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安土
九・右大将家(弐)
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設楽ヶ原での大勝利の後、信長は一度上洛した。
七月三日、帝は信長に官位を授けんとした。だが、信長は辞退し、代わりに家臣達に与え下さるよう奏上。受け入れられた。
それにより、松井友閑は宮内卿法印、武井夕庵は二位法印、明智光秀は惟任日向守、塙直政は原田備中守、丹羽長秀に惟住姓などが与えられたのであった。
その後、信長は休む間もなく越前の一向一揆掃討に向かった。これも惨殺、皆殺しであった。
掃討が済むと、北ノ庄を越前における織田家の本拠地とし、そこに柴田勝家を配した。前田利家、佐々成政、不破光治が目付である。
それにより、柴田勝家は近江から越前へ移ることになった。
これまで、南近江の東の地域は長光寺城主の勝家の下に置かれており、その辺一帯の領主たちは勝家の与力であった。
だが、信長は勝家に代わり、新たな寄親を設けることはなかった。そのため、東近江の面々は独立した領主となったのである。
蒲生家もそうで、信長の直臣となった。同じく、小倉家もである。
といっても、小倉家は相変わらず不遇。本家は蒲生家に取り込まれたままで、山上領も蒲生家の領地である。
甚五郎が唯一の独立した小倉家の当主なのであった。
そして。南近江の力関係に変化が生じた頃、織田家にも、非常に大きな変化が訪れていた。
十一月四日、信長は権大納言に任じられ、さらに七日には右近衛大将をも兼ねることになった。
公家でも右大将家というのはあるが、武家では武門の棟梁にのみ許されるものだ。将軍であった足利義昭でさえ、中将であった。
宮中では、将軍就任の儀と同様の儀式が挙行された。これは信長が武家の頂点に立ったことを意味する。朝廷よりのお墨付きを賜ったのである。
信長は朝廷も認める天下人となったのだ。
そして、同時に信忠は秋田城介、北畠具豊(三介、茶筅丸)は左近衛中将に任じられた。
「上様……」
同じ時刻。近江の小田城で、お鍋は遥か向こうの都の信長を、そう呼んでいた。
酌と鶴姫を両腕に抱えて、感慨しきり。感涙に頬を洗い清めていたのである。
相変わらず、人手少ない佇まいだが、お鍋の心は誇らしく、高雅だ。
「よいですか、お二人とも。お二人の父上様は武士の頂点に立たれたのです。天下人なのです。以前あった幕府の将軍様よりも、お偉い方なんですよ。将軍は日本国王でしたが、中将に過ぎませんでした。ですが、お二人の父上様は大将様なのです。お二人は日本の主のお子なのです」
子供にもわかるように、お鍋は酌と鶴姫に対して、そんな言い方をしたが……。
お鍋が少女だった頃、成菩提院で出会った信長は、戦乱の世を終わらせるために戦っているのだと言っていた。
己の欲のためではないのだと。隣の蒲生に悩まされてきたお鍋には、意味不明なことだった。
それでいて、信長はお鍋の倒幕という考えに、斬新だと驚いていた。
それがまさか、倒幕どころか武士の頂点に立ってしまうとは、倒幕を口にした当人でさえ驚きだ。
とはいえ、足利義昭を追い出した時から、近々この日が来るだろうことはわかってはいたが。
実際になってみると、日本の中心、頂上にいて燦然と輝いている信長とは、天と地ほどの隔たりがあるように感じてしまう。この謎の寂しさに似た感覚は何なのか。
誇らしさと、自分は天下人の家族だという自負と。それと同時にかすかに湧き出すこの感情。
(実際に天下人になられて……どうしたものかと思われるのは、このお子たちよね。私の子だから、私がしっかり教育しなければいけないわけだけれど。天下人のお子よ。天下人のお子って、どう教育すれば良いのかしら?)
