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故郷
八・未来の意味
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岐阜城の奥では、お鍋への反発が強い。
もともと信長の側室たちも奥女中たちも、彼女を良く思っていなかった。
何しろ、以前、人質として幽閉されていた時、脱走したという経緯がある。そのことが尾を引いて、側室に上がってからも、皆の心の奥には蟠りがあったのだ。
しかも、信長の彼女への扱いは、贔屓としか思えない。いつも彼女を庇い、今回も不問にしてしまった。
「ですが、奥を治める御方は御台様。奥の秩序は御台様がお決めになって、しかるべきです。三七様について神戸家に入られた坂御前様はともかく、小倉殿は男子を産んだわけでもなく、人質上がりで城にもおりませぬ。奥での序列は私どもより下に置いて下さりませ」
「そうです、それをお決めになるのは御台様です」
信長の贔屓など配慮せずに、お鍋を側室の下位に据えろと、皆がうるさい。
濃姫が彼女たちの要求を完全に無視すれば、多数の女房衆の反感を買い、奥が乱れることにもなろう。濃姫は信長に言われた通り、明智光秀のことを引き合いに出して、今回はお鍋には問題なかったとした上で、こう忠告した。
「序列はあなた方を上としましょう。なれど、今回の何ら問題のない些細なことについて、難癖をつけて騒ぐのは、単なる嫉妬心からの讒言だとお屋形様は見なしておられますし、私もそのように思ってしまいます。以後、お控えなされ。また、そもそも、小倉殿が小田に住まわれしを、小倉殿の我儘だと捉える方もおられるようですが、それは甚だ見当違いなことと思し召せ。中野城に娘、佐和山城に姪、小田城に側室を配置したのは、お屋形様です」
信長の決定なのだと、濃姫は釘を挿し、自身の部屋に集まる側室上臈たちを厳かに見下ろした。
「南近江は未だに一揆が頻発し、六角の影響が残っている。なれど、都へ参る上で、最も重要な地でもある。お身内で固める必要があるのです。特にお屋形様の近江に於ける拠点は安土、観音寺山です。小田城に小倉殿を配することにより、佐和山と小田の中間点にある安土を守ることになる。佐和山、安土、小田が一つの道として繋がる。さらに、小田から日野川一つで中野城に、また佐久良城にもつながるのです。小田城に小倉殿を配することにより、これらの地域が一本の線で繋がったのです」
濃姫の言い様に、側室たちは固唾を飲んだ。
「また、小倉一族には大事な八風越の押さえという役割が担わされています。小倉一族が小倉城を固めることによって、鯰江城への付城としての役割を果たしていますが、小倉城、布施家の大森城とで安土や観音寺山と一つの線で繋ぐことができるのです。お屋形様は近々、安土と大森城との間の小脇箕作城に、姪君を入れる御心算のようです。六角左京様に嫁がせて――。布施家は蒲生家の娘を妻としており、冬姫とは義姉妹です。八風越もこうして、小倉殿のおかげで安土まで、織田一族で繋ぐことができるのです。小倉殿はこのように、近江支配に於ける、多大な影響力を持った方なのだと心得なされ」
側室たちも、それぞれ名家の出であり、それぞれの地に影響力を持っている。
古い側室たちには尾張への影響力があり。濃姫や彼女と親戚関係にある近年側室になった者たちには、美濃への影響が多大にある。
「これからは近江です。第三の勢力・近江。それが小倉殿。近江に配置することで、私などでも及ばない力を、近江に於いて発揮する方なのです。奥の序列は下位でもね」
これからの信長が関わりを深くするのは都だ。そのため、近江は最も重要な地となり、岐阜など彼にはさほど大事でなくなるかもしれない。お鍋は正室の濃姫を脅かすほどの力を持つ可能性だってあり得る。
お鍋に野心があれば、信長の贔屓もあること故――。かつて、先々代の将軍・足利義輝の側室は非常な力を有し、近々正室に取って代わるだろうという噂も立ち、実際、御台と呼ばせていたともいう。しかし、濃姫は思う。
(お屋形様のおわします居城こそが妻の家。お屋形様が岐阜城におられる限り、私の地位は揺るがない。お鍋様は城にさえいないのだから)
彼女にはまだ余裕がある。とはいえ、またしても意図せずお鍋を庇う形になってしまったことに、苦笑を禁じえない。
(奥を乱さぬためには、お鍋様を庇うべきではないと思っていたけれど。結局庇うのね、私……まあ、それが私)
側室たちが下がった後、一人部屋で忍び笑いを漏らした。お鍋を庇う義理もないが、結局庇ってしまう彼女。そんな己が、実は嫌いではない。
それもお鍋の姿が見えない分、お鍋への妬心を以前ほどには覚えなくなったが故か。
*****************************
その頃のお鍋は、岐阜城内での風当たりなど知りもせず、のんびりしたものだった。
小田城に来て、しばらく経つ。大分落ち着いてきたし、そろそろ引っ越しの挨拶をした方が良いだろうと思った。上流の日野へ。中野城にいる冬姫へ。
信長の娘である彼女の近隣に住むのに、挨拶に出向かないわけにはいかない。しかも、お鍋と共にいる鶴姫は冬姫の妹なのだ。姉のそばに住むからには、妹から姉のもとへ出向くのが筋であろう。
とはいえ、日野へ行くのはお鍋にとっては、実はできれば避けて通りたいことではある。
