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一章
バイフーラ王国の伝説と禍の姫君
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神に愛されし国には一人の王と一人の王妃。
王と王妃は運命を共に睦み合う。
王と王妃の子供はぜんぶで五人。
一人は男で残りは女。
王の子供は運命と出会う。
王の子供は幸福と出会う。
(バイフーラ王国史より)
「リリー、リリー、リリアルーラ」
コツコツと響く足音に乗って、歌うような声が響く。窓辺に腰掛けていたリリアルーラは慌てて飛び降り、ドレスの裾をさっと整えた。兄王太子であるルーユアンが彼女を咎めることはないとわかっていたが、成人を迎えてなお子供じみた振る舞いは見せたくない。
「やっぱりここにいたのかい、リリー」
開け放したままの扉から顔を覗かせたルーユアンは、少し癖のある金糸のような髪をふわりと揺らし、空色の瞳をやわらかく細めた。部屋へと足を踏み出しながら、いたずらっ子じみた表情でリリアルーラを見つめる。
「お兄さま、どうなさったんですか。お仕事は」
「どうなさったはリリーだよ。まあ、ここにいるからには、何かいやなことがあったとわかっているけれど。何があったのか聞かせてくれるかな?」
「何も、ありません」
軽やかな笑みを返したところで、ルーユアンには通じない。九歳年上の兄は、リリアルーラのことなら何でもお見通しなのだ。自然、彼女の笑みも重たく変わった。そっとルーユアンから目を逸らし、先ほどまで腰掛けていた窓辺へ手をつく。
窓の外には、バイフーラの国土が広がっている。遠くには未だ雪が残るディアス山脈と、イーミの森。近くには、青々と茂る牧草と羊たち。王宮で最も高いこの塔から見られるその景観を、リリアルーラはこの上なく愛している。
バイフーラの三方を囲む霊峰と、唯一外界からの入り口とも言える広大な森は、それぞれが神の住む神聖な地として名高い。風光明媚な天然かつ堅牢な城壁は、バイフーラを守るのと同じく、リリアルーラの心を守っていた。
「じゃあ、当ててみようか。そうだなあ、アーニャと喧嘩した? それとも、随分昔に習った単語を語学の先生に質問されて答えられなかった? ああ、羊と戯れてドレスの裾が破けてアーニャに叱られた……これじゃ最初と同じだね」
ぶつぶつと言葉尻が鈍くなったルーユアンを振り返り、リリアルーラも笑った。
どれもが今すぐにでも起こりそうで、確かに彼女を落ち込ませるだろうが、この塔へ足を運ぶほどのことではない。いや、幼馴染み兼リリアルーラ付の筆頭侍女であるアーニャと喧嘩をしたら、逃げ込んではくるだろうが。
「どれもはずれです」
「そうかあ、じゃあ、若い侍女たちのおしゃべりを聞いた、かな」
気を緩めた途端言い当てられ、リリアルーラの笑顔が凍りついた。取り繕うことができない妹に、ルーユアンは苦笑する。男性にしては線が細い美貌に、かすかな雄が漂った。リリアルーラは逃げるように再び窓へと顔を向ける。
「気にすることはないんだよ。あの子たちにとっては喋ること自体が娯楽なんだから、何ひとつ真実じゃない」
「……そんなこと、ないわ」
窓から望む景色は、どんな時でもリリアルーラの味方だった。それなのに、今はすべてが重たく映る。神に愛されて生まれた国と呼ばれるバイフーラにふさわしい、美しい世界。
だが、考えてみればリリアルーラを落ち込ませているのはその美しさに端を発していると言えた。
「禍の姫君に縁談がないのは、本当でしょう?」
「リリー」
ため息のように呼ばれても、リリアルーラは動かない。窓の向こうに救いを求めるように瞳をさまよわせていたが、何度も何度も繰り返し名を呼ばれ、大きなため息と共に窓辺を離れた。部屋の隅にある簡素な椅子に、淑女らしからぬ動きで腰を下ろす。
「もう十八なのに婚約の気配もないのは本当だもの。バイフーラがいくら貧乏でも……あ、ごめんなさい、お兄様。でも、本当でしょう? 少なくともバイフーラの姫君であるだけで、価値があるはずなのに。禍の姫君と呼ばれて当然だわ」
