小倉鍋──織田信長の妻になった女──

国香

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激動

三・困惑

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「何や、そなた?」

 蒲生定秀は突然現れた娘に驚き、目を丸くした。

 近江日野・中野城である。嫁いだ娘が前触れもなく現れたのだ。定秀でも驚く。

「婿殿は?許しはもらっておるのか?」

「夫は岐阜です」

 彼女は吐き捨てるように言った。

「夫が織田と和睦したことはご存知でしょう?よりによって、織田の子を養子にするなんて。六角家に申し訳が立ちませぬ」

 夫に腹を立て、父にも主家にも申し訳なくて、夫の留守に、家出してきたのだというのだ。

 彼女は定秀の娘だが、神戸具盛の妻である。

「そもそも!私どもは関家の若君を養子にすることに決まっていたのですよ!甥ならば可愛く、我が子とも思えますが、織田の子など。いくら母儀が関一族だからって、私は嫌です!」

 関家の当主・盛信の妻も定秀の娘である。盛信の子供達は定秀の孫。

 男子に恵まれない神戸夫妻は、関夫妻の子を、つまり甥を養子にする約束ができていた。

「それなのに、夫はほいほいと……」

「阿呆な……で、婿殿は岐阜か。織田信長に入れ込んでいるのか?まあの、状況的に見て、降伏するしかなかったであろうよ。あまり婿殿を責めるでない」

 定秀は表向きは、他の誰よりも六角家に忠実であった。関、神戸両家に娘を嫁がせ、両家を六角家の支配下に置いたのも、随分な忠義と功績に見える。主家は当然喜んでいるが。

 以前から版図拡張をもくろみ、北伊勢へ野心を持っていた定秀である。主命とはいえ、北伊勢侵攻を成し遂げた従兄弟の小倉三河守実光に嫉妬して、その留守に、小倉家の所領に攻め込み、奪ったという程、北伊勢を熱望していたのだ。

 三河守の侵攻失敗により、今度は婚姻策で、平和に望むものを手にした定秀。

 その娘としては、父のためにも神戸家は六角家に従っていなければならないと強く思うところ。

 しかし、かつて六角家の命を受けた小倉家によって、苦い思いをさせられた神戸家の人間としては、妻の実家との関係上、六角家に従っていただけで、六角家に従っていても利益がないとなれば、すぐにもそこから離れる。

 目の前に強大な織田家が差し迫り、しかも六角よりも織田に従った方が遥かに有利と判断したから、具盛はほいほいと信長に従ったのだろう。

 定秀には婿の気持ちもわかる。

「父上、あの三七なる織田の子が私達夫婦の養子になれば、父上にとっても、義理とはいえ孫の端くれになるのですよ!六角家に対して、どう申し開きなさるのです?」

「六角家のう……」

 まさに四面楚歌。しかも力のない主。

 正直どうでもよい。

「父上が六角家の御為にとご苦心して、北伊勢を平定なさったのに」

(もう仕方ないわい。それより、そろそろ長年の凝り固まった思考を変えねばならぬ時かもしれぬの。真逆に舵をきる時か)

 蒲生は長年六角に仕えてきた家。だが、今の六角家は定秀が仕える価値もなくなっている。

 おまけに、四方八方敵に囲まれて、降伏する以外に生き残る道はない状況。だが、足利義昭を見捨てた経緯がある以上、降伏はできまい。いや、降伏を願っても、義昭は許してくれないのではないか。

(ならば、六角家は滅亡するしかないか……このままだと、この蒲生も……)

 それでも、今なら、今詫びれば、許してもらえるのではないか。

 だが。

 定秀は娘に訊いた。

「──織田信長とはどのような男や?」

 すると、彼女は忌々しげに。

「夫の話を聞く限りでは、故六角定頼様に似ているようですが──」

 彼女は直接信長に会ったことはなかった。

 そんな人伝話に、

「お屋形様に似ている者が、そうそういるわけなかろう!ご子息でさえ似ておらぬのに……」

と、定秀は少し寂しげな表情をした。

 だが、娘の話す岐阜の城下の賑わい、楽市楽座の政策など──具盛からの又聞きということにはなるが──定秀もはっとする部分がある。

 信長はすでに尾張一国に加え、美濃一国、さらに伊勢半国を手にしている。そして、「天下布武」の印を使用し、天下に眼を向けているという。

(確かにお屋形様に──)

