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内訌
九・事実
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小牧山城に住まう信長は、濃姫のもとに一人の男児を連れて来た。
「ほら、そなたの子だ」
濃姫が眼を見張ると、信長は呆れたように、
「そなたが近江で産んだ子ではないか」
と言った。
濃姫は驚いて、
「そんなことがありましょうか!」
目の前の子は男子。濃姫の子は女子。しかも、歳も違う。目の前の子は大き過ぎる。
だいたい、あの時近江で生まれた姫は亡くなったではないか。
信長は気の毒そうに、濃姫を見つめた。
「かわいそうに、そなた。すっかり忘れて、夢も現もわからなくなって。脳の病だな……」
「なんとも。奇妙なことをおっしゃる」
「さよう!奇妙だ、奇妙丸だ!」
信長が男児を押しやった。
濃姫は目の前の子が信長の長子・奇妙丸と知った。
「まあ、この子が奇妙殿。かわいい」
「そりゃ我が子はかわいかろうよ」
信長はなおおかしなことを言うのだが、やや声を低くして言った。
「これはそなたの腹から生まれた子だ。そなたが近江であの時産んだ。なに、子など十を過ぎれば二つ三つの違いなぞ見分けがつかなくなる」
そして、声を大にし、
「奇妙は早熟な子よ」
奇妙丸は信長の側室が弘治三年に産んだ子。濃姫が近江で出産したのは翌々年の永禄二年初頭。
奇妙丸の生まれた年を二年遅く外に向けて公言したとて、わからぬような差ではあろう。
それ以来、奇妙丸は濃姫の子として、彼女が手元で育てることになる。
奇妙丸は聞き分けの良い賢い子で、すぐに濃姫に懐き、濃姫も数日で肩の力が抜けた。
そうしてくつろぐ時間もでき、一人でゆっくりと菓子を口にしていると、対面を願い出ている者がいるという。その名が滝川一益の手の者だったので、濃姫は喜色満面で立ち上がり、
「早く通しなさい」
と、侍女を急かした。
やがて、庭先に平伏したのは、件の若い忍者の男であった。
「喜六にございまする」
「喜六、よく戻った。しかし、長助ではなくそなたが来たのは何故か?」
長助とやらは、この喜六の師。濃姫に会いに来るべきは長助である。
濃姫は喜色をやや曇らせ、何かあったのではないかと探るような眼差しを送る。
「ご心配には及びませぬ。長助殿はなお小倉の姫に従っておられまする」
「姫はご無事なのね?」
「はっ。危うき所でございましたが、長助殿が救出致して──」
「よかった!」
ほっと濃姫は崩れるように、広廂に腰をおろした。
「ですが、小倉家の内紛未だ収まらず、姫は和子が気になるとて、お招きすること叶いませんでした」
忍の若者はそう言って、お鍋救出の一部始終から、お鍋が捕らわれの息子のために日野に向かったこと、戦の行方などを語った。
その上で、
「姫はお招きできませんでしたが、その代わり、相谷城の小倉良親殿をお連れ致しました」
と、良親との対面が可能かどうかと伺い見た。
「そう。では会いましょう。連れてきて頂戴」
「ははっ。実は本日、お許しもあろうかと、伴い参りまして、あちらに控えさせております」
「それなら、すぐに呼びなさい」
しばらくして、庭の築地の向こう側から門をくぐって、若い男が現れた。庭に跪き、神妙に挨拶する。濃姫にも見覚えのある顔だった。
「お久しぶりですね、良親殿。遠路お疲れでしょう?その節はお世話になりました」
朗らかに、濃姫は労う。良親は益々平伏して。
「この度は、思いもよらずお世話になり、お礼の言葉もございませぬ。あの時、九居瀬城主の行国へ仰せ下されたること、我等でさえ忘れておりましたのに、それを覚えておわして、わざわざ喜六殿達をお遣わし下されましたること、まことに感激致しました」
「大袈裟です」
濃姫は鈴のように笑っている。だが、面を上げた良親は涙ぐんでいた。
「鍋御寮人を助けんと、喜六殿達をお遣わし下されたは、北ノ方様であると伺っております」
「あの時、織田家や私個人が受けたご恩を思えば、当然のことです。ただ──小倉家の危機には必ずお助けするとは申しましたなれど、あの右近大夫殿がその危機の元凶とは、悲し過ぎます」
濃姫は出産後の体を右近大夫のもとで休めていたのだ。
「時世が味方しなかったのでございます」
良親はやや差し俯いて、本心を吐露した。
六角家に未来はないこと。小倉家としても、本当は浅井家に組みしたいこと。右近大夫と敵対したのは、今はまだ六角家に従うしか生き残る道がなかったこと──等話す。
「結果として、この有様ですが」
良親は自嘲した。右近大夫に城を奪われ、尾張に逃げてきた。こんなことなら、右近大夫に従っていればよかった。
「いいえ、それでは小倉家は全滅したかもしれませぬ。あなただけでも助かったなら、その血も残せますし、いずれ必ずお家の再興も叶います。夫には私から伝えておきまするゆえ、尾張でしばしゆっくりなさいませ」
そして、住まいを提供すると約束した。
良親は恐縮しきりである。濃姫は最後に言った。
「しかし、この戦であなた以外の小倉も滅ぼさせは致しませぬ。すぐにも美濃を平定し、あるいは美濃の新しい主と手を組み、六角家を孤立させましょう。浅井家とはすぐに同盟できましょうし、滝川が北伊勢にも調略の手を伸ばしておりまする故。この織田が、近江に踏み込み、小倉家を滅ぼさせは致しませぬ!」
「ありがとうございまする!どうか、お力添え下さいませ!そして、蒲生家に捕らわれたままの鍋御寮人の和子を、蒲生家から取り返して下さいませ!それが鍋御寮人の何よりの願い!」
濃姫は強く頷いた。
その夜は珍しく、信長が濃姫や子ども達を集めて、一家団欒の食卓を囲んだ。
信長は濃姫と奇妙丸の睦まじげな様子に満足したり、紫のおくるみに包まれていた頃から大きく成長した冬姫の、おませな様を笑っていた。
機嫌は頗る良く、やがて濃姫は信長へ告げた。
「近江の小倉家──山上城に対して、六角家から追討令が出たことはご存知かと存じます。佐久良城へ命が下されたため、小倉の本家が分家を討つ形になってしまいました」
「聞いた。逆に本家が危機的とな」
信長は冬姫を膝に乗せて、不意に話し掛けた。
「そなたの姉上が生まれた所の話よ。よく聞いておけ」
「はい」
まだわからないだろうに、真剣に頷く姫の表情がおかしくて、濃姫はつい笑ってしまいそうになったが、話の重要さに、頬を意識して引き締める。
「私がお世話になった山上城が優勢なのは幸いですが、小倉家ご一門皆様にご厄介になったので、心が痛みます。あの時、何かと立ち回って下さった小倉の姫が、大層つらいお立場に立たされてお苦しみとのこと。あの姫のこと、覚えておられましょうか?」
「鍋御前か──五徳姫の名の由来だ。忘れようがない」
濃姫は頷いた。
五徳姫は信長の傍らに座っていた。猫みたいと言って、冬姫の髪をもしゃもしゃと弄っていたが、冬姫がその手を制して、そのまま手を繋いでいる。
「かの姫は若君を蒲生家に奪われ、義兄には死なれ、ご夫君は蒲生家に従わず、若君は今にも殺されそうな状況になっておられるとか。姫ご自身も人質であったのを、ご夫君の裏切りで、危うく殺されかかったところを、辛くも脱出なさったのだと。それでも、若君を見捨てられないと、せっかく逃げ出せたのにもかかわらず、蒲生家に向かわれたと──」
途中から信長は眉を吊り上げ、不快げに目を光らせた。
「あの男か──」
以前、信長の娘を包むための紫の布を託した男。その面影を思い出す。
(あやつの子を産んだか!)
俺の子を産めなどと信長はお鍋に言ったが。許嫁から奪ってやるとも。
(だから言わんことない、あの男──)
日和見男。信長が一番むかむかとする種類の人間だ。
「なんとかして差し上げたいのです!」
「すでにそなたが何とかしたのであろうが」
小倉家の状況、お鍋の苦悩。濃姫はやけに詳しい。信長はにやりと彼女を見やった。
濃姫はややばつが悪そうにもじもじとした。
「くっ!そなたは本当に鍋御前が好きよな」
「ですが──!」
「わかっている。近江よな、無論このままにはしておかぬ。だが、それには先ずそなたの実家よ!」
「はい……」
美濃をなかなか落とせない。信長は苛立っていた。
(鍋御前、もう少し辛抱できるか?待ってろ!)
「小倉家は持ちこたえられましょうか?」
「……ふむ」
とりあえず小倉良親の身は尾張にある。小倉家の血だけは確保できそうだが。
「それにしても、南近江の話題になるといつも必ず出てくるな、蒲生という奴。最近、北伊勢の話題にも絡んでくる。食えない奴らしいな、よほど。小倉の事態、このままにしておくとも思えぬ。さて、どうする気か」
「小倉の姫をどうにか助け出さなければなりませぬ!こともあろうに、その蒲生家に捕らわれの身とは」
濃姫は案じて眉根を強く寄せる。
「くせ者、蒲生か──」
信長の冬姫を抱く手に無意識に力が入った。
****************************
小倉城は左近助良秀が自害したことによって、右近大夫の手に落ちた。
それにより、九居瀬城は孤立。もはやこれまでと、城主・行国は自害。九居瀬城も右近大夫方となったのだ。
これで、愛知川付近で右近大夫に従わないのは永源寺のみとなった。
八尾城に入った右京亮は、その間、何らの行動もとっていない。永源寺に攻撃されて以降、何もしていないとなれば、右近大夫は当然味方と思っている。
本当は左近助に加勢するつもりだったことを、右近大夫は知らずにいた。だから、八尾城は無事なままである。
そのことを、出頭してきたお鍋の従者・伝兵衛から聞いた蒲生家では、次の戦に使えると喜んだ。
「このまま右京亮殿には右近大夫の味方のふりをして頂こう。そのようにご夫君に書簡をしたためて下さらんか」
蒲生定秀はお鍋にそう要求した。
お鍋と甚五郎。二人の使い道を見つけたらしい。どうやらしばらくは、二人の首はつながっていられそうだ。
お鍋は蒲生家に出頭した時、於巳とは別れていた。
「私は右京亮に捕らわれていると、このまま蒲生家に思わせておくのです。そうすれば、お鍋様のお命、迂闊に奪えなくなるはずですので」
於巳はそう言って、濃姫が遣わした忍──長助と姿を消した。
お鍋は単身出頭したのである。
蒲生家はそれを評価して、甚五郎と一緒にいることを許してくれた。後から伝兵衛が訪ねて来たが、彼がお鍋に仕えることも許可した。
中野城の二の丸の内に、お鍋は甚五郎と住んでいる。
既に四月末。
珍しく晴れた日に、庭に出たお鍋は、
「無名、無名」
と、風に語りかけた。
「はっ」
ほどなく返事がして、お鍋は顔を明るくした。
「あ、来ていたの」
やがて、庭石の陰に男が姿を現した。
忍の長助である。
於巳の隠れ家と中野城を、陰のように行ったり来たりしている。
「無名」
お鍋は長助をそう呼んでいた。
以前、名を尋ねたら、名などないに等しいと、名乗らなかったからである。
「でも、呼び名もなければ不便ね」
と、無名と呼ぶことにした。
「無名という名の琵琶もあるというし」
薬指も無名指ともいう。
岩陰にいる無名こと長助へ、お鍋は八尾城の様子を訊いた。
「相変わらず、のらりくらりとしているようでございます。右近大夫は全く疑っていないようです」
「そう」
それを聞いて安心したような、それでもなお夫を疑うような気持ちも紛れている。
察したか、無名は右京亮からの文を差し出した。
「ご夫君からです」
「ありがとう」
お鍋が無名にこのような重要な役目を任せていると知ったら、蒲生家は驚くかもしれない。そんな得体の知れない者を信じるお鍋を、嘲笑うであろう。
だが、お鍋は信長が遣わした者というだけで、手放しで信用した。盲信した。
お鍋は彼を遣わした人は信長その人だと思っている。無名がそれについて特に説明したこともないので、そう信じていた。
信長だろうが濃姫だろうが、どの道変わりはないことではあろうが──。お鍋は信長以外の人間の指示の可能性を微塵も思わなかった。
お鍋が単身蒲生家に出頭した時、伝兵衛はまだ小倉城内にいた。忽然と消えたお鍋を、左近助に殺されたものと思い、せめて骸だけでもと、城内をくまなく探し回っていた。
しかし、いくら探しても見つからず、そうしているうちに、左近助は自害した。落城を契機に伝兵衛は城を脱出し、八尾城に行ってみたところ、右京亮のもとへ蒲生家から、お鍋を預かっている旨の書簡が届いていたのだった。それで、伝兵衛はお鍋が蒲生家に出頭したことを知った。
「わしは左近助殿を裏切ったわけではないぞ!お鍋はきっと誤解して、わしに怒っているだろう。きちんと事実を伝えてくれ」
右京亮に頼まれ、伝兵衛は蒲生家に来たわけである。
お鍋はそれで、ようやく夫がやむを得ない事情で永源寺に応戦したことを知った。
(殿は本当に右近大夫を裏切り、左近助殿に味方するつもりだったの?私は見捨てられたわけではなかったの?)
