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故郷
二・織田家の沙汰(下)
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その頃、南近江ではまた一揆が勃発している。
場所は神崎郡垣見、小川周辺である。愛知川河口付近で、観音寺山からさほど遠くない。
長光寺城の柴田勝家が、願証寺の一揆への攻撃のため、伊勢長島へ出掛けている隙をついてのことだ。
この辺りには土豪の小さな城がいくつかあり、河口らしく湿地で、その土地性を利用した平城だった。
土豪たちと一揆勢が六角父子の呼び掛けに応じて蜂起したわけである。
津田は観音寺山を挟んで垣見とは反対側であり、さらに小田は離れているので、今のところ問題はない。
しかし、今こそ、津田が六角家よりも先に織田家のものであったと周知させる時であろう。
観音寺城には、濃姫の姪がいる。一揆勢を動かしているのが六角父子ならば、彼女が六角方に奪われる可能性がある。
また、六角方の人質として預かった姪を、和睦の反古を理由に信長に殺されそうな気もして、濃姫は気に病んでいた。
それもあって、お鍋は小田に移るなら今だと思った。
「御台様にご相談がございます」
お鍋は濃姫を訪ねると、ずっと願っていたことを口にした。
「垣見の一揆、裏で糸を引いているのが六角義治ならば、その指示で、一揆勢が観音寺城に押し寄せる可能性がございます。守りは万全ですから、一揆勢ごときに奪われる心配はございますまいが、近江諸将が願証寺攻撃に出て手薄であることは事実。一揆掃討は諸将が戻ってからするとしても、観音寺城周辺の兵を増強する必要があるのではないでしょうか?津田、小田に兵を増やすべきかと存じます。また、これで鯰江城の敵も勢い増すでしょうから、小倉城の再建をしたいのです。私を小田城にお遣わし下さい。小田城は私の生家でございます」
「お屋形様のお許しがなければ駄目です。とりあえず、観音寺城周辺の増兵だけ、近江衆に依頼しましょう」
といっても、濃姫が依頼するまでもなく、諸将が自主的にすでにそうしているであろう。
願証寺との戦のために出陣中の人々も、全ての兵で伊勢へ赴いたわけではない。留守も置いて出陣したのだ。
おそらく、なお動員可能な兵が、半分とまではいかなくても、そこそこ各々の領内に残っているはずである。それらの留守兵を、すでに動かしただろう。
「観音寺城の姪が敵に奪われることはないと思います」
濃姫は強いてそう言った。自身の不安を自身で払拭するかのように。
「ですが、垣見で一揆が起きたなら、今後も他地域で一揆が起こるでしょう。津田は織田家の御始祖様のおわしました所です。六角よりも先に織田家のものであったこと、人々にあまねく教えてやらなければなりませぬ。そして、一揆勢から津田を守らねば。ですから、お屋形様が戻られましたら、御台様からも、私を小田に遣るようお願いして頂きたいのでございます。何卒!」
お鍋は必死に頭を下げた。
津田の件を広めるだけで、新たな一揆勃発の抑止になる。お鍋はそう信じている。
それには濃姫も同意した。
「お鍋様が織田家のためにお力を尽くして下さろうとしていること、私も大変嬉しく思います。わかりました。私からも口添え致しましょう」
(お鍋様が岐阜城からいなくなる?)