 定秀は信長に興味を持った。

「確かに、三七殿という織田家の子息はわしの孫ということになるの。こりゃ今後は嫌でも織田信長に関わることになりそうだわい」

 定秀は腹を据えて、舵を切る覚悟を決めた。

「これ、婿殿が岐阜から帰って来られる前に、帰りなさい。三七殿を迎える支度もあろうに」

 定秀は、六角家や蒲生家への気兼ねは無用だと、娘を神戸家に追い返したのだった。




****************************

 お鍋は相変わらず佐久良城にいる。松寿は一緒にいるが、甚五郎と右京亮とは別に暮らしていた。

 北伊勢がついに信長の手に落ちたことを、彼女も知っている。

 彼女は今、北近江の浅井領内にいる知人女性に宛てて、文を書いていた。

 後藤家の女性──桐である。

 千種家に身を寄せていた桐は、信長の北伊勢侵攻前に、上坂家に移っていたのであった。上坂家は浅井家に仕えており、そこの当主は桐の実兄である。

 お鍋は転居した彼女の労をねぎらい、鶴千代の様子などを書いていたのだ。

 桐の娘は甚五郎と同じ位の年齢。桐もお鍋も、その幼い我が子と離れて暮らしているのだ。お鍋には誰よりも桐の悲しみがわかるつもりだ。

(甚に会いたい……)

 そう思う時、しばしば桐を思い出した。

 だから、せめて彼女の子達の近況を教えてあげたい。そう思い、これまでにも何度か千種家に文を遣わしたことがある。桐が上坂家に移ってからは、これが初めての文だった。

 お鍋は佐久良城にいるため、中野城の様子はわからない。だが、幸いにも鶴千代は、しばしば佐久良城に遊びに来ていた。

 鶴千代には姉妹しかいないので、どうも中野城にいてもつまらないらしいのだ。学問やら武芸やら、やらなければならないことは山のようにあるだろうが、時間ができると佐久良城にやって来て、従兄弟達と暴れまわっている。

 今も何をしているのか、庭園の彼方から、甲高い騒がしい声が響き渡っていた。

(もう!何て書いたらいいのか分からなくなっちゃったじゃないの!考えがまとまらない!)

 気が散って、文章が思い浮かばない。

(今日も遊びに来たわね!悪戯小僧!)

 大声上げて、あちこち破壊していくので、鶴千代が来るとすぐわかる。

 お鍋は覇気のあり過ぎる彼のせいで、文章が浮かばなくなったと、そのまま文に書いてやった。

(それくらい元気よ、あの子。お桐様、安心して。姫たちのご様子はここからではわからないけれど。若君があれだけ元気なのは、妹君達の健康にも問題はないからなのでしょうし)

