小倉鍋──織田信長の妻になった女──

国香

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織田家の室

一・紅蓮の契り(上)

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 雪が散らつく中を、冬姫は三千人の行列と共に、近江へ向かった。おそらく近江でも、薄ら積もっているだろう。

 その汚れない真っ白な雪の中、冬姫が日野に着いただろうと思われる頃、岐阜は完全に銀世界になっていた。

 麓の館の庭は雪に飾られ、とても風情ある姿になっていた。

 お鍋はその見事な景色にため息をつく。思い出されるのは、佐久良城の庭園だ。あれもなかなか風情のある庭だった。この豪華な庭よりも、むしろお鍋の好みかもしれない。

 お鍋は住まいの前庭から顔を背けて、障子を閉めきり、幾重にも襖で隔てられた最奥の部屋に籠った。火にあたって閉じ込もっていれば、寒さも忘れる。

 冬姫の祝言からほんの数日。しかし、お鍋自身は知らぬことだが、すでに岐阜城じゅうにお鍋が懐妊したらしいという噂が広まっていた。

 信長は冬姫の輿入れを待っていたかのように、その飽和した怒りを爆発させた。

 お鍋が午後、ずっと籠っている間に、信長が実行していたのである。宵の口、不意に廊下から信長に声をかけられた。

「俺だ。小倉鍋、こっちに出て来い」

 於巳と二人で部屋に閉じ籠っていたお鍋は、ぎくっと顔を上げた。

 於巳が恐怖で縮み上がる。

「小倉鍋!」

 再び信長の大声がして、次いで乱暴に障子を開けた音が聞こえた。

 すぐにお鍋のすぐ前の襖が開き、侍女が慌てた様子で告げる。

「お屋形様のお越しにございまする。廂にお急ぎを!」

「わかったわ」

 ごくりと唾を飲み、お鍋は立ち上がった。

(急に何かしら?……いえ、ついに来るべき時が来たのだわ!)

 冬姫にあの小袖を着せた信長が、あのまま黙っているとは思えなかった。

 お鍋は覚悟を定めて歩き出す。

(そうよ、これは私の望み。殿の妻のまま死ぬことが――)