濃姫には不思議な心地であった。
お鍋がいなくなることで、ほっとしている自分を想像してみた。想像できた。
(私って……)
信長の帰還はけっこう早かった。今回の北伊勢出陣の目的は、一揆の完全鎮圧ではない。何回かに分けて、掃討するつもりである。
今回の出陣の意図はおそらく、複数あるが――まず、弟を殺され、怒っていることを相手に知らしめるため。また、北伊勢の諸氏の統率のため。そして、門徒衆という特異にして、輪中という特殊な土地にいる敵に、いかなる方法で当たったらよいのか、その作戦を練るための敵情視察であったろう。
はじめから、何らかの成果を求めて出陣したわけではないのだ。戦らしい戦もせずに、早々に帰ってきた。
しかし、一揆勢というのは一筋縄ではいかない。
退却してくる時、散々な目に遭った。やはり、信長の弟を殺しただけのことはある。
殿をつとめた柴田勝家が負傷するなど、猛将にとっても過酷なものとなり、氏家卜全は討ち死にした。勝家の与力となった蒲生軍などは、まるで地獄から生還したような有り様。
それでも、織田方もやられるだけではない。
山野に潜んでいた伏兵が、願証寺の寺主・証意を暗殺することに成功したのだ。一揆を束ねる長を、つまり、敵の総大将を死なせたのだ、これは大変大きな成果であろう。
後を継いだのは、まだ十一歳と幼い、嫡男の顕忍だった。
十一歳が総大将の烏合の衆など、あの特異な輪中さえ克服できれば、信長に勝てないはずがない。
何れにしても、半里はあろうかというほどの川幅を、織田軍は次回までに克服しなければならない。
それには、船。敵をあっと言わせる機能を持ち合わせた安宅船が要る。
そして、それを自在に操る軍が必要だ。
(水軍か。我が織田にも、いよいよ本格的な水軍が必要になる)
信長はあれこれ思案しながら帰還した。
お鍋は待っていたとばかりに、帰城間もない信長に願った。
「小田の隣に平家終焉の地・篠原、同じく小田の対岸に織田家発祥の地・津田。津田、篠原両地を守り、観音寺山の支城となり得るのは小田城をおいて他にはございませぬ。垣見、小川から愛知川を遡上すれば小椋、高野、相谷。何卒、垣見一揆対策のためにも、新たな一揆を防ぎ、織田家所縁の地を守るためにも、私を近江へお遣わし下さいませ!」
水軍のことで頭がいっぱいの信長。織田家には未だ水軍と呼べる程の代物を持ち合わせていない。
正直、近江のことなど半分忘れていた信長だ。だが、濃姫からも頼まれ、信長としてもお鍋の願いを無下にもできなくなった。
「しかし、城におらぬということは、何かと不利なことも多いぞ。謀叛起きて、そなたの身に何かあっても、すぐには助けに行けず、暫くお市のように、敵中に置き捨てたままになるかもしれない。また、そなたに子ができても、認知が遅れるかもしれんぞ。三七丸、坊丸のように、御台の承認、皆への披露が後から生まれた者より遅くなり、長幼の順が逆転するやもしれん」
「構いませぬ」
お鍋はきっぱり言いきる。
嫡男以外など、五男だろうが六男だろうが同じだろう。
「……織田家の祖のこと、これはそなたの功績だ。わかった、その功績を認めて、願いを聞こう。小倉甚五郎を小倉城主とする。小倉城再建と、鯰江城対策を命じる。鍋は小田城へ入れ」
「甚五郎に小倉城をお任せ下さるのでございますか?」
思いもよらない話に、お鍋は歓喜する。信長は大きく頷いた。
「甚五郎は歳よりもはるかにしっかりしている。無論、幼少ゆえ、信頼できる者を補佐に付ける。小倉左近将監(良親)を後見に付けよう。松寿は何れ小姓として召し使うことにするが、あと五、六年はそなたの傍に置いておけ」
つまり、松寿も一緒に連れて行って良いということだ。
