白い雫の天使~親愛なる人への旋律

夏目奈緖

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 副社長室は28階にある。エレベーターに乗り込み、わずかな移動時間でドアの前に到着した。この場所に立つ度に、20歳当時の自分を思い出す。大学入学後、父の秘書という名目で勤務を始めた。学業との両立で、週2回のバイトだった。教師役は深川さんだった。父の社長室よりも、副社長での業務がほとんどを占めていた。うるさい教師役だと、心の中では煙たがっていた。そんな自分の鼻を、深川さんからへし折られた。

 ノックをするまでもない。室内から手招きをされるのと同時に入室した。すでにアイス珈琲が用意されている。昔の通りだ。

「これが良かっただろう?」
「ありがとう。暑かったからちょうどいい」
「熱気というより、人の囁き声が億劫だな。どうぞ掛けてくれ」
「このままでいい。立ったままで」
「せっかち常務君。座りなさい。ここでいいか?」 

 副社長デスクの傍らには、椅子が置いてあった。ほんの30センチの距離で向かい合い座った。これも懐かしい光景だ。

「懐かしい。こうして話していたね。僕の下で秘書を務めてもらった。社長秘書の名目だったが、この副社長室が主だった」
「俺は助かった。あの親父と会社でも顔をつき合わせたくなかった」
「僕が来るのを怖がっていたくせにか?社長が来るとホッとした顔をしていたぞ?見ていたぞ」
「そんなわけあるか。一言程度の会話だった。……どうだ?はい。やっているか?はい。……どこがだ?」
「ははは。あれでも側近は驚いていたよ。息子だからといって、優しい言葉をかけていなかったのに。末の息子は違うものかと」
「優しい言葉か?どこがだ?」
「どうだ?つらいか?困ったことはないか?そう意味が込められていたんだよ」
「今なら分かる」

 その言葉通りだ。本人なりの気遣いだったと。多くを口にしない人だった。当時の自分は理解できず、冷たい人だと思い込んでいた。母方の祖父母が優しい人で、甘やかされていたからだろうか。ここへ戻り、誰もそばに居ないと思い込んだ。たった一人だと。

「拓海君も同じように秘書から始めた。社長自らが教師役になった。それはもう厳しかった。部長連中が臆したぐらいだ。おかげで大きな人になった」

 晴海兄さんは、どうだったのか?深川さんが教えたはずだ。それを口にすると苦笑した。俺に対しては甘い方だったのか。

「君のケースで学んだ。厳しいだけでは育たないと。少々はズレたがね」
「”ふざけた大人になれ”。そう教えられたとおりだ」
「今はいい意味で力が抜けている。……弁当は美味しかったか?うらやましい。……分かったよ。単刀直入に話す。僕は再来年から代表取締役社長へあげられる。副社長のポストが不在だ。君が座ってくれ」
「俺の一存じゃ決められない」
「降って沸くような人事じゃないよ。理解しているだろう?」
「理解している」

 お互いに笑った。その意味合いは違うものだ。深川さんは”逃げられないぞ”と言った。俺の方は”仕方の無いことだ。選ばれるだけ良かった”と言葉を返した。

 大学生当時は諦めていた。自分には意思がないのだと思い込むことで。黒崎家の当主的な役目まで担わされると思った。自らが望んだものではないのだと、心の中で拒んだ。俺は庭のナツツバキの絵を描いて、ピアノの練習を積みたかった。
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