将軍家の若君、姫君のように育てなければならないわけだ。かつての平家の公達、源氏の棟梁の御子たち、足利将軍家の御子たちのように。
(……私がこんな所で育ててよいものなのかしら……)
特に酌は岐阜城で生まれなかったから、濃姫に会ったことがなく、未だに家臣たちへの披露もなされていない。
お鍋の勝手で岐阜城を出てきたが、母の勝手が子に不都合を及ぼすようなことがあってはならない。まして、地方の守護大名ふぜいの子ではないのだ。
お鍋は、豪華だが、人手の少ない小田城を見回した。これではいかにも囲われ者だ。
「父上は帰りにお寄りになる?」
鶴姫がうきうきと目を輝かせている。純粋に父を求める目だ。
天下人の何たるかは、まだこの幼い姫にはわかっていない。ただ、めでたいことが父の身に起こっているとは理解しているのだろう。
「お祝いしたげるの」
家族だけのささやかな宴を、この小田城で開けることを疑わない姫の無垢な瞳。
「乳母に習ったお雑煮を、父上に作ってあげる」
雑煮とは、塩味の吸い物だ。潮汁といったところか。鮑に海鼠を丸ごと鍋に入れて煮るだけだから、乳母の手を借りれば、幼い鶴姫でもできる。
「そうねえ……父上はお忙しいから……」
今後はこんな気軽なこともできなくなるのではないか。
「姫はもっと父上にお会いしたい?」
「はい!」
「そうよね……」
今でも滅多に会えないのに。今後は。
(お二人の幸せのために――)
酌と鶴姫を手離さなければならないのかもしれないと、そう思い始めるお鍋であった。
都から岐阜へと戻る信長は、琵琶湖を船で渡り、朝妻に着くと、そのまま北近江を抜けて、国境を越えた。小田城に立ち寄ることはなかった。
岐阜城に着くと、右大将就任と天下人となったことを祝う宴が用意されていた。
宴の後、信長は久しぶりに濃姫と二人きりの時間を設けた。
「家臣どもを集めて、改めて祝宴を開く。盛大にな。支度を」
「かしこまりました」
濃姫は朗らかである。
「家督を信忠に譲る。その披露だ」
「まさか、もうご隠居とは」
すでに二人の間で決まっていたことだ。濃姫はからかうように笑った。
「さすが、もうじき祖父になるだけあって――」
「俺は天下のことにかかりきりになる。織田家から解放されねば務まらぬ故、織田家は信忠に譲るだけだ」
「ほほほほ。まあ、もうじき祖父にはなられますが、同時に新たに生まれてくる子の父ともなられますしね」
濃姫はやがて側室が産む子のことを揶揄した。
(天下の儀と、織田家の家督は分けるということね)
「尾張、美濃は信忠にやる」
「近江は?」
「俺が治める」
「織田家を二つに分割するのですか?」
「いずれ三つ四つに分ける。伊勢は三介(茶筅丸・北畠具豊)に分与するつもりだ。だが、織田家の家督と天下は分けるとはいえ、天下人にも直轄地は必要だ。近江は天領として、俺が治める」
「では、近江を受け継ぐ者が、上様の後の天下人ですか?」
濃姫ははじめて信長を上様と呼んだ。その胸に近江に住む者たちの顔が次々に浮かぶ。
「もしや。やはり、忠三郎殿?」
「それだ。それがだんだん怪しくなってきたな。奴は才能はあるが、奴で本当によいのか心許ない。奴は天下布武の意味を無視する。ひょっとしたら、理解していないのかもしれない、『武』を――」
信長は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「武?戈を止めるということ、七徳ですか?」
「左様。武士とは武を扱う者のこと。武とは戈を止めると書く。武士は干戈を止めさせ、戦を終わらせる者のことよ。軍兵を動かして謀叛する者、他者の領地に侵攻して己の版図を拡張させる者、我欲のために下剋上する者は、武士とは言わぬ。それを止めるために戦う者を武士という。そなたも昔からそのように承知していただろう?乱を平定し、天下の静謐成れば、兵を用いないのが武士というものよ」
濃姫は微笑み、頷いた。
「天意なき悪しき者から国を守るため、乱を平定するためだけに兵を動かすのが、武でございますね」