しかし、奮起して三崎殿など数名を従え、日野川を遡上して中野城に行くと、冬姫と、お鍋が避けたい理由の隠居の蒲生定秀が並んで待っていた。お鍋は二人の前に座って対面する。
忠三郎は岐阜に伴天連が来るというので、信長の命でそちらに出掛けており、不在である。賢秀は所用とのこと。
冬姫はすぐにお鍋の腕の中の鶴姫に反応して、笑みをこぼした。それが花が綻ぶように艶然としていて、お鍋は目を見張った。
愛らしいが、艶やかなのだ。いかにも姫君といった気品がありながら、この艶やかさ。
簡素を追求したこの書院に、その艶やかさは栄える。まるで、茶室の中の一輪の椿のように。何も岐阜城や小田城のように、金銀煌めく豪奢の中に置かなくとも、姫はちゃんと栄えるのだ。
驚くほどに成長した。まだ少女には違いないが、随分大人になっている。将来、どれほど美しくなるのだろう、この姫は。
挨拶を済ませると、冬姫は気安く近寄ってきた。
「可愛い!」
まさに無邪気に、可憐な声を上げて、鶴姫のぽわぽわの髪を撫でている。
「姉上様ですよ」
お鍋も笑顔で腕の中の我が子に話しかける。赤子は冬姫を見て、嬉しそうにけらけら笑った。とたんにきゅんとしたように、冬姫が嬌声を上げる。
お鍋と冬姫、しばし楽しげに鶴姫を囲んでいるのを、定秀は複雑な顔で見ていた。あるいは、背景の自慢の庭に、塵か草か何かを見つけたのだろうか。
ここはかつてお鍋がこの城に捕われた時、定秀らに直談判するなど、お鍋も定秀も、互いにあまりよい思い出のない部屋である。
定秀はその過去を思い出したのだろうか。
もう老人と言ってよい彼は時々こんな表情を覗かせる。それは一瞬のことで、すぐに消えるのだが、冬姫は鋭く感じとっていた。
織田家を取り巻く苦境。盛り返す六角家。近江じゅうで頻発する大規模な一向一揆。神戸家の幽閉。
きっと定秀は、織田家に降伏したことを後悔している。冬姫と孫との結婚、心の底では迷惑に思っているに違いない。
六角家に帰参したい気持ちさえ、ないことはないのだろう。しかし、家中には冬姫についてきた織田家の者たちが溢れていて、身動きがとれない。
そこにまた、信長の妻の一人となったお鍋が、信長の子を連れて近隣に来たのだ。さらに息苦しくなる。
おまけに、今のお鍋は信長の側室だから、定秀の主筋だ。かつて散々、搾取した小倉家の、自分の都合で信長に差し出した人質のお鍋が、今では主筋なのだ。
お鍋が信長の側室となってから初めての対面となる。定秀の中に様々な苦虫が蠢いているに違いない。
鶴姫を囲んで笑い合う、お鍋と冬姫を見て、溜め息を我慢したのだろう。
冬姫は気配でそれを察した。
冬姫はわざと言った。
「父が比叡山に焼き討ちしたことで、益々一向宗が息巻いているとか。金森の一揆を潰され、堅田衆の仲間割れを誘発されて、復讐心に燃えているようですね。また、この辺りは比叡山にも近く、天台宗の大きな寺院も多く、父への反感が高まっております。家中に困惑も広がっており、私一人では心細かったので、小倉の御方様と鶴姫が来て下さって、本当によかったです」
「比叡山……」
お鍋の顔からすっと笑みが引く。
定秀もこの件については、きっと怒っているに違いない。
この近辺にも、比叡山の荘園が散在している。かつて、山上の小倉右近大夫と実隆が戦になったのも、山上内にある比叡山の荘園の横領が原因の一つだった。また、保内商人も得珍保とて、もとは比叡山にゆかりがある。
信長の焼き討ちは狂気の沙汰として、人々の怒りと恐れ、狼狽を招いている。それは、この辺りでも例外ではない。
信長への動揺。きっとこの定秀も同じに違いない。
だが、織田家にあっては、それに異を唱えることなど許されない。信長の逆鱗に触れる。
比叡山については、誰も口にしない。それを、娘だから、冬姫ならば構わず口にできるのだろう。
「今は近江が一番大変な時です。恐らく有史以来、今が最も乱れていることでしょう。私一人では、とても纏めきれませんでした」
「……鯰江城はより活発化するでしょう。小倉城の息子に最善を尽くさせます」
お鍋はそう答えた。冬姫は頷く。
定秀ももういつもの顔に戻っている。
冬姫はまた妙なことを言い出した。
「父のしたこと。今の世の中を敵に回しましたが、これが未来を見て為すということだったのかと、私はようやく理解致しました」
「未来を見て為す?」
問うたのは定秀である。だが、お鍋も聞いたことのあるような話だと、やや首を傾げさせた。
「はい。かつて父が私に、未来を見て為すようにと言いました。掟、法度は現状に沿うて布告してはならないと。私が理解できないでいると、今の人間が、どうして皆、不満だらけなのか考えろと言いました。それ以来、ずっとわからずにいましたが、最近、そういうことだったのかと」
信長は冬姫が幼い頃、よく色々なことを話した。
鉄砲、火薬の話や不戦について、偶像や宗教の話など様々に。その中の一つに、その未来を見て為せというものもあった。
定秀はなお顔じゅう疑問だらけにしていたが、お鍋はそうだと、思い起こした。
(私が近江に住み、お屋形様のお役に立ちたいと言った時、未来が見えないならば、ならぬと仰せだったわ。無理矢理過去のことを持ち出して、平資盛卿のお話をしたら、小田に住むことをお許し下さったのだった。それで、うやむやになってしまったけれど、私、実はまだその未来を見て成せというお屋形様の仰せ、理解していなかったわ!)
