夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 ガチャ……。

 黒崎が俺の手を引いて寝室のドアを開き、ベッドの端へ連れて行った。そして、暖房をつけて、彼が着ているコートを肩へ掛けてくれた。部屋の中が寒いからだ。

「すまない。暖房が効くまでもう少し我慢してくれ」
「うん。どうしたの?」
「ああ……」

 黒崎が奥のクローゼットへ向かった。そして、カチャカチャと物音がした後、長方形の箱を持って戻って来た。

「それは?」
「プレゼントのような物だ」

 そう言って黒崎が箱を開けると、入っていたのはネクタイだった。グレーと青が混ざったような明るい生地に、数本のストライプが入っている。黒崎がこのネクタイを締めているところを見たことがないし、イメージに合わない。明るすぎるからだ。

「これはな。親父の秘書として勤務を始めた時に締めたネクタイだ。親父からのプレゼントだった。実は深川さんが選んだものだった。……数回しか使っていない。記念に取っておいてた」
「どうして……、これを俺に?」
「親父から聞いた。うちで働くんだろう?初出勤する日は、このネクタイを使え。ゲン担ぎのようなものだ。なんとか持ちこたえている男のネクタイだ」
「黒崎さん……」

 嬉しかったから、視界がぼやけてきた。このままだとネクタイを汚すといけないからベッドに置いた後、頭を抱き寄せられた。

「ここで泣かないでくれ。正式に勤務が始まれば、別のことで泣かされる。お前のことを守るために連れて来たのに巻き込んだ。……今日の返事を変えてもらえないか?今すぐ後戻りしよう」
「……あんたとお義父さんが居なくなった時のためだよね?お義父さんは言わなかったけど。ちゃんと居場所がないと、親戚の人から、都合よく舐めてかかられるだろ?俺は嫌だもん。黒崎製菓で働くよ」

 黒崎は自分のせいだと言っている。たしかにここに来たことで、未来が大きく動いたのだろう。しかし、今の自分はこう思っている。

「巻き込まれなんかいないよ。もし出会っていなくても、黒崎製菓グループで働くようになっていたと思う。そこで出会っていたと思うよ。黒崎さんだって、こっちへ戻って来ていたんだよ。結果は同じだよ。早めに3人で暮らせたからいいじゃん」
「他の手段も考えてある。その為に知人を紹介している」
「黒崎製菓でバリバリやるとは限らないよ?どんな形になるのか分からないもん。……そりゃあね、村山さんが教師役になってくれるから、一生懸命にやるよ。深川さんも、お義父さんも、あんたも先生だよ~。……欲を言えば、黒崎さんの仕事上のパートナーぐらいにはなってみたい。早瀬さんみたいに」

 抱き寄せられているから、黒崎がどんな顔をしているのかは分からない。俺は守られるだけではなくて、黒崎のことも守りたい。彼の背中に両腕を回した。コートを掛けられている分だけ温かくなり、さらに抱きついたことで熱が増えた。しかし、黒崎の体がいつもよりずっと冷たく感じた。不安や戸惑いがあるのだろう。心配ないという気持ちを込めて、さらに両腕に力を込めた。こんな姿は黒崎らしくない。

「嫌になったら引き返すよ。30年後ぐらいに」
「お前らしい」
「あんたみたいに、早めに引退するよ。50歳でそうしようかな?その後は海外を回ろうよ。演奏旅行とかいいよねえ……」
「そうなる前にも連れて行く。フィンランドへ行きたいと言っていただろう。好きな妖精が生まれた国だ」
「覚えていたんだね?」
「もちろんだ。あの話をした時に悲しませた」
「そうだよ~。勝手に話を終わらされて、俺の言うことを聞けってさ。……後戻りしなくて良かったよ。けっこうキツイことを言われて、何回も泣いたけどね。おかげで図々しくなれたし。……オバケ屋敷と同じ理屈なんだよ。後戻りしても、怖いのは同じだよ。それなら、ゴールまで進んだ方がスッキリする」
「そうか」

 やっと黒崎が笑ってくれたから、もっと笑わせようと思った。そのオバケ屋敷の思い出は、自分にとっては忘れたい黒歴史の一部だ。

「俺、子供の頃にお化け屋敷に入ったことがあるんだ。伊吹お兄ちゃんの策略にかかったんだよ。エビフライを貰う交換条件を出されて、入るって言ってさ。その結果は途中退場だったよ。スタッフ用の出口から出してもらったんだ。……それでね、恥ずかしくて、わあわあ泣いたら、お父さんがこう言ってくれたんだ。……舞台裏を見た子は少ないぞ。ラッキーだったな。それもゴールだってさ。お父さんらしいだろー?」
「お前もそうしろ……」
「ダメだよ。中山家には家訓があるんだ。納得いくまでやれって。今回のケースに当てはまるよ」
「そうか」
「うん。大事にするよ。もしかして、この時のために取っておいたのかな?」
「そうに違いない」
「うん……」

 体に掛けられたコートを脱がされた。そして、ベッドに寝転がった。もう室内は暖房が利いて温かくなっている。シーツは冷たくても、すぐに温かくなった。そして、黒崎の重みを受け止めて目を閉じた。
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