そして、乱の平定後は抑止力とするだけで、用いないことなのだ。それが武であると、濃姫も昔から理解していた。
信長は眉間に深い皺を刻ませた。
「軍と武とは別物よ。だが、近頃、いっしょくたに考える者ばかり。俺の天下布武の意味なぞ、ほとんど理解されない。主上には何度も申し上げたが、足利義昭なんぞはとうとう最後まで理解しなかったからな。あれぞ我欲のために兵を動かす、天意なき暴君の極みだわ」
我欲のためだけに、各地の武将の軍を我が物として次々に不要の戦を起こさせ、積極的に日本国じゅうを乱世にしたのだから、義昭は軟弱な男とはいえ、暴君ではあろう。
信長は思い出したのか、極めて不快げだ。それを吹っ切るように、ぶるると首を振ってから、深いため息をついた。
「ところで、近頃、戦で功名を上げることを誉れとし、それで禄を得、立身しようとする輩が多くなった。戦で功名を上げることこそが武士の本懐だと、戦が起こるのを待ちわび、戦に喜び、戦場を探して渡り歩く輩さえ数多存在する。謀叛を起こす者は武士ではないが、戦を生業として功名に逸る者も武士とは言わぬ」
「戦が生業とは、よく考えたら、嘆かわしいことですね。本来、人間は楽して遊び暮らしたいもの」
「まったくだ。戦に嬉々とする者ばかりだなどと、世の中狂っている。それでだ、忠三郎めがその中の一人で、絶えず功名に逸っているのよ。常に一番槍の誉れとて、先駆けばかりしよる。奴がこわっぱの時に、武の意味を教えたにも関わらず、無視しようとする。織田家だけでなく、天下も信忠に譲るのが良い気がする」
やはり、身内でなければ駄目なのだ。信長はそう思い始めているのかもしれない。
広く世の中を見回して、これぞという人物には未だ出会わない。天下はこの者にこそと、早くそういう人物を見つけたいが。いないならば、信忠で構わないだろう。
「そなたのおかげで信忠は立派に育った」
「畏れ入ります」
濃姫は神妙に頭を下げた。
うむと信長は頷いてから、濃姫が頭を上げると、凛々しい表情になる。
「これまで、美濃はそなたの婿として、俺が治めさせてもらった。今後はそなたの子として、信忠に治めさせたい。良いな?」
ふと濃姫の眉が歪んだように見えた。
今更それを言うのかと、気に障ったか、或いは悲しく思われたのかもしれない。
しかし、信長の瞳からは気遣いの色が見て取れる。濃姫は逆らわず、ただ一言そっと言った。
「信忠は五徳と同い年です。永禄二年の二月、当時の将軍・足利義輝殿と会うため、上様がご上洛遊ばした時です。御供した私が途中、俄かに産気づいて近江で産んだ子、それが信忠です、そうでしょう?成菩提院で男子を産み落とし、旅先のこととて、それはそれは難儀致しました」
「――だな!」
不意に信長は甲高く言って、吹き出した。
信忠が永禄二年の生まれだと信じている者など、今となっては居はしないが、濃姫はずっと我が子として育ててきた。信忠はずっと濃姫の子である。これまでも。これからも、変わらない。
「では、そなたの子に美濃をまかせる」
濃姫は当然と、こくりと首をゆるやかに縦に動かした。
「はい。微力ながら、私も力を貸したいと思います。私は今後もこの岐阜にいて、信忠を支えて参ります」
はっとした信長であったが、濃姫は強い意志で、すでにそれを決めている顔であった。
十一月二十八日、信長は嫡男・信忠に織田家の家督と、領国である美濃と尾張を譲った。
儀式と共に祝宴も盛大に催され、一門衆や家臣たちばかりでなく、公家衆も都から祝いに駆けつけた。遠国の大名たちからも、祝いの使者が次々にやって来た。
その席上、信長は重大事項を発表した。
「都の方々が下向して来られるのにも、この岐阜は遠くて難儀でござろう。ここからでは主上をお守りすることとてかなわぬ。されば、都の近くに幕舎を設けて、絶えず京の守護に備えたく存ずる。洛中に常にあるは不遜なれば、洛外に常備するが宜しかろう」
大将家が洛内にあると、不足の事態の時、洛内が戦場となってしまう。かつての応仁の乱のように、都を戦場としてはならない。
賊は洛内に入れてはならない。その外で食い止めなければ。
だから、大将家は洛内ではなく、いつでも都を守護できる都の外にいて、朝家の守護をする。
「ついては、織田家は引き続き、美濃、尾張の大名ではあるが、右大将家は近江に新たに城を築き、そこに常在することと致す。城は観音寺城のあった場所の脇、安土に築くであろう」
大将の本拠地として、安土ほど相応しい場所はない。都から近く、さりとて近過ぎず、何かあれば、賊を洛外で討ち果たすことができる。その本陣としても最適な場所だ。
「ついては、すぐにも城の普請にとりかかることに致す」
信長は安土城建築を公言したのだった。
七月三日、帝は信長に官位を授けんとした。だが、信長は辞退し、代わりに家臣達に与え下さるよう奏上。受け入れられた。
それにより、松井友閑は宮内卿法印、武井夕庵は二位法印、明智光秀は惟任日向守、塙直政は原田備中守、丹羽長秀に惟住姓などが与えられたのであった。
その後、信長は休む間もなく越前の一向一揆掃討に向かった。これも惨殺、皆殺しであった。
掃討が済むと、北ノ庄を越前における織田家の本拠地とし、そこに柴田勝家を配した。前田利家、佐々成政、不破光治が目付である。
それにより、柴田勝家は近江から越前へ移ることになった。
これまで、南近江の東の地域は長光寺城主の勝家の下に置かれており、その辺一帯の領主たちは勝家の与力であった。
だが、信長は勝家に代わり、新たな寄親を設けることはなかった。そのため、東近江の面々は独立した領主となったのである。
蒲生家もそうで、信長の直臣となった。同じく、小倉家もである。
といっても、小倉家は相変わらず不遇。本家は蒲生家に取り込まれたままで、山上領も蒲生家の領地である。
甚五郎が唯一の独立した小倉家の当主なのであった。
そして。南近江の力関係に変化が生じた頃、織田家にも、非常に大きな変化が訪れていた。
十一月四日、信長は権大納言に任じられ、さらに七日には右近衛大将をも兼ねることになった。
公家でも右大将家というのはあるが、武家では武門の棟梁にのみ許されるものだ。将軍であった足利義昭でさえ、中将であった。
宮中では、将軍就任の儀と同様の儀式が挙行された。これは信長が武家の頂点に立ったことを意味する。朝廷よりのお墨付きを賜ったのである。
信長は朝廷も認める天下人となったのだ。
そして、同時に信忠は秋田城介、北畠具豊(三介、茶筅丸)は左近衛中将に任じられた。
「上様……」
同じ時刻。近江の小田城で、お鍋は遥か向こうの都の信長を、そう呼んでいた。
酌と鶴姫を両腕に抱えて、感慨しきり。感涙に頬を洗い清めていたのである。
相変わらず、人手少ない佇まいだが、お鍋の心は誇らしく、高雅だ。
「よいですか、お二人とも。お二人の父上様は武士の頂点に立たれたのです。天下人なのです。以前あった幕府の将軍様よりも、お偉い方なんですよ。将軍は日本国王でしたが、中将に過ぎませんでした。ですが、お二人の父上様は大将様なのです。お二人は日本の主のお子なのです」
子供にもわかるように、お鍋は酌と鶴姫に対して、そんな言い方をしたが……。
お鍋が少女だった頃、成菩提院で出会った信長は、戦乱の世を終わらせるために戦っているのだと言っていた。
己の欲のためではないのだと。隣の蒲生に悩まされてきたお鍋には、意味不明なことだった。
それでいて、信長はお鍋の倒幕という考えに、斬新だと驚いていた。
それがまさか、倒幕どころか武士の頂点に立ってしまうとは、倒幕を口にした当人でさえ驚きだ。
とはいえ、足利義昭を追い出した時から、近々この日が来るだろうことはわかってはいたが。
実際になってみると、日本の中心、頂上にいて燦然と輝いている信長とは、天と地ほどの隔たりがあるように感じてしまう。この謎の寂しさに似た感覚は何なのか。
誇らしさと、自分は天下人の家族だという自負と。それと同時にかすかに湧き出すこの感情。
(実際に天下人になられて……どうしたものかと思われるのは、このお子たちよね。私の子だから、私がしっかり教育しなければいけないわけだけれど。天下人のお子よ。天下人のお子って、どう教育すれば良いのかしら?)
