夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

文字の大きさ
94 / 348

8-2

しおりを挟む
 14時。

 温泉旅館の歩月楼へ到着した。山と海に囲まれた温泉街だ。旅館の近くには観光スポットがあり、仲見世や寺もある。実家で旅行へ行くのは静かな場所が多かった。俺達も同じだ。賑やかに過ごすよりも、こういう場所の方が落ち着くし楽しめる。黒崎からは、”大学生らしくない”と笑われた。

「たまには温水プールで遊びたくないのか?悠人君達と行ったことがあるだろう。」
「うーん。まったりする方がいい。悠人は動き回るけどね。……向こうも遊びに行ってる頃だねえ。ん?んん……」

 いきなりキスをされた。そのままの勢いで部屋へ連れて行かれて、大きなベッドに押し倒された。とっさに胸元を叩いて拒むと、左手を握って動きを封じられて、手の甲へキスをされた。覆いかぶさっている体はビクともしない。本気でやっている証だ。

「黒崎さーん。何か食べに行こうよ~」
「お前の方が先だ」
「もう……。ご飯を食べて、露天風呂へ入りに行こうよ……」
「この部屋に風呂がある。広くて趣きがあるぞ。一緒に入ろう」
「ご飯が先だよ……。それからお風呂。いちゃつくのは夜だよ」
「……こら、叩くな」

 黒崎が笑いながら起き上がり、俺のことも抱き起してくれた。しかし、そのまま抱き寄せられて、また唇を塞がれた。

「下の名前で呼んでくれ。圭一と。……黒崎さんを卒業しろ」
「んー、違和感があるんだよ」
「外では呼んでいるだろう?」
「あんたの知り合いに会った時だよ。分かりづらいもん……」

 外で知り合いに会った時は、黒崎のことを”圭一さん”と呼ぶことがある。友達やご近所さんの前では普段通りだ。それでいいと思っているのに。

「黒崎さん。こっちの方がいいんだ」
「試しに呼んでくれ」
「圭一さん……」
「もう一回だ」
「圭一さん……」
「棒読みはやめてくれ」
「要求レベルが高いよ~」

 こっちは困っているのに、黒崎は嬉しそうだ。優しい眼差しで見つめられている。彼の膝の上に座って両腕で支えられているから、簡単には逃げ出せない。俺がどんなに抵抗しても、テコでも動かないと分かっている。

「……夏樹。呼んでみろ」
「……圭一さん」
「叱ってくれ」
「けいいち……さん!」
「顔が引きつっているぞ」

 そう言いながらも笑っている。そしてm仕方ないなとため息をついて、俺のことを膝から降ろした。さらに頭をポンポンと叩いて、子供にするかのように顔を覗き込んできた。なんだかからかわれた気分になった。

「今はここまでにしておく。また練習させるぞ」
「今日は終わりにしようよ」
「だめだ。甘やかさない」
「我儘を言い放題でいいんだよね?だったら呼び方を変えたくないよ」
「そんなに嫌なのか?どうしてだ?」

 照れくさいからだ。それに、出会った頃の思い出が残っているから、それを手放すような気持ちもある。最初から俺は彼のことを“黒崎さん”と呼んでいた。それを変えたくない理由だ。

「出会った頃の思い出があるんだよ。でも、俺も”黒崎君”になったしね……」
「そういうことか……」
「出会った当時に戻るか。優しいお兄さんのふりをしてやる」
「変な遊びをやめろよ~っ」
「夏樹君。さあ、風呂に入ろう。手先が冷たくなっているよ」
「うう……。やめてよ~」

 出会ったばかりの頃の、”優しいお兄さんのふり”をしていた黒崎が目の前にいる。一瞬だけやるのかと思ったら、今日はそうするのだと返事が返ってきた。変な遊びはやめてもらいたい。しかし、黒崎が楽しんでいるならいいかと思っていたら、ぼうっとしている間に、内風呂へ連れて行かれた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる

七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。 だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。 そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。 唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。 優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。 穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。 ――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。

希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう

水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」 辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。 ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。 「お前のその特異な力を、帝国のために使え」 強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。 しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。 運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。 偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!