 そう思って、書き上げた文を読み返そうとした時、於巳が慌ただしげにやって来た。

「ちょっと宜しいですか?」

 顔色が悪い。ただ事ではなさそうな。

「何かあったの?」

「ええ、あの、無名殿が甲賀に入っているようで、何やら動きがあるようです」

「無名?」

 無名といえば、滝川一益が使っている忍者ではないか。以前、お鍋は並々ならぬ世話になった。その後、滝川家に戻ったはずだが。

「また甲賀に舞い戻ってきたの?」

「ええ。和田殿の仲介で、甲賀郡のあちこちの家と連絡を取り合っているようなのです、織田家が。織田家からの使いとして、無名殿が来ているようでして──」

 あっと思った。信長がいよいよ甲賀郡の人々に誘いをかけ始めたということか。

 だが、北伊勢を下したのだ。南近江に手を伸ばすことは、初めから予想できていたこと。

「いよいよ六角家に調略を仕掛けてきたわけね。滝川殿は甲賀の出だもの。和田様も甲賀の方。まず甲賀周辺から誘いをかけてくるものでしょう、予想はついていたわ」

 改めて驚くことでもない。来るべき時が来ただけだ。

 ところが、於巳はさらに顔色を悪く、慌てたように続けるのである。

「いいえ、お鍋様!お鍋様は和子様を観音寺城に取られておられます。無名殿は高畠家にも参られましたのに……」

「えっ?」

「お鍋様との縁故を頼りに参ったのだと、左様に無名殿はお話しになったのだと──」

 高畠家はお鍋の生家である。

 お鍋の身内の一部は山田城や八尾城にいたが、他の面々は野洲郡の小田にいる。

 甲賀から、小田に紛れ入ることは可能だろう。

「織田家は甲賀の面々と密約を交わしているようです。高畠家とも密約を、とのことでしょう」

 四方を敵に囲まれた状況で、六角家には勝ち目はない。

 家中の面々が密かに織田家に通じても不思議はないし、その方がおそらく正解だろう。六角家は滅ぶ運命にある。

 織田家が高畠家を誘ってきたことは、かえって幸運だ。

 だが、そうだ。お鍋には悩ましい。甚五郎が人質に取られているのだから。

「お屋形様に知られてしまったら、甚が危険な目に遭うかもしれないわ!」

 お鍋も於巳と同じように、蒼白になった。

 だが、信長の魔の手はそれだけではなかったのである。

 その夜、佐久良城を訪れた右京亮に、その件について相談すると、彼は俄かに顎に手を当て、俯き加減に考え込んでしまった。

「殿?」

「そうか、織田家はそちらにまで──」

 その言い方が引っかかって、お鍋はもしやと尋ねた。

「殿のもとにも何かあったのでございますか?」

 言いながら、ないはずがないと思った。かつて信長が上洛した時からの付き合いであり、先年の小倉家の内紛には、信長に助けられたのだから。

「北伊勢を手にされたのだ。間者は北伊勢から峠を越えて、容易に近江へ入って来ることができる。しかも、小倉家は近江の玄関口だからな」

「誰か、来たのですか?八風越えして──?」

 右京亮は顔を上げ、お鍋の目をじっと見つめた。男が閨の中で女にするに似つかわしくない、そんな目で。

「来たとも。しかも、浅井家に従っている右近大夫のもとに、寝起きしている」

「誰が?」

「──小倉良親」

 そなたが織田家に預けた男だろうと、彼の瞳が言っている。

 良親にとって、右近大夫は敵であるはずだ。行き違いと間の悪さからとはいえ、確かに右近大夫によって居城の相谷城を追われ、尾張にまで落ち延びて行った良親である。

 尾張では、ずっと信長の世話になっていたのであろう。

 今回のことは、信長が小倉家を抱き込むために、良親を送り込んできたのに違いない。しかし、彼が右近大夫のもとにいるというのは──。

「良親殿は怨讐を越えて、右近大夫と協力しておられるのですか?」

 お鍋がやや顔を青ざめさせた。

「もともと、わしも良親殿も、成り行きで右近大夫と戦ったに過ぎぬからな。結果として良親殿は尾張へ落ちることとなったが、時勢が許すなら、右近大夫と共に六角家に刃向かいたかったというのが本音だろう。恨む心も薄いのではないか」

 むしろ、こうして愛知川を挟んで浅井方と六角方に分断されている小倉家の現状をこそ、右京亮は怨んでいるかのような口振りだ。こうなったのも全て六角家のせいだと、右近大夫の追討を実隆に命じた六角家を恨みに思っているようである。

「今の右近大夫は浅井に従っている。そして、浅井は織田と同盟した。つまり、右近大夫は織田方なのよ。良親殿は織田家に匿われており、織田家の手先となっている。つまり、今の右近大夫と良親殿は仲間で、六角家に仕える我等が敵なわけだ」

