8 / 35
いつでもあなたは。
♯4
しおりを挟む
「考えすぎなければどうってことはありませんでしたね」
松岡先輩は本を開きながら、そんなことを言った。
もう外は夕暮れ。エアコンが入って涼しくなった部室内を、オレンジ色が淡く染めていく。
「この部室の本棚は作者名の五十音順で並べられています。入室して左側の棚には上から順に〈あ行〉から〈な行〉、右側は同じく上から〈は行〉から〈わ行〉。
倉橋くんは、間違えて〈あ行〉の棚に本を置いてしまったんですね。『きみへ綴る』は蓮野東次郎さんの作品。棚は、入室して右側の最上段にある〈は行〉のところですから」
「つまり、このメモは」
「顧問の上原先生ですね。鹿島さんの身長では最上段の間違いに一目では気付けません。メモの字を見るに急いでいたでしょうから、鹿島さんが最上段を確認するためにわざわざ椅子に乗っているとも思えませんし。その点、この棚を設置した張本人である上原先生ならば、一目見て間違いに気付くはずです。メモにあった「返す場所」とは、ちゃんと五十音順に並べるというルールに沿って本を片付けなさい、ということだったんです。
うっかりさんでしたね、倉橋くん。倉橋くんが読んでいた『コバルトブルーに会いに行く』は、芦田ワタルさんの作品で〈あ行〉。同じ最上段ですし、ついそちらに置いてしまったのでしょう」
先輩は犬を撫でる時のような柔らかい声だった。滑らかで、可愛らしくて、優しい声。
でも先輩、それは違うんです。
僕は間違えたんじゃないんです。あえて〈あ行〉の棚に置いたんです。移されて、無意味にはなってしまったけれど。
先輩が昨日まで読んでいた本。僕、よく憶えているんです。次に読もうと思っていたから。
『いまいちど』――作者は深川秋雄。五十音順で〈は行〉。
置けるわけがなかったんです。
もし、先輩の方が早く部室に来て、椅子に乗って〈は行〉の棚を見られたら、蓮野東次郎の『きみへ綴る』に、気付かれてしまうかもしれないと思ったから。
「あの、先輩」
僕は動揺に動揺を重ねた先程までの時間を払拭するように、意を決して声を張った。
「はい、なんでしょうか」
先輩の微笑みは何時なん時であっても美しい。夕陽のオレンジ色が小さく可愛らしい頬を薄く染めているようで、胸の高鳴りは一層強くなっていく。
僕が椅子から立ち上がると、先輩もすっと立って、スカートを直した。
おぼつかない足取りで先輩の隣に立つ。
先輩と目があった。僕を見上げる先輩の可愛らしい目が、心をつかんで離さない。
その瞬間、僕は心臓を目視しているかのような感覚に襲われた。一拍が手に取るように分かる。高鳴る鼓動に、全身がぴりぴりと震えだす。
「先輩……僕……、その……」
夜通し考えた言葉が出てこない。頭が稼動することを諦めたかのように、思考がぴたりと止まった。
情けない。情けない。
僕は手を差し出した。やっと動かすことが出来た。
「これ、読んでください」
手には一冊の本。
『きみへ綴る』。
僕と先輩が出会うきっかけになった、大切な一冊。
図書室のラベルが貼られたこの本がなければ、先輩とこうして話すことも出来なかっただろう。僕の学生生活を一変させた一冊。
きっと先輩は、この意味を理解している。この本をオススメコーナーに置くまでに愛した、先輩ならば。
『きみへ綴る』は、主人公が多くの恋をしていく中で、学び、変わり、そして成長していくストーリーだ。
作中、主人公は幾度も繰り返した出会いと別れを、一切飾ることなく、一つの小説にしている。
それこそが、この本のタイトルにもなっている、作中作『きみへ綴る』。
最終章にて、主人公はその小説を、一人の女性に手渡した。
想いを告げるラブレターを、『きみへ綴る』に挟んで。
僕には言葉で伝えるだけの勇気がなかった。だから、僕はその主人公の力を借りることにした。
『きみへ綴る』の主人公と同じ方法で、想いを告げることにしたのだ。
この本の内容を知っている先輩に一瞬で伝わる、この方法で。
「はい。承知しました」
そう言う先輩は、驚く素振りも見せずに、本をじいっと見つめた。
「しっかりと、読ませていただきますね」
先輩の微笑は、とても真剣なもののように、僕には思えた。
僕の心臓は依然激しくなるばかり。
でもやはり、僕の心は、夕暮れに映える先輩の笑顔から目を逸らすことを、頑なに拒んでいた。