 於巳が戦慄きながら、後ろをついてくる。於巳も覚悟はしているのだろう。

 だが、外に面している部屋の襖を開けた瞬間、お鍋は息を飲んだ。

 開け放たれた障子。目に飛び込んできたのは、多数の篝火に照らされる、美しい雪の庭だった。

 庭のあちこちに薪が配置され、それらの火が、幻想的な世界を作り出していたのだ。火に照らされる夜の雪の色は、何とも美しい。

 その光の中から、信長が現れた。手に何か包みを持っている。

 思わず景色に見入るお鍋に、信長はふっと笑った。

「これは俺からの祝いだ。気に入ったか?」

「……はい」

 美しい景色に、素直に頷くと、信長はなお満足した。

「そうか。そなたが籠っている間に、こっそり準備したのだ。成功だな。もっとこっちに寄れ」

 廊下に立つ信長が手招きする。

 お鍋は黙って従ったが、於巳は先の言葉を聞き逃さなかった。

「……あの、お祝いとは――?」

 恐る恐る尋ねると、信長は待っていたとばかりに、於巳に恐ろしげな笑みを向け、さらりと答えた。

「懐妊祝いだ」

 一気に血の気が引いた。お鍋も於巳も。

「小倉鍋。懐妊したんだろう?」

 信長は悪意溢れる笑顔。

 廊下に最も近い篝火。手を伸ばさなくても届く距離にあるその火が、信長を悪鬼のように見せている。

「……お、お屋形様……それは誤解で……」

「小倉鍋!貴様、そんなに織田家をかき乱したいかっ!そんなに力を得たいかっ!貴様、のしあがって、そのうち御台まで蹴落とすつもりだろう!」

 まるで雷鳴のように轟いた。凄惨な表情で――。

 お鍋は身動きできなくなる。がたがた膝が震えた。

 信長は刹那もお鍋から目を逸らさない。そのまま、手探りで持っている包みを押し広げ、平包をかなぐり捨てると、わしゃと中身を掴んだ。それをお鍋の顔前に掲げる。

 篝火よりも赤い、あの小袖である。

 信長はお鍋を睨んだまま、

「貴様、何を企んでいる?これの次は懐妊とな?」

と、乱暴にまたそれを握りしめ、いきなり、ばさり、火中に投げ入れた。

「あっ!」

 声を上げる間もなく、小袖は燃え上がる。

 火はぱちぱちと音を立て、獲物に歓喜し、みるみる飲み込んで行く。

 信長はなおお鍋から目を逸らさない。だが、火の粉の熱を浴び、小袖がどうなっているのかわかるのだろう。顔を強くしかめていた。

 その目が、泣いているように、何故か見えた。

――それを着て、俺のところに来い、俺の子を産みに――

 昔、少女のお鍋にその小袖をくれた時の信長の姿が、お鍋の脳裏に蘇った。

 あの陰一つない明るい顔と声。目の前の今の彼は、何と違うのだろう。

(泣いてる……)

――それを着て、俺のところに来い、俺の子を産みに――

 昔の信長の声が何度も頭の中に響く。

(燃えてる……)

 お鍋は篝火を見つめた。なお容赦なくその身を焼かれる小袖。もう半分以上炭になり、そのほとんどが黒くなってしまっている。

(燃えてる……信長が……)

 燃えているのは信長だと思った。心が――。

 火にくべたのは信長本人だが。

(違うわ!私が燃やしてしまったんだわ!)

 お鍋は小袖を火から引き上げようと思った。思ったのに、体が動かない。

(ああ!私は何という女だったのだろう!)

 人の好意を踏みにじった。

 信長がお鍋のために、お鍋にくれた小袖を。よりによって濃姫に押し付けるとは。

 信長にそれを燃やさせてしまうほど、お鍋は心無い振る舞いをしたのだ。

 小袖は完全に燃えきってしまった。

 察したか、ようやく瞬きをし、信長はお鍋から目を逸らした。相変わらずの鬼の形相で。

「これで無くなったぞ、そなたも嬉しかろう。そなたへの俺からの祝いだ……」

「お屋形様!」

「俺は鬼のような父だな。大事な娘にこんな忌々しい物を着せるとは。冬姫、かわいそうに。二度とこんなものは着せるまい。今後、冬姫にはいつも一番上等な着物を新調して贈ってやるのだ」

「お屋形様!」

「こんなものを着て、冬姫がよごれてしまった……いや、俺が汚してしまったんだ……」

「お屋形様!」

 冬姫のために燃やしたのだと、苦痛に顔を歪める信長を、見ていられなかった。お鍋はいつしか泣いていた。

「そうやって、姫様のためだなどと。どうして私を庇って下さるのです!……いいえ!お屋形様!お屋形様のお心を、私が燃やしてしまったのですね!お屋形様!お屋形様!申し訳ございませぬ!」

 信長は火にくべずにはいられなかったのだろう。好意を踏みにじられた怒りと、悲しさで。

 しかし、信長は少しも感情が動かないようだった。

「きさまは許さぬ」

 淡々とした声だった。

 対するお鍋は、感情がそのまま声になっており、

「勿論でございます。如何なる処罰をもお受け致します!」

 その場に座り込み、平伏した。

「どうぞ、死でも何でも賜りませ!」

 信長は再びお鍋を見据えた。そのまま、

「おい、こやつの望みは何だ?」

と於巳に訊いた。

 於巳は、もう死は免れないと思った。ならば、潔く。小倉家の姫に恥じない最期をと思う。於巳なんかが助命を乞うては、往生際の悪いことと、お鍋の不名誉になる。

 於巳は恭しく平伏した。

「死にございまする」

「ふん」

 信長は嘲笑った。

「さだめし小倉右京亮の妻の身のまま、死にたいというのが本音であろうよ」

 信長は座り込んで、強引にお鍋の身を起こした。真っ正面からお鍋を睨み、不敵に笑う。

「そうはいかぬぞ。それではとことん貴様の望み通りだからな。貴様には生き地獄を味わわせてやる。懐妊したのだろう?今さら、間違いだったとは言えぬよなあ?」

 くくくくと喉を鳴らした。

 こんな信長は見たことがない。お鍋は恐怖で、瞬きもできなかった。

 信長は不意に突っ立つと、お鍋の腕を引っ張り、部屋の奥へと引きずり込んだ。腕が抜けそうなほど痛く、それでも動かない体は、その夜、ついに小倉右京亮の妻のものではなくなった。




****************************

 信長がきゃんきゃんと笑った。つやつやとして、若々しい肌。

「それを着て、俺のところに来い、俺の子を産みに」

 お鍋は目を剥いた。胸がばくばく、痛いくらいだ。

「な、な、な!?」

「貴様は俺の子を産むに最適の女だ」

「女を何だと?」

「畑だ」

「こんなの嫌です。恋はどこ?」

「恋だ?まやかしだ」

 男の恋は、その女に我が子を産ませたいだ。

 信長の、恋。

「それを着て、俺のところに来い、俺の子を産みに」

 信長が深紅の小袖をお鍋にくれた。まるで、恋のような真っ赤な衣。

 信長の心を表している色。恋の色。

 信長の恋を表している贈り物。

(嘘よ、どうして恋だなんていうのよ。あなたは私に――私に……)

――やはり、女体は出産経験のあるものに限るな――

 耳元に、そんな声を聞いた気がして。

(嘘よ!)

 夢の中の若い信長に反論した。

(そうね、夢ね……)

 これは夢だ。そう自覚がある。

 自覚したところで、お鍋は目が覚めた。

 目覚めた瞬間、暑苦しく、息苦しいと思った。だが、何やら額の辺りがすうすうする。

 いや、すうすうと音が聞こえている。

 瞼を開けると、視界全体に男の肉体があった。

 首を動かすと、お鍋の額の上に、信長の寝顔がある。

 暑苦しいのは信長の体温のせいだ。息苦しいのは、信長に力任せに抱きしめられているせい。

 お鍋はじっとりと汗をかいているのを知った。

 寝汗ではない。多分、単純に暑いせいだ。

 この雪の夜に。汗をかくほど、人肌は暑い。信長は熱かった。

 ふと裸身の信長を見て、お鍋は操を守れなかったことを改めて実感した。

 信長はひどく穏やかな顔で眠っている。

 閨に引き摺り込まれた時には、まるで悪鬼だった。お鍋を引き摺り、一切の抵抗を許さず、乱暴に組み敷いた。

 お鍋はただ苦しいだけ。わけがわからなくて、考えることもできず。苦痛に、感情さえ喚きとともに飛んで行った。

 だが、その悪鬼の信長が、途中から恍惚として、そして、笑い出したことは覚えている。

「最高だ。やはり女は出産経験のあるものに限るな。貴様はたまらん」

 そう言った時の信長の表情は、お鍋を蔑みつつも楽しげで、瞳は意外にも明るかったような気がする。

 今、すやすやと眠る信長は、本当に安らかであり。怒りの欠片も感じられない。

 お鍋はその後はまんじりともしなかった。

 やがて、明るくなる前に信長は気持ち良さそうに目覚め、お鍋の耳元に囁くと、閨を出て行った。

「貴様は良過ぎる。手離せそうにないから、毎晩来てやる。年若い小娘ではこうはいかない」

 だから、未亡人ばかり側室にしているわけでもあるまい。出産経験のある女ならば、石女ではない。信長の子を確実に産める女だからだろう。

 お鍋はそうも言えなかった。ただ黙って両手をついて見送った。

(女は畑。良いかどうかなんて、関係ないでしょう?)