 だから、良親が右近大夫のもとにいても、全くおかしくない。

「そうですね……」

 良親と右近大夫は協力して、小倉一族をことごとく織田家に寝返らせるために、働きかけているわけだ。すでに小倉諸家各々に、二人は出向いているのであろう。

 そして、すでに説得させられた家も多くあるに違いない。

「殿の御もとにお二人は──?」

 右京亮は一息間を置いてから、

「三度来た」

と答えた。

 そして、ため息をつく。

「迷惑している。甚五郎がいるのに──」

 お鍋は夫が息子のために、断ったのだと知った。彼は右近大夫家の生まれで、良親の父・故左近助家の養子なのに――。

「だいたい、織田殿に従ったら従ったで、今度は織田家に人質を出すことになる。さすれば、きっと──」

 信長はお鍋を所望するに違いない。右京亮には何故かそのような確信があった。




****************************

 六角家の実権は隠居の承禎(義賢)が握っている。実質的な屋形と言って差し障りない。

 承禎は阿呆ではないので、小倉家の動きには気付いていた。

 甲賀でちょろちょろしている和田惟政にも気付いている。だが、こちらは巧みに立ち回っているので、すでに家臣数名が織田家との間に密約を交わしたことまでは知らない。

 小倉良親は忍者ではない上、小倉一族の間しか歩いていなかったので、少し油断していたのだろう。身内の中だけだからと、出歩くのにも用心が足りなかったのだ。

 だから、承禎に気づかれたのである。

 承禎はその日、蒲生賢秀を召し出して、小倉家への怒りをぶちまけた。

「小倉家はいよいよ浅井や織田と通じたようだ。小倉一族を討て!」

「ややっ、お待ち下さい」

 賢秀は真面目過ぎる。心底主家のために言った。

「まことに織田と通じているならば、攻めては危険でございます。織田方から援軍がまかりましたならば、何となさいますか。浅井にも朝倉にも武田にも、我等は囲まれておりますのに」

 すると、承禎は顔をやや紅潮させた。

「では、そちは逆賊・織田に味方せよと言うのか?奴らに味方しても結局、当家は真っ先に討たれるのだぞ、三好勢に。当家は織田や浅井らを守ってやる壁になってしまうわ!織田方の捨て駒にされるだけよ。ならば、公方様に従っているに限る」

 しかし、三好方であったとて、結局真っ先に討たれるのはこの南近江。三好方の壁となり、織田方の攻撃を真っ先に受け、三好方を守って滅ぶ運命に違いない。

 だが、賢秀は何も言い返せなかった。

(三好方だろうが、織田方になろうが、この南近江が真っ先に標的となるのならば──)

 この場所を恨むしかない。

「確かに、大義は三好勢にございますれば……」

 賢秀は承禎に同意した。

 実はこの二月、朝廷は十三代将軍・義輝に継ぐ十四代目の将軍を、正式に任命していた。

 それは越前にいる足利義昭ではなかった。義昭とは別人。

 足利義栄。

 三好方によって推戴された将軍である。

 この新将軍は、未だ京の都に足を踏み入れてはいなかったが、朝廷が正式に将軍職に任命したのだから、紛れもない、正真正銘の十四代征夷大将軍なのである。

 将軍宣下のあった正式な将軍を担いでいる三好方が、正統なわけだ。

 正真正銘の将軍がいながら、それとは別の人間を将軍にしようとする輩は、逆賊ということになる。

 つまり、足利義昭を奉じている朝倉も織田も逆賊。

 今、六角家が織田方になると明言すれば、逆賊を討つとして、三好勢に攻撃されるだろう。逆徒の中でも、地理的に京の都から最も近い南近江が、最初の攻撃目標となる。

(都から近すぎる。今は新しい公方様に従っているがよいだろう。成り行きを見守って、ぎりぎりまで戦闘に巻き込まれないようにして。いざとなった時に、三好か織田か決めればよい)

 賢秀もそう思った。

「とにかく小倉を討て!」

 三好方に小倉家の動きを察知された時に、六角家が黙認していたと思われたら、困る。

 承禎は不機嫌そうに言った。

「だから、言わんことない。あの時、この承禎は四郎(義弼)の嫁御は朝倉からと決めておったのに、織田にも同心を促すつもりだったのに。おぬしらが勝手に一色(斎藤)なんぞの犬女を迎えて同盟するから、こうなった。さんざん一色と戦って勝った織田に、今更何と言っても、相手にされぬ。織田と浅井の縁組を仲介しようとしたら、断られたではないか。その後、結局、この承禎抜きで浅井と織田は縁組みしよった。あの時、一色ではなく、朝倉から嫁御を迎えていたら、こんなことにはならなかったのだぞ」

「……」

 四郎義弼の縁組を承禎抜きで決めた重臣の中に、父の定秀もいるので、賢秀は何も言い返せない。

「だいたい蒲生は不誠実ぞえ。北伊勢の面々が織田に寝返ったというに、何故そちは妹達を離縁させ、嫁ぎ先から連れ戻さぬ?蒲生もまさか……」

「あいや、左様なことは決してござらぬ!」

 遮ってそう言い切った賢秀は、しかし、反面、心の中では父の思考を案じた。

 妹たちを神戸や関に嫁がせ、北伊勢を六角家の支配下に置いたのだ。北伊勢が織田に寝返ったなら、当然妹達を連れ戻すのが、六角家の家臣として取るべき態度である。

 しかし、父はそれをしない。むしろ、娘を嫁ぎ先に留めておくことを喜び、望み──。

(おそらく父上は──)

 賢秀のような人間には、実の父とはいえ、理解できない人種だが。

 賢秀はぶるると頭を振ると、父の思考を脳裏から消し去ろうとして、強く言った。

「御意に従い、さっそく小倉を討ちに出陣致しまする!」

 だが、この時、賢秀は何故か甚五郎の身について言及した。

「小倉と戦う以上は、小倉が倅は当陣中にあった方が何かと都合がよろしゅうござれば、それがしにお預け下されたく──」

「降伏を促す交渉にも、確かに蒲生の陣中にあった方が、すんなりことが進みやすいであろう。よかろう、連れて行くがよい」

 承禎もあっさり許したので、賢秀は自分の娘とほとんど同じ年格好の甚五郎の手を引いて、そのまま連れ帰った。

 中野城に連れて来ると、すぐに鶴千代を呼び、甚五郎の遊び相手を命じる。賢秀はすぐに鶴千代に懐いた甚五郎にほっとした。しばらく見届けると、父の定秀のもとへ行く。

 定秀は瀟洒な書院で、茶道具を見ていた。

「聞いたぞ。隠居に小倉を討てと命じられて、受けてきたそうやな」

 賢秀には目もくれず、茶碗を撫で回しながら定秀は言った。耳の早いことだ。すでに承知している。

 賢秀は向かい側に座る。

「随分律儀なものよの」

 定秀はなお茶碗をふくふくと眺めている。

「父上は屋形や隠居を……」

「いやいや!」

 皆まで言わせず、定秀はようやく賢秀に目を合わせながら笑った。

「ただそちの律儀さに感心したまでよ」

「以前にも申しましたが、余程の事態にでもならぬ限り、返り忠者は報いを受けまする」

「ふふふ。忠義よの。その忠がために、そちは嫌いでもない妻を離縁し、鶴千代から母を引き剥がす羽目になっておる。そこまで悔しい思いをさせられながら、のう」

「父上」

 賢秀はやや憮然として言った。

「今はまだ返り忠する時ではござらぬ。それに、小倉を討ってその領地を全て手に入れることは、父上のお望みではござらぬか」

「ふうん、そうさなあ」

 にた。定秀は笑って賢秀を見やった。

「成り行きによってはそれもありかの。ま、小倉の倅を連れて来たのは、さすがよ、息子よ。くふくふふ」

「隠居は妹を神戸から連れ戻さぬ我等に、ご不審でござった」

「それで小倉討伐を引き受けたのか。そのくせ小倉の倅を引き受けてくるとは、そなたこそ狸ではないか。うむ、そうや、出陣の支度はせねばならんの」

「父上。今は大義は三好方にございます」

「そやそや。だから、出陣の支度はするのや」

 定秀はしばらく六角の家臣として様子見をし、いざとなったら、神戸家を頼りに、織田方に寝返ろうという魂胆だろう。

 甚五郎はその時の切り札として使える。だから、蒲生家の手の中になくてはならないのだ。

(わしはどうして……)