王様のナミダ

白雨あめ
BL
全寮制男子高校、箱夢学園。 そこで風紀副委員長を努める桜庭篠は、ある夜久しぶりの夢をみた。 端正に整った顔を歪め、大粒の涙を流す綺麗な男。俺様生徒会長が泣いていたのだ。 驚くまもなく、学園に転入してくる王道転校生。彼のはた迷惑な行動から、俺様会長と風紀副委員長の距離は近づいていく。 ※会長受けです。 駄文でも大丈夫と言ってくれる方、楽しんでいただけたら嬉しいです。

【完結】ホットココアと笑顔と……異世界転移?

甘塩ます☆
BL
裏社会で生きている本条翠の安らげる場所は路地裏の喫茶店、そこのホットココアと店主の笑顔だった。 だが店主には裏の顔が有り、実は異世界の元魔王だった。 魔王を追いかけて来た勇者に巻き込まれる形で異世界へと飛ばされてしまった翠は魔王と一緒に暮らすことになる。 みたいな話し。 孤独な魔王×孤独な人間 サブCPに人間の王×吸血鬼の従者 11/18.完結しました。 今後、番外編等考えてみようと思います。 こんな話が読みたい等有りましたら参考までに教えて頂けると嬉しいです(*´ω`*)

前世が教師だった少年は辺境で愛される

結衣可
BL
雪深い帝国北端の地で、傷つき行き倒れていた少年ミカを拾ったのは、寡黙な辺境伯ダリウスだった。妻を亡くし、幼い息子リアムと静かに暮らしていた彼は、ミカの知識と優しさに驚きつつも、次第にその穏やかな笑顔に心を癒されていく。 ミカは実は異世界からの転生者。前世の記憶を抱え、この世界でどう生きるべきか迷っていたが、リアムの教育係として過ごすうちに、“誰かに必要とされる”温もりを思い出していく。 雪の館で共に過ごす日々は、やがてお互いにとってかけがえのない時間となり、新しい日々へと続いていく――。

異世界で聖男と呼ばれる僕、助けた小さな君は宰相になっていた

k-ing /きんぐ★商業5作品
BL
 病院に勤めている橘湊は夜勤明けに家へ帰ると、傷ついた少年が玄関で倒れていた。  言葉も話せず、身寄りもわからない少年を一時的に保護することにした。  小さく甘えん坊な少年との穏やかな日々は、湊にとってかけがえのない時間となる。  しかし、ある日突然、少年は「ありがとう」とだけ告げて異世界へ帰ってしまう。  湊の生活は以前のような日に戻った。  一カ月後に少年は再び湊の前に現れた。  ただ、明らかに成長スピードが早い。  どうやら違う世界から来ているようで、時間軸が異なっているらしい。  弟のように可愛がっていたのに、急に成長する少年に戸惑う湊。  お互いに少しずつ気持ちに気づいた途端、少年は遊びに来なくなってしまう。  あの時、気持ちだけでも伝えれば良かった。  後悔した湊は彼が口ずさむ不思議な呪文を口にする。  気づけば少年の住む異世界に来ていた。  二つの世界を越えた、純情な淡い両片思いの恋物語。  序盤は幼い宰相との現実世界での物語、その後異世界への物語と話は続いていきます。

取り残された隠者様は近衛騎士とは結婚しない

二ッ木ヨウカ
BL
一途な近衛騎士×異世界取り残され転移者 12年前、バハール王国に召喚された形代柚季は「女王の身代わり要員」として半引きこもり生活をしていたが、ある日婚活を始めることに。 「あなたを守りたい」と名乗りを上げてきたのは近衛騎士のベルカント。 だが、近衛騎士は女王を守るための職。恋愛は許されていないし、辞める際にもペナルティがある。 好きだからこそベルカントを選べず、地位目当てのホテル経営者、ランシェとの結婚を柚季は決める。 しかしランシェの本当の狙いは地位ではなく―― 大事だから傷つけたくない。 けれど、好きだから選べない。 「身代わりとなって、誰かの役に立つことが幸せ」そう自分でも信じていたのに。 「生きる」という、柔らかくて甘い絶望を呑み込んで、 一人の引きこもりが「それでもあなたと添い遂げたい」と言えるようになるまで。

優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―

無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」 卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。 一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。 選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。 本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。 愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。 ※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。 ※本作は織理受けのハーレム形式です。 ※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください

処理中です...