建国して千年を過ぎるバイフーラ王国は、国土として神の居住地を保有する一方、人間が住める範囲は非常に狭隘で、これといった資源も持たない。リリアルーラの言うとおり、弱小国である。長い長い歴史の中で、幾度も侵略は受けてきたが、その都度天然の城壁によりその軍勢を阻み、――何故か侵略してきた国を神の怒りと呼ぶにふさわしい天災が襲う奇跡で独立を守ってきた。疫病、大地震、大嵐。国ごとに経緯は異なるが、最終的にはいずれの国も滅亡に至った。
いつしかバイフーラ王国は「神に愛されし国」として不可侵とみなされ、大陸各国はその神の寵愛を我が国にもと、バイフーラの姫君を迎えることを望むようになった。
だから、リリアルーラの言葉に嘘はない。バイフーラの国力がどれほど小さくとも、バイフーラの姫君と言うだけで尊ばれる。
しかし、ルーユアンは、冷たくも厳しい一言をリリアルーラに向けた。
「馬鹿馬鹿しい」
常に優美で穏やかな兄らしからぬ声音に、リリアルーラは身じろぎした。今の今までここまで強くたしなめられたことは一度もない。
「人の価値に生まれや育ちは関係ないとお前は知ってるはずだろう、リリアルーラ」
「……ごめんなさい」
「とは言え、リリーがそんな風に言うのはよっぽどだ。さあ、何を聞いたのかな、お姫様」
ぎゅうとドレスを握ったリリアルーラの手を取り、ルーユアンが腰をかがめた。繊細な美貌に似つかわしくない大きな手が、細く小さな指をやさしく握る。やわらかな雰囲気に戻った兄を認め、リリアルーラは肩を落とした。話さなければ、離してはもらえないだろう。
「禍の姫君なんて呼ばれてかわいそうって、行かず後家になるのがかわいそう、って。……別にいいのよ、そう思われて当然だから。だけど」
リリアルーラの脳裏には、キッチンの片隅にあるテーブルに向かっていた侍女たちの姿が浮かんでいる。それぞれがカップを手にしていた。ほんの数分のお茶が、彼女たちにとっての休息だ。
頭に浮かぶ断片を整理しつつ、リリアルーラはとつとつと話し始めた。少なくとも、侍女たちが叱られたりする羽目にはならないように配慮しなければいけない。
厨房を借りようと思っていた。週に一度欠かさず行っている孤児院の慰問は、リリアルーラ手作りのクッキーを持参することにしているから。
「リリアルーラ様の婚約者様って、いつ現れるのかしら」
「本当におかわいそう、あんなにお優しくてお美しいのに、禍の姫君なんてひどいあだ名を付けられて!」
「そうね、おかわいそうなリリアルーラ様」
開け放された厨房の扉脇にさっと隠れ、リリアルーラはため息をついた。この程度の話なら、何度も耳にしてきた。気にする必要はない。その時はそう思っていた。
「あのあだ名だって、自分が選ばれなかった方々が意図的に流したんでしょう? それが大陸中に巡るとは思ってなかったのかもしれないけれど」
「どうなのかしらね」
「だいたい、リリアルーラ様は関係ないじゃない。選ぶのは神様なんだから。このままじゃ、行かず後家よ!」
リリアルーラは微動だにせず、憤る侍女の声をやり過ごした。気にする必要はない、もう一度胸中で呟く。……求婚に失敗したどこかの王子が意図的に噂を流したかどうかは別として、彼女たちが休憩の種として喋るそれはおおむね正しいのだから。
バイフーラ王国の姫君はバイフーラの至宝と呼ばれ、諸国の王子からひっきりなしの求婚を受ける。唯一外国からの入り口とも言える森――女神イーミの名を冠するイーミの森――は迷いの森とも呼ばれ、慣れた者でなければ命を落とすことも珍しくはないのだが、その樹海をものともせず、姿絵を携えた使者がやってくるのだ。
リリアルーラとて、例外ではなかった。十歳を過ぎた頃、王妃に呼ばれひっそりと姿絵を見せられたのを覚えている。そうして自分が「この人じゃないと思う」と答えたことも。
一国の王女が自身で相手を選ぶなど、通常であれば許されるはずがない。だが、それがバイフーラのしきたりだ。王国史の一節である「王の子供は運命と出会う」を元として、姫君自身が嫁ぎ相手を選ぶ。そうしてそのしきたりは、諸外国からも甘んじて受け入れられている。
きっかけは五百年前、砂漠とバイフーラ王国以外を統べたリダーラ帝国が、バイフーラ王国に政略結婚を持ちかけた挙句、征服を企てたことにある。婚姻が終わるやいなや圧倒的な軍勢と共に侵略を開始したものの、行軍の途中で軍を率いていた皇帝は不審な死を遂げた。結果、彼の威光でのみ均衡を保っていられた帝国は内戦状態に陥る。嫁いでいたバイフーラの姫君は帰国を図ったものの暗殺されたらしい。その数日後、リダーラ帝国は滅亡する。神の怒りと呼ばれる大地震で。
結果、大陸全土に、バイフーラの姫君への求婚を無理強いをしてはならないという共通認識が生まれた。神に愛されしバイフーラ王国の、最も愛されるべき姫君は自らが運命を選ぶ。その運命こそが神の導きであり、背いたものは神の怒りに触れる――。
リリアルーラが十三歳の頃には、それまではぽつぽつと訪れるに過ぎなかった使者の数も増え、見せられる姿絵の数も増えた。だが、リリアルーラの琴線に触れる相手はいなかった。
不思議なことに、婚姻相手は一目見ればわかるのだと言う。運命に出会うとはすなわち運命の相手との出会いに等しい。そうして、幸福を得るのだ。
三人の姉君もそうだった。皆が皆、大国に望み望まれて嫁いだのは偶然だったが。
だが成人を迎えた十八歳の今となっても、リリアルーラに婚約者はいない。
「だけど一番おかわいそうなのはルーユアン様よね。ご自分よりもリリアルーラ様のご結婚が先だなんて仰って」
息を詰め、ひたすら侍女たちの話の終わりを祈っていたリリアルーラは、その時初めて美しい顔を歪ませた。眉間に深く刻まれた皺は、彼女の絶望の証だ。
「でも、ルーユアン様も運命の方に巡り会われてないだけかもしれないわよ」
「そうかしら? ルー……」
「あんたたちっ! いつまでくだらない話をしてるんだい!」
雷に打たれたようにリリアルーラは飛び上がった。くだらない話に耳を傾けていたのは彼女も同じだ。今叫んだのは古株の料理番だから、侍女たちはすぐさま持ち場へと戻るだろう。
そろり、そろりと足音を立てないようにリリアルーラは歩いた。一番近くの角を曲がり、そのまま駆け出す。
求愛のことごとくを丁重に断り続けた果てに、「神の寵愛から見放された姫君」と噂されるようになった自分を噛み締めながら。禍の姫君、と口の中だけで呟きながら。
王と王妃は運命を共に睦み合う。
王と王妃の子供はぜんぶで五人。
一人は男で残りは女。
王の子供は運命と出会う。
王の子供は幸福と出会う。
(バイフーラ王国史より)
「リリー、リリー、リリアルーラ」
コツコツと響く足音に乗って、歌うような声が響く。窓辺に腰掛けていたリリアルーラは慌てて飛び降り、ドレスの裾をさっと整えた。兄王太子であるルーユアンが彼女を咎めることはないとわかっていたが、成人を迎えてなお子供じみた振る舞いは見せたくない。
「やっぱりここにいたのかい、リリー」
開け放したままの扉から顔を覗かせたルーユアンは、少し癖のある金糸のような髪をふわりと揺らし、空色の瞳をやわらかく細めた。部屋へと足を踏み出しながら、いたずらっ子じみた表情でリリアルーラを見つめる。
「お兄さま、どうなさったんですか。お仕事は」
「どうなさったはリリーだよ。まあ、ここにいるからには、何かいやなことがあったとわかっているけれど。何があったのか聞かせてくれるかな?」
「何も、ありません」
軽やかな笑みを返したところで、ルーユアンには通じない。九歳年上の兄は、リリアルーラのことなら何でもお見通しなのだ。自然、彼女の笑みも重たく変わった。そっとルーユアンから目を逸らし、先ほどまで腰掛けていた窓辺へ手をつく。
窓の外には、バイフーラの国土が広がっている。遠くには未だ雪が残るディアス山脈と、イーミの森。近くには、青々と茂る牧草と羊たち。王宮で最も高いこの塔から見られるその景観を、リリアルーラはこの上なく愛している。
バイフーラの三方を囲む霊峰と、唯一外界からの入り口とも言える広大な森は、それぞれが神の住む神聖な地として名高い。風光明媚な天然かつ堅牢な城壁は、バイフーラを守るのと同じく、リリアルーラの心を守っていた。
「じゃあ、当ててみようか。そうだなあ、アーニャと喧嘩した? それとも、随分昔に習った単語を語学の先生に質問されて答えられなかった? ああ、羊と戯れてドレスの裾が破けてアーニャに叱られた……これじゃ最初と同じだね」
ぶつぶつと言葉尻が鈍くなったルーユアンを振り返り、リリアルーラも笑った。
どれもが今すぐにでも起こりそうで、確かに彼女を落ち込ませるだろうが、この塔へ足を運ぶほどのことではない。いや、幼馴染み兼リリアルーラ付の筆頭侍女であるアーニャと喧嘩をしたら、逃げ込んではくるだろうが。
「どれもはずれです」
「そうかあ、じゃあ、若い侍女たちのおしゃべりを聞いた、かな」
気を緩めた途端言い当てられ、リリアルーラの笑顔が凍りついた。取り繕うことができない妹に、ルーユアンは苦笑する。男性にしては線が細い美貌に、かすかな雄が漂った。リリアルーラは逃げるように再び窓へと顔を向ける。
「気にすることはないんだよ。あの子たちにとっては喋ること自体が娯楽なんだから、何ひとつ真実じゃない」
「……そんなこと、ないわ」
窓から望む景色は、どんな時でもリリアルーラの味方だった。それなのに、今はすべてが重たく映る。神に愛されて生まれた国と呼ばれるバイフーラにふさわしい、美しい世界。
だが、考えてみればリリアルーラを落ち込ませているのはその美しさに端を発していると言えた。
「禍の姫君に縁談がないのは、本当でしょう?」
「リリー」
ため息のように呼ばれても、リリアルーラは動かない。窓の向こうに救いを求めるように瞳をさまよわせていたが、何度も何度も繰り返し名を呼ばれ、大きなため息と共に窓辺を離れた。部屋の隅にある簡素な椅子に、淑女らしからぬ動きで腰を下ろす。
「もう十八なのに婚約の気配もないのは本当だもの。バイフーラがいくら貧乏でも……あ、ごめんなさい、お兄様。でも、本当でしょう? 少なくともバイフーラの姫君であるだけで、価値があるはずなのに。禍の姫君と呼ばれて当然だわ」
建国して千年を過ぎるバイフーラ王国は、国土として神の居住地を保有する一方、人間が住める範囲は非常に狭隘で、これといった資源も持たない。リリアルーラの言うとおり、弱小国である。長い長い歴史の中で、幾度も侵略は受けてきたが、その都度天然の城壁によりその軍勢を阻み、――何故か侵略してきた国を神の怒りと呼ぶにふさわしい天災が襲う奇跡で独立を守ってきた。疫病、大地震、大嵐。国ごとに経緯は異なるが、最終的にはいずれの国も滅亡に至った。
いつしかバイフーラ王国は「神に愛されし国」として不可侵とみなされ、大陸各国はその神の寵愛を我が国にもと、バイフーラの姫君を迎えることを望むようになった。
だから、リリアルーラの言葉に嘘はない。バイフーラの国力がどれほど小さくとも、バイフーラの姫君と言うだけで尊ばれる。
しかし、ルーユアンは、冷たくも厳しい一言をリリアルーラに向けた。
「馬鹿馬鹿しい」
常に優美で穏やかな兄らしからぬ声音に、リリアルーラは身じろぎした。今の今までここまで強くたしなめられたことは一度もない。
「人の価値に生まれや育ちは関係ないとお前は知ってるはずだろう、リリアルーラ」
「……ごめんなさい」
「とは言え、リリーがそんな風に言うのはよっぽどだ。さあ、何を聞いたのかな、お姫様」
ぎゅうとドレスを握ったリリアルーラの手を取り、ルーユアンが腰をかがめた。繊細な美貌に似つかわしくない大きな手が、細く小さな指をやさしく握る。やわらかな雰囲気に戻った兄を認め、リリアルーラは肩を落とした。話さなければ、離してはもらえないだろう。
「禍の姫君なんて呼ばれてかわいそうって、行かず後家になるのがかわいそう、って。……別にいいのよ、そう思われて当然だから。だけど」
リリアルーラの脳裏には、キッチンの片隅にあるテーブルに向かっていた侍女たちの姿が浮かんでいる。それぞれがカップを手にしていた。ほんの数分のお茶が、彼女たちにとっての休息だ。
頭に浮かぶ断片を整理しつつ、リリアルーラはとつとつと話し始めた。少なくとも、侍女たちが叱られたりする羽目にはならないように配慮しなければいけない。
厨房を借りようと思っていた。週に一度欠かさず行っている孤児院の慰問は、リリアルーラ手作りのクッキーを持参することにしているから。
「リリアルーラ様の婚約者様って、いつ現れるのかしら」
「本当におかわいそう、あんなにお優しくてお美しいのに、禍の姫君なんてひどいあだ名を付けられて!」
「そうね、おかわいそうなリリアルーラ様」
開け放された厨房の扉脇にさっと隠れ、リリアルーラはため息をついた。この程度の話なら、何度も耳にしてきた。気にする必要はない。その時はそう思っていた。
「あのあだ名だって、自分が選ばれなかった方々が意図的に流したんでしょう? それが大陸中に巡るとは思ってなかったのかもしれないけれど」
「どうなのかしらね」
「だいたい、リリアルーラ様は関係ないじゃない。選ぶのは神様なんだから。このままじゃ、行かず後家よ!」
リリアルーラは微動だにせず、憤る侍女の声をやり過ごした。気にする必要はない、もう一度胸中で呟く。……求婚に失敗したどこかの王子が意図的に噂を流したかどうかは別として、彼女たちが休憩の種として喋るそれはおおむね正しいのだから。
バイフーラ王国の姫君はバイフーラの至宝と呼ばれ、諸国の王子からひっきりなしの求婚を受ける。唯一外国からの入り口とも言える森――女神イーミの名を冠するイーミの森――は迷いの森とも呼ばれ、慣れた者でなければ命を落とすことも珍しくはないのだが、その樹海をものともせず、姿絵を携えた使者がやってくるのだ。
リリアルーラとて、例外ではなかった。十歳を過ぎた頃、王妃に呼ばれひっそりと姿絵を見せられたのを覚えている。そうして自分が「この人じゃないと思う」と答えたことも。
一国の王女が自身で相手を選ぶなど、通常であれば許されるはずがない。だが、それがバイフーラのしきたりだ。王国史の一節である「王の子供は運命と出会う」を元として、姫君自身が嫁ぎ相手を選ぶ。そうしてそのしきたりは、諸外国からも甘んじて受け入れられている。
きっかけは五百年前、砂漠とバイフーラ王国以外を統べたリダーラ帝国が、バイフーラ王国に政略結婚を持ちかけた挙句、征服を企てたことにある。婚姻が終わるやいなや圧倒的な軍勢と共に侵略を開始したものの、行軍の途中で軍を率いていた皇帝は不審な死を遂げた。結果、彼の威光でのみ均衡を保っていられた帝国は内戦状態に陥る。嫁いでいたバイフーラの姫君は帰国を図ったものの暗殺されたらしい。その数日後、リダーラ帝国は滅亡する。神の怒りと呼ばれる大地震で。
結果、大陸全土に、バイフーラの姫君への求婚を無理強いをしてはならないという共通認識が生まれた。神に愛されしバイフーラ王国の、最も愛されるべき姫君は自らが運命を選ぶ。その運命こそが神の導きであり、背いたものは神の怒りに触れる――。
リリアルーラが十三歳の頃には、それまではぽつぽつと訪れるに過ぎなかった使者の数も増え、見せられる姿絵の数も増えた。だが、リリアルーラの琴線に触れる相手はいなかった。
不思議なことに、婚姻相手は一目見ればわかるのだと言う。運命に出会うとはすなわち運命の相手との出会いに等しい。そうして、幸福を得るのだ。
三人の姉君もそうだった。皆が皆、大国に望み望まれて嫁いだのは偶然だったが。
だが成人を迎えた十八歳の今となっても、リリアルーラに婚約者はいない。
「だけど一番おかわいそうなのはルーユアン様よね。ご自分よりもリリアルーラ様のご結婚が先だなんて仰って」
息を詰め、ひたすら侍女たちの話の終わりを祈っていたリリアルーラは、その時初めて美しい顔を歪ませた。眉間に深く刻まれた皺は、彼女の絶望の証だ。
「でも、ルーユアン様も運命の方に巡り会われてないだけかもしれないわよ」
「そうかしら? ルー……」
「あんたたちっ! いつまでくだらない話をしてるんだい!」
雷に打たれたようにリリアルーラは飛び上がった。くだらない話に耳を傾けていたのは彼女も同じだ。今叫んだのは古株の料理番だから、侍女たちはすぐさま持ち場へと戻るだろう。
そろり、そろりと足音を立てないようにリリアルーラは歩いた。一番近くの角を曲がり、そのまま駆け出す。
求愛のことごとくを丁重に断り続けた果てに、「神の寵愛から見放された姫君」と噂されるようになった自分を噛み締めながら。禍の姫君、と口の中だけで呟きながら。
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