 父の魂胆を察しながら、その望みにかなうようなことをしてしまったのかと賢秀は思う。もしや律儀者の賢秀の中にも──?

「とにかく、八尾城に脅しをかけつつ、出陣の支度を致しまする」

 賢秀は眉間に深く皺を残したまま立ち上がった。

 定秀は考える。

(将軍宣下のあった公方様には従わねばならぬが、織田がこのまま諦めて引き下がるとも思えぬ。織田がいよいよこちらに攻めてきた時、三好勢は援軍を寄越してくれるであろうか?いや……三好勢は松永久秀と仲間割れしているし、三好勢をあてにはできぬ。ならば、織田に?)

 越前の朝倉義景は、織田信長との足利義昭争奪戦を演じて、急に義昭を厚遇するようになったという。ところが、足利義栄に将軍宣下があってからは、またやる気が失せているようで。

 そんな上洛戦に消極的な義景を、義昭は恨みに思っているようだった。

(朝倉が公方様に従う可能性もあるな。となれば、朝倉らと織田は仲間割れか?いや、織田だけ単独で公方様に謀反するかもしれぬ。ううぬ。まだまだ読めぬ。どう転ぶかわからぬわい)

 朝倉家が義昭を推戴するのをやめ、将軍義栄を受け入れるならば、逆に孤立するのは織田で、まだ六角家にも未来はある。

(やはり、小倉を討つふりはせにゃならんの。出陣や!)




 蒲生家の俄かな出陣準備に、仰天したのは八尾城だけではない。

 八尾城よりも先にそれを知った佐久良城の於巳が、お鍋のもとに駆け込んできた。

 佐久良城は実質蒲生家の城である。佐久良城に対しても、小倉家討伐の話はすぐに伝えられる。

 城内に殺伐としたものが広がり始めた頃、於巳はお鍋に急を告げたのだ。

「一大事です、右京亮殿が織田方と通じているとの嫌疑をかけられ、蒲生家が出陣の支度を始めました。お鍋様、すぐにお逃げ下さい!」

 佐久良城内にいては危険だ。

「ええっ?何!何?」

 お鍋は松寿を抱えて、何が起きたのか全く理解できない。於巳の言葉を必死に理解しようとしているうちにも、お鍋の館の周りが騒がしくなる。

「早くっ!」

 於巳が日頃の礼儀もなく、むずとお鍋の手首を掴む。

 引っ張られて体勢を崩し、危うく松寿を落としそうになってじたばたしているうちに、於巳のどこにそんな力があるのか、気付けば床を引きずられて移動していた。

 廊下に出ると、於巳はやや我に返って、松寿を代わりに抱き上げ運んでくれた。夜なので、松寿は眠っている。

「ねっ!どういうこと?」

「しっ!」

 於巳はそれでもお鍋に喋らせず、身を研ぎ澄ますと、周囲の気配を感知した。人気のない所を特定したのだろう、

「こちらへ!」

 声を殺して、有無も言わさずお鍋をその方角へ導く。

 お鍋はわけもわからぬまま従い、何も思考できない頭に、それでもうっすらと四年前の光景が浮かんできた。

 四年前も赤子を抱いて、この城を伝兵衛と逃亡した。

 あの時の赤子の甚五郎は蒲生方に奪われた。

 今夜の赤子は松寿である。そして、四年前と違うのは於巳がいる。夜である。

 そして、次第に四年前の出来事に心が支配され、恐怖に襲われたお鍋であったが、あの時と決定的に違ったのは、お鍋も松寿も無事に城から脱出できたことであった。
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