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できれば隠しておきたくて。
♯6
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寒い。空気は冷たい。冬なのだから当然だ。これで汗ばむほどの暑さがあったら、それはとんでもない異常気象ということになるから、寒いと嘆いていられるのは正常で健全と言えるだろう。
となれば、今の俺は正常でも健全でもない。
この冷え切った筈の室内で暖房一つつけずにいたのは、異様な程熱くなった躰に、俺が季節感を忘れていたからだ。
「俺はね、彩花のこと、本当の娘みたいに思っていたんだ。ただの叔父のくせにね。勉強と労働が友達で、ずっと一人ぼっちで、社会人になっても学生時代の恩師に頼りっきりで、いつまでも大人になりきれないそんな俺が、彩花と一緒にいる時は、なんだか人並みの幸せに混ぜて貰っているような気分になれた。勉強に悩むところを見て随分心配もしたし、将来を思うと今も胃がきりきりするし、成長が嬉しくも寂しくもある。こんな感情、出来れば隠しておきたかったんだ。気持ち悪いと思うだろう? どこまでいっても、俺は叔父なんだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
そう、彩花に伝えた。「付き合えない」とは、さすがに言えなかった。
真摯に向き合うことが、これで成されたとは到底思えない。ある種の逃げだとも思った。
だが彩花は、涙を堪える様子を見せながら、それでも力強く首を縦に振った。
「ごめんな」
彩花は首を横に振る。
「いい。分かってたし」
少しだけ、声が震えているだろうか。
俺には、もう何も言えることがなかった。口を開いて、そこから出てくる言葉に、俺は責任を持てそうになかったからだ。
隣り合って座って、心の距離が、遠いのか近いのか、それすらも分からなくなった。
「好きな人いるの?」
彩花は低いトーンでそう言った。
「え、あ、……え?」
「いるなら言って」
目を合わさずに話は続く。目が合わせられる環境だったら、返答すら出来なかっただろう。
「……いる、のかもしれない」
「ふーん。誰」
「会社の人。歳、一周り違うけど」
「おばさんじゃん」
「そりゃ、お前から見たら大人なんて皆そう見えるさ。でも、俺から見たら一周り下だから、若い方だよ」
「好きなんだ」
「……たぶん、そうなんだろなあ、とは思うけど」
ここで断言できないのが俺だった。経験がなかった。誰かを好きになることも、もちろん、好かれることも。
ありがとうな、彩花。気付かせてくれたのはお前だよ。
それを当人にあえて言うことはしなかったが、心からそう思っていた。
この感情から、ひたすらに目をそむけていたのは俺自身だ。
小野田さんに強く注意出来なかったのは、きっと、嫌われたくなかったからなんだ。誰かに思いを寄せるという、誰しもが通る道から逸れに逸れ、そしてこんな歳になって初めて経験する謎の感情に、戸惑っていたのだ。
もし彩花からこんな真っ直ぐなメッセージを受け取らなかったら、俺は俺自身と向き合うこともしなかったことだろうと思う。
勉強は、机に向かって計算式を解けばよかった。働くことは、人の言うことさえ聞いておけば、逆らいさえしなければ評価が下がることはなかった。
だがそれは、驚くほどに無味乾燥で、日々を彩りもしなかったし、年月を経るほどに周囲からも奇異の目を向けられる。
人並みの恋愛というものに、今更ながら羨望を覚えた。
「帰る」
彩花はソファーから腰を上げた。
俺は、止めることも、見送るそぶりもしなかった。すべきでないと判断した。
だが、彩花は玄関に向かう前に、立ち止まってこちらへ振り向いた。
「明日デートね。これからも、ジョーくんのことは便利に使わせてもらうから」
もう、ここには来てくれないと思っていた。気まずいなんてものじゃないだろう、と思ったのだが。
「どこまでいっても叔父さん、なんでしょ」
俺なんかよりも、彩花はよっぽど大人だったようだ。
「……ああ。好きなように使ってくれ」
○
例えば、俺の人生が、もう少しまともな色で鮮やかになっていたとして。
きっとこの数々の出会い、つまりは、加賀谷先生との出会いも、実結ちゃんとの出会いも、もしかすると、彩花と過ごすこの時間さえもなかったのかもしれない。
だとするならば、今の俺は、これまでの日々と今を愛するべきなのだろうと思う。
確かに、両親からは呆れられる毎日だ。もっと素晴らしく美しい景色との出会いも数えきれないほどあったのかもしれない。それでも、今あるこの場所がそれらに劣っているなどとは思わない。
無味乾燥でも、無意味ではなかった筈だ。
しかしこんな感情も、昨日までの俺では、おそらくマッチの火ほども心に灯らなかっただろう。
ふと気付くと、世界はこんなにも鮮やかだったのかと驚いた。
今この瞬間を過ごすマンションの一室も、この寒さも、ソファーも、思いのほか悪くない。
一人の少女から告白された程度で大きなことを言う……俺自身が今そう思っているところだが、案外人生なんてものは、ちっぽけな出来事に気付かされることばかりだそうだから、これもまた一興。
初老のくせに、などと自嘲しながら、俺は、俺自身の青臭い春がまだ訪れていないことを思い出した。
明日の俺は初々しい高校生のような振舞いで一日を過ごすことだろう。