それを知った時は、正直素直に嬉しかった。それでも、幾らでも言い訳はできるのではないかと、時間が経つにつれて、半信半疑になって行ったことも事実である。
今でも疑う気持ちは残っているのである。
伝兵衛は蒲生家に対しても、右京亮の思わぬ災難について話した。定秀は容易に信じはしなかったが、それでも、お鍋も甚五郎も手にしているのである。右京亮を脅して、自分の都合の良いように動かそうと考えた。
「お鍋殿、ご夫君に我等に加担するよう願われよ。ただし、今はまだそのまま右近大夫に従っているふりをさせるのや。途中で感づかれたり、結局右近大夫に従って我等に弓引くようなら、その時はおわかりですな?ご夫君に文で切々と訴えられよ」
定秀はお鍋にそう命令したのである。
言われた通り、お鍋は文を書いた。その文を持った蒲生家からの使者が、やがて八尾城に赴き、右京亮に同調を迫った。
それに対する、右京亮の返事は諾。
その後、右京亮が右近大夫を裏切る機を見極めるためにも、右近大夫との間で交わされたやり取りや、右近大夫の陣営の様子を事細かに報告するよう、蒲生家は求めた。
お鍋はそれには忍の力が欠かせないと見て、無名を使っていたのである。
無名は仲間と共に、於巳の隠れ家を拠点にしながら、お鍋と右京亮の間を行き来していた。
そして、どうやら右近大夫に近々何らかの動きがあるらしい。そのことを、右京亮はお鍋に知らせてきた。
今日、無名が持ってきた文は、まさにそれなわけである。
「無名、ご苦労さま。まるで私の従者みたいに召し使って、申し訳ないわね。織田様、滝川殿が気を悪くなさらないかしら?」
「いいえ、それがしは小倉家の危機が回避されるまで、小倉家をお助けするよう申し付けられておりますので」
「そう、ありがとう。片づいたら、きちんと織田様に御礼しなくてはね。良親殿もご厄介になっているでしょうし」
お鍋が微笑むと、無名は頭を下げ、すっと消えて行った。
お鍋は夫の文を一通り確認すると、それを懐にしまい入れ、定秀に対面を求めた。
すぐに許可が出て、本丸の書院に行く。中に定秀と賢秀が並んで座っていた。
中野城内は戦の支度をしていて、あちこち慌ただしい。だが、この親子が雁首揃えていると、何やら禅寺の中にでもいるような錯覚を覚える。ここだけ別世界の空気、空間だった。
簡素にしてどこか都会的でもある書院の内装。そこに座る親子は、今から連歌でも詠み合うのかと思えるほど、どこか雅びている。
お鍋は二人の前に、静かに座った。開け放たれた障子の外には、都の名ある庭園を思わせる、風情ある景色が広がっている。
横の視界に入ってくるそれを、見るともなしに眺めながら、お鍋は話を切り出した。
「夫から新たな情報が参りました」
右近大夫に動きあり。蒲生父子はもたらされた情報にほくそ笑む。
「これは、よい情報を。ありがたい。改めて、お鍋殿には御礼申さねばならぬな」
自分から人質になりに来てくれて──定秀がにたりとお鍋を見ている。
改めて考えてみれば、お鍋がここにいる必要はなかったに違いない。お鍋は出頭せずに於巳の隠れ家にでも身をひそめ、無名を中野城に忍び込ませて、甚五郎を救出させれば済んだ話だ。
だが、それをしなかったのは、左近助の話が心に残っていたからだ。つまり、六角家から実隆に対して、右近大夫の討伐令が下されたという事実。だから、右近大夫は謀反人なのだ。
夫を謀反人に同調させるわけにはいかない。だから、あえて甚五郎を救出せず、自ら人質にまでなって、夫を本家側に従わせようとしたのだ。
(今はお屋形様に従うしかない。時間稼ぎよ。今に信長が美濃も伊勢も手にして、近江に攻めてくる。お屋形様を討ちにくるわ!それまでの時間稼ぎ)
今は六角家に従わなければならない、夫の心を変えなければならない。
定秀に、蔑むような目で嘲笑されるのは心外だ。なのに、なお言うのである。
「右京亮殿は実に良く使えるお人や」
目先のことしか見ない。自分が生き残ることしか考えない。いわゆる日和見族とて、もう少し、数ヶ月先のことまでは考えるであろう。だが、右京亮は今日の海路の日和しか見ない。
定秀はそれを嘲笑うのだ。
「父上!」
さすがに賢秀はたしなめたが、
「いいえ、夫はそういう人ですもの。情けない」
と、お鍋は答えた。
思うは信長のこと。
(信長は戦のない世を作るんだと言ってたわ。俺が世の中を変えるんだって)
「己が力を尽くして、この腐敗した世を変えてみせるのだと、粉骨砕身している人もいるというのに。同じ必死さでも、この違い。世を動かすために頑張る一人。己一人が生き残るために頑張るのと……はあ」
言っているうちに、大志ある信長とのあまりな気概の違い、匹夫ぶりにため息が出た。
「世を変えるだ?」
定秀はそれを聞いて、すぐに表情が変わった。
お屋形様──六角定頼をとっさに思い浮かべた彼は。
一瞬の憧憬の後には、またすぐ元の顔に戻り、
「世を変えるなぞ、天に唾する行い」
と鼻で笑った。
「えっ?」
「一見、立派そうに感じる。いや、誰もが素晴らしい心根よと感動するであろう。しかし、世の中を一転させ、天地をひっくり返らせるなぞ。さように大それたこと、いったい誰にできようか。できるわけもないものを、できると信じるその者の心は、ただの驕りよ」
お鍋は腹が立った。信長を否定されたことが、理由もなく腹立たしい。
「おや?どうされたかな?わしは右京亮殿をほめたのでござるよ?」
瞬時にお鍋の怒りを感じとって、定秀は目を丸くした。
「天地を返すなど、ここ百年の間に誰も成し得なかったこと。己こそ出来ると驕った者どもの所業、ご覧あれ。三好やらがまさにそれ、実行したとて、中途で終わる。おかげでかえって世の中は悪い方に悪い方に転がっていく。もはや収拾つかん。だから、今の世を変えると決意する心は決して美しいのではない、天に唾してやろうという驕りに過ぎないのや。人間、長く生きているとそれがようわかる」
定秀だって、若い頃には色々思ったに違いない。くさいことも言ったし、夢にも見たに違いない。六角定頼の下で、きっと色々希望に満ちた夢を見て、大志を抱いて、実行しかけて──。
そして、年齢を重ねて思い知ったのだ。
「人は、自分が生きるためにのみ生きれば良いのや。余計なことをしてはいかん。右京亮殿はお若いのにちゃんとわかっておいでやは、己が領分を」
「父上」
もうそれくらいにしろと賢秀は咳払いして、未だ目を吊り上げたままのお鍋に言った。
「して、ご夫君からは右近大夫について、何と?」
お鍋も我に返り、懐から自分宛である文を取り出して、父子の前に差し出した。
「五月一日、長寸城へ総攻めとのことです」
愛知川沿いに点在する城は、今は全て右近大夫の傘下にある。奥津保も辛うじて未だ維持しており。
長寸城だけが本家側の陣として残り、孤立していた。
「総攻めか。よしわかった」
お鍋宛のその文を手にとり、父子は頷いた。
その後、家臣たちも交えて相談し、何らかの手を打ったに違いない。
****************************
五月一日。
長寸城を右近大夫が仕寄ると、寺倉は作戦を開始する。自分はそこで右近大夫を迎え撃ちながら、部下に、右近大夫に占拠されている佐久良城を攻めさせた。
同時に蒲生家が参戦してきて、奥師城、鳥居平城を奪い、奥津保は蒲生軍に完全に占拠された。
佐久良城は小倉本家の本拠であり、そこを蒲生方に奪われたのだ。右近大夫は一気に形勢怪しくなり、長寸城どころではなくなった。
「それ、挟み撃ちや!」
奥津保から蒲生軍が押し寄せてきたのを見てとった長寸城は、城門を開いて、一気に撃って出てきた。
右近大夫は応戦しつつも、分が悪過ぎるとて、一旦退却を決意。山上を目指し、和南山へ向かった。
ところが、さらなる異変に遭遇する。
和南山は既に蒲生側の手に落ちていたのである。
「これはどうしたことだ!」
さすがの右近大夫も蒼白になっていると、
「殿!殿!裏切りにござる!八尾城の右京亮の裏切りにござる!」
と、報告があり。
「あの風見鶏め!」
山田城も山上城も右京亮の攻撃を受けていた。すぐには落ちなかったが、右近大夫が救援に向かえる状況ではなかった。
右近大夫は仕方なく、ひとまず相谷へ向かい、軍を立て直す。
隙を見て、右近大夫は山上城に救援に向かおうと準備をしていた。彼の本拠であるから。それに、妻子が取り残されている。
だが、その後、山上城は、てこずっている右京亮に加勢した蒲生軍によって、焼き払われた。妻は行方不明。
右近大夫にとって、これは一大事だ。妻は焼け死んだのか、落ち延びられたのかわからない。しかし、ともかく、愛知川の北岸は盤石なものにしなくてはならない。
右近大夫は先ず、裏切った右京亮の高野に攻め入った。
高野館は留守居がいるだけで、領内にも人は少なく。領民までその多くは八尾城に籠もっていたから、高野を制圧するのは容易いことであった。
小倉から九居瀬まで、愛知川北岸の城館を手にした右近大夫。愛知川北岸で制圧しきっていないのは、永源寺のみとなった。
「中途半端はならぬ!完全に潰しきらなくては。撫で斬りにせよ!降伏も和議も妥協も許さぬ。中途半端に残せば、奴らは必ず隙を見て仕掛けてくるはずや!」
そう言って、右近大夫が永源寺に焼き討ちを仕掛けて行ったのは、五月二十三日である。
以前の、高野の右京亮援護のために焼き討ちした時とは違い、徹底したものであった。
「全山焼け!塔頭一つ残してはならぬ!」
凄まじい徹底した焼き討ちであった。
この攻撃で、永源寺は跡形もなく灰塵と化してしまったのである。
「浅井殿にお味方申す!」
そして、愛知川北岸を完全に抑えた右近大夫は、北近江の浅井家に臣従することを明言した。
「ほら、そなたの子だ」
濃姫が眼を見張ると、信長は呆れたように、
「そなたが近江で産んだ子ではないか」
と言った。
濃姫は驚いて、
「そんなことがありましょうか!」
目の前の子は男子。濃姫の子は女子。しかも、歳も違う。目の前の子は大き過ぎる。
だいたい、あの時近江で生まれた姫は亡くなったではないか。
信長は気の毒そうに、濃姫を見つめた。
「かわいそうに、そなた。すっかり忘れて、夢も現もわからなくなって。脳の病だな……」
「なんとも。奇妙なことをおっしゃる」
「さよう!奇妙だ、奇妙丸だ!」
信長が男児を押しやった。
濃姫は目の前の子が信長の長子・奇妙丸と知った。
「まあ、この子が奇妙殿。かわいい」
「そりゃ我が子はかわいかろうよ」
信長はなおおかしなことを言うのだが、やや声を低くして言った。
「これはそなたの腹から生まれた子だ。そなたが近江であの時産んだ。なに、子など十を過ぎれば二つ三つの違いなぞ見分けがつかなくなる」
そして、声を大にし、
「奇妙は早熟な子よ」
奇妙丸は信長の側室が弘治三年に産んだ子。濃姫が近江で出産したのは翌々年の永禄二年初頭。
奇妙丸の生まれた年を二年遅く外に向けて公言したとて、わからぬような差ではあろう。
それ以来、奇妙丸は濃姫の子として、彼女が手元で育てることになる。
奇妙丸は聞き分けの良い賢い子で、すぐに濃姫に懐き、濃姫も数日で肩の力が抜けた。
