茶碗。女らしい、女の名はこうでなくては!ぎゃはは!ほれ」

 男は拭った平包をお鍋の頬に押し当てた。

「やあっ!汚いっ!」

 お鍋は反射的に平包を叩き落とす。

「ぶはははは!」

 男はお鍋を見つめて、笑い続けている。

「五徳に乗せた鍋……いやいや!五徳を乗せた鍋!」

 貴船参りの呪いの女。

 お鍋が丑の刻詣りをする姿が浮かんで、おかしくてたまらない。

「貴様、いい加減にしろ!」

 速水が男の無礼に怒って、その胸ぐらを掴んだ。刹那、男は狼虎のような鋭い眼光で速水を睨む。なお口元は笑っていたが。

 その顔が凄惨で、そしてぞっとする美しさで、速水はたじろいだ。つい胸ぐらから手を離す。

 お鍋は煤を拭い去った男の顔が実は美しいことに、今やっと気づいた。

「……うわああん──」

 不意に彼女は泣き出した。わけもなく悲しくなって。何故だか自分でもわからないが、悲しくて仕方ない。

「お鍋様、どうなさったのですか?」

 傍らの於巳が背中をさすって、お鍋の顔を覗き込む。

「いやあっ!見ないで!」

 駄々っ子のように、お鍋は於巳の手を振り払って、顔を覆って泣きじゃくる。

 護衛達、男はおろおろ。僧侶達も、どうなされたかと声をかけるばかりで。

 さすがのこの珍奇な男も、呆気にとられていた。

「お鍋様」

 なだめる於巳。

「いやあ……私がこんな顔だから、平包で顔を拭けって……こんな顔、見ちゃいやあ……」

「え?え?」

 お鍋は自分の顔が真っ黒で醜くなっているのだと思った。

 美男に見られたのだと知って、わけもなく涙が出てきて──

「すまぬ。ちと調子に乗りすぎた」

 しばらくして、男が詫びた。それでもどこか悪ふざけしているように護衛達には見えた。

「まこと無礼な奴め!小倉家の姫に、あのような非礼、ただで済むと思うなよ!」

「どこのどいつだ!名を名乗らんか!」

 速水と寺倉が男に詰め寄った。

 男は、

「小倉?」

と聞き返し、そうかとにやりと笑った。

「貴様、反省してるのか!この尾張者が!」

 寺倉がそう言ったのは、男に尾張訛りがあったからであろう。

「すまぬ。まことに勇敢にして溌剌とした娘御ゆえ、ついからかった。だが、火事に気づいて速やかに消火にあたるその行動力、まことに大したものだと感心したのだ。嘘ではない」

 男はそう言って、まだ泣いているお鍋に軽く頭を下げた。

「六角家の重臣の娘御であったか。失礼した。俺は……」

 男がそう言いかけた所で、

「殿っ殿!」

と呼ぶ大声がしてくる。

 それを聞き、男は片方の眉をぴくりとつりあげ、不機嫌そうに立ち上がるや、

「遅いっ!」

 凄まじい大声で怒鳴った。護衛もお鍋もびきっと肩を上げたほど。

 すぐに、数名の侍が走り込んできた。

「殿、一大事です!」

 そう言いながら近づいてくるのに、

「火事だ!阿呆っ!何故誰も気づかぬのだ!俺さえ気づいて駆けつけたに!」

と、まくし立て、男は全く相手の話に耳を貸さない。

「見ろ!もう消火し終えてしまったではないか!」

 そんな男に慣れているのか、侍たちも一方的に、

「お産です!」

と言う。

「ああん?」

 要領を得ないらしい男。

 苛々し出したらしいと気付いた僧侶が、恐る恐る声をかけた。

「ありがとうございました。おかげですっかり火は消えました。大事に至らなかったのは織田殿のおかげ。焼けた堂は使えませぬが、延焼はありません。宝物も、一つも失うことなく、この通り無事です。あとは拙僧どもで片付けますので、どうぞお戻り下され、織田殿」

 男は僧侶に頷いて見せ、次いでお鍋に視線をやった。

「ご苦労だったな。疲れただろう、寺の者どもに歓待させるといい。──ああ、俺は尾張の織田信長だ」

 男はその言葉を残して、侍達と共にその場を去って行った。

 茫然とお鍋はその後ろ姿を見送っていた。
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