話は散らかったが、つまり俺はここに、これからの自身の身の振り方についてを宣言しておこうと思う。
俺こと鷹箸穣市郎の恋と青春はこれからである。
いつだって、それらに遅すぎると言うことは、ないのだから。
となれば、今の俺は正常でも健全でもない。
この冷え切った筈の室内で暖房一つつけずにいたのは、異様な程熱くなった躰に、俺が季節感を忘れていたからだ。
「俺はね、彩花のこと、本当の娘みたいに思っていたんだ。ただの叔父のくせにね。勉強と労働が友達で、ずっと一人ぼっちで、社会人になっても学生時代の恩師に頼りっきりで、いつまでも大人になりきれないそんな俺が、彩花と一緒にいる時は、なんだか人並みの幸せに混ぜて貰っているような気分になれた。勉強に悩むところを見て随分心配もしたし、将来を思うと今も胃がきりきりするし、成長が嬉しくも寂しくもある。こんな感情、出来れば隠しておきたかったんだ。気持ち悪いと思うだろう? どこまでいっても、俺は叔父なんだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
そう、彩花に伝えた。「付き合えない」とは、さすがに言えなかった。
真摯に向き合うことが、これで成されたとは到底思えない。ある種の逃げだとも思った。
だが彩花は、涙を堪える様子を見せながら、それでも力強く首を縦に振った。
「ごめんな」
彩花は首を横に振る。
「いい。分かってたし」
少しだけ、声が震えているだろうか。
俺には、もう何も言えることがなかった。口を開いて、そこから出てくる言葉に、俺は責任を持てそうになかったからだ。
隣り合って座って、心の距離が、遠いのか近いのか、それすらも分からなくなった。
「好きな人いるの?」
彩花は低いトーンでそう言った。
「え、あ、……え?」
「いるなら言って」
目を合わさずに話は続く。目が合わせられる環境だったら、返答すら出来なかっただろう。
「……いる、のかもしれない」
「ふーん。誰」
「会社の人。歳、一周り違うけど」
「おばさんじゃん」
「そりゃ、お前から見たら大人なんて皆そう見えるさ。でも、俺から見たら一周り下だから、若い方だよ」
「好きなんだ」
「……たぶん、そうなんだろなあ、とは思うけど」
ここで断言できないのが俺だった。経験がなかった。誰かを好きになることも、もちろん、好かれることも。
ありがとうな、彩花。気付かせてくれたのはお前だよ。
それを当人にあえて言うことはしなかったが、心からそう思っていた。
この感情から、ひたすらに目をそむけていたのは俺自身だ。
小野田さんに強く注意出来なかったのは、きっと、嫌われたくなかったからなんだ。誰かに思いを寄せるという、誰しもが通る道から逸れに逸れ、そしてこんな歳になって初めて経験する謎の感情に、戸惑っていたのだ。
もし彩花からこんな真っ直ぐなメッセージを受け取らなかったら、俺は俺自身と向き合うこともしなかったことだろうと思う。
勉強は、机に向かって計算式を解けばよかった。働くことは、人の言うことさえ聞いておけば、逆らいさえしなければ評価が下がることはなかった。
だがそれは、驚くほどに無味乾燥で、日々を彩りもしなかったし、年月を経るほどに周囲からも奇異の目を向けられる。
人並みの恋愛というものに、今更ながら羨望を覚えた。
「帰る」
彩花はソファーから腰を上げた。
俺は、止めることも、見送るそぶりもしなかった。すべきでないと判断した。
だが、彩花は玄関に向かう前に、立ち止まってこちらへ振り向いた。
「明日デートね。これからも、ジョーくんのことは便利に使わせてもらうから」
もう、ここには来てくれないと思っていた。気まずいなんてものじゃないだろう、と思ったのだが。
「どこまでいっても叔父さん、なんでしょ」
俺なんかよりも、彩花はよっぽど大人だったようだ。
「……ああ。好きなように使ってくれ」
○
例えば、俺の人生が、もう少しまともな色で鮮やかになっていたとして。
きっとこの数々の出会い、つまりは、加賀谷先生との出会いも、実結ちゃんとの出会いも、もしかすると、彩花と過ごすこの時間さえもなかったのかもしれない。
だとするならば、今の俺は、これまでの日々と今を愛するべきなのだろうと思う。
確かに、両親からは呆れられる毎日だ。もっと素晴らしく美しい景色との出会いも数えきれないほどあったのかもしれない。それでも、今あるこの場所がそれらに劣っているなどとは思わない。
無味乾燥でも、無意味ではなかった筈だ。
しかしこんな感情も、昨日までの俺では、おそらくマッチの火ほども心に灯らなかっただろう。
ふと気付くと、世界はこんなにも鮮やかだったのかと驚いた。
今この瞬間を過ごすマンションの一室も、この寒さも、ソファーも、思いのほか悪くない。
一人の少女から告白された程度で大きなことを言う……俺自身が今そう思っているところだが、案外人生なんてものは、ちっぽけな出来事に気付かされることばかりだそうだから、これもまた一興。
初老のくせに、などと自嘲しながら、俺は、俺自身の青臭い春がまだ訪れていないことを思い出した。
明日の俺は初々しい高校生のような振舞いで一日を過ごすことだろう。
話は散らかったが、つまり俺はここに、これからの自身の身の振り方についてを宣言しておこうと思う。
俺こと鷹箸穣市郎の恋と青春はこれからである。
いつだって、それらに遅すぎると言うことは、ないのだから。
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