将軍家の若君、姫君のように育てなければならないわけだ。かつての平家の公達、源氏の棟梁の御子たち、足利将軍家の御子たちのように。
(……私がこんな所で育ててよいものなのかしら……)
特に酌は岐阜城で生まれなかったから、濃姫に会ったことがなく、未だに家臣たちへの披露もなされていない。
お鍋の勝手で岐阜城を出てきたが、母の勝手が子に不都合を及ぼすようなことがあってはならない。まして、地方の守護大名ふぜいの子ではないのだ。
お鍋は、豪華だが、人手の少ない小田城を見回した。これではいかにも囲われ者だ。
「父上は帰りにお寄りになる?」
鶴姫がうきうきと目を輝かせている。純粋に父を求める目だ。
天下人の何たるかは、まだこの幼い姫にはわかっていない。ただ、めでたいことが父の身に起こっているとは理解しているのだろう。
「お祝いしたげるの」
家族だけのささやかな宴を、この小田城で開けることを疑わない姫の無垢な瞳。
「乳母に習ったお雑煮を、父上に作ってあげる」
雑煮とは、塩味の吸い物だ。潮汁といったところか。鮑に海鼠を丸ごと鍋に入れて煮るだけだから、乳母の手を借りれば、幼い鶴姫でもできる。
「そうねえ……父上はお忙しいから……」
今後はこんな気軽なこともできなくなるのではないか。
「姫はもっと父上にお会いしたい?」
「はい!」
「そうよね……」
今でも滅多に会えないのに。今後は。
(お二人の幸せのために――)
酌と鶴姫を手離さなければならないのかもしれないと、そう思い始めるお鍋であった。
都から岐阜へと戻る信長は、琵琶湖を船で渡り、朝妻に着くと、そのまま北近江を抜けて、国境を越えた。小田城に立ち寄ることはなかった。
岐阜城に着くと、右大将就任と天下人となったことを祝う宴が用意されていた。
宴の後、信長は久しぶりに濃姫と二人きりの時間を設けた。
「家臣どもを集めて、改めて祝宴を開く。盛大にな。支度を」
「かしこまりました」
濃姫は朗らかである。
「家督を信忠に譲る。その披露だ」
「まさか、もうご隠居とは」
すでに二人の間で決まっていたことだ。濃姫はからかうように笑った。
「さすが、もうじき祖父になるだけあって――」
「俺は天下のことにかかりきりになる。織田家から解放されねば務まらぬ故、織田家は信忠に譲るだけだ」
「ほほほほ。まあ、もうじき祖父にはなられますが、同時に新たに生まれてくる子の父ともなられますしね」
濃姫はやがて側室が産む子のことを揶揄した。
(天下の儀と、織田家の家督は分けるということね)
「尾張、美濃は信忠にやる」
「近江は?」
「俺が治める」
「織田家を二つに分割するのですか?」
「いずれ三つ四つに分ける。伊勢は三介(茶筅丸・北畠具豊)に分与するつもりだ。だが、織田家の家督と天下は分けるとはいえ、天下人にも直轄地は必要だ。近江は天領として、俺が治める」
「では、近江を受け継ぐ者が、上様の後の天下人ですか?」
濃姫ははじめて信長を上様と呼んだ。その胸に近江に住む者たちの顔が次々に浮かぶ。
「もしや。やはり、忠三郎殿?」
「それだ。それがだんだん怪しくなってきたな。奴は才能はあるが、奴で本当によいのか心許ない。奴は天下布武の意味を無視する。ひょっとしたら、理解していないのかもしれない、『武』を――」
信長は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「武?戈を止めるということ、七徳ですか?」
「左様。武士とは武を扱う者のこと。武とは戈を止めると書く。武士は干戈を止めさせ、戦を終わらせる者のことよ。軍兵を動かして謀叛する者、他者の領地に侵攻して己の版図を拡張させる者、我欲のために下剋上する者は、武士とは言わぬ。それを止めるために戦う者を武士という。そなたも昔からそのように承知していただろう?乱を平定し、天下の静謐成れば、兵を用いないのが武士というものよ」
濃姫は微笑み、頷いた。
「天意なき悪しき者から国を守るため、乱を平定するためだけに兵を動かすのが、武でございますね」
そして、乱の平定後は抑止力とするだけで、用いないことなのだ。それが武であると、濃姫も昔から理解していた。
信長は眉間に深い皺を刻ませた。
「軍と武とは別物よ。だが、近頃、いっしょくたに考える者ばかり。俺の天下布武の意味なぞ、ほとんど理解されない。主上には何度も申し上げたが、足利義昭なんぞはとうとう最後まで理解しなかったからな。あれぞ我欲のために兵を動かす、天意なき暴君の極みだわ」
我欲のためだけに、各地の武将の軍を我が物として次々に不要の戦を起こさせ、積極的に日本国じゅうを乱世にしたのだから、義昭は軟弱な男とはいえ、暴君ではあろう。