「――乱世ですからねえ、満足だ幸せだと思っている人など、滅多にいないでしょうね。やらなければ、やられる。そういう世の中ですもの」
そうお鍋は相槌しながら、ちらと定秀を見た。この老人率いる蒲生家に、隣の小倉家は煮え湯を飲まされた。お鍋の養父の実光は留守中に所領を奪われ、小倉の名跡さえ今ではすっかり蒲生家のものだ。
小倉家など、今では甚五郎と良親、一部の傍流の支流が僅かな所領を守っているに過ぎない。一族のその大部分の所領は、蒲生家のものとなってしまった。
やらなければ、やられる。小倉家と蒲生家の関係が、まさに今の時代を象徴している。
冬姫はお鍋の視線から何か悟ったらしい。ゆっくり首を振った。
「不満はいつの世にもあると、父は言いました。昔から、いつの時代の人間も、不満だらけで、決して満足していなかったと」
乱世だから、今だけが不満なのではない。
応仁の乱以前ならば、皆が満足していたのかと言えば、そうではない。朝廷が二つあって混乱していた。
では、鎌倉時代ならば満足だったのかといえば、幕府への不満が爆発して、倒幕となり、建武の親政がなった。
だが、武士たちの、公家への不満から、室町幕府ができた。
結局、いつの世も人間は不平不満の中、生きていたのだ。今だけが特別なのではない。
冬姫は一人合点に頷いて言った。
「世は流動的です。常に動いている。だから、掟法度は時の流れに置いていかれるのです。現状にそぐわないから、世の中に不満が溜まる。それではまずい、改めようとて、倒幕やら乱やらが起き、その都度新しい時代に変わってきました」
お鍋も定秀も頷いた。
でも、と冬姫は続ける。
「せっかく時代が変わっても、掟法度はその時その時の現状に沿うたものを発布してきました。それでは、現在には合っていても、やがて古くなる、未来に於いては不満にしかならない。過去のいつでも、政を行う者は、現状の事態解決にしか努めませんでした。目先のことしか見ず、付け焼き刃の対策だけをしてきたから、数十年経つと、時代について行けなくなって、それが不満となる。そうして、その事態解決のために、兵を動かして時代を変える。それでは、数十年、数百年おきに乱世となり、父の目指す不戦はなし得なくなります。父の、未来を見て為すようにとは、そういうことなのかと思います。現状ではなく、未来のあるべき姿を思い描き、未来の人間が納得する掟法度を発布しなければならないのだと」
定秀はかなり驚いて冬姫を見ていた。冬姫は屈託なく笑って言う。
「お婿様にそうさせなさいねと、幼い頃に父から言われました。忠三郎様にお目にかかるかなり前のことです。父は戦をなくすために、今、鉄砲という物を使って戦っているのだと、私に言いました」
「ほ、それはまた――」
定秀はにやりと笑ったが、返答に困っている。
お鍋はそんな定秀の様子を見て、まだ幼い冬姫の日々の奮闘を思った。
(織田家のために、この老害と戦っているのね。この人を織田家につなぎ止め、その上、野心野望を阻止するのは、容易なことではないわ)
冬姫は、定秀の自尊心と欲得心とを上手く擽る術を、身に付けている。内心、舌を巻き、定秀へはほくそ笑みながら、お鍋は話の続きを口にした。
「でも、それと此度の、その、山門のことと、どう関係が――?」
冬姫は鶴姫を見やった。
「鶴姫にも父上のお言葉を伝えましたからね」
鶴姫はきゃっと笑っている。
「父はかねてより南蛮文化に親しみ、これからは鉄砲の時代だと言って、鉄砲への興味は凄まじいものでした。さらに近頃は、伴天連を保護しています。きっと、未来の日本は、否応なくポルトガルと大きく関わることになるのでしょう。国じゅうどこへ行っても、南蛮人を見かけるような世の中になるのでは。そうなれば、耶蘇の教えもかなり浸透しているはず」
未来を想像しているのか、冬姫は遠い目をしている。
「父が伴天連を保護して、比叡山を焼き討ちしたのは、日本の未来の姿を想像して、いつまでも仏教にばかり権力を与えておくわけにはいかないと思ったからでは。本願寺、一向一揆に対する対策も、きっと未来の日本の姿を見越してのことなのだと思います。現状だけ見ていたら、娘の私から見ても、父のしていることは無茶苦茶、悪行非道ですもの」
最後の方は、ちょっと悪戯っぽい表情になって笑った。
「未来……」
唖然と定秀は冬姫を見ていた。未来の姿などと、この老人には思いもよらないものだろう。将来の構想など、定秀にあるわけもなく。また、展望を持ち、それを口にする者も周囲に一人もいなかった。
(お屋形様。そういえば、比叡山焼き討ち後に私のもとへ寄られた時、変なことを仰有っていたわ……)
お鍋は、信長が寝物語に言った言葉を思い出していた。
信長の比叡山焼き討ちに対して、皆が仏罰が下ると彼を嫌悪するだろう。だが、信長はそれを嘲笑していたのだ。
「伴天連は日本人全てをキリシタンに改宗する予定でいるそうですわ」
冬姫は知っているのか、お鍋の言葉に黙って頷いた。
将来の展望といえば、伴天連側にはあるのである。
「でも、仏教が伝来した時の人々とは、彼らは違うようです。伴天連は日本の神道、仏法を滅ぼし、日本の国土に彼らの宗教のみを置くつもりなのだとか。彼らの寺(教会)では、彼らの国の風俗をそのまま日本人に移しているそうです。彼らによって、将来、日本の風俗をも滅ぼされてしまうのではないでしょうか?そうなることを見越して、お屋形様は――?」
「なにっ?」
仰け反ったのは定秀である。
(未来、未来……お屋形様の見ている日本の未来は日本が日本でなくなることなの?)
言った本人もまた言葉にしたことで、恐怖を実感し、青ざめている。
「日本はポルトガルになってしまうのでしょうか?」
お鍋の恐れに、冬姫は微笑んで、首を傾げていた。
「君主、三公、将軍がポルトガル王とその貴人に取って代わられなければ、日本は日本のままでは?ポルトガルの文明、風俗を取り入れ、和魂葡才の国風文化が生まれて。いつしかポルトガルの元の物より優れた社会になるかも」
鉄砲開発と所持数がその一例ではあるまいか。
だから、すでにその兆しは見えている。
「そ、そうでしょうか?」
「父がポルトガル王に日本を委ねるわけがありませんもの。父が国政を担っている限り、問題ないと思います。それに――」
蒼白なお鍋と対照的に、冬姫は平然としたものだ。
「仏教はそもそも渡来物なのに、日本という国は面白いもので、いつしか天照大神と大日如来は同じものとなりました。デウスもそのうち大日如来か阿弥陀如来に、サンタ・マリア(聖母マリア)は観音菩薩にでもなるのではないでしょうか?日本って、そういう国でしょう?」
これには定秀もあんぐりと姫を見やってしまった。
確かに、フランシスコ・ザビエルによって、耶蘇が伝わった当初、唯一神を訳すに適した日本語が見つからず、日本人伊留満が、大日如来と訳して布教していたという事実がある。
新しい仏教の一派が来たのだと、その当時の日本人たちはすんなり受け入れたという。
後でそれを知って、慌てて、イエズス会では以降、無理に日本語に訳さず、デウスとそのまま呼ぶことにし、日本人も今ではデウスと言うようになっていたのだ。
このまま伴天連たちによる布教が進み、日本の宗教として定着すれば、新たな本地垂迹説、またその逆を生み出すかもしれない。
いや、イエス・キリストの降誕からすでに1500年以上が経過し、旧約聖書の時代からは、さらに恐ろしい程の年月が経っている。その間、一度も日本にこの教えが伝わらなかったとは言いきれない。何しろ、唐の都・長安には大秦寺とて、いわゆるネストゥリウス派(景教)の教会があったのである。
ひょっとしたら、すでに日本にも伝わっているかもしれない。それどころか、冬姫が言ったようなことが既に起きているかもしれない。
日本人が日本の神々と信じて参詣している稲荷や八幡などの神々が、もとはネストゥリウス派か、あるいは古代イスラエル民族の神と同化しているかもしれないではないか。
お鍋は冬姫から話を聞いて、ますます未来の意味、信長の頭の中にある未来の日本の姿がわからなくなった。
(とにかく、父娘そろって普通でないことは確かね)
そして、自身の腕の中の我が子を見て、この子も――と思う。屈託なくご機嫌で笑っている鶴姫は、冬姫みたいになってしまうのだろうか。
冬姫の意見は結構当たっているのかもしれない。
伴天連は自分たちの風俗をそのまま日本人に植え付けようとした。その思惑通りに進めば、日本の風俗は消え、日本はすっかり南蛮の風俗に塗り替えられてしまうだろう。
実際、これまでに伴天連が到り、ポルトガルによって支配されることになった国は、すっかりポルトガルの風俗に変わってしまっている。
ところが、日本は独特の国である。豊後府内、臼杵や、肥前の各地では、ポルトガル風俗どころか、耶蘇の演劇、音楽さえ国風化していた。
日本人に宗教音楽が伝授されてから、わずか数年。アダムとイブの禁断の果実の話などを劇化したミステリヨという史劇作品が、九州各地で上演されるようになった。
台詞は日本語で、歌唱や舞踊があり、歌は謡のようなまるきり日本のもので、舞も幸若舞のようなものであった。故に、キリシタンでない者でも、娯楽として楽しめ、観劇に訪れ、他国からも数千数万の人々が押し掛けるといった有り様。
劇が終われば、観衆が皆でわいわい踊り出すといったほどの人気ぶりだった。無論、これは日本の舞踊である。
伴天連はヴィオラ・ダ・ブラッチョを使って、必死に日本人たちにグレゴリオ聖歌を教えていた。だが、雅楽ではなく能楽の時代である。
日本人の音域は極めて低く狭いというよりは音の高低がほとんどなく、しかも低音で、地声で唸るようにしか歌えない。はっきり言ってしまえば、音感というものを持っていなかったのである。
いくら習っても、日本人にはグレゴリオ聖歌は無理だったのかもしれない。
意図せず、聖歌が国風化した可能性もある。だが、何れにせよ、ミステリヨは日本の謡、日本の舞になっていた。
耶蘇は伝来直後から、すでに国風化の危機に瀕していたわけである。だが、伴天連は冬姫のようにあっけらかんとそれを受け止めることなどできない。
最近、ミステリヨ上演がぴたりとなくなってしまった。それは、今、岐阜城に来ている日本布教長・フランシスコ・カブラルが来日した頃からのことである。
ほとんどの伴天連は日本人の知性を高く評価し、「白人」という表現をしたが、カブラルは日本人は「黒人」で、世界一悪質な人々であるとした。
彼にとって、日本の風俗や政治は野蛮なものである。
彼はキリシタンとなった日本人さえ、けしからぬものと見ていた。
日本人支配層の信仰は南蛮貿易を優位に進めんがための打算的なもの。庶民の信仰は領主からの強制。そう捉えていた。実際、そうではあるのだが。
そこでカブラルは考えた。このように価値のない日本人には、南蛮文化をそのまま植え付ける以外に、日本人を善良に変えられる方法はない、と――。
国風化したミステリヨ、聖歌などあってはならない。ミステリヨ、聖歌はもちろん、文化風俗全てポルトガル様をそっくりそのまま押し付けた。
といって、日本側にそれを受け入れられる能力もないし、また日本人の矜持がそれを許さない。
カブラルは早々に匙を投げた。
きちんと聖歌が歌えないならば、南蛮文化をそのまま吸収できないならば、学ぶ必要はない。カブラルはそこまで頑なに思いつめていた。
それで、日本人には伊留満(修道士)にさえラテン語を学ばせず、逆にポルトガル人伴天連、伊留満たちにも日本語を学ばせなかった。彼らは同じ教会にいながら、意志疎通ができない状態だ。