そうしてくつろぐ時間もでき、一人でゆっくりと菓子を口にしていると、対面を願い出ている者がいるという。その名が滝川一益の手の者だったので、濃姫は喜色満面で立ち上がり、
「早く通しなさい」
と、侍女を急かした。
やがて、庭先に平伏したのは、件の若い忍者の男であった。
「喜六にございまする」
「喜六、よく戻った。しかし、長助ではなくそなたが来たのは何故か?」
長助とやらは、この喜六の師。濃姫に会いに来るべきは長助である。
濃姫は喜色をやや曇らせ、何かあったのではないかと探るような眼差しを送る。
「ご心配には及びませぬ。長助殿はなお小倉の姫に従っておられまする」
「姫はご無事なのね?」
「はっ。危うき所でございましたが、長助殿が救出致して──」
「よかった!」
ほっと濃姫は崩れるように、広廂に腰をおろした。
「ですが、小倉家の内紛未だ収まらず、姫は和子が気になるとて、お招きすること叶いませんでした」
忍の若者はそう言って、お鍋救出の一部始終から、お鍋が捕らわれの息子のために日野に向かったこと、戦の行方などを語った。
その上で、
「姫はお招きできませんでしたが、その代わり、相谷城の小倉良親殿をお連れ致しました」
と、良親との対面が可能かどうかと伺い見た。
「そう。では会いましょう。連れてきて頂戴」
「ははっ。実は本日、お許しもあろうかと、伴い参りまして、あちらに控えさせております」
「それなら、すぐに呼びなさい」
しばらくして、庭の築地の向こう側から門をくぐって、若い男が現れた。庭に跪き、神妙に挨拶する。濃姫にも見覚えのある顔だった。
「お久しぶりですね、良親殿。遠路お疲れでしょう?その節はお世話になりました」
朗らかに、濃姫は労う。良親は益々平伏して。
「この度は、思いもよらずお世話になり、お礼の言葉もございませぬ。あの時、九居瀬城主の行国へ仰せ下されたること、我等でさえ忘れておりましたのに、それを覚えておわして、わざわざ喜六殿達をお遣わし下されましたること、まことに感激致しました」
「大袈裟です」
濃姫は鈴のように笑っている。だが、面を上げた良親は涙ぐんでいた。
「鍋御寮人を助けんと、喜六殿達をお遣わし下されたは、北ノ方様であると伺っております」
「あの時、織田家や私個人が受けたご恩を思えば、当然のことです。ただ──小倉家の危機には必ずお助けするとは申しましたなれど、あの右近大夫殿がその危機の元凶とは、悲し過ぎます」
濃姫は出産後の体を右近大夫のもとで休めていたのだ。
「時世が味方しなかったのでございます」
良親はやや差し俯いて、本心を吐露した。
六角家に未来はないこと。小倉家としても、本当は浅井家に組みしたいこと。右近大夫と敵対したのは、今はまだ六角家に従うしか生き残る道がなかったこと──等話す。
「結果として、この有様ですが」
良親は自嘲した。右近大夫に城を奪われ、尾張に逃げてきた。こんなことなら、右近大夫に従っていればよかった。
「いいえ、それでは小倉家は全滅したかもしれませぬ。あなただけでも助かったなら、その血も残せますし、いずれ必ずお家の再興も叶います。夫には私から伝えておきまするゆえ、尾張でしばしゆっくりなさいませ」
そして、住まいを提供すると約束した。
良親は恐縮しきりである。濃姫は最後に言った。
「しかし、この戦であなた以外の小倉も滅ぼさせは致しませぬ。すぐにも美濃を平定し、あるいは美濃の新しい主と手を組み、六角家を孤立させましょう。浅井家とはすぐに同盟できましょうし、滝川が北伊勢にも調略の手を伸ばしておりまする故。この織田が、近江に踏み込み、小倉家を滅ぼさせは致しませぬ!」
「ありがとうございまする!どうか、お力添え下さいませ!そして、蒲生家に捕らわれたままの鍋御寮人の和子を、蒲生家から取り返して下さいませ!それが鍋御寮人の何よりの願い!」
濃姫は強く頷いた。
その夜は珍しく、信長が濃姫や子ども達を集めて、一家団欒の食卓を囲んだ。
信長は濃姫と奇妙丸の睦まじげな様子に満足したり、紫のおくるみに包まれていた頃から大きく成長した冬姫の、おませな様を笑っていた。
機嫌は頗る良く、やがて濃姫は信長へ告げた。
「近江の小倉家──山上城に対して、六角家から追討令が出たことはご存知かと存じます。佐久良城へ命が下されたため、小倉の本家が分家を討つ形になってしまいました」
「聞いた。逆に本家が危機的とな」
信長は冬姫を膝に乗せて、不意に話し掛けた。
「そなたの姉上が生まれた所の話よ。よく聞いておけ」
「はい」
まだわからないだろうに、真剣に頷く姫の表情がおかしくて、濃姫はつい笑ってしまいそうになったが、話の重要さに、頬を意識して引き締める。
「私がお世話になった山上城が優勢なのは幸いですが、小倉家ご一門皆様にご厄介になったので、心が痛みます。あの時、何かと立ち回って下さった小倉の姫が、大層つらいお立場に立たされてお苦しみとのこと。あの姫のこと、覚えておられましょうか?」
「鍋御前か──五徳姫の名の由来だ。忘れようがない」
濃姫は頷いた。
五徳姫は信長の傍らに座っていた。猫みたいと言って、冬姫の髪をもしゃもしゃと弄っていたが、冬姫がその手を制して、そのまま手を繋いでいる。
「かの姫は若君を蒲生家に奪われ、義兄には死なれ、ご夫君は蒲生家に従わず、若君は今にも殺されそうな状況になっておられるとか。姫ご自身も人質であったのを、ご夫君の裏切りで、危うく殺されかかったところを、辛くも脱出なさったのだと。それでも、若君を見捨てられないと、せっかく逃げ出せたのにもかかわらず、蒲生家に向かわれたと──」