「ですが、それですと、小倉家の人質がいなくなりますが――」
「ふっ、そなたは我が室。我が子まで産んだ女。織田家と小倉家との間に縁が結ばれたのに、もう人質なぞ要るまい。蒲生とて、冬姫を室とした時から、もう忠三郎は人質ではない。小倉家の人質も不要だ。本家も分家からも要らない」
信長というのは、変なところで甘い男である。
お鍋はくすっと笑った。
「そんなにいい人だと、そのお人柄を利用した悪賢い者に簡単に裏切られますよ?」
浅井長政みたいに。
信長は人を信用し過ぎるのだろうか。
(人質がいたって構わず裏切り、人質を見捨てるような輩もいるから、人質をとっているからって、万全なわけでもないけど。それとも、この人、自分は魅力的だと思って、自分に酔ってるのかしら?世の中の皆が俺の魅力の虜、俺を裏切る奴なんていないと信じて。いや、本気で信じてそうだけど……)
「貴様、なんか今、もの凄く失礼なこと考えてないか?」
「ほへ?」
むぎゅっと両頬をつねられた。
意地悪く信長が笑っている。お鍋がもがくと、あっさり手が離され、逆に反動で倒れそうになった。
その身をがっしと信長が抱く。懐に深く抱き込め、お鍋の耳元に囁いた。
「いつまでも一人にしておかぬ。すぐに俺も織田家の本拠地に移るからな。そなたは今後も俺の子をうじゃうじゃ産むことになる。そなたは俺から離れられんから、小倉家が裏切ることなんかできないだろ?」
この日はそのまま信長はお鍋のもとに泊まった。
久しぶりで閨を共にした二人だったが、
「やはり、そなたは良い」
いやらしく片頬を引き上げ、信長は随分とお鍋の身を弄んでいた。味をしめたらしく、以後も度々お鍋と寝る。
(もうすぐ私と別れるから、こうして頻繁に来て下さるのだろう)
以前、うっかり信長を好きだと言ってしまったから。お鍋の気持ちを知った信長が、慈悲をくれているに違いない。
しかし、信長のお鍋通いの日々は長々と続き、いつまで経っても彼女に近江行きの許可は下りなかった。すっかり荷造りを済ませて、出発の日を待っていたのに。
そうしているうちに、いつしか季節は秋になっていた。
八月も十日を過ぎた頃。
突如として信長は近江方面への出陣と、お鍋を同行させる旨を告げた。
「戦場に同行させるなんて!」
濃姫は反対したが、信長は心配無用と笑った。
「俺が連れて行く所は戦場にはならない。お鍋を小田に置きに行くついでに、小競り合いを収め、けじめをつけてくるだけだ。お鍋が直に血の気配を嗅ぐことはないだろう」
「ですが……」
「案ずるな。お鍋の身は安全だ。そなたはなあ、本当にお鍋が好きよな」
お人好し――まるでそう言っているみたいに、信長の目が見える。
濃姫は反射的に目を逸らした。
(私はお人好しなどではない。お鍋様に対して、汚い嫉妬心を持っている。それをおくびにも出さないだけ……)
確かに、昔はお鍋が好きだった。彼女を信長の側室にと言ったのも自分だ。
(夫君を思うあの方を、お屋形様の側室にした……そして、あの方を大切に思うお屋形様を前にして、私は嫉妬した。私の矛盾……)
結局、お鍋は自ら信長のもとを去る道を選んだ。お鍋にとって、信長とはどんな存在なのだろう。
信長のお鍋への気持ちは察していながら、お鍋が信長をどう思っているのか、いまいちわかっていない濃姫なのだ。
息子の三七丸と一緒に神戸家に行ってしまった坂御前を思い出す。坂御前にとって、信長は単なる庇護者だったらしい。
坂御前を動かしていたのは損得勘定。
お鍋もそうなのだろうか。
(だとしたら、私、馬鹿みたい。私が勝手にあの方を側室にして、お屋形様のお心に嫉妬して――)
自分で撒いた種。
(思えば、随分なことではある。もしも私がお鍋様の立場だったなら――。お屋形様をお慕いする私が、お屋形様と死別したからとて、お屋形様への思いは変わるまい。それを、妻子ある人の、よりによって側室になれとなどと強要されたら、私は堪えられない。それなのに、私はそのような酷なことをお鍋様に求めた。お鍋様が岐阜を去りたいと思われても、当然よ。そして、お屋形様のお心がお鍋様に傾いたからって、そんな私がどうして恨めよう……なのに、私はお二人が恋仲になることを恐れている。お鍋様がお屋形様の側室になることを望みながら、お屋形様のお心は私だけに向けられるものと信じた。恋仲はお屋形様と私の仲だけ。それが危ぶまれる存在だったから、お鍋様が――)
自分と信長との間に割って入ってきているお鍋がいなくなることに、実はどこかほっとしている。いや、それこそが本心なのだ。
たとえ信長のお鍋への気持ちに変化がなくとも、お鍋の姿が見えなければ、お鍋を愛する信長の気配が見えなければ、濃姫も二人の仲を気にすることもなく、心安く過ごせる気がした。
それに、お鍋への嫉妬を隠して、できる正室を演じ続けるのも苦痛だった。今も、お鍋の身が危険にさらされるのではないかと案じる、良き正室ぶりを見せている。
「――お鍋様に万が一のことがあっては、近江衆を纏める上でも困るからです」
「ふふふ、正直に、お鍋が好きなのだと言えばよいのに」
信長がからかうように笑っている。だが、それを否定することもできない濃姫。信長に、お鍋を好きだと思わせておくことしかできない。
(お鍋様がいなくなることを喜んでいる。それが本当の私。でも、それを知られたくない、お屋形様に知られてはならない)
信長に嫌われる。だから、濃姫は本音を隠し続けるのだ。
濃姫はお鍋が好きなお人好し――側室を大事にする人格者。信長にはそう思われ続けなければならないのだ。
(でも、私は確かに昔はお鍋様が好きだったの)
ふっと、頭の上に柔らかく温かい感触を覚えて、濃姫は現に返った。心地良いその感触は、信長が濃姫の頭に手を置いたからである。
信長の手はそのまま彼女の艶やかな髪へと滑って行く。幼い頃、母にしてもらったような感覚に、濃姫は溜め息を漏らした。
(この手を失いたくない!でも、この手を維持してくれているのは父と母……私は父母から夫の愛を与えられたに過ぎないのだ……父が決めた縁組。正室故に、夫に愛される資格があるだけ……私とお屋形様の仲は恋から生まれたものでは……夫と妻としての権利を持った者どうし、共に過ごすうちに深まった絆に過ぎない。この愛は恋ではないのよ。お鍋様へのお屋形様の恋こそが――)
「どうした?」
信長の声はやさしい。
(それでもこの手を失いたくない!そのためなら、お人好しの正室を演じ続けるわ)
濃姫は潤んだ目をきっと向け、信長を見上げた。何か言いたげに、かすかに震える唇。
(ああ、この口を吸ってと言えるような女ならば……)
言えない濃姫は、心地良くてと呟いて、目を閉じ、信長の胸に身を預けた。
二日後、お鍋の荷物が一足先に、近江に向かって出発した。
お鍋は永原家の人質など、近江から来た人々を訪ね、別れを惜しんだ。
荷物が出た翌日、奥では濃姫が皆を集め、そこでお鍋の近江行きが正式に披露された。お鍋は皆に挨拶をし、これが岐阜城との別れとなった。
その翌日がいよいよ信長の出陣。
お鍋はその朝、信長と共に出陣式に出て、濃姫に最後の挨拶をした。お鍋と濃姫の別離の場は、実に淡々としたものだった。
儀式的に形式的に挨拶が交わされたに過ぎない。
「御台様から賜りましたご恩、生涯忘れませぬ」
「いってらっしゃい」
最後に二人の交わした言葉であった。
信長の出陣。軍勢が城を出て、岐阜の町に繰り出して行く。
町の人々が見物に出ており、万の人々でごった返していた。
見物の人々の歓声の中を、いつものようにきらびやかな軍勢が堂々と進んで行く。
信長の相変わらず派手で立派な装いに、人々は盛り上がり、勇気付けられたが、今回の人々の反応はそれだけではなかった。
信長の率いる馬廻り衆の軍勢の後ろに、女輿が粛々と続いていたことだ。女輿は好奇の目に晒されていた。
軍勢に女輿が加わることも珍しいが、輿の中の人が信長の側室だということも、噂好きな人々の興味を誘ったのである。
あちこちで自分のことを言っている――お鍋はそれを自覚しながら、遂に岐阜の町を出て行った。
場所は神崎郡垣見、小川周辺である。愛知川河口付近で、観音寺山からさほど遠くない。
長光寺城の柴田勝家が、願証寺の一揆への攻撃のため、伊勢長島へ出掛けている隙をついてのことだ。
この辺りには土豪の小さな城がいくつかあり、河口らしく湿地で、その土地性を利用した平城だった。
土豪たちと一揆勢が六角父子の呼び掛けに応じて蜂起したわけである。
津田は観音寺山を挟んで垣見とは反対側であり、さらに小田は離れているので、今のところ問題はない。
しかし、今こそ、津田が六角家よりも先に織田家のものであったと周知させる時であろう。
観音寺城には、濃姫の姪がいる。一揆勢を動かしているのが六角父子ならば、彼女が六角方に奪われる可能性がある。
また、六角方の人質として預かった姪を、和睦の反古を理由に信長に殺されそうな気もして、濃姫は気に病んでいた。
それもあって、お鍋は小田に移るなら今だと思った。
「御台様にご相談がございます」
お鍋は濃姫を訪ねると、ずっと願っていたことを口にした。
「垣見の一揆、裏で糸を引いているのが六角義治ならば、その指示で、一揆勢が観音寺城に押し寄せる可能性がございます。守りは万全ですから、一揆勢ごときに奪われる心配はございますまいが、近江諸将が願証寺攻撃に出て手薄であることは事実。一揆掃討は諸将が戻ってからするとしても、観音寺城周辺の兵を増強する必要があるのではないでしょうか?津田、小田に兵を増やすべきかと存じます。また、これで鯰江城の敵も勢い増すでしょうから、小倉城の再建をしたいのです。私を小田城にお遣わし下さい。小田城は私の生家でございます」
「お屋形様のお許しがなければ駄目です。とりあえず、観音寺城周辺の増兵だけ、近江衆に依頼しましょう」
といっても、濃姫が依頼するまでもなく、諸将が自主的にすでにそうしているであろう。
願証寺との戦のために出陣中の人々も、全ての兵で伊勢へ赴いたわけではない。留守も置いて出陣したのだ。
おそらく、なお動員可能な兵が、半分とまではいかなくても、そこそこ各々の領内に残っているはずである。それらの留守兵を、すでに動かしただろう。
「観音寺城の姪が敵に奪われることはないと思います」
濃姫は強いてそう言った。自身の不安を自身で払拭するかのように。
「ですが、垣見で一揆が起きたなら、今後も他地域で一揆が起こるでしょう。津田は織田家の御始祖様のおわしました所です。六角よりも先に織田家のものであったこと、人々にあまねく教えてやらなければなりませぬ。そして、一揆勢から津田を守らねば。ですから、お屋形様が戻られましたら、御台様からも、私を小田に遣るようお願いして頂きたいのでございます。何卒!」
お鍋は必死に頭を下げた。
津田の件を広めるだけで、新たな一揆勃発の抑止になる。お鍋はそう信じている。
それには濃姫も同意した。
「お鍋様が織田家のためにお力を尽くして下さろうとしていること、私も大変嬉しく思います。わかりました。私からも口添え致しましょう」
(お鍋様が岐阜城からいなくなる?)
濃姫には不思議な心地であった。
お鍋がいなくなることで、ほっとしている自分を想像してみた。想像できた。
(私って……)
信長の帰還はけっこう早かった。今回の北伊勢出陣の目的は、一揆の完全鎮圧ではない。何回かに分けて、掃討するつもりである。
今回の出陣の意図はおそらく、複数あるが――まず、弟を殺され、怒っていることを相手に知らしめるため。また、北伊勢の諸氏の統率のため。そして、門徒衆という特異にして、輪中という特殊な土地にいる敵に、いかなる方法で当たったらよいのか、その作戦を練るための敵情視察であったろう。
はじめから、何らかの成果を求めて出陣したわけではないのだ。戦らしい戦もせずに、早々に帰ってきた。
しかし、一揆勢というのは一筋縄ではいかない。
退却してくる時、散々な目に遭った。やはり、信長の弟を殺しただけのことはある。
殿をつとめた柴田勝家が負傷するなど、猛将にとっても過酷なものとなり、氏家卜全は討ち死にした。勝家の与力となった蒲生軍などは、まるで地獄から生還したような有り様。
それでも、織田方もやられるだけではない。
山野に潜んでいた伏兵が、願証寺の寺主・証意を暗殺することに成功したのだ。一揆を束ねる長を、つまり、敵の総大将を死なせたのだ、これは大変大きな成果であろう。
後を継いだのは、まだ十一歳と幼い、嫡男の顕忍だった。
十一歳が総大将の烏合の衆など、あの特異な輪中さえ克服できれば、信長に勝てないはずがない。
何れにしても、半里はあろうかというほどの川幅を、織田軍は次回までに克服しなければならない。
それには、船。敵をあっと言わせる機能を持ち合わせた安宅船が要る。
そして、それを自在に操る軍が必要だ。
(水軍か。我が織田にも、いよいよ本格的な水軍が必要になる)
信長はあれこれ思案しながら帰還した。
お鍋は待っていたとばかりに、帰城間もない信長に願った。
「小田の隣に平家終焉の地・篠原、同じく小田の対岸に織田家発祥の地・津田。津田、篠原両地を守り、観音寺山の支城となり得るのは小田城をおいて他にはございませぬ。垣見、小川から愛知川を遡上すれば小椋、高野、相谷。何卒、垣見一揆対策のためにも、新たな一揆を防ぎ、織田家所縁の地を守るためにも、私を近江へお遣わし下さいませ!」
水軍のことで頭がいっぱいの信長。織田家には未だ水軍と呼べる程の代物を持ち合わせていない。
正直、近江のことなど半分忘れていた信長だ。だが、濃姫からも頼まれ、信長としてもお鍋の願いを無下にもできなくなった。
「しかし、城におらぬということは、何かと不利なことも多いぞ。謀叛起きて、そなたの身に何かあっても、すぐには助けに行けず、暫くお市のように、敵中に置き捨てたままになるかもしれない。また、そなたに子ができても、認知が遅れるかもしれんぞ。三七丸、坊丸のように、御台の承認、皆への披露が後から生まれた者より遅くなり、長幼の順が逆転するやもしれん」
「構いませぬ」
お鍋はきっぱり言いきる。
嫡男以外など、五男だろうが六男だろうが同じだろう。
「……織田家の祖のこと、これはそなたの功績だ。わかった、その功績を認めて、願いを聞こう。小倉甚五郎を小倉城主とする。小倉城再建と、鯰江城対策を命じる。鍋は小田城へ入れ」
「甚五郎に小倉城をお任せ下さるのでございますか?」
思いもよらない話に、お鍋は歓喜する。信長は大きく頷いた。
「甚五郎は歳よりもはるかにしっかりしている。無論、幼少ゆえ、信頼できる者を補佐に付ける。小倉左近将監(良親)を後見に付けよう。松寿は何れ小姓として召し使うことにするが、あと五、六年はそなたの傍に置いておけ」
つまり、松寿も一緒に連れて行って良いということだ。
「ですが、それですと、小倉家の人質がいなくなりますが――」
「ふっ、そなたは我が室。我が子まで産んだ女。織田家と小倉家との間に縁が結ばれたのに、もう人質なぞ要るまい。蒲生とて、冬姫を室とした時から、もう忠三郎は人質ではない。小倉家の人質も不要だ。本家も分家からも要らない」
信長というのは、変なところで甘い男である。
お鍋はくすっと笑った。
「そんなにいい人だと、そのお人柄を利用した悪賢い者に簡単に裏切られますよ?」
浅井長政みたいに。
信長は人を信用し過ぎるのだろうか。
(人質がいたって構わず裏切り、人質を見捨てるような輩もいるから、人質をとっているからって、万全なわけでもないけど。それとも、この人、自分は魅力的だと思って、自分に酔ってるのかしら?世の中の皆が俺の魅力の虜、俺を裏切る奴なんていないと信じて。いや、本気で信じてそうだけど……)
「貴様、なんか今、もの凄く失礼なこと考えてないか?」
「ほへ?」
むぎゅっと両頬をつねられた。
意地悪く信長が笑っている。お鍋がもがくと、あっさり手が離され、逆に反動で倒れそうになった。
その身をがっしと信長が抱く。懐に深く抱き込め、お鍋の耳元に囁いた。
「いつまでも一人にしておかぬ。すぐに俺も織田家の本拠地に移るからな。そなたは今後も俺の子をうじゃうじゃ産むことになる。そなたは俺から離れられんから、小倉家が裏切ることなんかできないだろ?」
この日はそのまま信長はお鍋のもとに泊まった。
久しぶりで閨を共にした二人だったが、
「やはり、そなたは良い」
いやらしく片頬を引き上げ、信長は随分とお鍋の身を弄んでいた。味をしめたらしく、以後も度々お鍋と寝る。
(もうすぐ私と別れるから、こうして頻繁に来て下さるのだろう)
以前、うっかり信長を好きだと言ってしまったから。お鍋の気持ちを知った信長が、慈悲をくれているに違いない。
しかし、信長のお鍋通いの日々は長々と続き、いつまで経っても彼女に近江行きの許可は下りなかった。すっかり荷造りを済ませて、出発の日を待っていたのに。
そうしているうちに、いつしか季節は秋になっていた。
八月も十日を過ぎた頃。
突如として信長は近江方面への出陣と、お鍋を同行させる旨を告げた。
「戦場に同行させるなんて!」
濃姫は反対したが、信長は心配無用と笑った。
「俺が連れて行く所は戦場にはならない。お鍋を小田に置きに行くついでに、小競り合いを収め、けじめをつけてくるだけだ。お鍋が直に血の気配を嗅ぐことはないだろう」
「ですが……」
「案ずるな。お鍋の身は安全だ。そなたはなあ、本当にお鍋が好きよな」
お人好し――まるでそう言っているみたいに、信長の目が見える。
濃姫は反射的に目を逸らした。
(私はお人好しなどではない。お鍋様に対して、汚い嫉妬心を持っている。それをおくびにも出さないだけ……)
確かに、昔はお鍋が好きだった。彼女を信長の側室にと言ったのも自分だ。
(夫君を思うあの方を、お屋形様の側室にした……そして、あの方を大切に思うお屋形様を前にして、私は嫉妬した。私の矛盾……)
結局、お鍋は自ら信長のもとを去る道を選んだ。お鍋にとって、信長とはどんな存在なのだろう。
信長のお鍋への気持ちは察していながら、お鍋が信長をどう思っているのか、いまいちわかっていない濃姫なのだ。
息子の三七丸と一緒に神戸家に行ってしまった坂御前を思い出す。坂御前にとって、信長は単なる庇護者だったらしい。
坂御前を動かしていたのは損得勘定。
お鍋もそうなのだろうか。
(だとしたら、私、馬鹿みたい。私が勝手にあの方を側室にして、お屋形様のお心に嫉妬して――)
自分で撒いた種。
(思えば、随分なことではある。もしも私がお鍋様の立場だったなら――。お屋形様をお慕いする私が、お屋形様と死別したからとて、お屋形様への思いは変わるまい。それを、妻子ある人の、よりによって側室になれとなどと強要されたら、私は堪えられない。それなのに、私はそのような酷なことをお鍋様に求めた。お鍋様が岐阜を去りたいと思われても、当然よ。そして、お屋形様のお心がお鍋様に傾いたからって、そんな私がどうして恨めよう……なのに、私はお二人が恋仲になることを恐れている。お鍋様がお屋形様の側室になることを望みながら、お屋形様のお心は私だけに向けられるものと信じた。恋仲はお屋形様と私の仲だけ。それが危ぶまれる存在だったから、お鍋様が――)
自分と信長との間に割って入ってきているお鍋がいなくなることに、実はどこかほっとしている。いや、それこそが本心なのだ。
たとえ信長のお鍋への気持ちに変化がなくとも、お鍋の姿が見えなければ、お鍋を愛する信長の気配が見えなければ、濃姫も二人の仲を気にすることもなく、心安く過ごせる気がした。
それに、お鍋への嫉妬を隠して、できる正室を演じ続けるのも苦痛だった。今も、お鍋の身が危険にさらされるのではないかと案じる、良き正室ぶりを見せている。
「――お鍋様に万が一のことがあっては、近江衆を纏める上でも困るからです」
「ふふふ、正直に、お鍋が好きなのだと言えばよいのに」
信長がからかうように笑っている。だが、それを否定することもできない濃姫。信長に、お鍋を好きだと思わせておくことしかできない。
(お鍋様がいなくなることを喜んでいる。それが本当の私。でも、それを知られたくない、お屋形様に知られてはならない)
信長に嫌われる。だから、濃姫は本音を隠し続けるのだ。
濃姫はお鍋が好きなお人好し――側室を大事にする人格者。信長にはそう思われ続けなければならないのだ。
(でも、私は確かに昔はお鍋様が好きだったの)
ふっと、頭の上に柔らかく温かい感触を覚えて、濃姫は現に返った。心地良いその感触は、信長が濃姫の頭に手を置いたからである。
信長の手はそのまま彼女の艶やかな髪へと滑って行く。幼い頃、母にしてもらったような感覚に、濃姫は溜め息を漏らした。
(この手を失いたくない!でも、この手を維持してくれているのは父と母……私は父母から夫の愛を与えられたに過ぎないのだ……父が決めた縁組。正室故に、夫に愛される資格があるだけ……私とお屋形様の仲は恋から生まれたものでは……夫と妻としての権利を持った者どうし、共に過ごすうちに深まった絆に過ぎない。この愛は恋ではないのよ。お鍋様へのお屋形様の恋こそが――)
「どうした?」
信長の声はやさしい。
(それでもこの手を失いたくない!そのためなら、お人好しの正室を演じ続けるわ)
濃姫は潤んだ目をきっと向け、信長を見上げた。何か言いたげに、かすかに震える唇。
(ああ、この口を吸ってと言えるような女ならば……)
言えない濃姫は、心地良くてと呟いて、目を閉じ、信長の胸に身を預けた。
二日後、お鍋の荷物が一足先に、近江に向かって出発した。
お鍋は永原家の人質など、近江から来た人々を訪ね、別れを惜しんだ。
荷物が出た翌日、奥では濃姫が皆を集め、そこでお鍋の近江行きが正式に披露された。お鍋は皆に挨拶をし、これが岐阜城との別れとなった。
その翌日がいよいよ信長の出陣。
お鍋はその朝、信長と共に出陣式に出て、濃姫に最後の挨拶をした。お鍋と濃姫の別離の場は、実に淡々としたものだった。
儀式的に形式的に挨拶が交わされたに過ぎない。
「御台様から賜りましたご恩、生涯忘れませぬ」
「いってらっしゃい」
最後に二人の交わした言葉であった。
信長の出陣。軍勢が城を出て、岐阜の町に繰り出して行く。
町の人々が見物に出ており、万の人々でごった返していた。
見物の人々の歓声の中を、いつものようにきらびやかな軍勢が堂々と進んで行く。
信長の相変わらず派手で立派な装いに、人々は盛り上がり、勇気付けられたが、今回の人々の反応はそれだけではなかった。
信長の率いる馬廻り衆の軍勢の後ろに、女輿が粛々と続いていたことだ。女輿は好奇の目に晒されていた。
軍勢に女輿が加わることも珍しいが、輿の中の人が信長の側室だということも、噂好きな人々の興味を誘ったのである。
あちこちで自分のことを言っている――お鍋はそれを自覚しながら、遂に岐阜の町を出て行った。
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