日本人の伴天連、つまり司祭は未だ誕生していなかったが、今後も日本人が司祭になる必要はないし、なってはならないとした。
肉を食さず、箸という奇怪なものを使う日本の貧しく不味い食事を蔑み、手掴みで牛肉を食べた。
このカブラルの態度は当然、日本人との間に壁を作り、教会内にさえ対立を産んだ。そして、当然、布教にも差し障り、信徒数が増えない原因にもなった。
とはいえ、これは耶蘇の国風化を防ぐ役割は果たしているであろう。
そんなカブラルではあるが、フロイス、日本人伊留満のロレンソ了斎を伴って、岐阜城に信長を訪ねた時には、信長の比叡山焼き討ちを褒め称えた。
どうした理由で、比叡山の焼き討ちが正しいのか。そこのところはロレンソが朗々と語り、集まった織田家臣たちの心に何かを植え付けた。特に、焼き討ちに直接関わった者には、思うところあったであろう。
カブラルにも岐阜視察はそこそこの収穫だったのであろう。眼鏡をかけていたカブラルを、目が四つあると言って、見物に押し掛けた岐阜城下の人々には愉快に思い、心から笑ったのではある。
カブラルの思いも、岐阜城の様子もお鍋は知らない。
冬の庭など、雪がなければ風情もないが、そんな時でも枯山水は変わらぬ幽玄を見せてくれる。書院からの眺めをぼうっと眺めていると、不意に鶴姫が泣き出したので、それを機に、定秀はゆっくりしていくよう言うと、書院を出て行った。
もともと信長の側室たちも奥女中たちも、彼女を良く思っていなかった。
何しろ、以前、人質として幽閉されていた時、脱走したという経緯がある。そのことが尾を引いて、側室に上がってからも、皆の心の奥には蟠りがあったのだ。
しかも、信長の彼女への扱いは、贔屓としか思えない。いつも彼女を庇い、今回も不問にしてしまった。
「ですが、奥を治める御方は御台様。奥の秩序は御台様がお決めになって、しかるべきです。三七様について神戸家に入られた坂御前様はともかく、小倉殿は男子を産んだわけでもなく、人質上がりで城にもおりませぬ。奥での序列は私どもより下に置いて下さりませ」
「そうです、それをお決めになるのは御台様です」
信長の贔屓など配慮せずに、お鍋を側室の下位に据えろと、皆がうるさい。
濃姫が彼女たちの要求を完全に無視すれば、多数の女房衆の反感を買い、奥が乱れることにもなろう。濃姫は信長に言われた通り、明智光秀のことを引き合いに出して、今回はお鍋には問題なかったとした上で、こう忠告した。
「序列はあなた方を上としましょう。なれど、今回の何ら問題のない些細なことについて、難癖をつけて騒ぐのは、単なる嫉妬心からの讒言だとお屋形様は見なしておられますし、私もそのように思ってしまいます。以後、お控えなされ。また、そもそも、小倉殿が小田に住まわれしを、小倉殿の我儘だと捉える方もおられるようですが、それは甚だ見当違いなことと思し召せ。中野城に娘、佐和山城に姪、小田城に側室を配置したのは、お屋形様です」
信長の決定なのだと、濃姫は釘を挿し、自身の部屋に集まる側室上臈たちを厳かに見下ろした。
「南近江は未だに一揆が頻発し、六角の影響が残っている。なれど、都へ参る上で、最も重要な地でもある。お身内で固める必要があるのです。特にお屋形様の近江に於ける拠点は安土、観音寺山です。小田城に小倉殿を配することにより、佐和山と小田の中間点にある安土を守ることになる。佐和山、安土、小田が一つの道として繋がる。さらに、小田から日野川一つで中野城に、また佐久良城にもつながるのです。小田城に小倉殿を配することにより、これらの地域が一本の線で繋がったのです」
濃姫の言い様に、側室たちは固唾を飲んだ。
「また、小倉一族には大事な八風越の押さえという役割が担わされています。小倉一族が小倉城を固めることによって、鯰江城への付城としての役割を果たしていますが、小倉城、布施家の大森城とで安土や観音寺山と一つの線で繋ぐことができるのです。お屋形様は近々、安土と大森城との間の小脇箕作城に、姪君を入れる御心算のようです。六角左京様に嫁がせて――。布施家は蒲生家の娘を妻としており、冬姫とは義姉妹です。八風越もこうして、小倉殿のおかげで安土まで、織田一族で繋ぐことができるのです。小倉殿はこのように、近江支配に於ける、多大な影響力を持った方なのだと心得なされ」
側室たちも、それぞれ名家の出であり、それぞれの地に影響力を持っている。
古い側室たちには尾張への影響力があり。濃姫や彼女と親戚関係にある近年側室になった者たちには、美濃への影響が多大にある。
「これからは近江です。第三の勢力・近江。それが小倉殿。近江に配置することで、私などでも及ばない力を、近江に於いて発揮する方なのです。奥の序列は下位でもね」
これからの信長が関わりを深くするのは都だ。そのため、近江は最も重要な地となり、岐阜など彼にはさほど大事でなくなるかもしれない。お鍋は正室の濃姫を脅かすほどの力を持つ可能性だってあり得る。
お鍋に野心があれば、信長の贔屓もあること故――。かつて、先々代の将軍・足利義輝の側室は非常な力を有し、近々正室に取って代わるだろうという噂も立ち、実際、御台と呼ばせていたともいう。しかし、濃姫は思う。
(お屋形様のおわします居城こそが妻の家。お屋形様が岐阜城におられる限り、私の地位は揺るがない。お鍋様は城にさえいないのだから)
彼女にはまだ余裕がある。とはいえ、またしても意図せずお鍋を庇う形になってしまったことに、苦笑を禁じえない。
(奥を乱さぬためには、お鍋様を庇うべきではないと思っていたけれど。結局庇うのね、私……まあ、それが私)
側室たちが下がった後、一人部屋で忍び笑いを漏らした。お鍋を庇う義理もないが、結局庇ってしまう彼女。そんな己が、実は嫌いではない。
それもお鍋の姿が見えない分、お鍋への妬心を以前ほどには覚えなくなったが故か。
*****************************
その頃のお鍋は、岐阜城内での風当たりなど知りもせず、のんびりしたものだった。
小田城に来て、しばらく経つ。大分落ち着いてきたし、そろそろ引っ越しの挨拶をした方が良いだろうと思った。上流の日野へ。中野城にいる冬姫へ。
信長の娘である彼女の近隣に住むのに、挨拶に出向かないわけにはいかない。しかも、お鍋と共にいる鶴姫は冬姫の妹なのだ。姉のそばに住むからには、妹から姉のもとへ出向くのが筋であろう。
とはいえ、日野へ行くのはお鍋にとっては、実はできれば避けて通りたいことではある。
しかし、奮起して三崎殿など数名を従え、日野川を遡上して中野城に行くと、冬姫と、お鍋が避けたい理由の隠居の蒲生定秀が並んで待っていた。お鍋は二人の前に座って対面する。
忠三郎は岐阜に伴天連が来るというので、信長の命でそちらに出掛けており、不在である。賢秀は所用とのこと。
冬姫はすぐにお鍋の腕の中の鶴姫に反応して、笑みをこぼした。それが花が綻ぶように艶然としていて、お鍋は目を見張った。
愛らしいが、艶やかなのだ。いかにも姫君といった気品がありながら、この艶やかさ。
簡素を追求したこの書院に、その艶やかさは栄える。まるで、茶室の中の一輪の椿のように。何も岐阜城や小田城のように、金銀煌めく豪奢の中に置かなくとも、姫はちゃんと栄えるのだ。
驚くほどに成長した。まだ少女には違いないが、随分大人になっている。将来、どれほど美しくなるのだろう、この姫は。
挨拶を済ませると、冬姫は気安く近寄ってきた。
「可愛い!」
まさに無邪気に、可憐な声を上げて、鶴姫のぽわぽわの髪を撫でている。
「姉上様ですよ」
お鍋も笑顔で腕の中の我が子に話しかける。赤子は冬姫を見て、嬉しそうにけらけら笑った。とたんにきゅんとしたように、冬姫が嬌声を上げる。
お鍋と冬姫、しばし楽しげに鶴姫を囲んでいるのを、定秀は複雑な顔で見ていた。あるいは、背景の自慢の庭に、塵か草か何かを見つけたのだろうか。
ここはかつてお鍋がこの城に捕われた時、定秀らに直談判するなど、お鍋も定秀も、互いにあまりよい思い出のない部屋である。
定秀はその過去を思い出したのだろうか。
もう老人と言ってよい彼は時々こんな表情を覗かせる。それは一瞬のことで、すぐに消えるのだが、冬姫は鋭く感じとっていた。
織田家を取り巻く苦境。盛り返す六角家。近江じゅうで頻発する大規模な一向一揆。神戸家の幽閉。
きっと定秀は、織田家に降伏したことを後悔している。冬姫と孫との結婚、心の底では迷惑に思っているに違いない。
六角家に帰参したい気持ちさえ、ないことはないのだろう。しかし、家中には冬姫についてきた織田家の者たちが溢れていて、身動きがとれない。
そこにまた、信長の妻の一人となったお鍋が、信長の子を連れて近隣に来たのだ。さらに息苦しくなる。
おまけに、今のお鍋は信長の側室だから、定秀の主筋だ。かつて散々、搾取した小倉家の、自分の都合で信長に差し出した人質のお鍋が、今では主筋なのだ。
お鍋が信長の側室となってから初めての対面となる。定秀の中に様々な苦虫が蠢いているに違いない。
鶴姫を囲んで笑い合う、お鍋と冬姫を見て、溜め息を我慢したのだろう。
冬姫は気配でそれを察した。
冬姫はわざと言った。
「父が比叡山に焼き討ちしたことで、益々一向宗が息巻いているとか。金森の一揆を潰され、堅田衆の仲間割れを誘発されて、復讐心に燃えているようですね。また、この辺りは比叡山にも近く、天台宗の大きな寺院も多く、父への反感が高まっております。家中に困惑も広がっており、私一人では心細かったので、小倉の御方様と鶴姫が来て下さって、本当によかったです」
「比叡山……」
お鍋の顔からすっと笑みが引く。
定秀もこの件については、きっと怒っているに違いない。
この近辺にも、比叡山の荘園が散在している。かつて、山上の小倉右近大夫と実隆が戦になったのも、山上内にある比叡山の荘園の横領が原因の一つだった。また、保内商人も得珍保とて、もとは比叡山にゆかりがある。
信長の焼き討ちは狂気の沙汰として、人々の怒りと恐れ、狼狽を招いている。それは、この辺りでも例外ではない。
信長への動揺。きっとこの定秀も同じに違いない。
だが、織田家にあっては、それに異を唱えることなど許されない。信長の逆鱗に触れる。
比叡山については、誰も口にしない。それを、娘だから、冬姫ならば構わず口にできるのだろう。
「今は近江が一番大変な時です。恐らく有史以来、今が最も乱れていることでしょう。私一人では、とても纏めきれませんでした」
「……鯰江城はより活発化するでしょう。小倉城の息子に最善を尽くさせます」
お鍋はそう答えた。冬姫は頷く。
定秀ももういつもの顔に戻っている。
冬姫はまた妙なことを言い出した。
「父のしたこと。今の世の中を敵に回しましたが、これが未来を見て為すということだったのかと、私はようやく理解致しました」
「未来を見て為す?」
問うたのは定秀である。だが、お鍋も聞いたことのあるような話だと、やや首を傾げさせた。
「はい。かつて父が私に、未来を見て為すようにと言いました。掟、法度は現状に沿うて布告してはならないと。私が理解できないでいると、今の人間が、どうして皆、不満だらけなのか考えろと言いました。それ以来、ずっとわからずにいましたが、最近、そういうことだったのかと」
信長は冬姫が幼い頃、よく色々なことを話した。
鉄砲、火薬の話や不戦について、偶像や宗教の話など様々に。その中の一つに、その未来を見て為せというものもあった。
定秀はなお顔じゅう疑問だらけにしていたが、お鍋はそうだと、思い起こした。
(私が近江に住み、お屋形様のお役に立ちたいと言った時、未来が見えないならば、ならぬと仰せだったわ。無理矢理過去のことを持ち出して、平資盛卿のお話をしたら、小田に住むことをお許し下さったのだった。それで、うやむやになってしまったけれど、私、実はまだその未来を見て成せというお屋形様の仰せ、理解していなかったわ!)
「――乱世ですからねえ、満足だ幸せだと思っている人など、滅多にいないでしょうね。やらなければ、やられる。そういう世の中ですもの」
そうお鍋は相槌しながら、ちらと定秀を見た。この老人率いる蒲生家に、隣の小倉家は煮え湯を飲まされた。お鍋の養父の実光は留守中に所領を奪われ、小倉の名跡さえ今ではすっかり蒲生家のものだ。
小倉家など、今では甚五郎と良親、一部の傍流の支流が僅かな所領を守っているに過ぎない。一族のその大部分の所領は、蒲生家のものとなってしまった。
やらなければ、やられる。小倉家と蒲生家の関係が、まさに今の時代を象徴している。
冬姫はお鍋の視線から何か悟ったらしい。ゆっくり首を振った。
「不満はいつの世にもあると、父は言いました。昔から、いつの時代の人間も、不満だらけで、決して満足していなかったと」
乱世だから、今だけが不満なのではない。
応仁の乱以前ならば、皆が満足していたのかと言えば、そうではない。朝廷が二つあって混乱していた。
では、鎌倉時代ならば満足だったのかといえば、幕府への不満が爆発して、倒幕となり、建武の親政がなった。
だが、武士たちの、公家への不満から、室町幕府ができた。
結局、いつの世も人間は不平不満の中、生きていたのだ。今だけが特別なのではない。
冬姫は一人合点に頷いて言った。
「世は流動的です。常に動いている。だから、掟法度は時の流れに置いていかれるのです。現状にそぐわないから、世の中に不満が溜まる。それではまずい、改めようとて、倒幕やら乱やらが起き、その都度新しい時代に変わってきました」
お鍋も定秀も頷いた。
でも、と冬姫は続ける。
「せっかく時代が変わっても、掟法度はその時その時の現状に沿うたものを発布してきました。それでは、現在には合っていても、やがて古くなる、未来に於いては不満にしかならない。過去のいつでも、政を行う者は、現状の事態解決にしか努めませんでした。目先のことしか見ず、付け焼き刃の対策だけをしてきたから、数十年経つと、時代について行けなくなって、それが不満となる。そうして、その事態解決のために、兵を動かして時代を変える。それでは、数十年、数百年おきに乱世となり、父の目指す不戦はなし得なくなります。父の、未来を見て為すようにとは、そういうことなのかと思います。現状ではなく、未来のあるべき姿を思い描き、未来の人間が納得する掟法度を発布しなければならないのだと」
定秀はかなり驚いて冬姫を見ていた。冬姫は屈託なく笑って言う。
「お婿様にそうさせなさいねと、幼い頃に父から言われました。忠三郎様にお目にかかるかなり前のことです。父は戦をなくすために、今、鉄砲という物を使って戦っているのだと、私に言いました」
「ほ、それはまた――」
定秀はにやりと笑ったが、返答に困っている。
お鍋はそんな定秀の様子を見て、まだ幼い冬姫の日々の奮闘を思った。
(織田家のために、この老害と戦っているのね。この人を織田家につなぎ止め、その上、野心野望を阻止するのは、容易なことではないわ)
冬姫は、定秀の自尊心と欲得心とを上手く擽る術を、身に付けている。内心、舌を巻き、定秀へはほくそ笑みながら、お鍋は話の続きを口にした。
「でも、それと此度の、その、山門のことと、どう関係が――?」
冬姫は鶴姫を見やった。
「鶴姫にも父上のお言葉を伝えましたからね」
鶴姫はきゃっと笑っている。
「父はかねてより南蛮文化に親しみ、これからは鉄砲の時代だと言って、鉄砲への興味は凄まじいものでした。さらに近頃は、伴天連を保護しています。きっと、未来の日本は、否応なくポルトガルと大きく関わることになるのでしょう。国じゅうどこへ行っても、南蛮人を見かけるような世の中になるのでは。そうなれば、耶蘇の教えもかなり浸透しているはず」
未来を想像しているのか、冬姫は遠い目をしている。
「父が伴天連を保護して、比叡山を焼き討ちしたのは、日本の未来の姿を想像して、いつまでも仏教にばかり権力を与えておくわけにはいかないと思ったからでは。本願寺、一向一揆に対する対策も、きっと未来の日本の姿を見越してのことなのだと思います。現状だけ見ていたら、娘の私から見ても、父のしていることは無茶苦茶、悪行非道ですもの」
最後の方は、ちょっと悪戯っぽい表情になって笑った。
「未来……」
唖然と定秀は冬姫を見ていた。未来の姿などと、この老人には思いもよらないものだろう。将来の構想など、定秀にあるわけもなく。また、展望を持ち、それを口にする者も周囲に一人もいなかった。
(お屋形様。そういえば、比叡山焼き討ち後に私のもとへ寄られた時、変なことを仰有っていたわ……)
お鍋は、信長が寝物語に言った言葉を思い出していた。
信長の比叡山焼き討ちに対して、皆が仏罰が下ると彼を嫌悪するだろう。だが、信長はそれを嘲笑していたのだ。
「伴天連は日本人全てをキリシタンに改宗する予定でいるそうですわ」
冬姫は知っているのか、お鍋の言葉に黙って頷いた。
将来の展望といえば、伴天連側にはあるのである。
「でも、仏教が伝来した時の人々とは、彼らは違うようです。伴天連は日本の神道、仏法を滅ぼし、日本の国土に彼らの宗教のみを置くつもりなのだとか。彼らの寺(教会)では、彼らの国の風俗をそのまま日本人に移しているそうです。彼らによって、将来、日本の風俗をも滅ぼされてしまうのではないでしょうか?そうなることを見越して、お屋形様は――?」
「なにっ?」
仰け反ったのは定秀である。
(未来、未来……お屋形様の見ている日本の未来は日本が日本でなくなることなの?)