 埒もないことを考えた。そうでなければ、自分を保てなくなりそうだったから。

 操という言葉が浮かびかける前に、別な思考を脳に無理強いし、右京亮の面影が浮かびかける前に、あの小袖の燃えた姿を思った。

 体を動かしていても、頭は別な思考をしてしまうから、やたらとお喋りした。

 侍女たちは、お鍋がひどく上機嫌だと思った。だが、不審には思わない。冬姫の結婚のことで、信長の怒りを買ったと思われていたからだ。だが、信長が来訪したということは、お鍋は許されたということだろう。侍女たちの目にはそう映っていたのだ。

 だから、常よりよく喋るお鍋に、侍女たちも心底から安堵し、喜んでいたのだ。

 やがて、朝の支度も済んで、侍女たちが下がって行くと、お鍋の気は滅入りそうになる。すかさず於巳が寄ってきた。

 於巳は察していた。昨夜、ついにお鍋が信長の本当の側室になったことを。

 お恨みかと言いかけて、於巳は思い直し、別なことを口にした。

「お鍋様、私ずっと不思議に思っていたことがあるのです」

 何をと、お鍋の顔が言っている。於巳は続けた。

「どうしてお鍋様は、あの猩々緋の小袖を御台様に差し上げてしまわれたのだろうかと――」

 途端にお鍋の顔が歪んでいく。

「あれは昨夜燃えてなくなった。もうあれの話はいいわよ」

「ええ、そうですけど。お屋形様は御台様に真実が露見する前に、処分して下さったのでしょう」

 お鍋はうるさいと言うかわりに、袖を一つ払った。

「お鍋様は今でもきっと、お屋形様がお好きなのですわ」

 払った手がばちんと音を立てた。脇息に強打させてしまったのだ。だが、痛みにも気付かず、お鍋はきっと於巳を見据えた。

 於巳はそれでも続ける。

「私やっとわかったのです。あれはお鍋様の嫉妬だと。そして、御台様への対抗心。御台様への挑戦状だったのです」

「何を言う!」

「あれはお屋形様のお鍋様への恋心を表したもの。それを御台様に差し上げてしまわれたお鍋様のお心には、優越と挑発とがあったはずです。お鍋様は今でもお屋形様がお好きなのです。だから、御台様に嫉妬して。お屋形様からのお鍋様への心の証を、何も知らずに受け取られた恋敵の御台様。お鍋様には御台様を嘲笑うお心があるはずです。ご自分ではお気付きではないでしょうが――」

「これ以上の無駄口はそなたでも許さぬ!」

「何もご存知ない御台様が滑稽ではございませぬか?」

「於巳!!」

 再びお鍋が脇息を打った。

「お鍋様は御台様を馬鹿になさったのです!」

 お鍋の手は強く握られ、脇息の上でふるふると震えている。

(私は殿の妻!!何が信長か!あれは私が毒婦になるという決意よ!私は御台様にあれを差し上げるような毒婦!!)

「お鍋様ご自身もお気付きではないでしょう。でも、お鍋様の中に、なおお屋形様への想いが秘められているのです。ですから、お屋形様の昨夜のお仕打ち、恨まれてはなりませぬ。右京亮殿に申し訳ないと思うて、意固地になられてはなりませぬ。好きな御方に添えるのだと、前を向いて生きられませ。お鍋様は織田家のご閨室にございます」

 於巳は凄まじい形相のお鍋にそう告げると、退出していった。お鍋は全身をわなわなと震わせながら、於巳の衣擦れの音を聞いていた。

 その夜も信長はお鍋と閨を共にし、さらに翌日も、そのまた翌日も、お鍋を抱いた。

 お鍋はもう完全に小倉家の妻ではなくなった。

 信長は小袖のことは言わない。閨の中では特別怒っている様子もなかった。ただお鍋を組み敷き、底意地の悪い笑みを浮かべているだけだ。

 お鍋は決して歓喜しなかった。

 それを面白がるように、信長はかえって殊更酔いしれてみせる。底意地の悪い笑みを浮かべながら、恍惚と。そして、満足げにお鍋を抱きしめ、眠る。

 そうしているうちに、年が明けた。
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