信長は思い出したのか、極めて不快げだ。それを吹っ切るように、ぶるると首を振ってから、深いため息をついた。
「ところで、近頃、戦で功名を上げることを誉れとし、それで禄を得、立身しようとする輩が多くなった。戦で功名を上げることこそが武士の本懐だと、戦が起こるのを待ちわび、戦に喜び、戦場を探して渡り歩く輩さえ数多存在する。謀叛を起こす者は武士ではないが、戦を生業として功名に逸る者も武士とは言わぬ」
「戦が生業とは、よく考えたら、嘆かわしいことですね。本来、人間は楽して遊び暮らしたいもの」
「まったくだ。戦に嬉々とする者ばかりだなどと、世の中狂っている。それでだ、忠三郎めがその中の一人で、絶えず功名に逸っているのよ。常に一番槍の誉れとて、先駆けばかりしよる。奴がこわっぱの時に、武の意味を教えたにも関わらず、無視しようとする。織田家だけでなく、天下も信忠に譲るのが良い気がする」
やはり、身内でなければ駄目なのだ。信長はそう思い始めているのかもしれない。
広く世の中を見回して、これぞという人物には未だ出会わない。天下はこの者にこそと、早くそういう人物を見つけたいが。いないならば、信忠で構わないだろう。
「そなたのおかげで信忠は立派に育った」
「畏れ入ります」
濃姫は神妙に頭を下げた。
うむと信長は頷いてから、濃姫が頭を上げると、凛々しい表情になる。
「これまで、美濃はそなたの婿として、俺が治めさせてもらった。今後はそなたの子として、信忠に治めさせたい。良いな?」
ふと濃姫の眉が歪んだように見えた。
今更それを言うのかと、気に障ったか、或いは悲しく思われたのかもしれない。
しかし、信長の瞳からは気遣いの色が見て取れる。濃姫は逆らわず、ただ一言そっと言った。
「信忠は五徳と同い年です。永禄二年の二月、当時の将軍・足利義輝殿と会うため、上様がご上洛遊ばした時です。御供した私が途中、俄かに産気づいて近江で産んだ子、それが信忠です、そうでしょう?成菩提院で男子を産み落とし、旅先のこととて、それはそれは難儀致しました」
「――だな!」
不意に信長は甲高く言って、吹き出した。
信忠が永禄二年の生まれだと信じている者など、今となっては居はしないが、濃姫はずっと我が子として育ててきた。信忠はずっと濃姫の子である。これまでも。これからも、変わらない。
「では、そなたの子に美濃をまかせる」
濃姫は当然と、こくりと首をゆるやかに縦に動かした。
「はい。微力ながら、私も力を貸したいと思います。私は今後もこの岐阜にいて、信忠を支えて参ります」
はっとした信長であったが、濃姫は強い意志で、すでにそれを決めている顔であった。
十一月二十八日、信長は嫡男・信忠に織田家の家督と、領国である美濃と尾張を譲った。
儀式と共に祝宴も盛大に催され、一門衆や家臣たちばかりでなく、公家衆も都から祝いに駆けつけた。遠国の大名たちからも、祝いの使者が次々にやって来た。
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賊は洛内に入れてはならない。その外で食い止めなければ。
だから、大将家は洛内ではなく、いつでも都を守護できる都の外にいて、朝家の守護をする。
「ついては、織田家は引き続き、美濃、尾張の大名ではあるが、右大将家は近江に新たに城を築き、そこに常在することと致す。城は観音寺城のあった場所の脇、安土に築くであろう」
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克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~
川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる
…はずだった。
まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか?
敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。
文治系藩主は頼りなし?
暴れん坊藩主がまさかの活躍?
参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。
更新は週5~6予定です。
※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。
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