言った本人もまた言葉にしたことで、恐怖を実感し、青ざめている。
「日本はポルトガルになってしまうのでしょうか?」
お鍋の恐れに、冬姫は微笑んで、首を傾げていた。
「君主、三公、将軍がポルトガル王とその貴人に取って代わられなければ、日本は日本のままでは?ポルトガルの文明、風俗を取り入れ、和魂葡才の国風文化が生まれて。いつしかポルトガルの元の物より優れた社会になるかも」
鉄砲開発と所持数がその一例ではあるまいか。
だから、すでにその兆しは見えている。
「そ、そうでしょうか?」
「父がポルトガル王に日本を委ねるわけがありませんもの。父が国政を担っている限り、問題ないと思います。それに――」
蒼白なお鍋と対照的に、冬姫は平然としたものだ。
「仏教はそもそも渡来物なのに、日本という国は面白いもので、いつしか天照大神と大日如来は同じものとなりました。デウスもそのうち大日如来か阿弥陀如来に、サンタ・マリア(聖母マリア)は観音菩薩にでもなるのではないでしょうか?日本って、そういう国でしょう?」
これには定秀もあんぐりと姫を見やってしまった。
確かに、フランシスコ・ザビエルによって、耶蘇が伝わった当初、唯一神を訳すに適した日本語が見つからず、日本人伊留満が、大日如来と訳して布教していたという事実がある。
新しい仏教の一派が来たのだと、その当時の日本人たちはすんなり受け入れたという。
後でそれを知って、慌てて、イエズス会では以降、無理に日本語に訳さず、デウスとそのまま呼ぶことにし、日本人も今ではデウスと言うようになっていたのだ。
このまま伴天連たちによる布教が進み、日本の宗教として定着すれば、新たな本地垂迹説、またその逆を生み出すかもしれない。
いや、イエス・キリストの降誕からすでに1500年以上が経過し、旧約聖書の時代からは、さらに恐ろしい程の年月が経っている。その間、一度も日本にこの教えが伝わらなかったとは言いきれない。何しろ、唐の都・長安には大秦寺とて、いわゆるネストゥリウス派(景教)の教会があったのである。
ひょっとしたら、すでに日本にも伝わっているかもしれない。それどころか、冬姫が言ったようなことが既に起きているかもしれない。
日本人が日本の神々と信じて参詣している稲荷や八幡などの神々が、もとはネストゥリウス派か、あるいは古代イスラエル民族の神と同化しているかもしれないではないか。
お鍋は冬姫から話を聞いて、ますます未来の意味、信長の頭の中にある未来の日本の姿がわからなくなった。
(とにかく、父娘そろって普通でないことは確かね)
そして、自身の腕の中の我が子を見て、この子も――と思う。屈託なくご機嫌で笑っている鶴姫は、冬姫みたいになってしまうのだろうか。
冬姫の意見は結構当たっているのかもしれない。
伴天連は自分たちの風俗をそのまま日本人に植え付けようとした。その思惑通りに進めば、日本の風俗は消え、日本はすっかり南蛮の風俗に塗り替えられてしまうだろう。
実際、これまでに伴天連が到り、ポルトガルによって支配されることになった国は、すっかりポルトガルの風俗に変わってしまっている。
ところが、日本は独特の国である。豊後府内、臼杵や、肥前の各地では、ポルトガル風俗どころか、耶蘇の演劇、音楽さえ国風化していた。
日本人に宗教音楽が伝授されてから、わずか数年。アダムとイブの禁断の果実の話などを劇化したミステリヨという史劇作品が、九州各地で上演されるようになった。
台詞は日本語で、歌唱や舞踊があり、歌は謡のようなまるきり日本のもので、舞も幸若舞のようなものであった。故に、キリシタンでない者でも、娯楽として楽しめ、観劇に訪れ、他国からも数千数万の人々が押し掛けるといった有り様。
劇が終われば、観衆が皆でわいわい踊り出すといったほどの人気ぶりだった。無論、これは日本の舞踊である。
伴天連はヴィオラ・ダ・ブラッチョを使って、必死に日本人たちにグレゴリオ聖歌を教えていた。だが、雅楽ではなく能楽の時代である。
日本人の音域は極めて低く狭いというよりは音の高低がほとんどなく、しかも低音で、地声で唸るようにしか歌えない。はっきり言ってしまえば、音感というものを持っていなかったのである。
いくら習っても、日本人にはグレゴリオ聖歌は無理だったのかもしれない。
意図せず、聖歌が国風化した可能性もある。だが、何れにせよ、ミステリヨは日本の謡、日本の舞になっていた。
耶蘇は伝来直後から、すでに国風化の危機に瀕していたわけである。だが、伴天連は冬姫のようにあっけらかんとそれを受け止めることなどできない。
最近、ミステリヨ上演がぴたりとなくなってしまった。それは、今、岐阜城に来ている日本布教長・フランシスコ・カブラルが来日した頃からのことである。
ほとんどの伴天連は日本人の知性を高く評価し、「白人」という表現をしたが、カブラルは日本人は「黒人」で、世界一悪質な人々であるとした。
彼にとって、日本の風俗や政治は野蛮なものである。
彼はキリシタンとなった日本人さえ、けしからぬものと見ていた。
日本人支配層の信仰は南蛮貿易を優位に進めんがための打算的なもの。庶民の信仰は領主からの強制。そう捉えていた。実際、そうではあるのだが。
そこでカブラルは考えた。このように価値のない日本人には、南蛮文化をそのまま植え付ける以外に、日本人を善良に変えられる方法はない、と――。
国風化したミステリヨ、聖歌などあってはならない。ミステリヨ、聖歌はもちろん、文化風俗全てポルトガル様をそっくりそのまま押し付けた。
といって、日本側にそれを受け入れられる能力もないし、また日本人の矜持がそれを許さない。
カブラルは早々に匙を投げた。
きちんと聖歌が歌えないならば、南蛮文化をそのまま吸収できないならば、学ぶ必要はない。カブラルはそこまで頑なに思いつめていた。
それで、日本人には伊留満(修道士)にさえラテン語を学ばせず、逆にポルトガル人伴天連、伊留満たちにも日本語を学ばせなかった。彼らは同じ教会にいながら、意志疎通ができない状態だ。
日本人の伴天連、つまり司祭は未だ誕生していなかったが、今後も日本人が司祭になる必要はないし、なってはならないとした。
肉を食さず、箸という奇怪なものを使う日本の貧しく不味い食事を蔑み、手掴みで牛肉を食べた。
このカブラルの態度は当然、日本人との間に壁を作り、教会内にさえ対立を産んだ。そして、当然、布教にも差し障り、信徒数が増えない原因にもなった。
とはいえ、これは耶蘇の国風化を防ぐ役割は果たしているであろう。
そんなカブラルではあるが、フロイス、日本人伊留満のロレンソ了斎を伴って、岐阜城に信長を訪ねた時には、信長の比叡山焼き討ちを褒め称えた。
どうした理由で、比叡山の焼き討ちが正しいのか。そこのところはロレンソが朗々と語り、集まった織田家臣たちの心に何かを植え付けた。特に、焼き討ちに直接関わった者には、思うところあったであろう。
カブラルにも岐阜視察はそこそこの収穫だったのであろう。眼鏡をかけていたカブラルを、目が四つあると言って、見物に押し掛けた岐阜城下の人々には愉快に思い、心から笑ったのではある。
カブラルの思いも、岐阜城の様子もお鍋は知らない。
冬の庭など、雪がなければ風情もないが、そんな時でも枯山水は変わらぬ幽玄を見せてくれる。書院からの眺めをぼうっと眺めていると、不意に鶴姫が泣き出したので、それを機に、定秀はゆっくりしていくよう言うと、書院を出て行った。
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