夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 13時。

 お昼ご飯の準備中だ。がっつり食べたいと言っているから安心した。前に風邪を引いたときは食欲が落ちていたから、おかゆやスープしか口にしていなかった。今日はステーキを寄越せとまで言っている。そのまま希望を叶えられないから、工夫した。我ながら甲斐甲斐しいと思っている。

「豚肉を湯がいて……」
 
 茹でた豚肉を、茹でて冷ましておいたキャベツに乗せた。ポン酢をかけて完成だ。黒崎が好きな料理だから食べるだろう。お肉だから満足する。蓮根を使った汁物も作った。俺のお昼ご飯は卵とじうどんだ。

 さっそくテーブルに運んだ後、たまご酒を用意した。お義父さんが冬になると飲んでいることを思い出して、山崎さんに作り方を教えてもらった。使った日本酒は、サエキ酒造の純米吟醸酒だ。お義父さんは日本酒と言えば、このメーカーがお気に入りだと知った。

「……たまご酒か?懐かしいな。親父が飲んでいたぞ」
「今でも飲んでいるんだって」
「そうか。……美味いぞ」
「そう?俺も飲みたい」
「まだ飲ませられない」
「舐めるだけでいいから~」
「……だめだ」

 黒崎が俺の手が届かないように、離れて飲み始めた。少し元気になったようだ。冷しゃぶを食べ始めたのを見届けて、卵とじうどんを作って持って来た。そこへ、豚肉のお皿を差し出された。食べろということだ。

「うどんだけで済ますな」
「朝ごはんが遅めだったから、そこまでお腹空いてないもん」
「昨日は俺がいなかったから、大して口に入れていないだろう?」
「うん……」

 自分一人で食べる時は作るのが面倒くさいさい。買いに行くのも勿体ないから、お茶漬けで済ませている。厚焼き玉子とサラダは食べているから、大丈夫だろう。

「5口だけ頑張れ。仕掛け絵本を買ってやる」
「子供じゃないよ~」
「同じだ。3口で構わない」

 黒崎が笑い声を立てた。俺のことを子ども扱いしているのに、妙に色気がある。熱があるせいで、両目が潤んでいるからだろう。ベッドにいる時のようだ。

「どうした?」
「何でもないよ。黒崎さん……」
「だからどうした?」
「何だよー。その聞き方は……」
「どう聞いてほしいんだ?」
「あ……」

 黒崎が眉を寄せて目を細めた。その仕草と表情でさえも色気があるから困った。いつもと違う。自分の方がだ。

「黒崎さん……」
「夏樹」
「黒崎さん……」
「うるさい」
「いたた……っ」

 伸びてきた指先に、頬を弾かれてしまった。小さな痛みが起きて押さえていると、今度は頭ごと引き寄せられた。一気に顔が近くなり、熱い息が頬にかかった。

「そんな目で見るな。大人しく寝ておけと言うくせに。抱きたいのを我慢している。……目を閉じろ」
「うん……」
「治ったら覚悟しておけ」
「え……」
「分かるだろう?可愛いから触りたくなる」
「ヒョーーーーッ」

 バシャン。感極まって立ち上った瞬間、うどんの器に当たって、スープが跳ねてしまった。手の甲に掛かったから熱い。

「わあーー」
「冷やしておけ。こっちに来い」

 黒崎に引っ張られてキッチンへ行った。強引に長袖をまくり上げられた後、水道水に手を当てた。数分間流していると、体が冷えてきて震えた。

「寒いよ……」
「これぐらいで終わろうか。痛みはどうだ?」

 さっきよりも痛みが和らいでいた。濡れた手をタオルで拭き取ってくれた。その動作が優しくて、視界がぼやけてきた。どっちが看病しているのか分からない。

「ごめんね……」
「かまわない。熱かっただろう?」
「うん。黒崎さん……」
「手の甲と額……。これ以上は怪我をするな。もっと大事にしろ」
「今日は優しいんだね。ひっく」
「泣き虫だな。甘ったれだ。俺のことで心配させているからだ。優しくしているつもりだぞ?」
「ううん。優しくない時があるよ?」
「……何だと?」
「ほら、その怖い顔だよ。うっうっ」
「バカヤロウ。うどんの続きを食べろ」
「バカヤロウ?ひどいよ……。うっうっ」
「俺が悪かった」
「うん。半分こしない?」

 うどんが伸びたのは仕方がない。冷しゃぶも口に入れた。黒崎が完食したから安心した。たまに体が揺れているから顔を上げると、咳が出始めていた。

「早く寝てよ。もうトロいことはしないから」
「期待していない」
「ふん……」

 風邪を引くと咳が重くなることが多いから、すぐに寝てもらおう。さっきの発言を聞き流して、寝室へ連れて行った。

 ベッドに寝かせた後、毛布を肩までかけた。お水をサイドテーブルに用意して、スマホも近くに置いた。

「何かあったら呼びに来なくていいから。電話してよ」
「すまない」
「晩ご飯が出来たら起こしに来るよ。着替えも手伝うよ」
「ああ……」

 さっきも具合が悪いのを隠していたのかもしれない。すぐに目を閉じて、微睡み始めた。そっとベッドから立ち上ると、腕を掴まれた。寝息を立てているのに。

「夏樹。行くな……」
「はいはい。行かないよ」

 黒崎の手の力が緩んだから、毛布の中へ入れた。規則正しいリズムで体が上下し始めるまで待ち、静かに寝室から出た。
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