途中から信長は眉を吊り上げ、不快げに目を光らせた。
「あの男か──」
以前、信長の娘を包むための紫の布を託した男。その面影を思い出す。
(あやつの子を産んだか!)
俺の子を産めなどと信長はお鍋に言ったが。許嫁から奪ってやるとも。
(だから言わんことない、あの男──)
日和見男。信長が一番むかむかとする種類の人間だ。
「なんとかして差し上げたいのです!」
「すでにそなたが何とかしたのであろうが」
小倉家の状況、お鍋の苦悩。濃姫はやけに詳しい。信長はにやりと彼女を見やった。
濃姫はややばつが悪そうにもじもじとした。
「くっ!そなたは本当に鍋御前が好きよな」
「ですが──!」
「わかっている。近江よな、無論このままにはしておかぬ。だが、それには先ずそなたの実家よ!」
「はい……」
美濃をなかなか落とせない。信長は苛立っていた。
(鍋御前、もう少し辛抱できるか?待ってろ!)
「小倉家は持ちこたえられましょうか?」
「……ふむ」
とりあえず小倉良親の身は尾張にある。小倉家の血だけは確保できそうだが。
「それにしても、南近江の話題になるといつも必ず出てくるな、蒲生という奴。最近、北伊勢の話題にも絡んでくる。食えない奴らしいな、よほど。小倉の事態、このままにしておくとも思えぬ。さて、どうする気か」
「小倉の姫をどうにか助け出さなければなりませぬ!こともあろうに、その蒲生家に捕らわれの身とは」
濃姫は案じて眉根を強く寄せる。
「くせ者、蒲生か──」
信長の冬姫を抱く手に無意識に力が入った。
****************************
小倉城は左近助良秀が自害したことによって、右近大夫の手に落ちた。
それにより、九居瀬城は孤立。もはやこれまでと、城主・行国は自害。九居瀬城も右近大夫方となったのだ。
これで、愛知川付近で右近大夫に従わないのは永源寺のみとなった。
八尾城に入った右京亮は、その間、何らの行動もとっていない。永源寺に攻撃されて以降、何もしていないとなれば、右近大夫は当然味方と思っている。
本当は左近助に加勢するつもりだったことを、右近大夫は知らずにいた。だから、八尾城は無事なままである。
そのことを、出頭してきたお鍋の従者・伝兵衛から聞いた蒲生家では、次の戦に使えると喜んだ。
「このまま右京亮殿には右近大夫の味方のふりをして頂こう。そのようにご夫君に書簡をしたためて下さらんか」
蒲生定秀はお鍋にそう要求した。
お鍋と甚五郎。二人の使い道を見つけたらしい。どうやらしばらくは、二人の首はつながっていられそうだ。
お鍋は蒲生家に出頭した時、於巳とは別れていた。
「私は右京亮に捕らわれていると、このまま蒲生家に思わせておくのです。そうすれば、お鍋様のお命、迂闊に奪えなくなるはずですので」
於巳はそう言って、濃姫が遣わした忍──長助と姿を消した。
お鍋は単身出頭したのである。
蒲生家はそれを評価して、甚五郎と一緒にいることを許してくれた。後から伝兵衛が訪ねて来たが、彼がお鍋に仕えることも許可した。
中野城の二の丸の内に、お鍋は甚五郎と住んでいる。
既に四月末。
珍しく晴れた日に、庭に出たお鍋は、
「無名、無名」
と、風に語りかけた。
「はっ」
ほどなく返事がして、お鍋は顔を明るくした。
「あ、来ていたの」
やがて、庭石の陰に男が姿を現した。
忍の長助である。
於巳の隠れ家と中野城を、陰のように行ったり来たりしている。
「無名」
お鍋は長助をそう呼んでいた。
以前、名を尋ねたら、名などないに等しいと、名乗らなかったからである。
「でも、呼び名もなければ不便ね」
と、無名と呼ぶことにした。
「無名という名の琵琶もあるというし」
薬指も無名指ともいう。
岩陰にいる無名こと長助へ、お鍋は八尾城の様子を訊いた。
「相変わらず、のらりくらりとしているようでございます。右近大夫は全く疑っていないようです」
「そう」
それを聞いて安心したような、それでもなお夫を疑うような気持ちも紛れている。
察したか、無名は右京亮からの文を差し出した。
「ご夫君からです」
「ありがとう」
お鍋が無名にこのような重要な役目を任せていると知ったら、蒲生家は驚くかもしれない。そんな得体の知れない者を信じるお鍋を、嘲笑うであろう。
だが、お鍋は信長が遣わした者というだけで、手放しで信用した。盲信した。
お鍋は彼を遣わした人は信長その人だと思っている。無名がそれについて特に説明したこともないので、そう信じていた。
信長だろうが濃姫だろうが、どの道変わりはないことではあろうが──。お鍋は信長以外の人間の指示の可能性を微塵も思わなかった。
お鍋が単身蒲生家に出頭した時、伝兵衛はまだ小倉城内にいた。忽然と消えたお鍋を、左近助に殺されたものと思い、せめて骸だけでもと、城内をくまなく探し回っていた。
しかし、いくら探しても見つからず、そうしているうちに、左近助は自害した。落城を契機に伝兵衛は城を脱出し、八尾城に行ってみたところ、右京亮のもとへ蒲生家から、お鍋を預かっている旨の書簡が届いていたのだった。それで、伝兵衛はお鍋が蒲生家に出頭したことを知った。
「わしは左近助殿を裏切ったわけではないぞ!お鍋はきっと誤解して、わしに怒っているだろう。きちんと事実を伝えてくれ」
右京亮に頼まれ、伝兵衛は蒲生家に来たわけである。
お鍋はそれで、ようやく夫がやむを得ない事情で永源寺に応戦したことを知った。
(殿は本当に右近大夫を裏切り、左近助殿に味方するつもりだったの?私は見捨てられたわけではなかったの?)
それを知った時は、正直素直に嬉しかった。それでも、幾らでも言い訳はできるのではないかと、時間が経つにつれて、半信半疑になって行ったことも事実である。
今でも疑う気持ちは残っているのである。
伝兵衛は蒲生家に対しても、右京亮の思わぬ災難について話した。定秀は容易に信じはしなかったが、それでも、お鍋も甚五郎も手にしているのである。右京亮を脅して、自分の都合の良いように動かそうと考えた。
「お鍋殿、ご夫君に我等に加担するよう願われよ。ただし、今はまだそのまま右近大夫に従っているふりをさせるのや。途中で感づかれたり、結局右近大夫に従って我等に弓引くようなら、その時はおわかりですな?ご夫君に文で切々と訴えられよ」
定秀はお鍋にそう命令したのである。
言われた通り、お鍋は文を書いた。その文を持った蒲生家からの使者が、やがて八尾城に赴き、右京亮に同調を迫った。
それに対する、右京亮の返事は諾。
その後、右京亮が右近大夫を裏切る機を見極めるためにも、右近大夫との間で交わされたやり取りや、右近大夫の陣営の様子を事細かに報告するよう、蒲生家は求めた。
お鍋はそれには忍の力が欠かせないと見て、無名を使っていたのである。
無名は仲間と共に、於巳の隠れ家を拠点にしながら、お鍋と右京亮の間を行き来していた。
そして、どうやら右近大夫に近々何らかの動きがあるらしい。そのことを、右京亮はお鍋に知らせてきた。
今日、無名が持ってきた文は、まさにそれなわけである。
「無名、ご苦労さま。まるで私の従者みたいに召し使って、申し訳ないわね。織田様、滝川殿が気を悪くなさらないかしら?」
「いいえ、それがしは小倉家の危機が回避されるまで、小倉家をお助けするよう申し付けられておりますので」
「そう、ありがとう。片づいたら、きちんと織田様に御礼しなくてはね。良親殿もご厄介になっているでしょうし」
お鍋が微笑むと、無名は頭を下げ、すっと消えて行った。
お鍋は夫の文を一通り確認すると、それを懐にしまい入れ、定秀に対面を求めた。
すぐに許可が出て、本丸の書院に行く。中に定秀と賢秀が並んで座っていた。
中野城内は戦の支度をしていて、あちこち慌ただしい。だが、この親子が雁首揃えていると、何やら禅寺の中にでもいるような錯覚を覚える。ここだけ別世界の空気、空間だった。
簡素にしてどこか都会的でもある書院の内装。そこに座る親子は、今から連歌でも詠み合うのかと思えるほど、どこか雅びている。
お鍋は二人の前に、静かに座った。開け放たれた障子の外には、都の名ある庭園を思わせる、風情ある景色が広がっている。
横の視界に入ってくるそれを、見るともなしに眺めながら、お鍋は話を切り出した。
「夫から新たな情報が参りました」
右近大夫に動きあり。蒲生父子はもたらされた情報にほくそ笑む。
「これは、よい情報を。ありがたい。改めて、お鍋殿には御礼申さねばならぬな」
自分から人質になりに来てくれて──定秀がにたりとお鍋を見ている。
改めて考えてみれば、お鍋がここにいる必要はなかったに違いない。お鍋は出頭せずに於巳の隠れ家にでも身をひそめ、無名を中野城に忍び込ませて、甚五郎を救出させれば済んだ話だ。
だが、それをしなかったのは、左近助の話が心に残っていたからだ。つまり、六角家から実隆に対して、右近大夫の討伐令が下されたという事実。だから、右近大夫は謀反人なのだ。
夫を謀反人に同調させるわけにはいかない。だから、あえて甚五郎を救出せず、自ら人質にまでなって、夫を本家側に従わせようとしたのだ。
(今はお屋形様に従うしかない。時間稼ぎよ。今に信長が美濃も伊勢も手にして、近江に攻めてくる。お屋形様を討ちにくるわ!それまでの時間稼ぎ)
今は六角家に従わなければならない、夫の心を変えなければならない。
定秀に、蔑むような目で嘲笑されるのは心外だ。なのに、なお言うのである。
「右京亮殿は実に良く使えるお人や」
目先のことしか見ない。自分が生き残ることしか考えない。いわゆる日和見族とて、もう少し、数ヶ月先のことまでは考えるであろう。だが、右京亮は今日の海路の日和しか見ない。
定秀はそれを嘲笑うのだ。
「父上!」
さすがに賢秀はたしなめたが、
「いいえ、夫はそういう人ですもの。情けない」
と、お鍋は答えた。
思うは信長のこと。
(信長は戦のない世を作るんだと言ってたわ。俺が世の中を変えるんだって)
「己が力を尽くして、この腐敗した世を変えてみせるのだと、粉骨砕身している人もいるというのに。同じ必死さでも、この違い。世を動かすために頑張る一人。己一人が生き残るために頑張るのと……はあ」
言っているうちに、大志ある信長とのあまりな気概の違い、匹夫ぶりにため息が出た。
「世を変えるだ?」
定秀はそれを聞いて、すぐに表情が変わった。
お屋形様──六角定頼をとっさに思い浮かべた彼は。
一瞬の憧憬の後には、またすぐ元の顔に戻り、
「世を変えるなぞ、天に唾する行い」
と鼻で笑った。
「えっ?」
「一見、立派そうに感じる。いや、誰もが素晴らしい心根よと感動するであろう。しかし、世の中を一転させ、天地をひっくり返らせるなぞ。さように大それたこと、いったい誰にできようか。できるわけもないものを、できると信じるその者の心は、ただの驕りよ」
お鍋は腹が立った。信長を否定されたことが、理由もなく腹立たしい。
「おや?どうされたかな?わしは右京亮殿をほめたのでござるよ?」
瞬時にお鍋の怒りを感じとって、定秀は目を丸くした。
「天地を返すなど、ここ百年の間に誰も成し得なかったこと。己こそ出来ると驕った者どもの所業、ご覧あれ。三好やらがまさにそれ、実行したとて、中途で終わる。おかげでかえって世の中は悪い方に悪い方に転がっていく。もはや収拾つかん。だから、今の世を変えると決意する心は決して美しいのではない、天に唾してやろうという驕りに過ぎないのや。人間、長く生きているとそれがようわかる」
定秀だって、若い頃には色々思ったに違いない。くさいことも言ったし、夢にも見たに違いない。六角定頼の下で、きっと色々希望に満ちた夢を見て、大志を抱いて、実行しかけて──。
そして、年齢を重ねて思い知ったのだ。
「人は、自分が生きるためにのみ生きれば良いのや。余計なことをしてはいかん。右京亮殿はお若いのにちゃんとわかっておいでやは、己が領分を」
「父上」
もうそれくらいにしろと賢秀は咳払いして、未だ目を吊り上げたままのお鍋に言った。
「して、ご夫君からは右近大夫について、何と?」
お鍋も我に返り、懐から自分宛である文を取り出して、父子の前に差し出した。
「五月一日、長寸城へ総攻めとのことです」
愛知川沿いに点在する城は、今は全て右近大夫の傘下にある。奥津保も辛うじて未だ維持しており。
長寸城だけが本家側の陣として残り、孤立していた。
「総攻めか。よしわかった」
お鍋宛のその文を手にとり、父子は頷いた。
その後、家臣たちも交えて相談し、何らかの手を打ったに違いない。
****************************
五月一日。
長寸城を右近大夫が仕寄ると、寺倉は作戦を開始する。自分はそこで右近大夫を迎え撃ちながら、部下に、右近大夫に占拠されている佐久良城を攻めさせた。
同時に蒲生家が参戦してきて、奥師城、鳥居平城を奪い、奥津保は蒲生軍に完全に占拠された。
佐久良城は小倉本家の本拠であり、そこを蒲生方に奪われたのだ。右近大夫は一気に形勢怪しくなり、長寸城どころではなくなった。
「それ、挟み撃ちや!」
奥津保から蒲生軍が押し寄せてきたのを見てとった長寸城は、城門を開いて、一気に撃って出てきた。
右近大夫は応戦しつつも、分が悪過ぎるとて、一旦退却を決意。山上を目指し、和南山へ向かった。
ところが、さらなる異変に遭遇する。
和南山は既に蒲生側の手に落ちていたのである。
「これはどうしたことだ!」
さすがの右近大夫も蒼白になっていると、
「殿!殿!裏切りにござる!八尾城の右京亮の裏切りにござる!」
と、報告があり。
「あの風見鶏め!」
山田城も山上城も右京亮の攻撃を受けていた。すぐには落ちなかったが、右近大夫が救援に向かえる状況ではなかった。
右近大夫は仕方なく、ひとまず相谷へ向かい、軍を立て直す。
隙を見て、右近大夫は山上城に救援に向かおうと準備をしていた。彼の本拠であるから。それに、妻子が取り残されている。
だが、その後、山上城は、てこずっている右京亮に加勢した蒲生軍によって、焼き払われた。妻は行方不明。
右近大夫にとって、これは一大事だ。妻は焼け死んだのか、落ち延びられたのかわからない。しかし、ともかく、愛知川の北岸は盤石なものにしなくてはならない。
右近大夫は先ず、裏切った右京亮の高野に攻め入った。
高野館は留守居がいるだけで、領内にも人は少なく。領民までその多くは八尾城に籠もっていたから、高野を制圧するのは容易いことであった。
小倉から九居瀬まで、愛知川北岸の城館を手にした右近大夫。愛知川北岸で制圧しきっていないのは、永源寺のみとなった。
「中途半端はならぬ!完全に潰しきらなくては。撫で斬りにせよ!降伏も和議も妥協も許さぬ。中途半端に残せば、奴らは必ず隙を見て仕掛けてくるはずや!」
そう言って、右近大夫が永源寺に焼き討ちを仕掛けて行ったのは、五月二十三日である。
以前の、高野の右京亮援護のために焼き討ちした時とは違い、徹底したものであった。
「全山焼け!塔頭一つ残してはならぬ!」
凄まじい徹底した焼き討ちであった。
この攻撃で、永源寺は跡形もなく灰塵と化してしまったのである。
「浅井殿にお味方申す!」
そして、愛知川北岸を完全に抑えた右近大夫は、北近江の浅井家に臣従することを明言した。
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