松岡先輩は本を開きながら、そんなことを言った。
もう外は夕暮れ。エアコンが入って涼しくなった部室内を、オレンジ色が淡く染めていく。
「この部室の本棚は作者名の五十音順で並べられています。入室して左側の棚には上から順に〈あ行〉から〈な行〉、右側は同じく上から〈は行〉から〈わ行〉。
倉橋くんは、間違えて〈あ行〉の棚に本を置いてしまったんですね。『きみへ綴る』は蓮野東次郎さんの作品。棚は、入室して右側の最上段にある〈は行〉のところですから」
「つまり、このメモは」
「顧問の上原先生ですね。鹿島さんの身長では最上段の間違いに一目では気付けません。メモの字を見るに急いでいたでしょうから、鹿島さんが最上段を確認するためにわざわざ椅子に乗っているとも思えませんし。その点、この棚を設置した張本人である上原先生ならば、一目見て間違いに気付くはずです。メモにあった「返す場所」とは、ちゃんと五十音順に並べるというルールに沿って本を片付けなさい、ということだったんです。
うっかりさんでしたね、倉橋くん。倉橋くんが読んでいた『コバルトブルーに会いに行く』は、芦田ワタルさんの作品で〈あ行〉。同じ最上段ですし、ついそちらに置いてしまったのでしょう」
先輩は犬を撫でる時のような柔らかい声だった。滑らかで、可愛らしくて、優しい声。
でも先輩、それは違うんです。
僕は間違えたんじゃないんです。あえて〈あ行〉の棚に置いたんです。移されて、無意味にはなってしまったけれど。
先輩が昨日まで読んでいた本。僕、よく憶えているんです。次に読もうと思っていたから。
『いまいちど』――作者は深川秋雄。五十音順で〈は行〉。
置けるわけがなかったんです。
もし、先輩の方が早く部室に来て、椅子に乗って〈は行〉の棚を見られたら、蓮野東次郎の『きみへ綴る』に、気付かれてしまうかもしれないと思ったから。
「あの、先輩」
僕は動揺に動揺を重ねた先程までの時間を払拭するように、意を決して声を張った。
「はい、なんでしょうか」
先輩の微笑みは何時なん時であっても美しい。夕陽のオレンジ色が小さく可愛らしい頬を薄く染めているようで、胸の高鳴りは一層強くなっていく。
僕が椅子から立ち上がると、先輩もすっと立って、スカートを直した。
おぼつかない足取りで先輩の隣に立つ。
先輩と目があった。僕を見上げる先輩の可愛らしい目が、心をつかんで離さない。
その瞬間、僕は心臓を目視しているかのような感覚に襲われた。一拍が手に取るように分かる。高鳴る鼓動に、全身がぴりぴりと震えだす。
「先輩……僕……、その……」
夜通し考えた言葉が出てこない。頭が稼動することを諦めたかのように、思考がぴたりと止まった。
情けない。情けない。
僕は手を差し出した。やっと動かすことが出来た。
「これ、読んでください」
手には一冊の本。
『きみへ綴る』。
僕と先輩が出会うきっかけになった、大切な一冊。
図書室のラベルが貼られたこの本がなければ、先輩とこうして話すことも出来なかっただろう。僕の学生生活を一変させた一冊。
きっと先輩は、この意味を理解している。この本をオススメコーナーに置くまでに愛した、先輩ならば。
『きみへ綴る』は、主人公が多くの恋をしていく中で、学び、変わり、そして成長していくストーリーだ。
作中、主人公は幾度も繰り返した出会いと別れを、一切飾ることなく、一つの小説にしている。
それこそが、この本のタイトルにもなっている、作中作『きみへ綴る』。
最終章にて、主人公はその小説を、一人の女性に手渡した。
想いを告げるラブレターを、『きみへ綴る』に挟んで。
僕には言葉で伝えるだけの勇気がなかった。だから、僕はその主人公の力を借りることにした。
『きみへ綴る』の主人公と同じ方法で、想いを告げることにしたのだ。
この本の内容を知っている先輩に一瞬で伝わる、この方法で。
「はい。承知しました」
そう言う先輩は、驚く素振りも見せずに、本をじいっと見つめた。
「しっかりと、読ませていただきますね」
先輩の微笑は、とても真剣なもののように、僕には思えた。
僕の心臓は依然激しくなるばかり。
でもやはり、僕の心は、夕暮れに映える先輩の笑顔から目を逸らすことを、頑なに拒んでいた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる